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作品名:いにしえララバイ 作者:藤巻辰也

第19回   第2部 漢委奴国王印 第8章 対馬にて
 イハレビコ達はイベズカサの船に乗り込み、朝鮮海峡(対馬海峡西水道)を渡り、対馬に到着した。イハレビコは船の中で、ワニノカスガワケが語ったイハレビコの祖先が、周の国から来た事について疑心を持っていた。
 「イハレビコ君、対馬に着きました。ここで、積荷を降ろしたり、積んだりしますので、三日程、停泊します。」
 「イベズカサ様、山戸の国を出る前にワニノカスガワケ様が私達の祖先について語られました。その話が気になるのです。」
 「どのような話ですか。」
 「私の祖先が、周の国の貴族の出であると言う話です。」
 「周の国が西戎に攻められて、都を東の洛邑(河南省洛陽市付近)に移した頃、イハレビコ君の一族が華北地方に移り住んだ話ですか。」
 「何故、そこまでご存知ですか。」
 「いや、対馬に亀甲を焼いて吉凶を占う、卜術を使うウラベノイサリベと言う者に、周の国が東に移った時、華北地方に移り住んだ部族がいた事を聞きました。それが、イハレビコ君の部族であったかは定かでないですけれどね。」
 「ウラベノイサリベ様にお会いしたいですね。」
 「分かりました。私の手下をウラベアガタマ様の所に遣らせましょう。そして、イハレビコ君に会わせましょう。少し、お待ちください。」
 亀甲による占いは、紀元前三千年から紀元前二千年頃に黄河の中流から下流に掛けて発展した龍山文化で発生したと言われ、殷の国(紀元前千六百年から紀元前千四十六年)によって、亀甲文字が発明されるようになり、亀甲占いが盛んに行われるようになった。
 この黄河文明の龍山文化が齎したものとしては、中国の元の王 の書「農書」に、淮南王蚕経にいう黄帝元妃西陵氏始めて蚕との文章が載せられているように、黄帝と言えば三皇五帝の時代(紀元前三千三百五十年〜紀元前二千七十年)頃に養蚕が行われた。また、三本脚の調理器の土器や陶器、翡翠の玉も発掘されている。そして、動物の肩胛骨を使った占いや巫術も行われたようです。
 龍山文化の後期から夏、殷の国の中期までは、青銅器が主流を占めていたが、殷王朝の後期になって、西戎等の遊牧民族によって鉄器が導入され、周の国(紀元前千四十六年から二百五十六年)の西周時代(紀元前千四十六年から紀元前七百七十一年)には亀甲占いができる民族と鉄器製造技術を持った民族の融合が行われたと思われる。この鉄器製造技術を持った民族には、太陽神として太陽の黒点を信仰し、火鳥(三本足の八咫烏)を太陽神の使者として崇める天つ神系の民族も存在していたかも知れない。また、西周が西戎の襲撃を受け、東の洛邑に遷都した紀元前七百七十一年頃から春秋時代が始まるのですが、西戎出身と言われている秦国(紀元前七百七十八年から紀元前二百六年)が甘粛省礼県辺りに勃興され、鉄器製造技術を持つ民族を優遇し、莫大な財力を背景に紀元前二百二十一年、秦の始皇帝によって中国が統一された。
 イハレビコは停泊している和珥津の湾岸から見える水平線の彼方、中国大陸から連なっている朝鮮半島を眺めていた。その時、オホノミカデオミとカモノカサメルネがイハレビコに近づいて来た。
 「イハレビコ君、私の祖国を眺めておられるのですか。」
 「山戸の国の向こうには、どのような国があるのかと。」
 「そうですね。我が国の北には韓の国(中国の戦国時代)から渡って来た移民の国や土着の民族(濊狛族)の国や秦の始皇帝の労役を逃れてきて国を作った民族や東夷からやって来た民族(濊系扶余種族)の国がありますね。私の祖先も韓の国から来たと言われている。」
 「カモノカサメルネの祖先は何処から来たのだ。」
 「私の祖先は、扶余国から来たと言われていますが、それよりも前は西戎辺りでしょうか。」
 「では、私の祖先もそうなのだろうか。」
 イハレビコの祖先が中国の何処から来たかについては、五つのポイントがあります。一つは、天つ神系の天孫族である。二つ目は、父系家族である。三つ目は五穀に関わりある農耕民族である。四つ目は、養蚕業に関わりがある民族である。五つ目は亀甲占いと翡翠に関係がある民族です。これらのポイントを満たしてくれる中国の少数民族となるとかなり限定し難い。天つ神系と言えば、遊牧民族の太陽信仰を思い浮かべ、父系家族も遊牧系民族です。しかし、五穀特に稲作に関係がある農耕民族となると話がややこしくなってきます。そこで、養蚕にも関係があると言う事は、遊牧民族から家畜をしながらの農耕に移行した民族と言う事になります。さらに、亀甲占いや翡翠となると、龍山文化を起こした民族となるのです。
