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作品名:いにしえララバイ 作者:藤巻辰也

第16回   第2部 漢委奴国王印 第5章 娜国
 「若、筑紫の国に入りましたが、これから、何処へ行きます。」
 「娜の津に行こうと思う。ヤジラベ様にもお会いしたいし。」
 「若はそれから、韓の国に渡られるのですか。」
 「大君は、娜国の事を調べてこいとの仰せじゃ。だから、取りあえず、娜国の情勢を調べ、大君に報告しなければならない。」
 「ワタツミ様から紹介して戴いたイベズカサ様に、お会いになられるのですか。」
 「重留の集落のナキカツヒコ様にお会いし、宗像の集落に行って、イベズカサ様にお会いしてから、娜の津のヤジラベ様に会って、娜国の情勢を調べてようと思う。」
 イハレビコ達は、足一騰宮を出てから海岸線に沿って馬を走らせ、貫川の集落(福岡県北九州市小倉南区上貫三丁目付近)に着いた。
 「大きな集落ですね。」
 「ナキカツヒコ様の重留の集落に近づいて来たね。剣の事に詳しいナキカツヒコ様に会ってみようか。」
 イハレビコ時代には、稲作の普及により、貫川のような大きな集落が出現するようになってきた。貫川の集落は、縄文時代晩期から稲作を始めたようで、貫川遺跡ではエリ(漁獲施設)、土坑状土器溜、孔列土器等が発見されている。孔列土器は朝鮮半島の東北地方に由来すると考えられる弥生時代前期前半の無文土器であることから、紀元前百八年頃、前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島北部の楽浪郡に政治、経済、軍事等の基地を置いた頃、朝鮮半島北部にツングース系諸民族の扶余族系の (ワイ)族が中国の吉林省当たりから南下して朝鮮半島東北部に移住し、紀元前一世紀後半に高句麗を建国している。貫川の集落も、扶余族系のワイ族が渡来して、帰化したのだろうか。貫川の集落は、貫山の麓にあり、貫山から流れる貫川を利用して、縄文時代晩期(紀元前四世紀から紀元前三世紀の頃)に水田を開いた遺跡が残されている。この事から、ワイ族が貫川の集落に渡って来た以前に、水田による稲作を伝えた部族が住み着いていたのだろう。
 焼畑の陸稲作は中国の江西省や湖南省で紀元前一万年から八千年に、雲南省で紀元前二千年の遺跡が発見され、縄文時代草創期から早期にかけて中国で発達し、東南アジアで普及し、日本にも縄文時代中期の岡山県の遺跡から発見されている。水田による稲作は中国の浙江省、江蘇省で紀元前五千年から四千五百年の遺跡から稲の種が発見されている。水田による稲作の渡来経路は、縄文時代中期に中国の浙江省、江蘇省で発生し、縄文時代晩期から弥生時代前期(紀元前五百年から紀元前二百年)に浙江省、江蘇省から中国の春秋戦国時代の越に滅ぼされた呉と、楚に滅ぼされた越の民族や福建省、広東省、広西壮族自治区の中国南部地方の少数民族(キン族やミャオ族等)が黒潮に乗って南九州に、黒潮から対馬暖流に乗って北九州に渡来して稲作を伝えた。中国の水田による稲作は江蘇省から河南省、山東省、河北省に伝わり、中国の春秋戦国時代の河南省北部、山西省南部、陜西省東部にいた韓が秦に滅ぼされて、韓の民族は河南省から山東省、朝鮮半島南部(伽耶)に移住し、河北省、遼寧省、山東省にいた斉や燕も秦に滅ぼされて、斉や燕の民族も朝鮮半島北部(後の漢の出先機関、楽浪郡付近)に移住し、水田による稲作を北九州に伝えた。
 イハレビコ達が貫川の集落を訪れた時は、平野部にも田園が広がり、多くの竪穴式住居が集まる集落となっていた。イハレビコは馬から降り、貫川の畔で平野に広がる田園地帯を眺めていた時、初老の農夫がイハレビコ達に近づいて来た。そこで、イハレビコはその農夫に声を掛けた。
