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作品名:いにしえララバイ 作者:藤巻辰也

第13回   第2部 漢委奴国王印 第2章 若君結婚
 イハレビコがアマテラス大御神に草薙の剣を奉納する旅から、日向の国に帰って来たのは、稲作の用意をする時期で、気候も穏やかになってきた頃である。イハレビコは高千穂の宮で、旅の疲れを癒すため、寝床に付き、早朝、大君と母君に旅の報告をするため、大君の居間を訪れた。
 「イハレビコ、旅の疲れはとれたか。」
 「やはり、高千穂の宮は心が和みます。」
 「アマテラス様の御神体は、この高千穂の宮にも祀られているが、我が祖父ヒコホノニニギ様が、アメノウズメに命じて、伊勢の国でアマテラス様を祀るように命じなされたのじゃ。」
 「伊勢の国の丹生の集落に行った時、クレヨウサカビメが居られて、アマテラス様は漢の国から渡って来たオオヒルメ様だと言われました。」
 「そうか、オオヒルメ様の話を聞いたか。オオヒルメ様は、私達の遠い昔の祖先に当られる方で、隼人の集落の南西に笠沙の集落があって、その地に越の国から渡って来られた。そして、高千穂で、祖先の大君と仲睦まじくなられたと聞いている。オオヒルメ様は貴賓があり、お姿も端整に整われていたので、アマテラス様の生まれ変わりだと。」
 「そうでしたか。」
 「アマテラス様は、私達の部族の祖先神だからな。ずうっと昔から、お日さんの神として崇められているのだ。」
 「よく分かりました。」
 「そうだ、イハレビコが旅をしている間に、そちの住居を建てといたので、これからはそこで暮らせ。また、イグラの子でミチノオミ(大伴氏の祖)とオホクメ(久米氏の祖)を使わす事にした。」
 「ありがとうございます。」
 ミチノオミとオホクメは、イハレビコが幼少の頃、ヨホトネに預けられていた時の幼馴染であった。イハレビコは大君から与えられた住居に着いた時、馬に乗ってミチノオミとオホクメがやって来た。
 「若、父イグラから、旅の話を聞きました。お疲れでしょう。」
 「いや、もう大丈夫。大君に朝、お会いしてそち達の事を聞いた。早速、来てくれたのか。」
 「ヨホトネの爺が、早く行けというので、馬を用意してくれました。若の白馬もここに連れて来ました。」
 「良き馬じゃ。早速、乗ってみよう。付いてまいれ。」
 「若、何処へ行くのですか。」
 「笠沙の集落じゃ。」
 イハレビコ達は、以前、熊曾と戦った鹿久山の麓を通り、大平川を渡って、隼人の集落に着いた。
 「ミチノオミ、ワタツミのお爺や大君が言っているオオヒルメ様が、越の国から渡ってきて、笠沙の集落に着いたと言う話を聞いて行ってみたくなった。」
 「確か、笠沙の集落には前大君アマツヒコヒコホホデミ様の兄上ホデリ様の子孫がおられるのではないですか。」
 「阿多の小椅の君の事だな。」
 古事記には、イハレビコの曾祖父アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギ(天つ神)が笠沙の岬で、オホヤマツミ(国つ神)の子コノハナノサクヤビメやイハナガヒメと出会う話があり、コノハナノサクヤビメが火の中で子を生み、火が燃え始めた時の子がホデリ、火が燃え滾っている時に生まれた子がホスセリ、火が消えてから生まれた子がホヲリ(ヒコホノニニギ)である。ホデリはウミサチヒコとも呼ばれ、魚介類を狩りし、ホヲリはヤマサチヒコとも呼ばれ、獣類を狩りしていた。ホヲリは兄の釣り針を借りて、魚を釣っていたところ、釣り針をなくしてしまった。そこで、シホツチ(潮の神)が出てきて、ワタツミの宮に竹の船で行き、ワタツミやトヨタマビメと会い、釣り針をみつけてもらう神話がある。このホデリの子孫が阿多の小椅の君(阿多氏の祖)である。
