悪い記憶は淘汰されていくものだが、不思議といい記憶だけは闇の中に葬り去ることはできない。 いつまでも心に残っているものである。 それは十年ほど前、秋も深まった師走の新宿で日曜日に起こった事件だった。 街中にはイチョウの葉が木枯しによって舞い落ち、黄金の絨毯ができていた。 道行く人たちは身を切るような寒風の中、かじかんだ手に息を吹きかけ、厚手のコートを身に纏い前屈みになって歩いていた。 この時期、関東地方は冬特有の高気圧に覆われ、澄み渡った青空が広がっていた。 その代わり気温は低く、朝方は零度を下回ることが多々あった。 それにこの街は夜ともなれば、クリスマスも近いこともありイルミネーションによる光の洪水に溢れ返っていた。 俺はこの賑わった街中、トイレで次々と変装を繰り返す七変化の男を目撃したのだ。 大学生だった俺は、学校の後輩で恋人の涼子と映画に行くため新宿駅の西口改札で待ち合わせしていた。 映画研究会の俺たちは、どちらかというと新作映画には興味がなくヌーヴェルヴァーグと呼ばれた時期のフランス映画をよく観に行った。 ちなみに涼子はショートカットの髪型で大きな潤んだ瞳に細く形の良い鼻染など端整な顔立ちで、あの名画「勝手にしやがれ」の女優、ジーン・セバークに似ていた。 それこそ映画女優顔負けの美しさであった。ようするに目が潰れるほどのベッピンさんだ。 だから俺はその頃、彼女と交際していたのだ。 あの日、二人の目的の映画は確かゴダール監督の「勝手にしやがれ」だった・・。 しかし駅で涼子と会った時、俺は突然、腹が痛くなり駅のトイレへと急いだ。 昨夜のコンパで呑み過ぎたことを後悔、朝からムカムカして吐き気もあり間違いなく二日酔いだと疾りながら思っていた・・。 駅トイレは大便部屋が三つ並んでいた。 その中、一番奥の大便部屋が開いていると思い、俺は小走りに向った。 その時、後方から「ちょっと待って・・」と男の喚き声が響いてきた。 俺が振り返ると、ボサボサ頭で鉤鼻の猛々しい中年男が疾って来る。 激しい疾走の影響で苦しそうに口を開けているため、出っ歯の反っ歯が歯ぐきまで剥き出しになっている。 実に醜悪な顔である。 また焦りの色を浮かべ目は真っ赤に血走っている。 ヨレヨレの薄汚れた白いコートを着て、パンパンに膨らんだ皮製の黒色鞄を持っている。 次の瞬間、男は俺を突き飛ばし、大便部屋へと入って行く。 「ごめんなさい。理由は言えないけど、どうしてもこの便所に急いで入らないといけないんです。わかってください」 黒い怒りが塊となり喉元に突き上げてきた。 俺はドアを激しく叩き、怒号を発した。 「わかんねえよ。順番守れよな。俺が先だろう。畜生、今にも漏れそうだよ」 しかし中からは何の返答もない。 それどころか、バタンドタンと凄まじい音が響き、気の動転した男の独り言が聞こえてくる。 「駄目だ。時間がない。間に合わない」 明らかにこの男、大便はやってない。だったら、一体何をやってるんだろう? と俺は考えドアに耳をつけ 中の様子を窺った。 その時、突然、ドアが開き、俺はゴツンとドアに頭をぶつけた。 「痛―っ」と大袈裟に声を上げ、目の前に立つ中年男の姿を見て瞠目した。 そこには白髪に白い髭、黒縁眼鏡をかけた老人が立っていた。 彼は上下麻の白いスーツに白い靴を身につけ、やはり異様に膨れた皮製の鞄を持っている。 見た目も貧相な中年男は、なぜか老人に変装していたのだ。 と、老人に変装した中年男は、息つく暇もなく猛ダッシュ、トイレの外へと疾り出した。 