 「田んぼから帰って来られたのですか。貫川の集落ではどのような農具を使っておられます。」
 「この辺りの方ではないようですね。」
 「手に持っておられるのは、鍬ですよね。よく尖った石鍬ですね。」
 「この鍬かね。これは、国東半島の姫島で取れた岩石を削って作った鍬だ。私達の先祖から引き継いだ石鍬だよ。硬くて、割れにくい。稲の収穫を終えて、田んぼを耕して、大根でも植えようと思って。」
 後期旧石器時代には、原日本人は狩猟をしながら、住居を移動して生活をしていた。狩猟に使う石器は、九州北部では佐賀県伊万里市の腰岳産黒曜石か、大分県東国東郡の姫島産黒曜石を使っていた。イハレビコの時代になっても石器の風習は貫川の集落には残っていた。
 「そうでしたか。それと、住居の側に置いてある土器を見ていると、私達が使っている土器と少し違うようですが。」
 「あの土器ですか。私が若い頃、曽根の浜に韓の国から漂流して来た人達がいた。その人達は魚を取るのが上手で、魚や貝類を土器に入れて、煮炊き物にして、食べるものですから、その人達に土器を作ってもらって、煮炊き物にあの土器を使うようになった。それから、その人達も集落の一員になったね。」
 「その人達は何処から来たと、言っていました。」
 「よく覚えていないけれど。確か、韓の国の北部から来たそうだ。」
 「そうですか。その人達は、ワイ族の部族出身ですね。」
 イハレビコは貫川の集落で、古き時代から受け継がれてきた風習と新しい時代の流れを感じていた。そして、イハレビコ達は馬に跨り、ナキカツヒコの重留の集落に向かった。
 「若、ナキカツヒコ様はどのような方なのですか。」
 「ナキカツヒコ様は、剣のことに詳しい御仁で、アマテラス様に奉納する剣を探すために訪れた時、出雲の国で作らせた剣を見せてくださったお方だ。ナキカツヒコ様に鉄鉱石に携わっている金工鍛冶師の事を聞けば、何かの手がかりがあるかもしれない。」
 ナキカツヒコの祖先は、中国の福建省辺りから日本に渡ってきた海人系の部族(キン族やミャオ族)で、宗像の部族とも同族であった。ナキカツヒコの部族から尾張氏や海部氏等が出ている。また、ナキカツヒコの部族は、日本に渡ってきてから、中国の浙江省辺りから渡ってきたワタツミやヤジラベの部族(後の安曇氏)と親戚関係にあり、中国の遼寧省辺りから渡って来た木(紀)氏や賀茂氏、中国の吉林省にいたワイ族系統で、朝鮮半島から渡って来た三輪氏(ミワ族)や丸邇氏(ワニ族)や物部氏とも関係があった。
 イハレビコ達は、企救の浦(小倉港)が目の前に広がり、その向こうの彦島(山口県下関市)が見渡せる重留の集落に着いたのは、夕陽が西側の小高い山に沈もうとしていた頃でした。
 「イハレビコ君ではないですか。どうぞ、お入りください。」
 「この度は、足一騰宮で八幡神の祭事があり、ウサツヒコ大君にお会いして、その足で、筑紫の国まで足を伸ばしました。」
 「豊の国も、今年は豊作だったろう。そうだ。イハレビコ君が以前来られた時に、アマテラス様に剣を奉納すると言われて、私を訪ねて来られましたね。」
 「はい、あの時に出雲の国に優れた金工鍛冶師がいる事を教えてくださいました。」
 「それで、剣は見つかったのですか。」
 「娜の津にヤジラベ様がおられて、出雲の国のサツミワケ様から預かった草薙の剣をヤジラベ様から頂戴しました。そして、アマテラス様に奉納いたしました。」
 「それはよかった。ヤジラベ様は、私にとっても親戚筋にあたる御仁だからな。」
 「ヤジラベ様をご存知でしたか。」
 「ヤジラベ様は、ツの島(対馬列島)を本拠地にして、娜の津と狗邪韓国(後の駕洛国、もしくは金官伽耶で、現在の韓国慶尚南道金海市付近)を行きいきしている御仁じゃ。」
 「狗邪韓国はどんな所ですか。」
