子供の頃の思い出は古いサイレントように私の心のスクリーンに常に上映されている。 亡き母の面影などが瞼の裏に貼りつきずっと離れない。 不思議とそれの映像には音がなく沈黙の世界だった。 というのも私の子供の頃の思い出は耳の病気との闘いであったからだ。 私の場合、観音性の聴覚障害で内耳から奥の聴覚神経や脳に至る神経回路に異常があるらしい。 しかし将来的に医学が進歩すると、十分に治る可能性はあった。 原因は母が出産数ヶ月前に風疹にかかってしまい、高熱を出したことらしい。 だから両親、特に母は幼いころから耳の聞こえない私に気を使い、優しく見守ってくれていた。 それに両親は私が病気という困難に打ち勝ち、常に明るい子として育ってくれるように「明子」と名づけていた。 今思うと、あの頃の母は私を耳の病気、難聴にしたことを深く反省、後ろめたさがあったのかもしれない。 私の家は都内の江東区の下町で三代に渡って魚屋を経営していた。 父は代々の魚屋を引き継ぎ、チャキチャキの江戸っ子であった。 彼は痩せた顔に頬骨が尖がり、ひしゃげた鼻で口を開くと、反っ歯が剥き出た。 貧相なばかりの醜い男であったが、仕草にどことなく愛嬌があり憎めなかった。 一方母は小顔に結い上げられた烏の濡れ羽色の髪、茎のように抜き出た、うなじの白さ、パッチリとした目元にポッテリとした唇など美貌の持ち主であった。 あの名画「風と共に去りぬ」のヴィヴィアン・リーに引けを取らない美しさである。 近所の人たちは両親の顔を見比べ「美女と野獣」と噂していた。 ちなみに私は父が母に一方的に一目惚れ、何度も告白したのだろうと思っていたが、母の話だと彼女が当時高校野球界で有名だった父に片思い、プロポーズしたということだった。 ただ母の家族は超高級マンション、所謂億ションに住む、人の羨むセレブ一家であった。 そのころ祖父は大手銀行の頭取をしていたから二人の結婚を許す訳がなかった。 そこで若き母は家出同然に実家を出て、両親を亡くしたばかりの父と一緒になったらしい。 だから私も母の両親、つまり祖父と祖母とは今まで数えるほどしか会っていない。 祖父はテラテラとした禿げ頭にでっぷりと肥った風貌で、あまりにも細い目だから笑うと目が皺になっていた。 ただ一度怒気を発すると、その細い目には針のように青白く光っていたことをよく憶えている。 祖母は小顔やパッチリした目元など母に酷似していた。まあ、母子なのだから当たり前のことである。 しかし二人とも黒っぽい服を身に纏い、父や母を激しく面罵、「ケケ・・・」と不気味な笑い方をしていた。 だから私は彼らを本で読んだ悪魔だと勘違い、異常に恐がった。
母は私が五歳の時から手話を教え始めた。 それは決して手を抜くことがない厳しい授業であった。 母は私が聴覚障害だと知った時から専門書を買い、将来必要だと考え、かなり勉強したということだ。 私にとって嬉しいことは父が一緒に手話を習ってくれたことだった。 私は手話の時間が親子でゲームやクイズをやっているような気分になり楽しかったが、物憶えの悪い父は母に叱責され、強張った顔で緊張していた。 ある時、こんな事があった。 母から「会う、あう」と書かれた紙を見せられた時も私は両手の指をくっつける手話を作ったが、父は散々悩んだ挙句、何の形を作ることができない。 と、案の定、母は眉間に皺を作り怒りを露にした。新聞紙を丸めたバットで父の頭を一撃したのだ。 「バン!」 父は体の空気が萎むほどに溜息をつき俯いたが、よっぽど口惜しかったのだろう。顔が変形するほどに奥歯を噛み締めていた。 その頃の私はなぜ、父は叩かれているのだろう。疑問に思いつつもテレビのコントを見ているようで無邪気にヒャヒャと甲高い声で笑った。 母は僅かに微笑みながら右手の親指と人差し指で○を作ると、頭を撫でる手話の動きを してみせた。 (明ちゃんは賢いね) しかし父には恐い顔で睨みつけ、悪辣な言葉を投げかけた。 「父ちゃん、あんたは頭が悪いね。何回教えたら分かるんだい。明子を少し見習ったらどうだい」 「手話って難しいな。俺にはむいてねえ」 「父ちゃん、明子は話できないんだから、あんたには手話を絶対に憶えてもらいますよ。