右手には携帯電話が握り締められ、耳にあてている。 俺が慌てて大便部屋に入ると、ヨレヨレのコートやシャツ、下着、革靴など中年男の服が脱ぎ捨てられ、からっぽの黒い鞄が落ちていた。 「ったく、あいつ、脱ぎっぱなしかよ。だらしないな」 それより俺は糞が漏れそうなため、足をバタバタさせズボンを脱ぎながら、ドアを閉めようとした。 すると、今度は数人の男が大便部屋に飛び込んで来た。 「今度は何だよ? 」 二十歳代から五十歳代の男三人が、黒っぽいスーツに身を包んでいる。 彼らはかなりの距離を疾って来たらしく、疲労の色を顔に刻み汗ビッショリである。 彼らの一人が手の平大の警察手帳を見せ、質問してきた。 俺は今にも出てきそうな糞を我慢、顔面が硬直、ピクピクと筋肉を引きつらせている。 もう声を出すのも億劫だった。声が喉に絡みつき出ない。 それでもやっと出した声は、か細く聞き取り難かった 「今、中年男が入っていただろう。どうした? 」 「白髪の老人に変装、出て行きましたよ。上下白のスーツを着て・・・オーッ、もう我慢できない」 「鞄は? 」 「白い鞄を持っていた・・オーッ。もう駄目だ・・ご・・ごめんなさい」 俺はドアが半開き、刑事たちがいるにも関わらず、勢いよくズボンを脱ぎ、洋式便器に坐ると、激しい爆音と共に事を済ませた。 俺は恥ずかしさのため萎えた鳥のように俯き、ホーッと胸が潰れるほどに長い息を吐いた。 忽ちスーッと気も体も楽になった。 しかし即座に水で流したにも関わらず、部屋には悪臭が漂った。 刑事たちは初め中年男が老人に変装し逃げたことに愕き、口惜しそうに唇を噛み締めていたが、俺の大便の光景や悪臭に眉を顰め、鼻をつまんだ。 「嘘だろう。こいつ、ホントに糞しやがったぜ」 と、獣のように顎の長い老刑事の「何してんだ。早く追え!」という喚き声が轟き、刑事たちは一斉にトイレを飛び出して行った。 俺は心が落ち着くと、色々な考えが冷静な頭に次々と湧いてきた。 あの中年男は強盗犯人ではないだろうか? 膨れた鞄には盗んだ金が入っているに違いない。だから刑事たちに追われているんだ・・と考えていた。 駅のトイレ前で待っていた涼子は、心配顔で蹲っていたが、俺のスッキリとした表情を見て、安心したようですぐに聖母のような穏かな笑顔を浮かべた。 俺は映画館に向かいながら彼女にトイレでの出来事を事細かに話した。 涼子は俺の話にかなり興味を持ったらしく、大きな潤んだ瞳をキラキラと輝かせ耳を傾けている。 「その男って、この頃、金融会社の金庫を荒らしている窃盗団じゃない。今、噂になってるわよ」 と、俺たちの前を背の高い筋肉質の女が疾り抜いていく。 そのデカイ女は肩幅が広く、動く度に肩の筋肉が軋んでいる。 赤いコートを身に纏い、赤いハイヒールを履き、赤い皮製の大きなバックを持っているが、歩き方がぎこちない。 やはり赤くバックは異様な形に膨れ、不恰好である。 明きらかに高いハイヒールは履きなれてない。 黒いストッキングを穿いているが、手や腕は野獣のように毛むくじゃらだ。 どう贔屓目に見ても女ではない。 女は俺たちの目の前でハイヒールが脱げ、前屈みに倒れた。 すると、長い黒髪が脱げ、前に落ちてしまう。カツラである。 その顔は先ほどのボサボサ頭の鉤鼻の猛々しい中年男だ。 二人は女装の男を呆然と見つめ、開いた口が塞がらない。 彼は落ちているカツラを被りなおし、また疾り出したが、先ほどの携帯電話を持ってなければ、尾行の刑事の姿もない。 「涼子、トイレで着替えた怪しい男って、あいつだよ。