太陽が丘から昇り、空が徐々に明けてくる。鳥たちは囀り、朝の到来を世界に知らせる。青々と茂る丘の草原を朝の香りと共に風が駆け抜ける。清々しい朝の光景。丘の向こうの空に橙色の花が開き、群青色の空を澄み切った水色へと変える。 アルは、その光景が嫌だった。退屈だった。なぜならそれは、朝を迎えた事を認めなければならないから。なぜならそれは、井戸水を汲みに行かなければならない時刻になった事を示すから・・・・・・。
アルは分厚く、少し臭う分厚いローブに身を包んで、丘の麓の小道を歩いていた。片手には凹んだバケツ。右手に見える太陽のつるりとした頭が、優しく温かい光を放っていたが、あまり役に立っていなかった。少なくともアルには。
「寒っ・・・・・・」
土の匂いが鼻をつく。朝露のせいで空気が湿っていた。
井戸は教会から数キロの所にある。町のはずれにあるのだが、それでもそこが一番教会に近かった。アルは、憂鬱だった。今日は特に。足は土で薄汚れていて、まだまだ小さな手もボロボロでひび割れていた。茶色の髪の毛は乱雑に切られていて、跳ね上がっていた。空に完全に太陽がのぼった時、アルはやっと井戸に着いた。井戸には誰もいなかった。アルにとっては好都合だった。町の人に会わないに越したことはない。滑車のロープにバケツを括り付け、慎重に降ろして行く。滑車は小気味よく軋んで、カラカラと音を立てて回る。しばらくすると、ちゃぽんと小さく響いた。暗い井戸の中を大きな瞳を凝らして慎重に確認し、水がこぼれない様にそっと引き上げていく。バケツは大きく、ロープから取り外すには、力が必要だった。なんとか引き揚げ、両手で支える。取っ手が手に食い込む。アルは、いつまでたっても慣れない痛みに歯を食いしばった。
「あぁ重い。なんでこんな仕事・・・・・・」
教会への道のりは、まだまだ遠く、アルは日頃の不平不満を呟くことで、その道中を過ごすことにしていた。毎日毎日、よくもこんなにも不満があるものだなと感心するぐらいだった。ぶつぶつと呟きながら、丘を登って行く。振り向くと眼下に広がる町の赤煉瓦の屋根が朝日に反射して、町全体が輝いているようだった。一瞬、思考が止まり、それに見とれてしまう。いけない、もう空が青い。丘の頂上の教会を目指して地面を踏み締める。水が僅かに跳ねた。
教会は、ボロボロで、町の象徴でもある赤煉瓦の屋根はくすんで埃被っていた。町の人は滅多に寄り付かない。ここには、よほど熱心な人か、それか、誰からも見放された人達が来るだけだ。後者はアル自身の事になるのだが。教会の裏口の調理場からこっそりと入る。調理場は、アルの世界だった。ここが自分の世界。ここが自分の自由。水で満たされたバケツを流し台に置き、町のごみ置き場から拾って来た椅子に腰をおろす。一気に老けたような気分になった。開けっ放しの裏口から、草の匂いを乗せて風が訪ねてくる。壁に掛けられていたボロの食器や調理器具が僅かに揺れる。 やれやれと裏口の扉を閉めて、重いローブを脱ぎ、壁のフックに掛けた。そして、棚から大きな鍋を取り出して古ぼけたコンロの火にかける。時間は待ってくれない。ここに天使はいない。いるのは意地の悪い尼僧と老体の神父、そして哀れな孤児がいるだけだ。最悪の場所。しかし、いくら最悪でも、ここがアルの居場所だった。その居場所を確保するためには、毎日の水汲みと朝昼晩の飯作りが欠かせなかった。
「おい。朝食はまだかい?」
痩せこけたキツネ顔が覗く。その尖った眼は、野菜を切り分けるアルの小さな背中を刺した。アルは黙々と野菜を切り分けて行く。背中で「あっちへ行け」と唸っていた。尼は、ふんと鼻を鳴らし、アルを一睨みしてどこかへ行ってしまった。よくもあんな女が、尼になんてなったもんだ。ゴロゴロと不格好に切られた野菜を鍋に入れ、炒め始める。適当に調味料を入れて、水を入れて・・・・・・。今日は味の薄いスープだ。
スープを欠けた皿に盛り分け、トレーで運ぶ。それが終わればやっと穏やかな朝になる。それに今日は特別な日なのだ。少なくともアルにとっては。だから今日は町にでも行こうか。もしかしたら、何か面白いものが見つかるかもしれない。よし決めた。
食堂には、すでに尼と神父が並んでいた。尼は、早くしろと急かしたが、アルはわざと慎重に、神父からスープを渡した。いびつな形の野菜を眺める尼の汚い口からお決まりの皮肉。
「スープすらもまともに作れないのかい?」
「ああそうだよ」
そういって、アルは自分の席についた。沈黙が食堂を満たす。外から、町の鐘の音が微かに聞こえる。早く町へ向かおうと思っていたアルは、忙しく味の薄いスープをかき込んで、一瞬で皿を空にした。そして、立ち上がり、出口へ向かう。
「待ちなさい!!」
尼の甲高い声が石造りの食堂の壁を跳ね返って、アルの鼓膜を突き破ろうとした。アルは苦々しく振り向いた。今度は何が気に食わないんだ。彼は腹立たしさと苛立ちで震えていた。尼はじろりとアルのみすぼらしい姿を睨んでいる。自然とアルは身構えた。
「洗濯は?」
「昨日やったよ」
「掃除は?」
「帰ってからする」
尼の口が意地悪く歪む。アルはしまったと後悔した。
「だめよ。今からしなさい」
「帰ってからでもいいじゃないか!!意地悪はよせよ」
飛びかかろうかとばかりに前のめりになって叫ぶ。その声は、いっそう尼を喜ばせたようだった。ああ、そうだった。こいつはそういう女だった。人が怒ったり、泣いたり・・・・・・とにかく他人の不幸が大好きなのだ。生きがいなのだ。だから尼になったのかもしれない。生憎ここには、そんな人は滅多に来ないが。
「甘やかすわけにはいかないよ!これだから孤児は嫌なんだ。甘くするとすぐにつけ上がる」
あんたがいつ甘やかした?アルは、怒りに燃える目で尼を見たが、彼女は平然と見下ろしていた。仕方なく、アルは神父に助けを求めた。もちろんあまり期待はしていない。
「神父様!お願い。今日ぐらい休ませて。今日は誕生日なんだ」
すると神父の隣にいた尼は目を見開く。
「誕生日?誰のだい?」
「僕の!」
「あんたの?何でだい?誰が教えた?あんたの誕生日なんか。あんたは赤ん坊の頃からここにいたよ」
するとアルは、穴の開いたズボンのポケットから、折れ目のついた写真を掲げた。写真には、アルと一緒の茶色の長髪の女性が幸せそうに笑顔を向けていて、腕にはふわふわの毛布に包まれた茶毛の赤ん坊が収まっている。
「僕が生まれた時の写真だ!母さんが遺したんだ。裏に日付が書いてある。それが今日だよ!」
しかし、アルの熱弁もむなしく、神父は頷くだけで何も言わなかった。アルはがっくりと肩を落とした。
ここには、天使はいない。優しさもない。誕生日もない。あるのは、埃っぽい礼拝堂と、寝室兼用の調理場と、寂れた食堂と、数個の部屋だけだ。
結局、アルは日中をネズミや虫と共に教会で過ごすことになった。
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