覚悟しとき・・さあ、次の問題を出すよ」 このように母のスパルタ教育により私も出来の悪い父も、どうにか手話を身につけることができた。 とは言え、私は物心ついた頃から全く音のない世界にいた。 音楽、歌、人の声、猫の鳴き声、テレビの音、車のエンジン、人が歩く音、小鳥の囀り・・など私にとって全ての音が皆無、沈黙、サイレントの日常だった。 音という概念がなかったのだ。 だから視覚、臭覚、味覚、触覚で聴覚を補うしかなかった。 手話という会話は私にとってごく自然な方法であり、何の疑問を抱くことなく自然とマスターすることができた。 父や母の口の動きから「あいうえお」などの五十音を理解、内容も少しだけ読めた。 しかし自分の言っている言葉を聞くことができない、むろん普通の人のように発音したり話したりすることは無理であった。
父や母は私の誕生日など、めでたいことがあると絶対に豪華な食事会を開いた。 あれは私の聾唖学校、初等部に入学した七歳の誕生日だったと思う。 両親は例のごとく近所の多くのお友達を呼び、私の誕生日を盛大に祝ってくれた。 もちろん直径三十センチの特大ケーキ、からあげ、ハンバーグ、鯛の刺身など絢爛な食べ物がテーブルの上に所狭しと並んだ。 その大量の食事は近所の子供が十人いや二十人連れてこないと食べきれないほどだ。 私はいつものようにケーキ上の赤、青、黄色などの蝋燭、七本の蝋燭の灯を吹き消した。 またいつもと同じで父、母、友達たちは拍手の後、合唱した。 むろん歌は誕生日の唄である。 「ハッピバースデー明ちゃん、ハッピバースデー明ちゃん・・」 と、私は突然、とても切ない気持ちになった。 心がキューンと締め付けられるほどに哀しくなり一気に泪が溢れ出てきたのだ。 両親、近所の子供たちは困惑の色を顔に疾らせ、歌うことを止めてしまった。 特に父は気が動転、オロオロして落ち着きがない。 母は慌てることなく私の溢れる泪を真っ白のハンカチで拭き取ると、手話で話しかけてきた。 (明ちゃん、どうしたの? ) (お母さんの声、聞きたい。お父さんの声、聞きたい。皆の歌を聞きたい) その時の私は母たちが歌う唄って、どんな曲だろう? そもそも歌って何だろう? 音痴ってどんな意味だろう? と考えていると私は急に哀しくなり泪が込み上げてきたのである。 母は一瞬顔色を変えると、答えに窮した。 そして唐突に立ち上がると、少し潤んだ瞳で私を見つめてきた。 (明ちゃん、今からその耳が聞こえるようにオマジナイをしてあげるから、少しの間、外に出よう) 私は母の包み込むような優しい眼差しに玄関へと導かれた。 不思議と私はまったく恐くなかった。 父も私たちと一緒に外に出ようとしたが、母は険のある視線で睨みつけ、邪険に言い放った。 「父ちゃんは来なくてもいい。私たちの後を着けてきて、覗いても駄目だからね・・わかったかい? 」 父は心臓を鷲摑みされるほどに愕き、顔を強張らせ頷いた。 母と私が出て行った後、彼は近所の子供たちがいるにも関わらず私の一計を案じ、居てもたってもいられなかったようだ。 母が悪い宗教団体に入信、怪しい儀式を行っていると考えたのだろう。耳が治る代わりに老獪な皺や黒い翼を持つ悪魔が、私の魂を抜くことを想像したらしい。 数十分後、私たちがニコニコと楽しそうに笑いながら帰って来た時には、父は胸が潰れるほどの長い安堵の息を吐いたのだ。 私の顔を見るなり、狼狽しきった表情で骨が軋むほどに抱きしめ、母を罵った。 「大丈夫か? 母ちゃんに宗教関係の怪しい所に連れて行かれなかったか? 」 「父ちゃん、あんた、恐い映画の見過ぎだ。あたしァを悪魔の手先みたいにいうんだね」 「だったら、明ちゃんをどこに連れて行ったんだ? 」 「それは言えない」 「なんだと・・」 私は母に向って両手を大きく広げ、丸い円を作った。母も同じように大きな円を両手で作っている。 父はその手話をアングリと口を開け、呆然と見惚れている。 彼は屈辱を吐き捨てるように一人喚き散らした。 「その手話、見たことないな。どういう意味なんだ? 教えてくれ」 「駄目だよ。これはあたしァと明ちゃんだけの手話なんだ」 「いいよ。俺だけ仲間外れかよ。お前な。そんなことしていると、罰が当たるからな」 父には悪いが、私と母は決して人には話すことができない秘密のオマジナイを行っていた。 彼はこの時から事あるごとにイジけるようになってしまった。 それは私が大人になり、耳が完治、オマジナイの意味を教えるまで続くことになったのだ。
