年の瀬も深まったクリスマス・イブの日にその銀行強盗事件は起こった。 これは間抜けだが、心優しい銀行強盗犯の物語である。 この時期、毎年のように寒波が接近、街行く人たちに身を切るような寒さが容赦なく襲い掛かっていた。 しかし今年はその強烈な寒波にくわえ、不景気、リストラの嵐が吹き荒れ、街はホームレスで溢れかえっていた。 もちろん世間は忘年会シーズンだが、不景気は彼らの財布を直撃していた。 クリスマスで賑わう街中の通行人も例年に比べ減少、ほろ酔い気分の中年男性の姿こそあるが、生酔いで心の底から酒を美味しく味わっているようには見えない。 気のせいだろうか? 夜の街並みに溢れるクリスマスイルミネーションの数もいつもより少ないように感じる。 人々の心に火を灯し楽しい気分にさせてくれるイルミネーションが、今年は真っ暗な闇に空しく溶け込んでいる。 そんなただでさえ忙しく冷え込んだ年末の真昼間、ある大手銀行支店に一人の男が強盗に入ったのだ。 彼は目と口だけの開いた覆面を被り、拳銃と黒く大きい肩掛けバックを持ち、銀行へ疾りこんで来た。 しかし大胆な行動を取った割にはオドオドして落ち着きがない。 その時、銀行内には百人以上の銀行員とお客がいた。 「バーン!」 犯人は天井に向け両手の銃弾を放った。 だが両手の人差し指で引き金を引き、腰が引けている。 おまけに撃ち終わった後、両耳を押さえ、明らかに拳銃には慣れてない。 お客や銀行員たちは悲鳴をあげ、驚愕の色を顔に疾らせ、逃げ惑う。 数人の警備員もあまりの突然なことに何もできず佇むだけだ。 「に・・逃げると殺します。全員、真ん中に集まって床に坐ってください。もちろん手はあげたままですよ」 お客や銀行員たちは拳銃を向けられ、銀行内の中央に集められるが、数人の人質は犯人の目を盗み外に逃げ出してしまう。犯人は逃げ出す人質の後姿を鋭い視線で捉えた。 「まあ、一人や二人の人質は仕方ないですね」 いくら広いフロアーとは言え、百人以上の人質が集まり、満員電車のように折り重なり坐っているため足の踏み場もない。 犯人はカウンターに黒い空のバックを置き、人質の一人の女子銀行員に金を詰め込むよう強盗犯とは思えぬ物腰の低い態度で頼んできた。 「早く、このバックいっぱいに金を入れてください」 「わ・・わかりました」 「時間ないんです。お願いします」 まだ二十歳そこそこの狐のように目の吊りあがった唇の厚い女だ。 淡い薄化粧の下に若々しい健康的な血がみなぎっている。 顔の強張った女銀行員は、恐怖で手を慄わせながら奥の金庫室へと向った。 女は金庫室で慌てて金をバックに札束を詰め込むと、金庫室のドアを閉め出て来る。 その間、犯人は多くの人質たちが逃げ出さないよう拳銃を向け見張っている。 女銀行員はパンパンに膨らんだ黒いバックを持って戻って来る。いや持って来るという黒いバックを重そうにズルズルと引きずっている。 犯人は早速、バックのチャックを開け、中を覗きこんだ。 百万づつ束にされた万札が、隙間のないくらいに詰め込まれている。少なくとも一億はありそうだ。 犯人は満足げな笑みをもらし、黒いバックを重そうに肩に担ぎ、銀行を出ようとした。 と、彼は記憶の底に眠っていた悪い考えが浮かんできたようで「うん」と唸り、突然立ち止まった。 そしてバックを開け、百万円の札束を一つ摑み上げた。 なんと一番上はコピーされた一万円札で中は白紙である。 犯人は怒りの色を顔に疾らせ、床に偽せの札束を投げ捨てると、馬鹿丁寧な言葉で喚いた。 床には一万円札大の白紙が一斉に飛び散る。 「やっぱり。危なかったです。思わず騙されるとこでした」 犯人は拳銃をその女子銀行員のこめかみに押し付けた。 もちろん人差し指は引き金にかかっているが、拳銃は激しく慄えている。 「舐めたことやってくれますね。覚悟はできてますよね」 「ち・・違うの。これは支店長の命令なの」 銀行内には、殺伐とした空気が漂った。狐目の女子銀行員は緊張からゴクリと生唾を呑み込んだ。 