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作品名:プロメテウスの呪い 作者:ブリブリ仮面

第1回   1


明日の天気予報を見ようと思いテレビをつけたところ、突然火を噴いて黒焦げになってしまった。
ここ数年殆どニュース以外は見なくなったので買い替える気にもならない。
昔、一億総白痴化とかおっしゃった先生は先見の明のある偉大な方だったようだ。
こんな物がなかった江戸時代や原始時代の人間のほうが数段利口だったに違いない。

そういえばこの間からスピーカーの調子が悪いのを思い出した。
片方がガリガリ音を立てたり、全く鳴らなくなったりしている。
左右を繋ぎ変えてみると、やはり片方がおかしいらしい。
買い替えなければいけないみたいだけど、どこを探しても気に入るものが見つからない。
特にピアノの音が滑らかで繊細で、それでいて総奏の激情的な部分も再現出来るものでなければいけない。

自分が通っていた私立中学校の音楽教室に置いてあった、小振りでちょっと重そうなスピーカーのデザインが大好きだった。
それは艶々した綺麗な黒い箱に、金属のネットがスピーカーユニットの前面に被せてあり、大きなスピーカーユニットと緑色っぽい二つの小さなスピーカーユニットが縦に並んでいた。
音楽の先生はそのスピーカーに繋がっている、青いイルミネーションが鮮やかな、大きくて如何にも重そうな
アンプのボリュームを目一杯上げて、マーラーのシンフォニーやワーグナーの楽劇を聴かせてくれた。
自分はブラームスやラフマニノフのピアノ・コンチェルトが好きだったので、その頃それらを理解する事は全く出来なかった。
先生にわがままを言い、『パガニーニの主題による狂詩曲』を特別に掛けてもらった事がある。
その中でも特に、ルービンシュタインの奏でる第18変奏の美しさと感動は、今でも忘れ難い思い出として残っている。

でも、あの綺麗なスピーカーは一体なんだったのだろう。
電気店で聞いても答えが出ないので、毎日懸命にインターネットを使って探し出して見た。
それはどうやら、NS-1000Mという型番のスピーカーである事が判った。
更に検索してみると、そのスピーカーは往年の銘機であり、マニア垂涎の的となっているプレミアム製品らしい。
そしてマグネットに錆が付き動かなくなり易いけど、専門のレストア店があるので余計な心配はしなくてもよさそうだ。
芸術品の様なスピーカー、どうしてもこれだけは手に入れなければならない。

着信音の『愛の夢』が鳴った。久し振りだが、どうせまたあの娘だろう。

「もしもしぃ・・・・・・・・・・」
「もしもし、駕龍君でしょ、最近授業・・・・・・・・・」
「死ねよ、馬鹿・・・・じゃあな!」

クズ子・・・・・・どうでもいい屑女の久美子からだ。
このクズ女に比べたら、NS-1000Mの典雅で魅惑的な佇まいは一体なんなのだろう。
どうしてもこれだけは手に入れなければならない。

中古品店は碌なところがない、守銭奴に等しい奴らが仕入れ値の3倍付け以上で運営しているらしい。
斯くなる上はネットオークションしかないのか。
しかしそれも、詐欺師が跳梁跋扈しているので油断ならない。それを覚悟の上で吟味するしかなさそうだ。
検索キーワードには、中古・往年の銘機・スピーカー・エンクロージャー・箱・美品とでも入れてみるとするか。
しかし何処も彼処も傷物とか、インチキ臭い物だらけで、選別は相当な時間が必要になりそうだ。
生涯の伴侶にする訳でもないこんな物・・・・・・いい加減面倒くさくなって来るのだが。
往年の銘機といえば、JBL・アルテック・YLなんかも出てくるけど、こっちでも良さそうだ。
仕方ないから今回は見送ってのんびりと探すことにするか。

エンクロージャー・箱なんていうのも色々と出てくる。
パンドラの箱、パンドラの箱と・・・・・・・全くうそ臭い物だらけだ。
これは何だろう、オルゴールか。19世紀製造のスイス製オルゴール・パンドラの箱が、1000円スタートの2万円即落か。
但し書きには・・・・・19世紀に造られた希望を奏でるオルゴールです。聴く方の世界観によって、その旋律が及ぼす影響は様々な方向へと無限に広がります。
実はプロメーテウスと申す者は神々の陰謀に荷担し、実弟とパンドラを唆して人類に災厄を振り撒いた悪しき存在なのです。
パンドラの箱は現在に至るまで世界中で無数に創られ、神々による最終目的を成就せんが為、その研ぎ澄まされた鋭い牙を剥く機会を窺っているのです。充分にお気を付け下さい・・・・・か。
まったくインチキ臭いったらありゃしねえ。

あっ、またリストか。クズ子に違いない。

「何だよ。」
「あのさ、何でいきなり切るわけ・・・・・・・・」
「邪魔なんだよ、邪魔。」
「本当に死んで欲しいんだ。」
「うん、但し他人様に迷惑の掛からない様にな。」
「そうなんだ・・・・・・駕龍君て・・・・」
「じゃ、またぁ、お前が生きてたら。」
「希望だけは捨てないから・・・」
「ふ?ん、そうなんだ。」
「駕龍君は頭悪いから箱の中に何が残ったかし・・・・・・・」

まったく鬱陶しい女だ。お前の養分は自分が吸い尽くしてるから、何処にも行くあてはないだろう。
クズ子はバンパイアに血を吸い取られた抜け殻だって事を自覚していない。
今世紀最大の危機は希望が・・・・・・・・・・・箱?箱が・・・・・

「もしもしぃぃ。」
「・・・・・・・・・」
「おいっ・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
「クズ子?、返事ぐらいしたらどうよ。」
「何ですか、先輩。」
「お前さ、さっき言ってた箱の中がどうたらこうたらな・・・どういう意味なんだよ。」
「駕龍君には理解できないよ・・・・」
「だから何の箱だって聞いてんだよ、クズ。」
「パンドラじゃな・・・・・・・」

パンドラの箱・・・・・・・どうしてもこれだけは手に入れなければならない。
早速オークションに入札することにした。現在3500円だから5000円で入札して様子を見る事にしよう。
写真を見る限りでは傷もないし、そこそこ程度は良さそうだが、実物を手にしない限りはなんとも言えない。
落札価格はせいぜい10000円近辺だろうから、その辺りが勝負の分かれ目になりそうだ。
あっ、もう誰かが6000円をつけてる。残り時間は後14時間くらいか、急ぐ事もあるまい。

また電話だ・・・・・・やっぱりクズ子からか。

「あのなあ、俺のケータイはお前の専用回線じゃないんだぜ。」
「・・・・どうせ誰からも掛かって来ないじゃん。着信履歴見たことあるもん。」
「邪魔臭いから消してんだよ。お前は覗きの趣味でもあるんだろう、エロい女だな。」
「この間さ、真夜中に渋谷で何ウロウロしてたの。」
「そういうお前さんは何してたんだよ。」
「コンパに決まってんじゃん。他に・・・・・」
「コンパの後、ホテル街に歩いていく途中に俺を見たってワケか。」
「駕龍君て嫉妬深い人だよね。」
「お前から病気でも感染されたらかなわないからな。」
「それはあたしが言う言葉でしょ。」
「お前はな、俺が養分を吸い取った後の産廃だってこと忘れんなよな、クズ子。」
「バッカじゃないの、あなただって粗大ゴミと変らないでしょ。」
「眠いからさ、お休みぃ。」
「だってまだ午前・・・・・・・・・・」

あいつは何が言いたかったんだろう。嫉妬深いのはクズ子の方なんだ。
果報は寝て待てとはよく言ったものだ。今日は朝っぱらから本当に疲れた。



どのくらいの時間が過ぎたのか。目を覚ますと部屋の中は真っ暗だった。
灯りを点け、時計に目を遣ると午後9時を回っていた。
オークションはどうなっているのか。ログオンしてみると予想に反し入札額は急騰していた。
現在17000円・・・・・・後2時間弱で終了だ。
元々興味のない物なので、即落価格2万円が高いのか安いのかは自分には判らない。
しかし出品者がその程度の値段でも良いと考えているからには、妥当な値段なのだろう。

謎の箱・・・・・・・どうしてもこれだけは手に入れなければならない。
一週間後の朝、その箱が宅配便で送り届けられて来た。
新聞紙でぎゅうぎゅう詰めのダンボールの中から、小さい木製のオルゴールを手に取った。
ゼンマイを巻かなければ音は出ないだろうけど、取り敢えず蓋を空けて中を見てみよう。
蓋を開くと『カルミナ・ブラーナ』のメロディーが流れ始めた。
やはり古く見せ掛けた模造品だった様だ。裏側に1812年と刻印してあるのが尚更悪質だ。
更に中は底が浅過ぎて小物入れにもならない。一応鏡だけは付いているので、クズ子の誕生日にでもくれてやるか。





