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作品名:三好長慶伝 〜未完全な天下人〜 作者:pangea

第1回   【雌伏編】第001章 三好家の若君
 少年は久しぶりの青空を思う存分に満喫していた。
 馬に跨り、どこともなく大地の上を疾駆する。肌の上を駆け抜ける気持ちよきそよ風を全身に感じながら、少年は「わぁぁぁぁ」と、日ごろの憂さを晴らすかのごとく、大仰に叫んでいた。
 城での生活は、それ自体決して悪くないが、そればかりでははっきり言って退屈だった。連日、学業だ、武芸だ、儀礼だと、学ばねばならぬことが山の如くあったが、遊び盛りの少年にとって、そんなものはどれも面倒で厄介なものに過ぎなかった。
「嫌じゃ!」
 毎日のように、彼はそう言って城中を逃げ惑うのである。
「なりませぬ!」
 対する家臣たちもまた必死になって追い回す。どれも立派な世継ぎとなるために必要なものだと、彼らは口を揃えて少年をひっ捕らえようとするのだった。
 だから少年は、家臣たちに黙って密かに城を出ることが多くなった。下界の空気を吸ってみたい。誰に気兼ねすることなく、思い切り遊びたい。膨れ上がるような思いに突き立てられ、気がつくと、少年はたった一人で野原の上を駆けていたのだった。

 時は戦国。けれど、織田信長らが活躍した元亀天正の世とは違う。天下のあちこちに群雄が割拠し、それぞれが勝手気ままな抗争に明け暮れている。主役のない乱世…、即ち希望なき戦国と言い換えてもいい。
 武田信玄も上杉謙信も、北条氏康さえ、まだ歴史の表舞台に現れていない。
 そんな世界に、思いがけなく生を得た少年は、名を三好千熊丸と言って、当時の慣習から言えば、未だ元服を済ませていない子供に過ぎなかった。
 それでも、既に十歳だ。類稀な聡明ぶりは家中に轟き、父たる三好筑前守元長も、己が世継ぎとしての彼に大いに期待を寄せていたものだった。
 そんな千熊少年は城に戻ると、彼の奔放を今日こそは説教せんと、手ぐすね引いて待ち構えていた侍臣を振り切り、男子禁制の奥に閉じこもった。遊び相手の女中たちをいつものようにからかいながら、常の如き満ち足りた日々を謳歌していたのだった。
「なぁ、お福」
 不意に、千熊は側に控える老女を呼びつけると、
「今日もなんぞ話でも聞かせよ。お主の話は堅苦しい書物を読むより、ずっと面白い」
 と言って、いつものような好奇心に満ちた、如何にも少年らしい顔つきをして笑った。
「話ですか? …されば、昨夜もお話しました、私の身の上話の続きでもいたしましょうか」
 と、老女お福が言うと、千熊は嬉しそうに微笑んで、
「それでよい」
 と、言った。
「されば、失礼して…。私は、それほど格式は高くありませぬが、れっきとした公家の姫として生まれました。されど、家は貧しく、朝廷より従三位まで賜っていた父自ら、物乞いとして洛中に繰り出しては日々の生計を持たせていた有様です。そんな風なので、厄介者の私は、口減らしの如く、宮中に女官として出仕することになったのです」
 お福にとっては余り思い出したくない話らしく、時折悲しげな顔をするが、千熊は構わず続きを聞きたがった。
「とは申せ、時勢が時勢ですので、宮中も決して豊かではなく、一介の女官に過ぎぬ私は、ここでも厄介払いになりました。…当時、都は、半将軍と称えられ、絶対的権勢を誇っておられた管領の細川政元様が御養子の澄之様に殺され、その澄之様も、同じく御養子の澄元様、高国様により滅ぼされるという、果てしなき戦乱の最中にありました」
「…」
「私は宮中を厄介払いされた後、少しの間物乞いの如き生活を強いられました。そんな折、何の偶然か、澄之様を滅ぼし、都を支配した澄元様の重臣であらせられた三好之長様、即ち若様の曽祖父様にあらせられるお方ですが、その之長様の御目に留まって、三好家に入ることになったのです」
「…」
「その後、私は高国様の謀叛により、都を追われた澄元様、之長様に従って阿波に下りました。その折、之長様の嫡子長秀様(千熊丸の祖父)付の女中となり、やがて長秀様の側室に迎えられました。しかし、その長秀様もしばらくして戦死し、以後は之長様の命により老女となり、三好家の奥向きのことを取り仕切らせていただいておりまする」
 そんなお福の身の上話に耳を傾けながら、千熊は「ふーん」と頷きながらも、いまいち実感が沸かぬようで、時折首を傾げたりしていた。ただ、彼女がどうというより、三好家、即ち彼自身の先祖たちが成してきた業績、事跡には興味もあるようで、曽祖父之長、祖父長秀の話が出るたび、彼はその目を爛々と輝かせていた。
「今ではその之長様もなく、長秀様の嫡子であらせられた元長様が御当代となられましたが、若様も偉大な先代の方々に後れを取らぬよう、日々精進しなければなりませぬよ。そして、之長様、元長様を越える名君となって、三好の御家に繁栄をもたらすのです。私は、そのためなら何だってする覚悟です」
 などと力強く叫ぶお福であったが、既に、肝心の千熊はすやすやと眠っていた。散々暴れまわった一日の疲れが、どっと押し寄せてきたのだろう。お福は振り上げた拳のやり場に困って、きょろきょろと恥ずかしそうに顔を赤らめた。
 けれど、こうして千熊を見ていると、何とも言えず不思議な気持ちになるものだった。日ごろは聡明で、学業やら武芸その他諸々、全てを無難にこなす俊英児であり、かつ手のかかる腕白ないたずら小僧だが、こうして眠っていると、十歳らしい可愛らしい顔をしている少年に過ぎなかった。
 お福はそんな彼の、透き通るように整った髪を撫でた。一見すると女子のような白き柔肌を摩りながら、ふぅと小さな溜息を漏らした。自分にも息子がいれば、こんな風に育ったのだろうか。側室となった直後に、子もないまま早世した夫と過ごした僅かな日々などを思い出しながら、女子としての最大の悦びを、ついに感じられなかった自分の生涯に、少しばかりの空しさを感じた。
 ここにいるのは、生まれた直後よりお福が育ててきた、半ばわが子も同然の存在だった。そして、行く末三好家を継ぐ世子なのだ。彼女が敬愛してやまぬ之長の嫡流であり、夫長秀の孫である。そう思うと、彼女自身の血を受け継いでいるわけでもないのに、なぜだかわが子の如き愛おしさを感じるのだった。


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