次の瞬間、外から、けたたましい中年男の濁声が轟いてきた。 「犯人に告ぐ。お前は完全に包囲されている。無駄な抵抗をやめ、諦めてすぐに出てこい」 銀行内に流れていた緊張が、一瞬緩んだ。 拳銃を突きつけられていた女子銀行員は体の空気が萎むほどに安堵の長い溜息をついた。 犯人は銀行外のただならぬ喧騒に気づき、窓から外の様子を窺う。 と、いつの間にか、数え切れない数のパトカーや刑事、制服警官、機動隊員に取り囲まれていたのだ。 また老若男女、数多くの野次馬にテレビカメラやスチールカメラ、マイクを持った女性アナウンサーなどのマスコミ関係者のスタッフの姿もある。 その中央には老獪な皺に覆われた老刑事が、拡声マイクを持ち、銀行に向って叫んでいた。鳥打帽にヨレヨレの薄汚れたコートを着た初老の男だ。 犯人は素っ頓狂な声をあげ、思わず被っていた覆面を取ってしまう。 「嘘でしょう。もう囲まれたんですか・・」 犯人は三十歳過ぎの痩せた顔に傲慢な鷲鼻、尖がった頬骨、出っ歯などと・・獣のように醜い男だ。 また口を開けると、歯ぐきが剥きだしになっている。 人相学的に言っても間違いなく凶相だ。 彼の銀行強盗をしなければならない不幸な人生は、この醜悪な顔が原因だとしても言い過ぎではないだろう。 人質たちの怯えた視線が醜い男の犯人を捉えている。 彼らのほとんどは未知との遭遇、初めて宇宙人を見たかのように、アングリと口を開け見惚れている。 中には馬鹿にしたような嘲た笑いを口元に浮かべる人もいる。 男は激しく狼狽、オドオドした眼差しで人質たちをまともに見ることもできない。 「皆、醜いからってジロジロ見ないでください。人の笑い者になるのはもう嫌です」 この男、子供の頃から醜悪な顔貌から野獣や妖怪もように扱われてきたのだろう。明らかに被害妄想に陥っている。 それから制服の銀行員たちへ恨みの篭った視線をぶつけると、珍しく言葉を荒げた。 その内容に人質たちは驚愕、耳に疑った。 「警察に連絡したのは、あなたたちですね。偽札、渡そうとしたり、油断も透きもあったもんじゃないです。銀行員は全員解放します。すぐに外に出てってください」 女二十人、男十人、総勢三十人の銀行員は愕きと喜びに顔を歪め、複雑な表情を浮かべる。 銀行内には喧しい、ざわめきが響いた。 その銀行員の中、五十歳過ぎの小柄な男が一歩前に出てくる。 心なしか小肥りの体は怠惰な初老に見え、薄い頭髪も貧祖な限りだ。 彼は突然、跪くと、床に頭を擦りつけ土下座した。 「私はここの店長です。お願いです。お客様残して私たちが先に出る訳には行きません。だから私が残りますからお客様を全員解放してください」 しかし醜い男は険ある目つきで睨みつけると、返って猜疑心をかりたてたようで怒りを露にした。 「僕にはあなたがたが信じられません」 と、大勢の人質の中から風のように嗄れた声が聞こえてきた。 「金庫は開けさせた方がいいぞ」 犯人は人質たちを振り返り睨みつけると、唇の端を吊り上げ、頷きながら笑った。 「うーん、それもそうですね。金庫が閉まっていると金、盗めませんからね。誰か知らないけど、ありがとう。支店長、あなたは残らなくていいから、金庫の鍵を開けてください」 「お客様は解放してくれますか? 」 「はい、もちろん、徐々に解放していきますよ」 頭髪の薄い支店長は、ゆっくりと立ち上がり、肥った体を苦しそうに揺すりながら銀色の金庫室へと向った。 そしてポケットから鍵を出し、金庫室のドアの鍵を開けた。 犯人は金庫室のドア越しに所狭しと詰まれている札束を遠めに見て、目が釘付けとなる。 「すごい」 と、醜い顔の犯人は呟きながら、拳銃の引き金を両手の人差し指引いた。 恐怖でへっぴり腰のうえ亀のように首を縮めている。 「さあ、銀行員は全員、出ていけ」 「バーン」 鼓膜が破れるほどの激しい拳銃音が銀行内外に木魂した。 銀行外にはまた悲鳴が聞こえ、ピーンと張った緊張感が漂っていた。 制服警官や刑事たちは全ての動きが止まり、銀行に飛び込めるよう身構えた。 