それから数ヶ月が過ぎた頃、駕龍が通う大学の近くのカフェに駕龍とその友人の姿があった。
駕龍のごく最近の日課は市立図書館に行く事で、大学の門をくぐるのは半年振りくらいだった。
そして数少ない有人である川上大輔を掴まえて、何やら議論を始めたのだが。

「駕龍はな、もっと違う時代に生まれてくるべきだったのかもしれないなあ。」
「そんなにお前は俺が、馬鹿で阿呆で時代遅れだと思ってるのか。」
「時代遅れって言うよりも、時代錯誤だよな。」
「それじゃあ、お前はこの世の中が一切矛盾のないユートピアだとでも思っている訳なのかよ。」
「そう考えている奴は結構一杯いるみたいだぜ。俺は違うけどな。」
「どこがどう違うんだか聞きたいな。」
「美味いもの食って、そこそこの贅沢が出来れば文句を言わない奴が多いって事だ。食いっぱぐれる心配がなければそこが天国なんだ。俺は違うけどな。」
「いや、お前の意見はどうなのかと聞いてるんだぜ。」
「俺は特に主張しようとは考えていない。他人が何をどう考えようがそれは他人の勝手だがな。」
「お前は典型的なノン・ポリティカル志向なんだよ。流されるがままに生きて、濁流に呑み込まれ溺れた時になって初めて気が付くタイプだ。
そしてそれは社会が悪いからだとか、他人が悪いとかヒステリックに喚き始める。表面上他人に対して無関心を装ってはいるが、
他人と違うのではなく同じ穴のムジナなのだと認めたくないだけなんだ。」
「そうやって頭ごなしに他人を非難しようとする姿勢が時代錯誤だって言ってるんだぜ。」
「何もしようと思わないのも自分自身の勝手だろうけどな、そういう奴はそのまま墓穴目指してまっしぐらに進めばいいんだ。
しかしお前みたいに何等の主張もないのに、俺は他人とは違うとか平然と言い放つ神経がおかしいんだ。」
「お前は何もかも口に出して言い表さないと理解できないんだろ、子供みたいに。」
「卑劣漢と後ろ指差されるくらいなら、ガキだって言われた方がまだましだぜ。」
「それじゃあまるで、自分が或る種の小児病だって認めてるようなもんだな。」
「お前には何を言っても無駄だと判ったよ。」
「そうやって拗ねるのが子供と同じなんだよ。」
「お前こそ世をすねて生きてる人間の代表じゃあないのか。少なくとも俺の方がお前よりも前向きに生きてるつもりだけどな。」
「まあ、どうでもいいよ。特にお前の生き方なんかに興味はないからな。」
「お前はな、これからの俺の行動を羨ましそうに見つめてるだけでいいんだよ。」
「ああ、そうするよ。しかし笑い者にだけはならないように注意した方がいいぜ。」
「友達として言ってんなら一応覚えとくわ。」
「うんうんうん、まあ、頑張れ。」

そこへ窓越しに偶然駕龍を見つけたクズ子こと久美子が、息を切らしながら割り込んできた。

「こんにちは、川上さん・・・でしたよね・・・・・・ご一緒していいですか。」
「ああ、森下さんだっけ、ちょうど帰ろうと思ってたから。じゃあな駕龍、ごっつぁん、じゃまた。」
「えっ、ランチ食ってピザ食ってケーキ食って・・・・・・・全部俺が持つのかよ・・・・・・・」



「駕龍君、随分だね。」
「何が随分。」
「ケータイの電源切って、何ヶ月シカトしてたと思ってるの。」
「あれはなお前と同じで浪費家だからな、バッテリー節約の為にさ。」
「変だよ、絶対に変だよ。」
「何が変。」
「駕龍君は欲望って起こらないんだ。」
「何の欲望。」
「本当は女子高生が好きなんじゃないの、女子中学生とか。」
「小便臭いのはあんまり趣味じゃねえな。」
「へ〜、じゃ丸の内のOLとか、どっかのキャバクラ嬢とか見つけたんだ。」
「これだから下々ってのはな、俺様とは永遠に相容れない関係なんだよ。」
「何言ってんの、馬鹿。」
「下賎の輩とまでは言わないけどな、お前は俗世間の女王みたいなもんだな。」
「まさか変な宗教に引っ掛かったんじゃないよね。」
「お前とは生まれつきデキが違うんだ。」
「ふ〜〜ん、出家でもして欲望がなくなったのかと思った。」
「欲望、欲望ってよう、お前の頭の中は煩悩しかないのかよ。」
「どうしてもお前だけは手に入れなければならない、とか何度も何度も言ってさ、あれって手篭めって言うんだよね。」
「馬鹿かよ。合意のもとの和姦だろ。」
「どうせ養分を吸い尽くした女に用はないって言いたいんでしょ。」
「そんなこたあねえよ。まだ使えるかもしれないしな。」
「あのさ、今まで一度も駕龍君のお家に呼んでくれた事ないよね。どうしてなの。」
「お前の声がデカイからじゃね。」
「今日さ、行っていいかな・・・・・・・・・・・・」
「いんや、駄目じゃ。」
「ご両親が・・・・・・とかなの。」
「ほとんど顔合わすことないけどな。」
「じゃあ、どうして。」
「世界征服を目指す者にとって、女は足手纏いにしかならないからだ。」
「駕龍君の馬鹿・・・・・・・・・・・・・・もういい・・・・・・・・」
「あっ、お茶代・・・・・・・また俺が払うのかよ・・・・・」

まったく何なんだあのアンポンタンは。自分の性格くらい充分に知っているだろうに。
恐らくあいつには相当なマゾの血が入っているのだと思う。自分が甘やかしたのも原因かも知れないが。
あっ、あの馬鹿、なんで戻ってくるのか・・・・・・・・・・・・・・・・・

「出戻りみたいな真似はみっともないからやめろよ。」
「注文したスパゲッティーとピザ食べてから帰るから心配しないでね。」
「スパとピザ両方食う下品な女ってのも珍しいんじゃね。」
「喫茶店でビール何本も飲んでる客も珍しいよね。それで何本目なの。」
「俺はな、豚みたいにガツガツ食わないからストイックなんだよ。」
「そうなんだ〜〜、お酒飲んでる人はみんな享楽的なのかと思った。」
「二大本能しかないお前に理解するのは難しいけどな。」
「それって、すっごいイヤミだよね。」
「人間てのは本当の事をグサリと刺されて言われると頭に来るらしいぜ。」
「衣食足りて礼節を知る、でしょ。」
「人はパンのみにて生きるにあらず、だよな。」
「お食事してる間は黙ってて欲しいんだけど。」
「あっ、そうだ、今度なジャズクラブに連れてってやるわ。」
「え???、クラシックの話しかしたことないじゃん、ジャズなんて解かるの。」
「俺は超ワイドレンジな人間なんだよ。」
「・・・・・・あっ、すみませ?ん・・・・・あと、コールスローサラダとレアチーズケーキとオレンジジュース下さい。」
「・・・・・・・・・まあ、お前には高尚な趣味は一切理解できないだろうけどな。」
「でもジャズって身近だよね、ケニー・Gのテナーが素敵・・・・・・・・・・・・」
「この馬鹿、クズ、百姓女、ソプラノサックス奏者なんだよ、見りゃあ分かるだろ。ライブでテナーやアルトもたまにやるけどな。」
「楽器とかどうでもいいし・・・・・・・・・」
「明らかにジャズ・フュージョンの世界にはクラシック音楽が多大なる影響を及ぼしているんだけど、
俺の出発点はガーシュウィンの『ラプソディー・イン・ブルー』だな。きっかけはデオダードだ。
楽器にしても旋律にしてもクラシックがなければジャズなんて存在出来なかったのは当たり前の話だ。
いわば、俺様なくしてお前が存在できないのと同様だと考えれば分かりやすいよな。
ポップス系シンガーのジョニー・ソマーズとかコニー・フランシスが歌うスタンダード・ナンバーが泣かせるんだよなあ?。
シビレまくるっつうたら、スタッフとかなパコ・デ・ルシアとかな、でも一番のお気に入りはリー・リトナーだわな。
後な、クラシック音楽を元にしたフュージョンの名曲つうたら、フューズ・ワンがアレンジしたスメタナの『モルダウ』だな。
ジョン・マクラフリンのエレキがクワァァァァァァ、ラリー・コリエルのアコギがクワァァァァァァァァァァァ。
でも最後は結局マイルスやコルトレーンに行き着くちゅうか、舞い戻るちゅうかだ・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おいっ、クズ子・・・・・いやに便所の長い女だな。」