私が聾唖学校の中等部に入学、三年生、十五歳になった時、哀しい事件が私たち家族を襲った。 その頃の母はもう五十歳が近く、自慢の烏の濡れ羽色の黒髪には白い物がかなり目立つようになっていた。 少し痩せて目尻の皺は増えたが、うりざね顔のパッチリとした目元やポッテリとした厚い唇など美貌に衰えは見られない。 ただ気になることは、最近、胸の痛みや微熱を訴え、寝込むことが多くなったことだ。 それに折からのマンションブームがこの江東区の下町にも押し寄せ、規模の大きく新しいマンションが次々と建てられていた。 その結果、人口は増加、街も賑わうようになったが、大手スーパーが近所に出来、大半のお客はそちらに取られたのだ。 その影響は商店街の私の魚屋にも出てきた。 昔からの常連さんも含め、お客の数は激減、閑古鳥が鳴くようになった。 だから母も赤字経営の商売に悩みや耳の聞こえぬ私の世話に忙しく、つい病院へも行きそびれていたのである。 ある日の夜、母は父と私を卓袱台の周りに呼び集めた。 話す前から家中に殺伐とした空気が漂っていた。 打明の炎が濡れ羽色の母の髪を背中から縁取っていた。 そしていきなりこんなことを言った。私も母の口の動きを読み、内容を理解することができた。 「二人とも腹をくくって聞いておくれよ。あたしア、乳癌だ。それもかなり進行しているらしい。今度、築地に出来た総合病院の先生が言ったから間違いない。明日からそこに入院、往生するよ。痛いの。辛いのって、少しはじたばたするかもしれないけど、お天道が決めたことだから仕方ないよ。二人とも覚悟するんだよ。いいね」 父や私にとってそれは青天の霹靂だった。 私は泪が出てきて止まらなかった。 決して嘘をつかず愚痴を言わぬ母の最期のわがままであった。 「くそー、かっこばっかりつけやがって・・」と父は口惜しそうに呟いた。 母は夏の終わりに死んだ。 容態が変わった時、私と父は病院へと駆けつけた。 母はあちこちにパイプが繋がれながら私たちに最期の言葉を残した。 その時の母は手話も出来ぬほどに弱っていたが、口の動きが読めるようにゆっくりと話してくれた。というか、もう息も苦しく、ゆっくりにしか話せなかったのだ。 「明ちゃん、お母さん、あなたと会話できなかったことが一番口惜しい。でも、あたしァは明ちゃんの耳が絶対に治るって信じているよ」 と、母はベッド脇の小さなテーブル上、十センチ×二十センチの木製箱を指差した。 「明ちゃん、それはお母さんの玉手箱だ。もし、あなたの耳が聞こえるようになったら開けるんだよ。それまでは絶対に開けてはいけない。いいかい。父ちゃん、明ちゃんのことをお願いしますね。それに商売、止めないでおくれ・・いいね」 「わかった。明ちゃんのことは俺に任せてくれ。商売もどんなに辛くても続けるよ」 最後に母は苦しそうに両手を大きく広げ、丸い円を作った。 それは私にだけにしか理解できない二人だけの手話だった。 結局、母は痛いの一言や弱音を一切言わず微笑みながら往生した。 母の死に顔は本当に美しかった。 その時ばかりは私も父も人目を憚らず、おいおいと声をあげ、泪の枯れるまで泣いてしまった。 母の葬儀は実家の魚屋で近所の人を集め、しめやかに行われた。 祭壇の遺影には父の希望で二十代の頃の母の写真が使われた。 遺影の母は髪をかたぎの耳隠しに結い掛け値なしに美しい。 それは近所の人たちが線香をあげに来て、遺影の母に見惚れるほどであった。 その中には、やはり黒っぽい服に身を包んだ老夫婦の姿があった。 母の両親、つまり私が悪魔の夫婦と呼ぶ祖父と祖母だ。 祖母は娘の死んだ哀しさから風のように喉を嗄らし泣き、祖父も声を殺して泣いていた。 と、祖父は母が亡くなったことで父を叱責すると思いきや、テラテラと光った禿げ頭を恥ずかしそうに何度も何度も照れて触りながら、父や私に頭を下げ謝罪してきたのだ。 それは耳を疑いたくなりそうな意外な言葉であった。 「娘をもらってくれて、ありがとう。娘は死ぬ前に何度も言ってたよ。あなたと結婚してよかったと・・それに娘は私たちに遺言を言い残しているんだよ。