 「阿多の小椅の君は、ホデリ様の子孫だと言われているのだが。ワタツミの爺は隼人の集落にワニ族の部族がいると言っていたし、笠沙の集落もワニ族かも。ひょっとすると、私達もワニ族の部族かも知れない。」
 「そんな事を調べに、隼人の集落へ来たのですか。」
 「いや、ただ隼人の集落や笠沙の集落がどんな処か知りたかっただけだ。」
 イハレビコ達が隼人の集落を散策していると、がっちりした体格の男が近寄って来た。
 「お主ら、この辺では見かけないやつらだな。何処の者だ。」
 「日向の国の高千穂の宮から来た者です。今から、遠い親戚に当る阿多の小椅の君に会うため、笠沙の集落に行く途中です。」
 「笠沙の阿多の君に会いに行くのか。」
 「阿多の小椅の君をご存知ですか。」
 「この地は桜島があって、稲作をしているのだが、火山灰でなかなか育たない。苦労していると阿多の君が来て、魚の取り方や塩の作り方を教えてくれた恩人だ。」
 鹿児島県は薩摩の国と大隈の国と言われ、男気が強く、琢磨しい事から、男性の事を薩摩隼人とも呼ばれた。薩摩の国や大隈の国と言われる前は、吾田(阿多)の国と呼ばれた事もある。ヤマトタケルの時代にはこの地方の事を古事記では熊曾、日本書記では熊襲と言われ、平安時代以降、隼人と呼ばれるようになった。鹿児島の方言は、一説にはオーストロネシア語族系とも言われている事から、ワニ族ではないかと推測される。
 「そうですか。この辺りでは、稲作が育たないのですか。」
 「そのかわり、粟や芋等を植えている。」
 イハレビコ達は隼人の集落を後にして、笠沙の集落に向かい、笠沙の集落の浜辺に着いたのは、夕陽が野間岳の所まで来ていた。浜辺で、海藻類を触っているヒメに出くわした。
 「今、海藻を集められて、如何されるのですか。」
 「今日は、朝から海藻を海から取ってきて、海水を海藻に掛けて、乾燥させ、また、海水を掛けて、乾燥させての繰り返しをしていたのです。夕暮も近づいて来ましたので、海藻を片付けているところです。」
 「この海藻を集めて、どのようにされるのですか。」
 「土器に入れて、煮るのです。土器の水分がなくなれば、土器の底に塩の結晶が残ります。」
 「塩を作って、居られたのですか。」
 「私は、日向の国のイハレビコです。」
 「兄、阿多の小椅の君の妹、アヒラヒメです。日向の若君でイハレビコ様が居られる事は、兄から聞いています。私達の住居まで、お越しください。」
 これが、イハレビコとアヒラヒメの最初の出会いである。
 「兄上様、片浦の浜から、イハレビコ様をお連れしました。」
 「日向の国の若君か。お通ししろ。」
 「これは、若君、ようこそ笠沙の集落まで来られました。我が居間でお泊りください。お酒も踊りも用意します。」
 鹿児島には、酒造技術があったみたいで、あまり米が取れなかったいにしえの時代では、粟等で焼酎を作っていたようです。この技術も台湾以南の島国から。踊りは、隼人舞と言い、ホヲリ(ヤマサチヒコ・ソラツヒコ)がワタツミから与えられた塩盈珠(しおみつたま・満ち潮になる珠)と塩乾珠(しおふるたま・引き潮になる珠)を使って、ホデリ(ウミサチヒコ)を困らせ、最後にホヲリに従って、その悔しい姿を舞にしたと言われている。
 イハレビコ達は、焼酎を嗜み、アヒラヒメの舞を見て楽しんだ。そして、翌朝、阿多の小椅の君に別れを告げ、野間岳に登る事にした。
 「ミチノオミ、この北の海の向こうに韓の国が、そして、西の向こうには漢の国があるのだ。」
 「若、海の向こうにそんな国があるのですか。」
 「いずれ、行ってみようと思う。また、この山へ来ようぜ。」