オルゴールのネットオークションに懲りた駕龍は、すっかり惚れ込んでしまった憧れのNS-1000Mを探すべく、中古店の情報を丹念に調べていた。
そして大手の中古ショップに2セット在庫がある事を知り、おっとり刀でその中古店へと足を運んだのであった。
見た目にはどちらも大きな傷はなく、視聴しても全く違いが出ない為、製造番号300000番台の比較的新しい方を購入し、二日後の配達を待つ事にした。
帰る途中ジャズの復刻名盤を見つけようと、CDショップに寄って買い漁っていたところ、急に後ろから肩を叩く者があった。
駕龍が通う大学の経済学部教授の日下部泰蔵だった。にこにこしながら近況を聞いたり、大学内での出来事などを早口で喋り始めたのだが、
買い物も終わったので店を出て、大通り沿いにあるベンチに腰掛け、話を続けることにした。

「そうですね、中退とかは全然考えていないんですけど。今いろいろとやりたい事もありますので。」
「う〜ん、君は優秀な学生なんだから是非ね、ちゃんと卒業して良い仕事に就いてもらいたいと思うんだけどね。」
「まあ、就職の事も全然頭にないですし、学問の何たるかも疑問を抱き始めたんですよ。」
「ああ君ね、疑問というのは学問総てを修めた上での考えなら結構だけどね、中途半端なまま断片的知識で判断しても後々、後悔の念が残るものなんだよ。」
「しかしたとえ後悔するに至ったとしても、それは自分の責任に於いて行った行為ですし、人生を棒に振る結果に終わっても自身の無能に原因があるからなのです。」
「それじゃあまるで自暴自棄と同じじゃないか、自殺行為に等しいとは思わないのかね。」
「死ぬのを目的にして生きている人間はいないと思いますが。」
「そうではなくて、君は将来に対する計画性が皆無ではないのかと言っているんだが。」
「これから何をやるかは考えています。ただそのプランが煮詰まった状態に達していないだけなんです。」
「それは恐らく具体性の欠如した抽象的観念に過ぎないから、理論化が不可能なんじゃないか。」
「完璧無比な論理などこの世には存在しません。論理的誤謬は行動する事によって自己正当化を可能にしてきたのです。」
「君は学生によく有りがちな抽象論の蟻地獄に嵌ってしまったみたいだな。」
「いえ、自分は決して空想を空想で終わらせるつもりはありません。」
「自身の大いなる夢を実現した人間など、世界中探しても数えるほどしかいないんだがね。」
「自分はその数少ないひとりとして名を残すつもりでいるのです。」
「君は『夢見る人』になってしまったんだな。」
「フォスターの曲ですね。」
「そして『虹を掴む男』のまま生涯を終えようとしている。」
「何ですか、それ。」
「古?い、ハリウッド映画。」
「はあ・・・・・・・・・」
「まあ、どうでもいいから、卒業だけはしなさい。分かったね。」
「はい、なんとか。」

自分はこの先生を嫌ってはいなかった。だから余計な事を喋り過ぎたかもしれないと、少しだけ思った。
それよりも購入したスピーカーの到着が待ち遠しい。今は、他に何も頭の中にはなかった。

二日後、待ちに待ったNS-1000Mが届いた。店員に勧められて買った太いスピーカーケーブルに繋ぎ替え、いよいよワクワクの音出しだ。
アンプは父親のお古を貰った物だが、当時とても高価だったらしいマークレビンソンJC-2Lプリアンプと、
クレルKSA-100パワーアンプでNS-1000Mをドライブだ。
まずはやはりピアノ曲を幾つかチェックしてみよう。
ピアノトリオのスタンダードナンバーと、最高のアナログ録音がなされているオーディオ・ラボのSIDE by SIDEシリーズ、
そしてベートーベンのピアノコンチェルトを一番から『皇帝』まで代わる代わる、取っ換え引っ換え掛けてみる。
10枚以上聴いてみたが、これは実物のピアノの音質をも上回るような、まさにピアノの音を再現する為に生まれて来たような本格的なスピーカーシステムだ。
打楽器と管楽器が重なり合う所でも音が全く崩れないので、大規模なオーケストラと大合唱も聴いてみたくなった。
一枚だけ選ぶとすれば、ラトル:ベルリン・フィルの『カルミナ・ブラーナ』・・・・か・・・・・・・・・オルゴールの・・・・・・
しかしあのオルゴールは模造品とはいえ、どうしてこの曲を選んだのだろう。
背丈ほどもある大型のオルゴールでも再現など出来そうにない、フルオーケストラと大規模な合唱団による曲。
そもそも形の大小には関係なく、オルゴールの単音には相応しくない曲を何故わざわざ。・・・・おかしい・・・・・・





中学時代の初恋の人に回り逢ったような気分で、もう一週間以上スピーカーのデザインにうっとりしながら、
朝から晩まで音楽鑑賞に耽っていたのだが、果たして自分はこんな事をしていて良いのだろうか。
確かにこの恋人はクズ子みたいに生意気な口も利かず、自分の欲求を満たし、毎日せっせと家事をこなしてくれる貞淑な女性かもしれない。
これを購入した中古ショップの人の話によれば、新品の高性能スピーカーは音がこなれるまで相当な時間を掛けてエージングする必要があるので、中古の方が扱い易いのだという。
しかし元々完成度の高い物が熟成して、主人の命令に忠実となり、文句の付けようがない状態にまで達した為、逆にもどかしさを感じてしまう。
仮にクズ子が清楚でおしとやかな女だったとしたらどうなのだろうか。
恐らく自分もそれに合せなければならないので疲れてしまうかも知れない。
人類とは、憤りやフラストレーションなど、何らかの刺激がなければ生きて行く事の出来ない下等動物なのだ。

「もひもひぃぃ・・・・・・・・」
「アッ、もしもし駕龍君、あのジャズクラブ行くって話でしょ。水曜か木曜ならバイトないから・・・・・」
「あれはな、吉祥寺にある古いジャズ喫茶なんだわ。もっとお洒落なクラブ探しとくから、またな。」
「エッ、そんなお洒落なお店じゃなくてもどこでもい・・・・・・・・・・・・・」

バイトっていえば、池澤の奴はどうしているのか。退屈凌ぎにちょっと会って、からかって来るとするか。

池澤雅史は高校時代のサッカー部の後輩なのだが、勉強が嫌いだと口癖のように言っていたあいつが、
突然猛勉強を始めて、難関といわれている自分の大学に滑り込みで入学してきた。
でもやはり生来の勉強嫌いからなのか授業には殆ど出ず、毎日バイトに精を出しているらしい。
深夜の方が時給が高いからと、渋谷のパブで夜中から朝まで8時間、週5日も働いていると聞いた。
電話で場所を確認をしてから渋谷駅で降り、宮益坂を少し上って左に折れたところの、雑居ビルの地下に終夜営業のパブはあった。
店内へ入ると、我が後輩が6名ほど座れるカウンター内で、忙しそうに動きながら出迎えてくれた。
池澤の勧める通り、食器の洗い場に最も近い右端の席に座る事になった。

「暫くぶりですね、先輩。お飲み物は何にしますか。」
「バランタインの17年もの・・・・・・あるよな。それ、ボトル入れとくわ。薄い水割りにしてな。」
「はい、ありがとうございます。中身が減ったら足しときますから・・・・・ヘヘヘ。」
「おう、さすがは可愛い後輩じゃな。苦しゅうない、苦しゅうない。」