それは絶対に明ちゃんの耳が治る時が来るから、その時は家族一致団結して援助してくれって・・もちろん私たちもその言葉を守り、援助するつもりだ。本当に申し訳なかった」 私と父は悲嘆にくれることも驚嘆することもなく、ただただ呆然と立ち尽くしていた。 開いた口が塞がらないとはこのことである。 もっと愕いたことは祖父の横の祖母が手話で祖父の言葉を伝えてくれた。 祖母は知らぬ間に手話を勉強、やっとそれを私へ、孫へ披露する日が来たということだ。 しかし私は母が死んだ後にしか、分かり合えないなんて、なんて可哀想で憐れな祖父と祖母なんだろうと思っていた。
それから五年の月日が過ぎ、私は二十歳になっていた。 私は聾唖学校の中等部へ無事に卒業、魚屋の仕事を手伝っていた。 その頃の魚屋は一時期の酷い状況を抜け出し、お客も少しづつ戻り、苦しいながらも黒字を生み出すまでに復活していた。 それは母との約束を守った父の執念と努力の成果だと言えるだろう。 そんな春のある日、奇跡の電話がかかってきた。 私が前に通っていた大学病院の耳鼻咽喉科からで、私の耳が治るかもしれないと連絡が入ったのだ。 精密検査を行うため私は父に連れられ大学病院を訪問した。 病院内には天井に着かんばかりの筋肉質の大男が私たちを待っていた。 細い鼻梁で眉毛が濃く一本に繋がり、クリクリとした大きな瞳が印象的な若い医師である。 彼はアメリカ、シカゴ大学から帰ってきたばかりらしく、熊のような毛むくじゃらの手で器用に絵を描き、私の病気や手術方法について説明した。 「明子さんの場合、人口内耳という方法で聞こえるようになると思いますよ」 医者の説明はこうだった。 内耳の中に電極を挿入して、補聴システムで捉えた音声信号を電気信号に変えて、その電極から聴覚神経へ直接伝えるのが人口内耳だということだ。 ただ電極の数には制限があり、また残存聴覚神経にも個人差があるため電子回路で一人一人に合わせた信号補正を行うらしい。 「人口内耳の手術後にも聞き取り難いため訓練が必要になります。いいですか? 」 「はい・・俺たち、今まで待っていたんです。ぜひお願いしますよ」 医者は、筋肉質な大きな肩を軋ませ、父から目を背け、声を吐き出した。 「それに・・今まで日本では例のない手術ですから随分と費用がかかります。もちろん保険も利きません」 「お金だったら、いくらかかってもいいです。準備できます。今まで待っていたんですから、ぜひ手術をやってください」 父は真っ赤に血走った目で切実に懇願してきた。 聡明な医者は、父の言葉にせき立てられたように顔をほころばせ頷いた。 私の手術が行われたのはその検査から数週間後のことだった。 その日は絵具を撒いたように初夏の青空が病室から覗き、父や母の両親つまり祖父と祖母が見舞っていた。 父、祖父、祖母は違う種類の神社のお札三つを私へ強引に渡した。それぞれ安産、合格祈願、病気回復の神様である。 「神様はいっぱいいた方が手術も成功するって・・それに母ちゃんが守ってくれてるから大丈夫。手術は絶対に成功するよ」 私は仲良くなった三人に見送られながら歩いて手術室へと向った。 彼らが窓に広がる青空のように一点の曇りもない笑顔を浮かべていたことが私にとって一番に心強く勇気付けられたことだったかもしれない。 日本ではあまり例のない手術であるため時間はかかったが、無事に終了、大成功した。 それは死んだ母や父たちの応援や願いが通じたからだろうと私はその時、思っていた。 それから一年余り私は厳しいリハビリを受けていた。 そのお陰で私の耳はほぼ完治、ようやく聞こえるようになったのだ。 私が生まれて初めて聞いた音は「明ちゃん、聞こえるか? 」という父の声であった。 それは酷い濁声だった。 しかし父の個性的な顔貌から十分に想像することができたため、それほどは愕きではなかった。 その後の私は音楽を、歌を、猫の鳴き声を、小鳥の囀りを、車のエンジン音を・・全ての音を耳にした。 それこそ子供の頃に戻ったかのように音への初体験を楽しんでいだ。 沈黙の世界にいた私は、音に溢れた世界に瞠目、初めは戸惑っていた。 そして私は生前母から渡された玉手箱を開けた。 中には数本の古いカセットテープが入っていた。 