と、拳銃音にせきたてられるように銀行員たちが銀行から疾って飛び出して来る。 あの小肥りの支店長も他の銀行員に抱えられるように小走りで出てくる。 刑事たちは解放された銀行員たちを見て、「ふー」と胸が潰れるほどの長い溜息をついた。 しかし老刑事は、眉間に皺を作り、飛び出して来る銀行員たちへ怪訝な視線をぶつけ唸った。 「嘘だろう。銀行員から解放するなんて、犯人、何考えてんだ」 一方、銀行内では犯人が、切れ長の目に鉤鼻の端整な顔立ちの若者に黒いバックを投げ渡した。 そして屈辱を吐き捨てるように命令している。 「あなた、金庫の金、これに詰めて来て下さい」 「えツ、俺が・・」 「さあ、急いで」 「チェ、なんで俺なんだよ」 長髪の若者は不満げに唇を尖がらせ、バックを持って金庫へと向かうと、金を詰め込みすぐに戻ってきた。 若い男は札束の詰まったバックを慇懃な態度で投げて渡す。 「ほれ、おじさん、詰めてきたぜ」 「ありがとう。それで、いくらぐらいある?」 「わかんないけど、一億ぐらいあるんじゃないのか・・」 醜い男は取り逃がした獲物を呪うような視線で若い男のズボン、後ろポケットの札束を見逃さなかった。 そこには金庫から、くすねてきた金、百万が突っ込まれていたのだ。 犯人はヘラヘラとふてぶてしい笑みを貼り付けている。 「あなた、ポケットの金、バックに入れてください。他に隠してないでしょうね」 「ケチだな。ちょっとぐらい、いいだろう」 「駄目です。不正はいけません」 「よく言うぜ。銀行強盗の癖に・・」 若者はそう言うと「チェ」と舌打ち、口惜しそうにポケットや胸元に隠していた数百万をバックに突っ込んだ。
その時、人質の中、巨体に巨顔の男が、犯人の動きをじっと目で追っている。 三十歳ぐらいで眉毛が一本に繋がるほどに濃く、腕などは毛むくじゃらの男だ。 と、彼は唐突に立ち上がると、「ウォー」と絶叫、犯人に突っ込み、胸倉を摑み、引き倒してしまう。 しかし犯人は仰向けに勢いよく倒れたが、拳銃はしっかりと握り締め、咄嗟に銃口を大男に向けた。 彼はアクション映画のポスターのように動きを一瞬止めた。 顔面を硬直、脂汗が滴り落ち、ゴクリと喉を鳴らした。 「もう少しで拳銃を奪われるとこでした。あなた、いい度胸してますね。仕事は何です? 」 「教師だ」と大男は突慳貪に言い放った。 「教師か・・だから正義感が強いんですね。僕は電車の中、刑事に間違えられたことがあります。だから警察組織は大嫌いです。公務員が大嫌いです。ここにいる連中で公務員はいますか? 手をあげてください」 様々な年齢の十人ほどの男女が手をあげている。 「そんなに公務員がいるのですか。昼間からこんなとこで仕事、サボって何やってるんです。全くもっと真面目にやってください。解放です。ここから出て行ってください」 公務員たちは意外な犯人の言葉に顔をほころばせ出入り口へと急いだ。 各々、手にはバックなどの荷物を持っている。むろんその中にはあの大男の姿もある。
銀行内にはまだ六十人のほどの人質が声を殺しながら坐り、解放の時を待っている。 そのうち、犯人は顔を真っ赤にして硬直、こかんを押さえ、様子がおかしい。 「やばい、こんな時に小便がもれそうです」 犯人はトイレへ疾ろうとしたが、人質たちが全員逃げ出すと思ったのだろう。 銀行隅の観葉植物の植木へと小走りに向かい、恥ずかしそうに立小便を始めた。 目で犯人を追っていた人質たちは呆れた笑いをもらしている。 「トイレか」 むろん右手には拳銃が相変わらず握られている。 すると、彼の後方で疾走する靴音が轟いた。 先ほどの長髪の若者が突然、外に逃げ出したのだ。 眩しいほどに手足が長いので、疾るスピードもかなり速い。 犯人が用を済ませながら振り返った時には若者の姿は消えていたのだ。 小便を終え、戻ってきた犯人は、口惜しそうに奥歯を噛み締め、また予想外なことを口走った。 「昔から僕は運動音痴なんで、スポーツの得意な人が苦手でした。だからスポーツ選手がいつ逃げ出すか? 気になってオチオチ見張りもできません。