「ところでお前さ、学校どうしてんのよ。」
「うん、バイトが忙しくてなかなか行けないんですよ。」
「まあ俺っちも半年以上行ってないから、他人の事とやかく言えないんだけどな。」
「え〜、中退するんですか。」
「そんな気はねえよ、やる気がないだけ。で、お前の方はどうなの。」
「僕は6年か7年掛けてでも卒業するつもりですけど。」
「サラリーマンになるんだったら、ちょっと不利じゃね。」
「でも一応肩書きだけは欲しいんで・・・そのために入った大学だし・・・・・」
「それじゃあよう、見掛け倒しのピーマンと変らねえじゃん。夢がないねえチミには夢っちゅうものが・・・・」
「僕の夢はランボルギーニのオーナーになる事なんですよ。」
「そのためにバイトしてるんだ。」
「いま乗ってる中古車が、エンジン吹かし過ぎてオシャカ寸前なんですよ。それでバイト代貯めて、耐久性の高いロータリーエンジン車に換えないといけないんで。」
「ホント、呆れ返ってものが言えないぜ。お前とかクズ子みたいに自宅から通ってんのに、毎日バイトやってる奴が多いから失業者が増えるんだろ。」
「お上が学生バイト禁止令とか発布すればいいんじゃないかな・・・・ヘヘヘ。」
「そんじゃあ、俺様が勅令を制定するから、おまいは今日限りでクビにしてやんよ。」
「でも結局、失業率は下がらないような気がするんですよ。多分、闇バイト斡旋業者とか出てきて、こういう店に紹介をしたりして、
きっと闇稼業だから時給も5割増くらいになったりして、願ったり叶ったりだったりして、ヘヘヘヘ。」
「なんたる不埒な・・・・・お前をそんな後輩に育てた覚えはねえぞ。」
「先輩がよく言っていた不条理ってやつじゃないですか。エヘヘ。」
「マジな話さ、今の日本に最も必要且つ焦眉の急とされている課題は、如何にして賃金奴隷を解放するかという事なんだ。
その為には労働者が自らの置かれている立場を自覚し、主体性の発現としての革命を勃発させなければならんのだ。
愚眠を貪る労働者階級と小市民階級を覚醒させ、政治への直接参加に駆り立てる示威行動こそが革命運動なのだ。
それは百姓一揆であろうが、ルンペン・プロレタリアによる武装蜂起であろうが、方法論は一切問題視されない。
しかし21世紀における大日本革命とは、フランスやロシアとは全く趣を異にしている。
ただ単にパンとミルクを求め、専制君主を打倒するような単純なものではなく、複雑にして高度なテクノロジーが要求される。
人間の持ち得る、知性・理性・哲学・或いは形而上学的能力までをも駆使して、この日本で演じられる事になるのが、未だ類例をみない今世紀初の革命または維新なのだ。
その革命の炎は日本を焦土と化し、後に日本発の偉大なる国家社会主義革命として永久に語り継がれるのだ。
そしてその不世出の天才たる指導者こそが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「先輩、ペース早過ぎ・・・・・・・全然おつまみも食べないで・・・・・・・・・」
「真のスコッチ通ってのはだな、美酒の味わい方を善く心得ているから何も食わんのだよ。」
「悪酔いするから、ナチズムとか言い出すんじゃないですか。」
「チミねえ、国家社会主義ドイツ労働者党の事なんか言ってないっちゅうのぉ。」
「先輩は高校時代、オーバーヘッドシュート失敗して何度も頭打ってるし。」
「もしかしてチミは俺様の必殺踵落しを食らいたいのかに。」
「もうボトル半分以上飲んじゃって・・・・・・・・・・・・・・」

この店は12時を回ってからがピークのようで、池澤も忙しくて自分の相手をする暇がなさそうだ。
テーブル席とカウンターが満席に近くなった頃、空いていた自分の隣の席へ、ショートカットに白いワンピース姿のOL風の若い女が座った。
池澤は気を利かせてくれたのか、自分を高校・大学の先輩だと紹介し、その女と会話するきっかけを作った。

「僕は後輩を訪ねて、今日始めてこの店に来たんですけど、ここへはよくいらっしゃるんですか。」
「あっ、そうなんですか、あたしも今日始めてこのお店に入ったんですよ。会社の飲み会の帰りだったんですけど、電車に乗り遅れてしまったもので、朝まで時間を潰そうかなと思って。」
「へ〜、それじゃ渋谷にある会社で働いてるんだ。」
「うん、割と有名な会社で受付のお仕事をしてるの。有名人とかも結構沢山来社するから飽きないんですよ。
でも受付の女の子って10人位いるんだけど、あたしは新入社員で同期の子は一人もいないの。
その部署の上司は男の人で3人の娘さんがいるんだけど、とても優しくてあたしを実の娘みたいに面倒見てくれるんですよ。」
「ふ〜ん、女性が多い職場っていうのも大変そうだよね。」
「うん、そうなの。特に2年か3年先輩がすごい意地悪な子ばかりで、毎日服装がどうとか接客態度がどうとか言って苛めるの。
一番年上の責任者が30代の主任で、その人がとてもしっかりした方なので悩みを打ち明けたりとか、お仕事を教えてくれるので助かってるの。
でもその主任さんがいない時になると、意地の悪い子が集まって来て化粧が濃過ぎるとか苛めるの。」
「え〜、何かよく分からないけど、テレビドラマみたいなんだねえ。」
「うん、ドラマなんてあんなのまだ楽なほうだと思う。この間なんか食堂で聞こえよがしにあたしの事を体臭がきついとか、
毎日お風呂に入ってないとか、毎日同じ服で出社して来るとか、男性社員がいる前で喋ってるのを聞いたの。
毎日お風呂に入って、毎日お洗濯もしてるのに、嘘ばっかり吐く意地の悪い子たちだらけなの。」
「へ〜、そりゃあひどいね。」
「先輩の男性社員から聞いたんだけど、その子たちってみんな色々なとこ整形してるらしくって、毎年夏冬休みが明けると別人と間違えちゃうんだって。
中には新宿で夜の変なバイトしてる子もいるらしいの。その人ははっきりとは言わなかったけど、多分風俗嬢やってるんだよ。
それからね、横須賀に空母が寄港すると必ずお休み取る子がいるんだって。すごい不潔だよね。
あたしは良い大学出てるから、その内きっと秘書課かどこかに配置転換されるかもしれないけど、他の子たちってFランしかいないから駄目だと思うの。
だからそれまでの辛抱だと思って我慢して頑張ってるの。」
「あ〜、そうだね、頑張ってね、僕も陰ながら応援するから・・・・・・・・・」
「あっ、あの、あたし、井上良子です。ケータイの番号とメアドの交換したいんだけど、お持ちでしょ。」
「え〜と、いま電源切ってあるんで・・・・・・・・・・」
「それじゃちょっと見せてくれれば、赤外線とかで簡単に交換出来ると思うから。」
「僕はケータイのこと詳しくないんで・・・・・・一応渡しますけど・・・・」
「え〜と・・・・・・・・・・同じ電話会社の同じメーカーじゃん、簡単に出来るよ。駕龍隼人さんね、素敵なお名前ね・・・・・・・はい、完了。」
「まあ、親が付けた名前だけど・・・・・・」
「もう始発出てる時間だから帰るね。メール必ず送るから。」
「あ、まだ暗いから気を付けてね。」
「今日はどうもごちそうさまでした。電話するから電源入れて置いてね・・・・・じゃ、おやすみなさい。」
「あ、おやすみぃ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・俺のおごりかよ・・・・」

「お〜い、池澤っちや〜〜い、助けてくれや〜〜〜。」
「このドスケベが〜〜〜、ヘヘヘヘヘ。」
「お前が紹介なんかするから、お前さえいなければあ〜〜〜〜〜〜。」
「結構いい女だったじゃないですか。」
「なんで俺が愚痴聞いてやんなきゃならん訳よ。この世の地獄だ?祟りじゃあ??今世紀最大の悲劇だあ〜〜〜。」
「御祓いでもして貰ったらどうですか、ヘヘッ。」
「あっ、そうだ。御祓いっていやあ、あの娘・・・・・誰だっけ、お前の友達で巫女のバイトしてる奴でさ。」
「あ〜、都築冴子ね。最近会ってないんで、いま何のバイトやってるんだか。」
「確か巫女ってのは、生娘にしか出来ないんだよな。」
「ナイナイナイ〜〜、そんなの昔々の御伽噺ですよ。」
「いや、俺の見たところ、あいつは明らかに新品に違えねえ。」
「僕は中古車専門だからどうでもいいけど。」
「俺の目は誤魔化せても、背中のコイツが総てお見通しなんだよぅ〜〜〜。電話番号教えろや〜〜。」
「生き地獄、女地獄に堕ちますよ、先輩・・・・・・・エヘッ。」
「いや違うだろ、俺は禊をしたいだけなんじゃ。」