それらのテープにはそれぞれ「明子が誕生した日」「七歳の誕生日と聾唖学校初等部入学」「聾唖学校初等部卒業」「最後のテープ」と書かれている。 私はその中の一本「明子が誕生した日」というテープを旧型のラジオカセットに入れ聞いてみた。 と、母のカンと冴えた若い声が聞こえてきた。 「今日、無事に女の子を出産しました。父ちゃんと話し合って、どんな困難も乗り越え、いつも明るい子でいるようにあなたを明子と名づけます。でもお医者さんの話だと耳に傷害があるということで、かなりのショックを受けてます。だけどクヨクヨしても始まりません。あたしァ考えました。いつか明子の耳が治り聞こえるようになるまで自分の声をテープに入れ続けます。何か、めでたい事や辛い事がある度にテープに自分の声を入れていくようにします」 私は若々しい母の声を聞き、若き頃の母の顔が記憶のアルバムを捲るように蘇ってきた。 「七歳の誕生日と聾唖学校初等部入学」には母の声で誕生日の歌が入っていた。 透明感のある美しい声である。 また「聾唖学校初等部卒業」には蛍の光の曲が流れる中、母の祝福の言葉が入っていた。 「最後のテープ」には病院で死ぬ間際の母の声が耳を優しく包み込んだ。 その声は前のテープとは違い、衰えきった年寄りの嗄れた声である。 また呼吸も荒く苦しそうなため声が小さく聞き取り難い。 「明ちゃん、おめでとう。これが聞けるということは耳が治ったんだね。よかった。でも、正直言って、あたしァ、今、体が痛くて痛くて、とても辛いです。最期はじたばたしないで往生するって言ったけど、毎日、激痛に襲われキツいです。ごめん。弱音吐いて・・情けないね。あつしァ、一度でいいから明ちゃんと話したかったよ。でももうその夢も叶わないね。明ちゃん、父ちゃんのこと、お願いだよ。あの人、何にもできないから面倒を見てやって・・。それに、父ちゃんが生きている間に花嫁姿を見せてやっておくれよ。あの人、悦ぶから・・ そうだ。父ちゃんに秘密のオマジナイの場所へ連れて行って、手話の意味も教えておくれ。父ちゃん、ずっと気にしてるから頼んだよ。 じゃあ、明ちゃん、さようなら・・・・幸せにね」 私は記憶と欠片を拾い集め、母が亡くなった日のことを思い出していた。 あの日、母は病気のため萎えしぼみ小さく痩せ細っていた。 目の下には紫色に変色したクマができていた。 私は溢れる泪を抑え、切実な声で亡き母へ感謝の言葉を呟いた。 「お母さん、辛かったね。ありがとう」 それからの私は春のある日、母との約束を守り父をオマジナイの場所へと連れて行った。 まだ春先の冷たい風が父や私の顔を舐めていたが、絹を張ったような鮮やかな青空が広がり爽やかな日であった。 そこは近所の空き地であった。私はその隅に立っている一本の桜の木を指差した。 高さ三メートルくらいの成長した木で満開の花をつけていた。 薄ピンクの花は風によって少し散っているが、とても美しい。 私は満開の桜の木に目を瞠るほどに愕いた。 「うわー、満開になってる。お父さん、オマジナイってあの木のことなの」 「桜の木じゃないか? 」 「うん、あの日、お母さん、桜の木の苗を買ってきて、願掛けの木だと言って二人で植えたのよ」 「願掛けの木? 」 「お母さん、これが大きくなって花を咲かすと、願いが叶うって言ってた」 「だったら、どうして俺には教えないんだ? 」 「お母さん、願掛けは人に話すと効果を失うとも言ってたな。だから話さなかったと思うよ」 「そうか。じゃあ、あの手話はこの桜の木が花をつけ満開になったことをさしていたんだな」 「うん、そうよ」 風に揺られながらも満開の桜は枝から離れることなく逞しく咲きほこっている。 「明ちゃんの目が治ったことを祝福しているように綺麗だな」 「うん、去年までは花をつけてなかったの」 「母ちゃんと明ちゃんの願掛けが通じたってことだな」 「うん、私の目を治したのはこの木なのかもしれないわね」 二人はいつまでも満開の桜の木を見上げ、亡くなった母のことを思い出していた。 私は母が桜の木になって、父と私を見守っているんだと思っていた。
了
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