 「漢の国に昔、韓の国(春秋戦国時代の中国の国)があり、秦の国に滅ぼされて、辰国(三韓時代以前に朝鮮半島南部の国)に流れて来て、狗邪韓国を建国し、稲作と鉄器の金工鍛冶技術を基に生活している部族がいると、聞いている。」
 「韓の国から流れてきたワニ族ではないのですか。」
 「ワニ族は、出雲の国や吉備の国で砂鉄を取って、鉄の金工鍛冶をしている部族でしょ。昔、筑紫の国に渡って来て、鉄器を作っていましたが、砂鉄を求めて出雲の国に行ってしまった。筑紫の国では、砂鉄が取れないですからね。」
 「狗邪韓国の部族は、筑紫の国に渡って来ないのですか。」
 「私達の部族も、昔、越の国から航海術を持って、この筑紫の国に渡ってきたのですが、狗邪韓国の部族は航海術を持っていないので、渡れない。」
 「それで、娜の津のヤジラベ様の部族が、狗邪韓国で作った鉄器を筑紫の国に持ち帰っているのですか。」
 「そのようです。それから、娜の津で降ろした鉄器を、娜の津周辺の集落に保管し、那珂川周辺の集落に持って行くらしい。」
 「那珂川周辺の集落ですか。」
 「那珂川周辺の集落は、葦の野原だった地域を稲作の最新の技術をもとに開墾し、稲の収穫が爆発的に伸びた地域です。」
 「その地域を支配しているのが、娜国の大君ですか。」
 「娜国は、那珂川や娜の津の娜(那)をとって、名づけた国名です。大君もこの新興の土地を支配するのにかなりの時間を費やしたと思います。近隣には、集落から国へと発展した吉野の里の集落や菜畑の集落、三雲・井原の集落がありますからね。しかも、韓の国から渡って来た部族でしょ。」
 「遠賀のヒカレミ様から聞いたのですが、娜国の大君は、ニギハヤヒが立てた沃沮の王室の子孫ですよね。」
 「新興の国のため、漢の国に取り入ろうとして、宗像の部族を見方に入れ、漢の国の政治、経済、軍事等の基地の楽浪郡(朝鮮半島北部)に使者を送って、漢の国に国として認めて貰おうとしている。」
 「ヒカレミ様も、そんな話をしておられました。娜国の大君は、宗像の部族を見方に入れたのですか。」
 「娜国の大君は、沃沮の王室の子孫であるから航海術を持っているが、韓の国の北部楽浪郡に行こうとすると、やはり、宗像の部族が頼りになるからね。」
 「ワタツミのお爺様に、宗像の集落のイベズカサ様に会いなさいと、言われました。」
 「そうですか。イベズカサ様にね。」
 「日向の国も、筑紫の国のように、水田を開墾して、稲の収穫を上げなければなりません。そこで、鉄器が必要なのです。」
 「なるほど。」
 「韓の国に渡り、鉄器を作る金工鍛冶師を探しに行きたいのです。」
 「それで、イベズカサ様にお会いするのですね。」
 「ナキカツヒコ様、娜国の事や宗像の部族の事がかすかに理解できました。」
 イハレビコ達は、その夜ナキカツヒコの重留の集落に泊まり、翌朝、宗像の集落に向かった。
 イハレビコは、ナキカツヒコから筑紫の国の事情を聞いていて、娜国の水田による稲作が爆発的な発展を遂げ、韓の国と物品の交易をしているヤジラベの部族や、航海術を得意にするイベズカサの部族を見方に入れ、周囲の諸国を押さえるだけの国力を持っているのに、脅威を感じていた。そして、那珂川周辺の稲作の収穫と、娜の津周辺が韓の国や漢の国からもたらされる物流の基地になっている事に腹立ちを覚えていた。
 「若、娜国で稲作をしている風景を見たいものですね。」
 「ミチノオミも、そのように思うか。」
 「以前、筑紫の国に来て、娜の津の物流を扱っている集落があるとは、薄々感じていたし、訶志比の宮に行った時、人の往来の多いのには驚かされたが、那珂川周辺で稲作の収穫が多い集落がある事には、気が付かなかった。」
 「那珂の集落にも行ってみましょう。」