おなたたちの中でスポーツ選手や運動神経のいい奴、いや若い連中は皆、前に出て来てください」 天をつくような背の高い男や体重百キロ以上の巨体を揺らしている若い男それに筋肉や豊満な乳房を軋ませ歩く浅黒い顔の女などスポーツ選手や若い男女、十数人が前に進み出てくる。 犯人は彼らを見ると、ふんと鼻で笑い頷いた。 「バレーボールの選手に相撲取り、水泳の選手ですか? 一目でどんなスポーツか、わかりますね。全員解放です。すぐに出て行ってください」 顔を満面な笑みを刻み込むと、さすがスポーツ選手だけあって、皆、全速力で銀行を出て行ってしまう。
と、顔に深い老獪な皺を刻み込んだ老人が急に咳き込むと、いきなり苦しげに喉を鳴らし、のけぞり感じで尻から崩れた。 犯人はその老人の姿を目にして、敏捷な動きで老人に近づき、背中をさすってあげる。 そして労わりの言葉を犯人に伝えた。 「可哀想に長時間坐っていたから疲れたんでしょう。しかしこうやって背中をさすっていると、故郷の母親を思い出します」 目頭を熱くした彼の視線は、残った人質たちの中に多数の老人や幼子から小学生の子供たちをの姿を捉えた。 「おじいさん、おばあさん、それに子供たち、今日は悪かったです。もっと早く解放してやれば良かったですね。ゴメンなさい。さあ解放です。もちろん子供たちの母親も一緒に出て行ってください。皆、怪我しないようにゆっくりと出口に向ってくださいよ」 十人ほどの老人たちはしっかりとした足取りで出口へと向っているが、子供たちは激しい戦慄に襲われていたのだろう。一斉に泣きじゃくり、残った力で母親と一緒に出口へ疾り出した。 犯人は哀愁を感じる老人の背中を見て、記憶と握手、老いた母親の姿を思い出していた。 目の前の老人たちと同じで腰の曲がった後姿であった。 一瞬、心が萎えたようだ。 「母さん、元気かな? 随分会ってないよな。前会った時はあんな感じで腰曲がってたな。僕が銀行強盗したと知ったらショックだろう。人様には迷惑かけるなって口癖だったからな。でも会社はリストラになるし、女房には逃げられたから仕方なかったんだよ・・」と犯人は一人ごちた。
それから暫くして、冬至だと言う事もあり、午後五時前には真っ黒に塗りつぶされた闇に包まれている。 銀行内には二十数人の人質が残り、照明の焚かれた銀行外には不気味な夜気が流れた。 人質の中、フッフッフッ・・と中年男の不敵な笑い声が犯人の耳に刺さった。 彼が振り返ると、顔の額にムカデのような傷のある中年男がペコリと頭を下げた。 隆々たる筋肉の肩を怒らせ、絶壁上の後頭部には熊手のような傷が刻まれている。 銀色の派手で下品なブレザーを身に付け百戦錬磨のヤクザである。 「若いの。いつまで待たせるんだ。俺は××組の幹部の者だが、解放してくれたら、それなりのお礼をするぞ」 「お礼はいらないです。金はいっぱいあります。お望み通り解放しましょう。あなたを見ていると、血も泪もない借金取りを思い出しますから・・」 犯人は人質たちの前に立ち、貧相なばかりに肥えている中年男を睨みつけた。 「そこの親父たちも解放です。あなたたちも家に帰れば、ブサイクな女房と出来の悪い子供がいるんでしょう。家族を大事にしてください」 七人の中年男たちが気だるそうに立ち上がり、重い足取りで出口へと向った。 異常なほどの脂汗をかき、今にも饐えた加齢臭のしてくる中年男ばかりだ。
十三人に減った人質は、犯人が拳銃を持っている割りには不思議と悲壮感がない。 三十歳以上の女たちがペチャクチャと喋り出し、煩いほどだ。 「私たち、いつ解放されるのかしら? 」 「もうすぐじゃない」 「でも、あの犯人ってブ男よね」 「女房が逃げ出す気持ち、十分にわかるわ」 「そうね。それに死神が背中に張り付いているようで運も悪そうよ」 女たちは冗談めかしくケラケラと笑った。 犯人はその会話を聞き、よっぽど癇に障ったのだろう。みるみるうちに顔色が変わり、怒鳴り声をあげた。その言葉には間違いなく険があった。 「ブ男で悪かったですね。そこの女ども出て行ってください。あなたたちはピーチクパーチク悪口を言うわりには泣いたり喚いたり面倒臭いです。女には失恋ばかりして良い思い出は一つもありません」 女たちは喜ぶどころか、まだ喋り足りないという好奇に満ちた顔つきで犯人の顔を見据えている。 しかし犯人が「続きは外で話してください。さあ行って・・」と高圧的に叫んだ瞬間、彼女たちは、わざとらしく「キャー」と黄色い悲鳴をあげながら出口へと疾り出した。