そうだ・・・・・・・どうしてもあの巫女娘だけは手に入れなければならない。





池澤にその巫女さんのケータイ番号を教えてもらい、数日間敵地攻略の作戦を練っていたのだが、自分には男としての重大な欠陥がある事に気付いた。
巫女さん攻略のための必須条件ともいうべき自動車がない。即ち自分はペーパードライバーだったのだ。
クズ子みたいに食い物だけ与えておけば、尻尾を振ってついてくる様な女なんて世の中にはそうざらにいない。
今時古風なおさげ髪に、小柄で少しぽっちゃりとした色白の巫女さん。ちょっとだけ会話をした事があるのだがとても賢くて身持ちが固そうだ。
甘い言葉には乗って来そうもないので、さりげなくスポーツカーの助手席にエスコートして、映画や音楽の話をしながらカーオーディオのボリュームを上げる。
更に相当な濃い演出をしない限り、彼女の閉ざされた心は自分の方に向いてくれそうにない。
1年ほど前に車の購入を両親に勧められたのだが、話が噛み合わないのでそのままにしていたのが逆に良かったみたいだ。
新車が欲しかったため、欧州車では予算オーバーになってしまい、いずれその内にと思っていたのだが、今は中古車でも良いと考えを改めるようになった。
中古車市場は池澤が詳しいので、あいつのバイト明けに会って相談してみようと約束をした。
日曜日の早朝、原宿の喫茶店で池澤と待ち合わせ、マニアックな会話を始めた。

「スポーツカーだったら、ちょっと古いけどランチャ・ストラトスとか、ラリー037とか、デルタS4なんかが超カッコイイですよね。
あと昔のマセラッティーのV6メラクとV8ボーラのミッドシップとか、安いのだったらアルファ・スパイダーなんかいいですよ。
フェラーリとランボルギーニは少し高過ぎるのでおいと・・・・・・・・・・・・・・」
「あのなあ、イタリアン・スーパースポーツじゃなくって、俺はブリティッシュ・ライトウェイト・スポーツが好きなんだよ。」
「あ、そうなんだ。英国車だったら、ロータス・ヨーロッパとかエランなんか超カワイイですよね。」
「古過ぎると維持費が大変そうだから、比較的新しいやつな、やっぱ日本製エンジン搭載のロータスとか、後はTVRの直6とかだよな。」
「ジネッタなんかどうですか。コスワースチューンの直4エンジンがあったような・・・・・・・・」
「そんなレーシングカーみたいなのは駄目だな。乗り心地が良くてそれでいてアクセル踏むとカッ飛ぶ様なやつじゃないと。」
「う〜ん、じゃあロータス・エスプリターボなんか・・・・・・」
「007に出て来たボンドカーねえ?、かっこいいんだけどやっぱミッドシップよりも、荷物が載せられるフロントエンジンの方がいいかなとか考えちまうんだよな。」
「それじゃあ、TVRタスカンSに決まりですよね。2シーター・タルガトップ・4リッター直6の400馬力で値段もお手ごろ。」
「うんうんうん、これは女心をくすぐる可愛いデザインだよな。やっぱこれしかないよな。」
「そんじゃ、早速手配しますね。」
「あと、お前さ、巫女さんの話はオフレコな。」
「僕の口が固いのは先輩もよく知ってるでしょ。高校時代の部室であの子をとか・・・・・・・エヘッ。」
「軽すぎるんだけど・・・・・・・・・・・・・」



池澤の親戚が経営しているという中古車チェーン店には豊富な在庫があるらしいので、最も程度の良いものを選んでもらい購入することに決めた。
契約と手続きも済み、いよいよ我が愛車TVRタスカンSの初ドライブが出来る日になった。
店の人に幾度となく注意をされたのだが、この車はハンドルに遊びがなくレーシングカーに近いような、
ロック・トゥ・ロックが1対1.4くらいなので、くれぐれもステアリング操作には気を付けるようにとの事だった。
しかし自分は最初に助手席に乗せる女性以外のことは眼中になかった。

今までドライブといえばレンタカーだけだったし、こんな超弩級スーパースポーツのハンドルを握るのは始めての体験だ。
箱根越えを目指して飛ばして行くと、なるほど店員の言った通りステアリングレスポンスが異常なくらいクイックだ。
シリンダー当たりの容量がでかいにも関わらず、アクセルを少し踏み込むだけで自社製直6ツインカムが強烈に吹け上がる。
その官能的ともいえるエクゾーストノートとメカ音のハーモニーは、カーオーディオの必要性を全く感じさせない。
2時間ほど走らせただけで、相当な緊張を強いられたため疲労が激しく、その日は早々に箱根を下って帰ることにした。





都築冴子のケータイ番号は聞いてあるので、実直な人間を装うのであれば直接掛けてしまえば良いのだが、それでは余りにも能がない。
ここはやはり池澤に仲介させるのが最善の手段だろう。
そこで、池澤から冴子に電話を掛けさせ、自分が折り入って相談したい事があるので電話を貰えるように頼む作戦に切り換えた。
純真で誠実そのものに見える巫女・冴子だからこそ、この計画は確実性が非常に高いものと思われる。
既に池澤からの電話を受けているはずなので、今日中には自分のケータイ着信音が鳴るだろう。

それから約3時間後、思った通り『愛の夢』が鳴り響いた。しかしこれは公衆電話から掛けているらしい。

「もしもし、駕龍ですが。」
「あ、もしもし、わたくし都築と申しますけど、池澤君に電話番号を聞きまして・・・・・・駕龍さんとは今年のお正月に一度お会いしてますよね。」
「ああ、わざわざすみません。僕は高校・大学を通じて池澤とは親しいんですが、都築さんに是非ともご相談というか、聞きたい事があったものですから。」
「はい、わたくしに分かる事でしたらいいんですけど・・・・・どんな事なんですか。」
「都築さんは巫女さんをしてらしたので、そちらの方面は詳しいのではないかと思ったんです。
実は私事なんですけど、御祓いという神事はどんな手続きを踏んでお願いしたら良いのか、
回りの誰に聞いても的確な答えが返ってこなかったものですから、
巫女さんをしておられる都築さんならばご存知かと思いまして。」
「わたくし現在は巫女はやっていないんですが、そうですね知人に尋ねてみれば分かるかも知れないですけど。
駕龍さんご自身の御祓いといいますと、具体的にはどのような事なのか解かりかねて・・・・・・・・・・・」
「ええ、お恥ずかしい話なんですが、自分はここ最近悪夢にうなされて、眠れぬ日々を送っているんです。
多分何か邪悪な者の憑依ではないかと思うんですけど、顔ははっきりとは見えないのですが、
ショートカットで白いワンピース姿の女性が現れて自分の首を絞め、苦しくて息が出来なくなるという現象が続いているんです。
テレビでは似通ったドキュメントを何度か見たことがあるんですけど、きっと自分も祟られているのではないかと考えまして。
そこで、出来ましたら都築さんと直接お会いして、お話を伺うのが一番良いと思ったのですが。」
「そうなんですか、それは大変ですね。わたくしも何とかお力になれればいいのですけど、お祓いについては知識がありませんので、
知人に聞いてみない事には何ともご返事のしようがないんです。」
「はい、お手数をお掛けして申し訳ありません。またお電話して頂くか、お会いしてお話を伺えるのであれば何時でも構いませんので宜しくお願いします。」
「はい、近い内に必ずご連絡致しますので。」
「ええ、お忙しいところすみませんでした。」
「では失礼致します。ごめんください。」
「あ、はい、では・・・・どうも・・・・・・・・・」

これはまずい。作戦は大失敗に終わってしまったのか。
敵は難攻不落の要塞に立て篭もって攻撃をかわしているとしか考えられない。
公衆電話を使うとは何という慎重で懐疑的なのか、はたまた猜疑心が強いのか。
これは絶対に長期戦・持久戦に持ち込まなければ、壊滅的敗北を喫するのは目に見えている。
急いては事を仕損じると肝に銘じなければならない。





愛車TVRタスカンSはかなり高度なドライビングテクニックが要求されるので、少し腕を磨いておかないと車に振り回されてしまう。
冴子を乗せて、もし事故でも起こそうものなら計画は総て水の泡だ。
高速道路や箱根だけでなく、渋滞した道や坂道発進も初心に返って練習しなおさないといけないみたいだ。
この高性能車にとってはちょっと酷なのだが、今日は都内をのろのろと走ってみることにしよう。
渋滞した道はやはり退屈なので、R・シュトラウスの『ドン・ファン』をフルボリュームで聴きながら、新宿駅近くへ差し掛かった。
サンドイッチでも食べながらと思い、買い物をするため駐車出来そうな場所を探していたところ、駐車場付きのコンビニがあったのでそこで買い物を済ませることにした。
ミックスサンドとコーラを買い、車に戻りエンジンを掛けようとしたその時、助手席の方向から甲高い声が響いた。

「隼人ぉぉぉーーーーーーーー、隼人でしょ。」

最悪だ。あの女、愚痴っぽいOLの井上良子だ。更にその黄色い声とピンク一色の派手な服装に目眩がした。

「ねえ、隼人ぉ、これって外車?すっごいカワイイよね。外車なのにどうして右ハンドルなの?乗せて乗せてぇぇぇ、早くうゥゥゥ、ドア開けるとこないよ。ねえ、早くうゥゥ。」
「ドアノブはないから・・・・・・いま開けるよ。」