 福岡市博多区の遺跡群を例えに、娜の津周辺を示すと、那珂遺跡や雀居遺跡、板付遺跡等は、縄文時代晩期から水田による稲作が始まり、縄文時代晩期から弥生時代早期に娜の津に渡来して、この地域に水田による稲作を開始したのでしょう。また、弥生時代初期から前期には、雑餉隈遺跡や比恵遺跡で大陸系の摩製石器が見つかり、下月隈C遺跡では、倉庫らしい掘立柱建物跡、銅剣等が見つかった。弥生時代中期から後期には、宝満尾遺跡で中国製の明光鏡や鉄斧が見つかり、赤穂ノ浦遺跡で銅鐸の鋳型が見つかり、博多駅前の博多遺跡群で中国産輸入陶磁器が見つかっている。また、福岡県春日市の遺跡群では、須玖五反田遺跡や赤井手遺跡で青銅器や鉄器等の工房跡も見つかり、須玖坂本B遺跡で貨泉(中国の貨幣)が見つかっている。この事から、娜の津周辺では、最初は水田による稲作をしていたが、娜国が稲作の爆発的な発展により、分業制がはじまり、弥生時代後期には、中国や朝鮮半島とかなりの交易をしていた事が覗える。
 「オホクメは、ナキカツヒコ様の話を聞いて、どのように感じた。」
 「私は、やはり、宗像の部族が気になります。航海術を持っているのは分かりますが、それだけではないでしょ。」
 「オホクメ、軍事力の事だな。」
 「ナキカツヒコ様に、後で聞いたのですが、宗像の集落では、銅剣を作っているらしいのです。そして、沖ノ島に鏡や翡翠勾玉等の財宝を隠しているらしい。」
 「宗像の部族は、海賊なのかも知れない。気が荒いみたいだし。」
 宗像市の遺跡群で宗像の部族の移り替わりを示すと、弥生時代前期には、田熊石畑遺跡や田久松ヶ浦遺跡で、石斧、石戈、石包丁、磨製石剣、磨製石鏃が見つかり、弥生時代中期から後期には、釣川遺跡や大井遺跡で、銅矛片、銅滓、鋳造鉄斧が見つかり、田熊中尾遺跡や鐘崎上八遺跡で、銅剣が見つかり、久原遺跡や朝町竹重遺跡で、銅剣、銅矛、銅戈が見つかっている。この事から、宗像の部族は、宗像市周辺で最初は、稲作を主としていたが、徐々に軍事の方向に向かった事が覗える。
 イハレビコ達は、遠賀川を渡り、猿田峠を越えて、釣川の上流から、釣川に沿って下流に向かった。釣川の中流から集落が増えてきて、下流にかけて、田園が広がっていた。
 「オホクメ、宗像の集落を探ってまいれ。そして、イベズカサ様を見つけてまいれ。」
 オホクメは、イハレビコの命令で宗像の集落を歩き回った。しかし、イベズカサの居場所を尽き止める事が出来ずにいると、胸に刺青をした若者が声を掛けてきた。
 「オヌシの目の周りの刺青は、この宗像の集落の者ではないな。」
 「日向の国から来たオホクメです。」
 「何をしにこの集落に来たのだ。」
 「イベズカサ様を訪ねて来たのです。」
 「それは、ワシのお爺様じゃ。お爺様に何のようじゃ。」
 「日向のイハレビコ君が、イベズカサ様にお会いしたいと。」
 「日向の田舎の若君が、何のようじゃ。」
 「イチイチ、うるさいな。会いたいといっているだろう。」
 「お爺様は、なかなか思うように会ってくれないぞ。」
 「そうだ。オヌシを若に会わせるから、それから、判断すればよいではないか。」
 「その若は、何処にいる。」
 「釣川の畔にいます。それよりも、オヌシの名前は。」
 「コシノアカネじゃ。」
 オホクメはコシノアカネを連れて、イハレビコの所に戻って来た。
 「若、イベズカサ様の孫様コシノアカネを連れて参りました。」
 「日向の国のイハレビコです。」
 「そなたが、お爺様に会いたいのか。」
 「豊の国のワタツミお爺様が、イベズカサ様に会うようにと、言われまして。」
 「お爺様に何のようじゃ。」
 「韓の国の事をお聞きしようと思っています。」
 「お爺様は、韓の国にはよく行っておるからか。」
 「出来れば、私を韓の国に連れて行って戴きたい。」
 「ほお、韓の国にね。それはそうと。あなたの首に掛けているのは、翡翠勾玉ではないのか。」