 「また、この山に来て、アヒラヒメに会おうぜじゃないのですか。」
 「ばかなことを言うな。」
 イハレビコは、アヒラヒメの舞や言葉遣いが気になったようである。それから、笠沙の集落に足を運ぶことが多くなった。そして、片浦の浜辺をふたりで走り回ったり、恋文を交わしたりした。
 イハレビコの恋歌の内容を紹介しますと。
   片浦の浜にワカサギが飛んで来て、砂浜に足跡が付きました。その足跡が残ればよいのに、浜風が吹いて消えてしまいます。
 アヒラヒメの返し歌の内容は。
   片浦の浜の桂木が夕暮になると、浜風でひゅーひゅーと音がします。音が治まると静けさばかりが身に浸みます。
 イハレビコが笠沙の集落に頻繁に通うてい る噂を聞いた大君は、イハレビコに聞きただした。
 「イハレビコ、そちはこの頃、笠沙の集落に行っておるそうだが。」
 「アヒラヒメに会いに行っています。」
 「そうか、アヒラヒメを嫁に貰うか。」
 「お願いします。」
 大君は早速、コナキネを呼んだ。
 「コナキネ、そちに笠沙の集落の阿多の小椅の君に会ってきてくれないか。」
 「大君、どうかなされたのですか。」
 「イハレビコに嫁を取らそうと思う。」
 「若の嫁ですか。」
 「阿多のアヒラヒメだ。」
 コナキネは、若君が阿多の小椅の君の妹アヒラヒメを嫁に貰うため、大君の詔を用意し、笠沙の集落に向かった。
 いにしえの時代の婚姻制度は、その部族によって違っていた。イハレビコの部族では父系家族制度をとり、一夫多妻制度を採っていたが、ニフの部族では辰砂の採取や金工鍛冶技術の施工のため、危険性を伴い、死者も多数出たので、父系家族制度を採用していると、家系が絶えてしまう事から、金工鍛冶技術の伝道は養子と言う形で行ったため、母系家族制度を採用していた。また、日本人は中国の周の時代(紀元前十一世紀から八世紀頃・弥生時代初期から前期頃)には、倭人として認められていた。そして、日本の九州南部に台湾より南方の島々から日本に渡ってきていたし、中国の春秋時代(紀元前四世紀から一世紀頃・弥生時代後期)には、鉄を使う倭人として認められ、揚子江南部(呉越地方)からも渡って来た。また、九州北部には、朝鮮半島や遼東半島や山東半島から、日本の本州北部日本海側には、朝鮮半島北部、長春や哈爾浜等の中国の吉林省や黒竜江省から、北海道には、カムチャッカ半島やウラジオストック等のシベリア南部から渡って来て、気候等の環境のよい、稲作がよくできる北九州や近畿地方が文化や政治の中心になった。このように、弥生時代には日本人は雑種の民族となっていった。だから、日本の家族形態や婚姻形態は、多種多様であった。言語も北方のアルタイ語族系のツングース諸語と南方のオーストロネシア語族の混合である。
 コナキネは、阿多の小椅の君の玄関先に現われた。そして、次のように叫んだ。
 「我は、日向の国のコナキネでござる。大君から、詔をお伝えするため、阿多の小椅の君にお会いしたい。」
 「これはコナキネ様、どうぞお入りください。」
 「日向の国の大君は、阿多の小椅の君の妹君アヒラヒメをイハレビコ君の嫁に貰いたいと仰せだ。」
 「分かりました。用意ができしだい、アヒラヒメを高千穂の宮に行かせます。」
 コナキネは役目を終え、高千穂の宮に帰って行った。それから、阿多の小椅の君はアヒラヒメを呼んだ。
 「ヒメ、今、日向の国の大君からお達しがあった。イハレビコ君に嫁ぎなさい。」
 「兄上様、いろいろご心配をお掛けしました。喜んで嫁ぎます。」
 数日後、アヒラヒメは輿に担がれ、頭に勾玉をかぶり、高千穂の宮に現われた。


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