気がつくと、三十歳くらいの怠惰な男性人質二人と犯人の三人だけになっている。 頭髪が薄い小肥りの男と痩せた長髪の男の二人だ。 痩せた男は長い前髪と深めに被った野球帽で顔貌がよくわからない。 ただその痩せた男は空の黄色い肩掛けバックを持っている。 と、犯人はニヤリと口元に怪しい笑みをもらし、邪険に言い放った。 「おなたたち、ジャンケンしてください」 男二人はキョトンとした目をしばたたせ犯人を見つめた。 まさに開いた口が塞がらないとはこのことである。 「早くジャンケン、やるんですよ」 人質二人は犯人の金切り声にせきたてられるように「ジャンケンポン」と言ってジャンケンした。 小肥りの男はチョキを、痩せた男はグーを出した。つまり痩せた男の勝ちである。 すると、犯人は小肥りの男を指差し、唐突にお道けた声をあげた。 「おなた、負けたから解放です。外に出て行ってください。僕も運が悪いのに、運が悪い奴と一緒にいると、もっと悪いことが起こります」 小肥りの男は嬉しいやら悲しいやら複雑な表情で顔を曇らせ、銀行を後にした。 外の刑事たちは小肥りの男の解放により人質が一人だと考え、重苦しい緊張が疾った。 あの老刑事も目の色を変え、ゴクリと生唾を呑み込み、他の刑事たちを叱咤激励した。 「突入する準備をするんだ。最後の人質が解放される時も近いぞ」 他の刑事たちも喉を鳴らし、殺伐とした重い空気が流れた。 待つこと数分、銀行内の明かりが消えた・・。 と、あの痩せた男が黄色いバックを肩から提げ出てきたのだ。しかし何かが違う。 先ほど空だった黄色いバックがパンパンに膨らんでいる。 老刑事の焦った声が夜気を慄わせた。 その痩せた男は野球帽を深めに被り、顔が見えないが、風のように嗄れた声でどこかで聞いたことがある・・。 「犯人は?」 「中に一人いるよ」 「よーし、皆、突っ込むぞ」 老刑事たちが銀行内に突入した時、暗闇の中、「痛い、助けてくれ」という男の絶叫が響いていた。 刑事たちの懐中電灯の光の中、老刑事は目を凝らし、見つめた。 すると、そこには醜い男の犯人が血まみれで倒れていた。 足を負傷しているらしく、床を蛇のように這った血が舐めている。 早速、明かりが点けられたが、拳銃は遠くに無造作に落ちていた。 一体、何があったんだろう? 老刑事の頭は一瞬、真っ白になった。 実を言うと、犯人と二人になった痩せた男は豹変したらしい。 ポケットから出したサバイバルナイフで突然、犯人の右太股を刺すと、彼は犯人の拳銃を遠くに投げ捨てていた。 むろん犯人はその場に倒れ込んだ。 痩せた男は犯人の黒いバックから黄色いバックに一億ほどの札束を詰め替え、最後に犯人へこう告げ立ち去ったという。 「お前が悪いんだよ。だって銀行強盗に来た奴、出て来いって言わなったから、俺、最後まで残ったんだぜ」 結局、老刑事たちは痩せた男を見つけることはできなかった。 犯人、人質たち、刑事たち二百人以上が目撃したにも関わらず、深めに被った野球帽のため誰一人彼の顔を全く憶えてなかったのだ。 老刑事は口惜しそうに唇を噛み締め、獣のように唸った。 「しまった。やられたぜ」 救急車に運び込まれた醜い顔の犯人は記憶の欠片をかけ集め、あることを思い出していた。 あの痩せた男の声は支店長へ金庫を開けるよう犯人へ指示した人質の一人と・・・。 「あの人、最初から僕の盗んだ金、横取りするつもりだったんですね・・」と犯人は呟いた。 了
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