 「豊の国のラサトモ様から頂戴したものです。」
 「これはめずらしい。韓の国のガラス製勾玉は見たことがあるが。どこで、手に入れたのか。」
 「肥の国の国見岳の鉱石で作られたそうです。」
 「遠賀川の上流に馬見山があり、その麓の馬見の集落で翡翠勾玉を作っているとお爺様から聞いた事がある。」
 「イベズカサ様にお会いする事が出来ないですか。」
 「分かりました。お連れしましょう。その代わり、その翡翠勾玉をお爺様に見せてくださいね。」
 日本では、ヒスイは新潟県糸魚川市姫川流域、北陸の海岸や富山県の宮崎・境海岸(ヒスイ海岸)、兵庫県養父市(旧大屋町)、鳥取県、静岡県引佐地区、群馬県下仁田町、岡山県新見市の大佐山、熊本県八代市泉町等の鉱山から産出されている。イハレビコの翡翠勾玉は、熊本県八代市泉町付近の鉱山で採取した事にします。また、ヒスイは、イハレビコの時代、中国で貴重な宝石として扱われ、朝鮮半島では産出出来ませんでした。中国でも、新疆ウイグル自治区のホータン(和田)地区に軟玉のヒスイは産出できるのですが、硬玉のヒスイは日本とミャンマーしか産出出来ませんでした。
 イハレビコ達はコシノアカネに連れられて、イベズカサの集落に着いた。この集落には、胸に刺青をした男衆が、槍や剣を持ち、海から帰って来たのだろうか、魚や貝類を壺に入れて、住居の周りに集まっていた。
 「お爺様、豊の国のワタツミ様の孫に当たる、めずらしい人を連れて来ました。」
 「トヨタマヒメ様の孫様か。入って貰いなさい。」
 「日向の国のイハレビコです。」
 「母君のタマヨリヒメ様は元気にされておるかね。」
 「母上は元気にされています。」
 「私が若い頃、トヨタマヒメが日向の国に嫁入りする事になり、お伴したことがある。確か、ホオリ(アマツヒコヒコホホデミ)様だったと思う。」
 「それは、私のお爺様です。」
 「お爺様、イハレビコ君の首に掛かっている勾玉を見てください。ヒスイですよ。これをお爺様にお見せするため、お連れしたのですから。」
 「イハレビコ君、その勾玉をお見せください。」
 イハレビコは首から勾玉をはずして、イベズカサに渡した。
 「これは、間違いなく、翡翠勾玉です。これを何処で手に入れました。」
 「肥の国の国見岳の麓から取れた鉱石を勾玉にした物です。」
 「ヒスイの鉱石が取れると言う事は、鉄鉱石も取れるかも知れませんね。」
 「そうなのです。日向の国も、筑紫の国のように水田を開墾して、稲の生産を増やしたいのです。それには、鉄器が必要です。そこで、肥の国の国見岳付近の鉱山を採取して、鉄器の生産をしたいのですが、金工鍛冶技術と鍛冶師がおりません。」
 「それで、私を訪ねて来られたのですか。でも、私達の部族には、鉄器を生産する鍛冶師はおりませんよ。青銅器を作る事はできますけれどね。」
 「イベズカサ様は韓の国の事をよくご存知だと、ワタツミのお爺様から聞きました。」
 「この間も、娜国の大君の依頼で、楽浪郡まで行って来たところだ。」
 「漢の国の出先機関、楽浪郡に行かれたのですか。」
 「娜国の大君は、沃沮系の部族ですから、漢の国の強さをよく知っていた。それで、漢の国の冊封制度(封建制度)に基づいて、漢の国の配下に着く事により、娜国を守ろうとした。そこで、漢の国に朝賀使を送り、稲や奴婢等を朝貢した。そして、しばらく楽浪郡に滞在していたら、漢の皇帝から金印を頂戴した。」
 「国王印ですか。」
 「そうだ。イハレビコ君も知っておろうが、私達が住んでいる国土で、娜国と言う小国が私達の代表となる国王印を、漢の国から頂戴したのだぞ。」
 「その事です。父上の大君が危惧されている事は。」
 「でも、イハレビコ君、私達の部族はそんな事、如何でもよいのさ。今回の楽浪郡に、朝賀使を連れて行った事で、漢の国から頂戴した品物を分けて貰ったからね。」