今日はぽかぽか陽気の良い天気だったので、着脱式トップを外してサイドウィンドウも両方全開にしていたのがそもそもの間違いだった。
しかしこの馬鹿女はまだ付き合ってもいないのに、いきなり他人様を呼び捨てにした上、車に乗せろなどと全く図々しい奴だ。

「え〜、変なの〜〜、真中にドア開くスイッチが付いてるんだあ。ねえねえ、外車なのにどうして右ハンドルにしたの。すっごいカッコ悪いよ。」
「元々、右ハンドルなの・・・・・・・」
「エエ〜〜、だって外車は左ハンドルじゃないと変じゃん、すっごいダサいじゃん。」

このドン百姓がなにをほざくか!!!馬鹿馬鹿しいので何とか話を逸らせようとしたが、気が動転していて何も思い付かなかった。

「ねえ隼人さあ、何で電話してくれないの、メールでもいいのにさ。」
「そっちからするって言わなかったっけ。」
「お仕事が忙しくて出来なかったの〜、隼人は暇なんでしょ、毎日欲しくて待ってたのにィ。」
「俺もさ、色々と多忙な身なんだよ。」
「ねえ、早く車出してよ。海に行こうよ〜〜。」
「このスポーツカーは特別仕様だから、潮風にあたると駄目になっちゃうの。」
「六本木行ってさ、お食事してから湘南にドライブに行こうよ。」
「だから、海はダメなんだってのに。」
「どうでもいいから、早く六本木〜〜〜。」

仕方なく六本木方面に向かい、良子に指図されるままフランス料理店の前に車を止めた。
そこは以前雑誌で見た事がある、有名なシェフがオーナーの一流店だった。
ギャルソンの案内でテーブルに座り、フルコース料理とソムリエお奨めのグラスワインを注文した。
恥知らずな女、良子は、社員食堂で食事をする感覚で一人はしゃいでいた。

「でもさあ、最近フレンチもちょっと飽きて来たかなあ?て感じなの。やっぱりあたしは学生の頃からスイス料理店専門だったからかなあ。
うちの会社の女の子なんかさ、今時流行らないイタメシの話しかしないんだよ。
みんな田舎者だよね。パスタやピザでお腹いっぱいになればいいって子しかいないんだ。」

田舎者はお前なんだ、フランス・スイス料理は北イタリア料理が発展したものなんだ、イタメシは南イタリア料理が多いからそれはそれで最高の料理なんだ・・・・・・・とか言って、グルメ漫画の主人公に変身して魚の餌にしてやりたかった。

「あ、そうだ、さっきカーステで掛けてた音楽ってなんだったっけ。学生のとき聴いた事あるんだけど。」
「あれはな、『カルメン』だよ。俺はあんまり好きじゃあないんだけどな。」
「それ知ってるよ、有名なイタリアオペラだよね。イタメシは好きじゃないけど、イタリアオペラは最高の芸術だよね。」

この、知ったかぶり女・・・・・誰がお前なんぞに本当の事なんか教えてやるもんか、一生恥かいて終れ・・・・・・とか言って、女嫌いでペシミストの実存主義哲学者に変身して袋叩きにしてやりたかった。

「イタリアオペラもよく聴くんだけど、やっぱあたしはポップスが一番好きかな、アメリカンポップスってノリがいいよね。『愛の讃歌』とか『マイ・ウェイ』とか昔の曲が好きなんだけど、隼人はこれって知らないでしょ。」
「ああ、俺はアニソンと演歌しか聴かないからな。」

この、知ったかブリブリ女・・・・・・そりゃあ、エディット・ピアフとシャルル・アズナブールの書いたシャンソンをブレンダ・リーとかフランク・シナトラが英語で歌っただけだろ・・・・・・・・とか言って、新春山村シャンソンショーに変身してフルボッコにしてやんよ。

恐怖のお食事会も終了し、再び車に乗り込んだが、果たしてこの知ったか女は俺を無事解放してくれるのだろうか。

「ワインで少し酔っちゃった。どこ行こうかなあ、東麻布か〜西麻布か〜・・・・・・・・やっぱあたしの庭の渋谷に行って、隼人。」

この馬鹿女・・・・・・・・・・・・・お前は俺の何なんだよ、すっかり女王様の気になってやがる。
半分諦め気分で駅近くの駐車場を探し、良子の指図する通りに宇田川町周辺をブラブラと歩き回り、公園通りにあるカクテルラウンジに入った。
自分はドライマティーニを良子はモスコー・ミュールを注文して、良子が勝手に乾杯の音頭をとった。

「今日はお休みだったから、隼人に逢えてほんとに嬉しかったよ。もう絶対にあたしと隼人は離れられない関係だよね。
きっと親指と親指が繋がっていたから偶然回り逢えたんだと思うの。これって運命だよね。」
「へ??、もし小指と小指が赤い糸で結ばれてたら、結婚しなきゃあならない運命なんだぜ。」
「結婚なんて古臭いこと考えてんだね、隼人は。それってやっぱ演歌の影響なの。」
「結婚が古臭かったら人類は滅亡してるけどな。」
「お掃除と洗濯とご飯とあと色々、全部隼人がやってくれたら結婚してもいいよ。」
「まあ、それはお前が年収3000万くらい稼ぐ女社長か何かだったら考えといてもいいけどな。」
「女性は子育てとかで忙しいから仕事はしなくてもいいんでしょ。」
「お前に子育てなんて出来んのか。」
「出来るに決まってんじゃん。」
「出産の経験があるような口振りだな。」
「出産は女性の仕事で、男は外で働いて帰って来てから、一緒に子育てをするのが最近の常識なんだよ。」
「俺はさあ、ガキって大嫌いなんだよ。」
「それって、おかしいんじゃないの。すっごい変ってるよ。」
「犬や猫の仔だったら、何匹いても構わないけどな。」
「それって変だよ。動物なんて何もしてくれないじゃん。餌代がかかるだけでさ。」
「後な、俺は動物が嫌いな奴ほど大っ嫌いなものはないんだよ。」
「それってさ、子供を産めないからそんな変な考え起こすんだよ。」
「だから、お前はガキを産んだ事があるのかって聞いてんだけど。」
「そんなの関係ないじゃん。」
「お前さ、子供いるんじゃないのか。」
「隼人がそんなに疑り深い人だなんて知らなかった。」
「後な、俺は嘘を吐く奴くらい大っ嫌いなものはないんだよ。」
「隼人も会社の女の子とおんなじ、あたしを苛める事しか考えていないの。」
「返事に窮すると、疑われても仕方ないんだぜ。」
「意地悪・・・・・どうしてあたしをそんなに苛めるの・・・・・・・・・・・」
「いや・・・・・・別に苛めてる訳じゃ・・・・・・・・・・・・・」

良子は遂に最終兵器の発射ボタンに手を掛け、口の達者な駕龍を黙らせてしまった。
駕龍は過去に一度だけ同様の緊迫した場面を経験した事がある。相手は森下久美子、クズ子だった。

「隼人にもっと、あたしのこと知って欲しいの・・・・・あたしのこと分かって欲しいの・・・・・・・・」
「まあ、俺は他人の事を詮索するのは好きじゃないんだけど・・・・・・・・・」
「きっと隼人はあたしのこと好きになってくれるって信じてるの・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・別に嫌いってわけじゃ・・・・・・・・・・・・・」

致命傷を負わされた駕龍は良子と共に気まずい雰囲気のまま公園通りへ出て、無言で歩き始めた良子の後に着いて行くしかなかった。
そして道玄坂の上り口に入った時、良子の最終兵器による攻撃で大破したと、総てを悟り覚悟を決めた。
それは決して駕龍の本心からではなく、今日の投資を回収しなければ損をすると打算的に考えた結果だった。
しかし、人込みの中、依然として黙りこくって歩き続ける良子を追い道玄坂を少し上った時、突然大きな声で駕龍の名を呼ぶ者があった。

「駕龍く〜〜〜ん、どこ行くの〜〜〜〜〜。」

クズ子だ。そして川上も一緒に男女数名で坂を下りて来たらしい。しかし良子の存在には気付いていないようだ。
当の良子はクズ子の大きな声に気付き、振り向いて自分の目を見たときに彼女の表情が変貌を来していたのがはっきりと見て取れた。
そして自分に近寄り耳打ちし、突然家に帰ると言ってそのまま駅の方向へ小走りに向かい、あっという間にその姿は見えなくなった。
何がなんだか訳が分からず呆気に取られていると、少し驚いたような面持ちで、クズ子と川上が自分の傍に来てこの様に言うのだった。