 龍山文化には、中原龍山文化(河南龍山文化と陝西龍山文化)と山東龍山文化に分けられます。中原龍山文化、特に河南龍山文化は仰韶文化(紀元前五千年〜紀元前三千年頃)の影響を受け、稲作は焼畑により、土器はろくろを使用していないで、幾何学模様が特徴であった。また、焼畑農業と狩猟生活をし、非常に専門化した研磨された石器で、狩猟によって得た動物を家畜し、原始的な養蚕も行っていたようである。山東龍山文化は大汶口文化(紀元前四千百年〜紀元前二千六百年頃)の影響を受け、また、水田による稲作農業を行っていた長江文明の良渚文化(紀元前三千五百年〜紀元前二千二百年頃)の影響も受け、陶製の三本脚の調理器、鬹や鼎が特徴的で、その他に、土器はろくろを使用する事によって、器の厚さが薄く、灰陶・黒陶(高温で焼いた陶器)が主流になる。大汶口文化では、その他にトルコ石や翡翠や象牙の加工品も発掘されている。このように黄河の中流で発生した文化と長江下流で発生した文化の融合によって、龍山文化が生成され、中国の最初の国家、夏の国(紀元前二千七十年〜紀元前千六百年)に以降していく。
 中国の伝説の最初の皇帝、神農の炎帝(紀元前二千七百四十年頃)は、薬草による医療と焼畑農業を奨励したと言われている。この神農氏と涿鹿(河北省張家口市付近)の戦いで神農の炎帝の子孫、蚩尤(しゆう)に勝利を治めた公孫軒轅、黄帝(紀元前二千五百十年〜紀元前二千四百四十八年)の帝鴻氏によって、華夏族(漢民族)を結成する。この辺りの伝説が中原龍山文化に当るのではないか。
 黄帝と戦った蚩尤ですが、蚩尤は天神とも言われ、砂や石や鉄を食べ、超能力を持ち、性格は勇敢で忍耐強く、同じ姿をした八十一人(一説に七十二人)の兄弟がいて、彼らと共に、武器を作り、天下を横行していたと言われ、姓が羌となっている事から、鉄器に関係のある羌族(現在のチャン族)ではないでしょうか。また、涿鹿の戦いで蚩尤に味方した山東省辺りにいた九黎族は、敗戦後、四川省辺りに逃げた三苗族(現在のミャオ族)と浙江省辺りに逃げた黎族(越族・現在の海南島のリー族)に分かれた。この九黎族の文化が長江文明の良渚文化或は山東龍山文化ではないでしょうか。
 イベズカサの手下がウラベノイサリベを連れて、和珥津に帰ってきたのは、西日が東シナ海の水平線に沈む頃でした。
 「イハレビコ君、ウラベノイサリベを連れてまいりました。今夜は、新鮮な魚も用意しましたので、宴をしましょう。」
 和珥津には、山戸の国と宗像の集落を往来するために、イベズカサの別邸がありました。そこで、イハレビコ達は寝泊りする事になっていた。
 「イハレビコ君、はじめまして、ウラベノイサリベです。」
 「ウラベノイサリベ様は、亀甲で占いをされるとか。」
 「そうです。私の祖先は漢の国の中原から対馬に遣って来ました。」
 「中原とは、どのような所ですか。」
 「漢の国の前に周の国がありまして、周の国の中心部です。」
 「何故、ウラベノイサリベの祖先は中原から対馬に来られたのですか。」
 「周の国が西戎に攻められて、東の洛邑に都を移してから、各地に国ができ、戦乱が続いたのですが、秦の始皇帝によって滅ぼされました。その時、中原から山東半島に移り、山東半島から対馬に遣って来ました。」
 「さて、イベズカサ様に聞いたのですが、私の祖先も周の国から来たとか。」
 「イハレビコ君の祖先ですか。確実な話ではないですが、それらしい話は。」
 「そのような話でもよいですから、聞かして頂けませんか。」
 「分かりました。周の都、洛邑より東に杞国がありました。この国は亀甲の占いの盛んに行われていたし、翡翠の勾玉や象牙の加工品の製造にも優れた部族がいました。そして、楚の国に滅ぼされて、その部族が山東半島から琉球の国を経由して、隼人の国に辿り着いたそうです。また、その部族の一部が東夷(華北地方)に移動したそうです。」
 殷の時代に中国の河南省杞県付近に夏を建国した兎の末柄と称して、杞国を建国した。この杞国は殷の滅亡により、一時姿を消したが、周の時代に再興して、周の配下として近隣諸国と外交関係を持ち、山東省新泰辺りにも遷都しながら、紀元前四百四十五年に楚の国によって滅ぼされた。そして、黄帝と戦った蚩尤の一族と九黎族は分散されたが、その一部が河南省に残り、夏を建国した兎の末裔として杞国を建国したのかも知れない。
 「ウラベノイサリベ様、だいたいの事が分かりました。ありがとうございました。」
 その後、イハレビコ達は雑談をしながら宴を済ませた。
 イベズカサの船に船荷を積み替えた後、宗像の集落に向かって対馬の和珥津を出発した。


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