 「イベズカサ様、鉄器の話に戻るのですが、狗邪韓国に行かれた事がありますか。」
 「狗邪韓国は、漢の国の少数民族が住み着いて、建国した国だろう。」
 「そうです。鉄器の生産に優れた部族だと、聞いているのですが。」
 「狗邪韓国の回りには、私達の部族もいるし、ワタツミ様やヤジラベ様の部族(後の安曇氏)もいる。他にも、楽浪郡付近に住んでいたカモ族(後の賀茂氏)や出雲の国や吉備の国で鉄器を作っているワニの部族(後の丸邇氏)やニギハヤヒの部族(後の物部氏)この辺りが扶余系のワイ族、これらの部族もいますよ。また、カモ族と深い関係で、倭の国でオホモノヌシ様を奉斎しているミワ族(後の三輪氏)もいますよ。」
 「カモ族やミワ族も、その地域にいるのですか。」
 「私達は、狗邪韓国を含めて、山戸の国と呼んでいるのだ。だから、この国土と兄弟のような地域なのです。そして、漢の国や韓の国の文化を取り入れたり、筑紫の国の物資を山戸の国に運んだりしています。この翡翠勾玉等は、山戸の国にないですからね。」
 「その山戸の国に、私を連れて行ってくれませんか。」
 「ううん。構わないけれど、今からは海が荒くなるから、だめだね。年が明けて、春になれば、また、訪ねて来なさい。山戸の国に渡って、金工鍛冶師を見つければよいではないですか。」
 「ありがとうございます。」
 イハレビコ達は、イベズカサと話し込む間に、夜が更けてきた。イベズカサの住居で泊めて頂く事になった。
 狗邪韓国は、中国の春秋戦国時代に中国の河南省北部の一部、山西省南部の一部、陝西省東部の一部を領土にしていた韓が紀元前二百四年に秦に滅ぼされて、朝鮮半島南部に移住して来た民族が建国し、弥生時代晩期に伽耶として、任那日本府の一部になっていく。楽浪郡は、前漢の武帝が紀元前百八年に朝鮮半島北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島北部を直轄地とした行政機関です。イハレビコの時代には、狗邪韓国も楽浪郡も存在していた。
 イハレビコは宗像の集落に来て、今回の旅の中で、初めて清々しい朝を迎えた。
 「イハレビコ君、これから、どちらに行かれます。」
 「娜国を見てこようかと思います。」
 「では、来年、また、来られよ。」
 イハレビコ達は、ヤジラベのいる娜の津に向かって、馬を走らせた。
 「若、海岸線を通って、娜の津に行くのですか。」
 「ミチノオミ、ヤジラベ様に会う前に、娜国の集落と田園を見たくなってきた。」
 「私も、娜国が開墾した田園やその集落に住んでいる人々を、この目で確かめたいです。そして、どのような生活をしているかを。」
 「山沿いに南に行ってみよう。」
 イハレビコ達は古賀の集落から犬鳴山の麓を通って、志免の集落に着いた。
 福岡県糟屋郡の遺跡群については、後期旧石器時代の戸原遺跡、乙植木山城戸遺跡、神領浦尻遺跡では、細石刃核、細石核、台形様石器、ナイフ形石器、尖頭条石器が見つかり、縄文時代後期の松ヶ上遺跡、横枕遺跡、江辻遺跡では、竪穴式住居、土壙、井戸、水路溝跡が見つかっている。水田による稲作は、水路の関係で山沿いから始めた事が覗える。
 「若、この集落は田園も少ないし、住居も古そうですね。」
 「日向の集落とよく似ているね。」
 イハレビコ達は馬上でこの集落を眺めていると、岳城山から石を運んでいる初老の農夫に出会った。
 「こんなところで、石を運んで何をしているのですか。」
 「裏の山に池があり、石が転がっているので、ひらってきたのだ。」
 「その石を如何されるのですか。」
 「削りとって、斧や刀にするのだ。」
 「この辺りには、田園が少ないようですね。」