「駕龍君、ごめんね、お邪魔虫だったみたいね・・・・・・・・・・・・・」
「いや、別に何でもないんだけどさ、帰るとこだったから。あっ、俺よう、車買ったから帰るんならお前送ってってやろうか。」
「キャーーーマジで〜〜、マジマジマジィィ〜〜〜」
「2シーターのスポーツカーだから川上には悪いんだけどな。」

なんとなくばつが悪いので、クズ子を出血サービスで車に乗せてごまかそうとしたのだが、
今日自分は損をしたのか助かったのか、その後ずっと考えていたが結局どちらでもよいという結論しか出なかった。
ただあの時、何故良子は突然帰ったのか、それと終始無言で俯いていた川上の顔がなぜか不可解で気に掛かった。





翌日、疲労困憊しきって昼過ぎまで死んだ様に寝ていると、突然の着信音に叩き起こされた。
例によって例の如く、クズ子からだった。

「何だよ。」
「あのさ、お家にいるんでしょ、話があるから出て来て。」
「俺は話なんかないけどな。」
「もうすぐ井の頭公園に着くから、車で即来てね。じゃ。」
「おいっ、絶対に行かんからな。」
「ナンバープレート写メってあるんだから。すぐ来て。」
「エッ・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

そのうち、家に押し掛けられるのではないかと怖気づいた駕龍は、顔面蒼白のまま井の頭公園へと向かった。
クズ子は公園のベンチに腰掛け、辺りをキョロキョロと窺いながら駕龍の到着を待っていた。
そして駕龍の姿を発見すると立ち上がり、手招きをしながら大きな声で呼び寄せるのだった。

「遅かったじゃん。」
「エンジンの吹けが悪くてな。」
「あの車すごいうるさいから昨日は何にも話が出来なかったじゃん。」
「ナンバー写メったてのはマジか。」
「あの女は誰なの。」
「お前にそんなこと言われる筋合いはねえな。」
「あたしに逢いたくない理由が昨日よく解かった。」
「ふ〜ん、頭いいじゃん。」
「どこに行くつもりだったのか知ってるよ。」
「なんだよ、円山町の小料理屋知ってたのか。」
「小料理屋のわけないじゃん、嘘吐き。」
「お前にだけは嘘吐いた事ないけどな。」
「最近あたしを避けてるのが嘘吐きの証拠なんだから。」
「お前さあ、夫婦じゃないんだからな、俺が誰と食事しようが酒飲もうが関係ないだろ。」
「だから食事とかお酒とか嘘吐いてるじゃん。」
「お前は何が言いたいんだよ。」
「男と女があんなとこ行けば、する事って他にないじゃん。」
「俺とあいつが腕組んで円山町を歩いてたってんなら話は分かるけどな。」
「腕組むとか手をつなぐとは限らないでしょ。」
「どこの馬の骨かも知らんて言ってんのが分からんのか。」
「じゃ、行きずりの女なんだ。」
「前に一度会っただけだよ。」
「そうなんだ・・・・・・・・そういう仕事してる女なんだ。」
「馬鹿かよ、お前は。」
「やっぱそうなんだ。」
「病院行けよ。」
「駕龍君はあたしと一度も腕を組んだり手をつないだりしてくれた事ないよね。だからあの女も同じ扱いなのね。」
「あの車買った大きな理由の一つはな、お前を病院に運ぶためなんだよ。」
「駕龍君が嘘吐きだから、あの女は昨日慌てて帰っちゃったんじゃん。」
「だからな、新車じゃもったいないから、お前とおんなじ中古にしたんだよ。」
「一体何人の女の真心を踏みにじったら気が済むの。」
「中古で慣らし運転済みだからエンジン快調、俺が時間を掛けてエージングしてやったお前と同じく超スムーズ。」
「そうやって話し逸らして・・・・・・・いつもそう・・・・・・あたしを傷付けて・・・・・・苛めて楽しんでる・・・・・・」
「お前のリーサルウェポンは既に封印してあるから、二度と通用しないのは分かってるよな。」
「もういい、あなたには疲れたから・・・・・・・・・」
「じゃあ、またな。もし会えたら。」
「送ってくれるよね、ナンバープレート写メったのPCとかフラッシュに、たっっっくさんコピーしてあるから。」
「・・・・・・・・・そういえば、お前の家に呼んでくれた事ないよな。今日行っていいかな・・・・・・・」
「いんや、駄目じゃ。葉山マリーナまでお願いします、運転手さん。」
「俺はレーシング・ドライバーなんだけど・・・・・・・・・」

クズ子の脅迫に屈した駕龍だったが、辺りはもう薄暗くなって来ていたので、次のドライブは必ず葉山マリーナに行くと半ば強制的に約束をさせられた後、クズ子の家の近くの駅まで渋々送ってあげた。
駕龍の致命的欠点は、女のリーサルウェポンで溶けるナメクジの体質だったのだ。





クズ子に恫喝されなかったならば、あの性悪女のことなど忘れ去っていたかもしれない。
しかしあの時の良子の怪しげな行動と、川上の態度が気になっていたのも事実だ。
きっとあの二人には何らかの関係があると踏んで、川上から聞き出す為、大学近くのいつものカフェに呼び出しを掛けてみた。
30分ほど待ち、やっと現れた川上に鎌をかけながら良子の情報を聞き出そうとしたのだが、
ランチの舌平目のムニエルを食ってからだとか、ピザが冷めると不味くなるだとか、空惚けるばかりでなかなか口を割ろうとしなかった。
食い物がなくなってからもタバコをふかしながらずっと外を眺めているので、いい加減我慢の限界に達した自分は、一気に質問攻めを仕掛けることにした。

「お前ずっと素っ惚けてるけどな、もしかするとあの女の素性を知ってんじゃないのか。」
「詮索好きな奴が大嫌いだってのは、お前の口癖だったよな。」
「得体の知れないあの女の正体が知りたいだけなんだよ。」
「それで、俺の腹の中を探ろうと詮索してた訳だ。」
「世間様に知られたらまずいような関係だって言いたいんだな。」
「随分大袈裟に考えてるんだな。」
「俺の考察した所によると、お前とあの女は明らかに肉体関係で結ばれている。」
「いや、お前らがホテル街に行ったのは一度や二度じゃないはずだ。誰の目から見ても間違いない。」
「あの女がどんなに迷惑だったか知らんだろ。たまたま会ってあそこを歩いていただけなんだ。」
「裁判になってもそれは通用しないな。たまたまあの夜は行かなかっただけなんだろ。」
「神に誓って言うが、あの女とは関係を持った事などない。」
「狼少年は神によって裁かれたんだ。お前と同様にな。」
「それは俺の言う台詞だろ。絶対にお前はあの女を知っている。」
「車買ったから毎日でも楽に通院出来るだろ。」
「ま、期待はしてなかったけどな。お前が白を切り通したのが、何よりの動かぬ証拠になった。」
「お前が悪趣味だってのが分かったよ。あの手のケバい年増が好みだったんだな。」
「江戸時代には二十歳でも年増だったわけだけど、俺はどっちかというとプチ・ロリの傾向があるかも知れんな。」
「そうか、お前みたいなプチ・ブル家庭のブルジョワジーはみんなロリだったのか。」
「いい事思い付いたわ。俺の葵の御紋入り印籠にお前の写真を貼って魔除けにするわ。」
「印籠じゃなくて、お前がいつも自慢してる家紋入りのケータイだろ。それにお前の家紋は葵の御紋じゃないよな。」
「その通りだよ、明智くん。待ち受け画面にお前の写真を貼って、あの女が現れたら、この紋所が目に入らぬかあ??てな。」
「あまりお利口さんとはいえないな、プチ・ブル小林少年。」
「いや、我ながら名案だと思うよ。参ったかね、明智くん。」
「どうせ俺の写真なんか持ってないんだろ。まあ、せいぜい頑張れ、ブルジョア二十面相君。じゃあな、いつもごっそさん。」
「ランチ食ってピザ食ってケーキ食って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あけち君・・・・・・・・・・」



カフェに長居をするとまたクズ子のレーダーに引っ掛かりそうなので、早々に退散しようと考えていたところ、着信音が鳴った。
公衆電話・・・・・・・・・・・・間違いなくあの娘からだ。