 「昔は、この辺りでも稲作をしていたのですが、若い者が須恵川から流れる水路を拡張して、この向こうに見えるだろ、広い田園が。あの田園で稲作をするようになったのさ。」
 「なるほど。」
 「しかし、隣の集落と水路争いが始まって、治まりが付かなくなった時に、娜国の大君の手下が来て、水路の整備と道路の整備をしてくれたので、私達の集落も平穏になった。その代わり、収穫した稲の一部と人力を提供することになった。」
 「水路の整備と道路の整備か。」
 イハレビコ達は、岳城山の中腹まで登る事にした。そして、オホクメが展望のよい所を観つけた。
 「若、ここからだと、よく見えます。あの川が須恵川、その向こうに広い道路がありますよ。その向こうに那珂川が。」
 ミチノオミもその場所に着いた。
 「田園も沢山あるし、集落も転々とありますね。」
 「あの広い道路は、何のためにあるのだろう。あの道路まで行ってみよう。」
 道路の遺跡としては、福岡県太宰府市の前田・原口遺跡で道路遺構が見つかっている。弥生時代中期から後期には、道路が整備されていたのだろう。
 イハレビコは、山を駆け下りながら、この地形を見て、娜国の凄さと脅威を感じていた。そして、整備された道路に着いた。それから、イハレビコ達はその道を南に進みながら、田園や集落を眺めていた。大宰府の集落付近に来た時、輿に粘土質の土を運んでいる者と出会った。
 「そち達は、この土を運んで如何するつもりだ。」
 「私達は、韓の国から来た土器を作る職人です。この道の南の端に杷木の集落(福岡県朝倉市杷木若市付近)があって、そこの山の土を牛頸の集落(福岡県大野城市牛頸)で須恵器にするのです。」
 「そち達は狗邪韓国の者か。」
 「そうです。大君の願いで、娜国に来ました。」
 福岡県大野城市の遺跡の牛頸窯跡群は、古墳時代後期に大宰府の発展と共に須恵器の生産が盛んになった地域である。本書では、イハレビコの時代に存在したと仮定している。また、須恵器は、粘土状の土を炉の上に置き、炉を回して形付け、窯に入れ、高温で作る手法ですから、高温で窯に入れて、鉄器を作る技術と似ている。中国の春秋戦国時代の韓が秦に滅ぼされて、朝鮮半島南部に移住した部族が、高温で窯を使う技術を日本に伝えたのだろう。
 「若、そろそろ娜の津に戻りましょう。」
 「ミチノオミ、やはり、山戸の国に渡って、金工鍛冶師を探して、日向の国に連れてこなければ。」
 「この道路は、山戸の国に通じる道ですか。この道が、各集落に物資を運ぶ道となっているのですかね。」
 「娜国の動脈と言うところかな。」
 那珂川の周辺の福岡県筑紫郡那珂川町の遺跡群、福岡県春日市の遺跡群、福岡県大野城市の遺跡群、福岡市南区の遺跡群には、水田による稲作を行っている集落が多く見られた。これらの遺跡群に福岡県糟屋郡の遺跡群と福岡市博多区の遺跡群、福岡市東区の遺跡群辺りが娜国の支配下にあったのだろう。
 イハレビコ達は、道路を行き交う人や転々とある集落を眺め、ゆっくりと馬を歩行させながら、娜の津に向かった。そして、娜の津に近づくにつれて、集落の様子が変わって来る事を感じていた。
 「若、この辺りの集落は田園が少なく、物資の倉庫や工房が多いですね。」
 「娜国では、すでに分業制になっているのだろう。また、韓の国との交易もあるから、物資を保管しているのだろう。」
 「船が見えてきました。」
 「もうすぐ、娜の津のヤジラベ様の住居に着くぞ。」
 イハレビコ達は娜国が日向の国に比べて、かなり進んでいる事を実感していた。そして、ヤジラベの玄関に到着した。
 「これは、イハレビコ君ではないですか。どうぞ、お入りください。」
 「草薙の剣の件では、いろいろお世話になりありがとうございました。」
 「無事に、アマテラス様に奉納されましたか。」
 「アマテラス様に草薙の剣を奉納した時、豊葦原の瑞穂の国を治めるようにと、仰せられました。」
 「イハレビコ君は、これから、私達の国を治めるお方ですからね。」
 「今回、娜国を見て回って、これからの国の形が見えてきました。」
 「そうですか。娜国を視察に来られたのですか。」
 「私の父上、大君が筑紫の国に不振な動きがあると仰せになって。」
 「娜国は、漢の国の楽浪郡に朝貢使を送って、漢の皇帝から漢委奴国王印を頂戴しましたからね。」
 「金印だそうですね。」
 「私も、訶志比の宮に行って、大君に見せて貰いました。」
 「その金印は、大君が持っておられるのですよね。」
 「そうだ。ここに、大君から頂戴した漢委奴国王印を押した書面があります。お見せしましょう。」
 「これが、国王印ですか。」
 イハレビコは書面の印影を見た。そこには、左に漢の字が大きくあり、真ん中の上下に委と奴の字があり、右に国王と記されていた。
 「漢の字は漢の国を表わし、委の字は私達民族を表わし、奴の字は娜国を表わしているのでしょうね。」
 「なるほどね。この印影もひとつの権威の象徴ですかね。」
 「イハレビコ君は、娜国が漢の国に国として認めてもらいたいがため、朝貢使を送った事について、どのように思いますか。」
 「私には、まだ、理解できない。しかし、漢の国や韓の国と交易をするには必要かも知れない。」
 「韓の国と交易をしている私達を守るために。」
 「娜国に入る前に、宗像の集落のイベズカサ様に会ってきました。」
 「イベズカサ様は元気にされておられましたか。」
 「イベズカサ様にお聞きしたのですが、狗邪韓国とその周辺を山戸の国と言っているらしいですね。」
 「そうですよ。私達の部族もいますし、他にも、いろんな部族がいますよ。これらの部族がこの娜の津にやって来て、出雲の国や吉備の国、倭の国等に移住していますね。」
 「来年の春、イベズカサ様にその山戸の国に連れて行ってもらうようにお願いしたのです。」
 「イハレビコ君、山戸の国に行く目的があるのですか。」
 「日向の国の国力を付けるため、鉄器を生産しようと思っています。」
 「鉄器ですか。」
 「軍備として、鉄剣等も必要ですが、水田を開墾したり、水路の整備をしたりするのに必要です。」
 「イハレビコ君には、鉱山や金工鍛冶師のあてがあるのですか。」
 「鉱山は、肥の国の国見岳付近にあるのですが、金工鍛冶師がおりません。それで、山戸の国に渡って、金工鍛冶師を探そうと思います。」
 「分かりました。私も、イハレビコ君に協力しましょう。狗邪韓国にオホノミカデオミ(意富氏の祖)がいます。山戸の国に渡られたら、訪ねてみなさい。私からも、そのような日向の国の事情をオホノミカデオミに伝えておきましょう。」
 「ありがたい事です。感謝します。山戸の国に行きましたら、必ず、訪ねます。」
 古事記では、意富(大、太、多)氏の祖は神武天皇の子カムヤヰミミとなっているが、阿蘇山を治めた阿蘇氏が意富氏の出身である事、鉄製造技術に優れていた事を考えて、本書では、この場面に登場させます。
 「イハレビコ君、娜の津で旅の疲れを癒して、ゆっくり滞在されよ。」
 イハレビコ達はヤジラベの好意により、娜の津で数日間、滞在する事になった。
 「若、娜の津には、いろいろな物がありますね。」
 「この港は、韓の国や漢の国の玄関口だからね。」
 「日向の国も、このような雰囲気になればよいのですが。」
 「そうだな。」
 イハレビコ達は、娜の津で韓の国から流れてきた青銅鏡やガラスの勾玉等を見つめていた。そして、数日の後、ヤジラベに挨拶をして、大君に娜国の事を報告するため、娜の津を後にして、日向の国の高千穂の宮に向かって出発した。


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