「もしもし、駕龍です。」
「もしもし、先日お電話した都築ですが。」
「あ、こんにちは、何か分かりましたか。」
「ええ、その件についてなんですけど、お電話では説明しにくいのではと思いまして。」
「ああ、それではどこかで落ち合いましょうか。今日のご都合は如何ですか。」
「はい、今大学近くの駅前にいるんですが。」
「あっ、そうですか。僕も大学のすぐ近くにいるもんですから、どこかの喫茶店とかどうですか。」
「え〜と、大学のすぐそばに公園があるのご存知ですか。」
「はい、知ってますよ。それじゃあ、そこで待ってますので。」
「これからバスに乗って、30分くらいだと思います。」
「はい、ではお待ちしてますから、急がないでのんびりと来て下さいね。」
「はい、すぐに参りますので・・・・・では失礼します。」
「あ・・・・・・・・・・はい、ども。」

魚は網に掛かった。
こうしてはいられない、ビールを飲み過ぎたので臭いを消してから行かなければ。

駕龍はモカエスプレッソとアイスココアを急いで注文し、一気に飲み干したあと洗面所で顔を洗い、すぐさま車に乗り込んだ。
車で行けば5分と掛からない場所なので、途中薬局に寄ってオーデコロンを買い、体中に振りかけた。
公園に着いた後、屈伸運動をしたり深呼吸をしたりして、近い将来の恋人候補の到着を待ち侘びていた。
そして20分ほどすると、おさげ髪に白いブラウス、少し長めでプリーツの入ったブルーのスカートを身に纏った巫女娘冴子が現れた。

「遅くなってすみません、待ちましたか。」
「僕も5分くらい前に着いたんですよ。わざわざどうもです。」
「いいえ、大事なお話だと思いましたので。」
「それで、何か分かりましたか。」
「ええ、それが大変申し訳ないんですが、わたくしが巫女を勤めていた神社ではお祓いという神事はしていないそうなんです。
知人に聞いたところでは、他の神社は出張をしたりとかしているらしいのですが、そのほとんどが土地のお祓いなのだそうです。
その知人の言うには、駕龍さんのような場合は神社とは全く無関係な霊能者みたいな方が、その様なお仕事をなさっているそうなんです。」
「ああ、そうですか。そう言われてみたらそうかも知れませんね。」
「なんとかお力になれればと思ったのですが、却ってご迷惑をお掛けしてしまったみたいで・・・・・・」
「あ、全然そんなことないんですよ。実を言うと不思議な事にここ数日間、その悪霊は僕の前に現れなくなったんですよ。」
「え〜、それは良かったですね。悪霊は退散したんでしょうか。」
「それが、確か先日冴子さんとお電話で、お祓いについてお願いをした翌日からだったみたいなんです。
きっと冴子さんの持つ清らかな霊力が、魔物を封じ込めたのではないかとしか考え様がないんです。」
「いえ、わたくしはバイトで巫女をしていただけですので、霊力なんて持ってないんですよ。」
「霊力とはオカルト的な霊能力とは全く違うんで、生まれ持ったものの一部だと思うよ。
大人になってからも、冴子さんの様に清らかで心正しく美しい女性には常に宿っている精霊による力だと思うんだ。」
「わたくしは違うんですけど、神様とわたくし達を結ぶ聖霊は存在すると信じているんです。」
「そうだね、神様はいつも冴子さんの事が気掛かりで見守っていてくれてると思うんだ。」
「いいえ、わたくしだけでなく、神様は総ての人々を見守っているんです。」
「うん、僕もその通りだと思う。神なくして僕達は存在できない、だから感謝する気持ちを忘れず、神への忠誠をいつも心に誓って生きている。」
「でも、わたくし・・・・・・・一つだけちょっと違うような気がしまして・・・・・・・・・・・・・」
「えっ、何が、何でもいいから言って欲しいんだけど。」
「神様は人々に忠誠心の要求はなさっていないのです。わたくし達一人一人が神様の御威光の下に跪き、永久に従う事を誓うのだと思うのです。」
「そうだね、僕達みんなが自らの意思で決定しなければいけないよね。」
「あのう、失礼だとは承知しているのですけど、一つだけ駕龍さんにお聞きしたいのですが。」
「ああ、何でも聞いてね。」
「あの、駕龍さんはどちらかの教会とか、団体に属してらっしゃるんですか。」
「いやいや、僕は読書が趣味なもので本から得た知識だけでお話してるんだけど。」
「そうなんですか、少し安心しました。」
「えっ、安心ていうと・・・・・・・・」
「わたくしは文学部なんですが、大学内では様々な学部でカルト教の危険な誘いがあるらしいんです。そういう方ではないと分かって安心したんです。」
「僕はカルト教の誘いには絶対に乗らないので大丈夫なんだけど、あいつらは善人の仮面を被って近づいてくるから、冴子さんも充分に気をつけた方がいいよ。」
「はい、冴子は案外疑り深い方なんで、心配ないんですよ。」
「そうそう、ひとを見たら泥棒と思え、だからね。でもそんな奴ばっかりじゃないから世の中って面白いんだよね。」
「うん、でも冴子はね、ついこの間だけど騙されちゃったんですよ。」
「え、なになに、誰に。」
「ちょっとアンティークな物が欲しかったから、ネットオークションで落札したんですけど、それが全然書いてある事と違ってたの。」
「それって、なに買ったの。」
「冴子はディズニー映画がすごく好きなので、『白雪姫』の『いつか王子様が』の入っているオルゴールを去年から探していたの。でも届いたオルゴールを開けたら違う曲が入っていたの。」
「それは酷いね。実は僕も騙された経験があるんだけど、そこまでは酷くなかったかな。ところで冴子ちゃんは、他にも『ピノキオ』の『星に願いを』とか、『オズの魔法使い』の『虹を越えて』とかあるんだけど、多分それも好きだよね。」
「うん、それも大好きだから探してたんだけど、アンティークでカワイイのだと他になくて騙されちゃったの。」
「古いディズニー映画の主題曲って、ジャズのスタンダードナンバーになってるからよく聴くんだけどね。冴子ちゃんはジャズよりもポップスって感じかな。」
「あ、ジャズって知ってるよ。すごいカワイイ女の人がアメリカで有名だってテレビで観たの。」
「それって、ピアニストじゃないの。」
「うん、そう可愛くてすごくピアノが上手なの。」
「誰だか分かった。女性の大ピアニストっていえば、クラシック界でも同姓の大ピアニストがいるんだけどね。ジャンルは違うけど二人とも日本を代表する最高のピアニストだよね。」
「あっ、駕龍さんてクラシックもお詳しいんですか。」
「どっちかって言うと、ジャズ・ポップスよりクラシックの方が聴く機会が多いかなって感じだよね。」
「じゃあ、もしかすると冴子の買ったオルゴールの曲も知ってるかも。なんかその曲が気になってしょうがないの。」
「どんな感じの曲なの。」
「あのね、クラシックかどうか分からないんだけど、冴子が小さい頃毎週日曜日に行ってた教会で聴いたことあるような、でもとても怖い曲だから開けないようにしてるの。」
「え〜、何だろなあ、聴いてみれば判る筈だけど。そうだ、それさ、小さくて軽かったら実物を持って来てもらえないかな。」
「うん、どうしてもその曲が何だか知りたいの。とても小さいオルゴールだから。」
「じゃあさ、今度いつでもいいから持って来てさ・・・・・・・・そうだな、冴子ちゃんにジャズの生演奏も聴かせて上げたいからさ、
自由が丘にお洒落なジャズクラブがあるんだけど、そこに行ってみようか。勿論、車で迎えに行くから。」
「え〜、ジャズクラブなんて冴子行った事ないから、どんなとこなのかな〜〜。」
「割と大きなホールでピアノトリオの演奏とかが多いんだけど、冴子ちゃんがおねだりすれば『いつか王子様が』なんかも弾いてくれるかもよ。」
「わ〜素敵〜、楽しみだなあ。」
「今日はもう暗くなっちゃったから、お家まで送ってくよ。あっ、そうだ冴子ちゃんさ、ケータイ持ってたら見せてくれるかな。僕の番号とメアドと交換したいから。」
「うん・・・・・・・・・はい、これ。」
「あ、なんだ、僕のケータイと同じ電話会社とメーカーだから、赤外線で簡単に交換出来るよ・・・・・・・・・・・・・・はい、完了。」
「駕龍さんて、ケータイのこと詳しいんだね。」
「パソコンよりは簡単だからね。それじゃ、車あっちにあるから行こうか。」



美しい熱帯魚は水槽の中で泳いでいる。
世田谷のかなり大きな高級マンションに住んでいる事も判った。
しかし冴子のなんという可愛らしさ、なんという可憐で、なんといういじらしい純情無垢な美少女なのだろうか。
冴子の大きな瞳と小さな唇のブラックホールに自分は吸い込まれてしまったみたいだ。その可愛い声と可愛らしい身振りと、はにかんだ表情は純真な天使としか考えられない。

機は熟した・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






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