今度は違うトイレで女に変装したみたいだな」 「嘘―、あの人なの。今度は女に変装、警察の目を誤魔化している訳ね。でも、汚い女装ね。ちゃんと化粧ぐらいすればいいのに・・」 そう言って、俺と涼子は女装した中年男を尾行し始めた。 彼からは饐えた肉感的な男の匂い、いや汗の匂いが立ち昇っていた。 男は街中から住宅街にB5サイズの地図を持ち、移動している。 涼子はかなり疲れたようで俺の後方、五メートル疾り、完全に息があがっている。 「あの人、どこに行くのかしら・・? 」 「それは彼らのアジトだろう」 「地図、持ってるのに・・? 」 「いっぱいあるんだよ。涼子、頑張れ、あいつ、スピードを緩めたからアジトは近いぞ」 「でも、あの男どうして走ってばかりなの。これって仮装マラソンの練習みたい? 」 「うーん、なぜだろう? 強盗団の仲間が時間に煩いのかな」 女装の中年男は住宅街の一角の公園へと入って行き、公園隅の公衆便所へ閉じこもった。 俺たちは公衆便所そばの木陰から顔だけ出して男の出てくるのを待った。 冷たい風が二人の顔を舐めていた。 と、公衆便所から出てきた男は、襟を立てたトレンチコートを着て、鍔のついた幅広い帽子を被り、葉巻きをくわえている。 それにサングラスをかけ、今度は青色の皮製鞄を持っている。 やはり鞄は膨らみ重そうだ。 木枯しが男のトレンチコートの裾を翻していた。 男は一瞬肩をすくめ目を閉じると、また疾り出した。 涼子は男の恰好を見て、ヒャヒャと非文化的な獣じみた笑い方をした。 「あれって[カサブランカ]のハンフリーボガードの恰好じゃない」 「今度は往年の大スターか。あの男、ハンフリーボガードのファンなのか? 」 また二人はハンフリーボガードに変装した男の尾行を開始した。 男は次の目的地がわかっているらしく地図も携帯電話も持たず一目散に新宿の街中に戻って行く。 そして彼は新宿の十階建てのデパートへ入ると、入り口脇のエレベータに飛び乗った。 俺たちもどうにか同じエレベータに滑り込むことができた。 幸いなことに俺たちの尾行は男には見破られてない。 エレベータが十階に着くと、男は迷うことなく降り、喫茶店[ムーランルージュ]に入って行く。 俺たちもさり気ない演技で彼のすぐ後を同じ喫茶店へ入った。 赤い絨毯で覆われた喫茶店は、豪華なシャンデリアや高級な装飾品が飾られ、高級感溢れる店である。 五十人以上が坐れ、かなり広い。 だが、今は中年男と俺たちを含め十人ほどの客である。 男は窓側の席に着く、コーヒーを注文、キョロキョロと怯えた視線で周囲に見廻している。 落ち着きがなく明らかに挙動不審である。 俺たちは入り口近くの席に着くと、コップの水を一気に喉に流し込んだ。 二人とも喉の渇きを潤し、中年男への監視を続けた。 「ここで何しているんだろう? 」 「仲間と落ち合うのかもな」 「だったら今のうちに私が刑事たちを連れてきましょうか? 」 「そうだな。さっきの刑事たち、あの男を捜しているだろう。交番に事情を話して連れて来てくれないか」 涼子がそう言って店を出た後も、俺の鋭い眼差しは中年男を捉え続けた。 しかし妙だな、あの男、大金を手にした割には嬉しそうには見えない。どちらかとう と、顔に悲壮感が刻み込まれている。どうしてだろう? すると、若いウェイターがコードレスホーンの子機を握り、中年男に近づいた。 どうも男に電話がかかってきたようだ。 暫く電話で話した男は立ち上がり、カウンターで金を払い、店を飛び出して行く。 俺も「チェ」と舌打ちして立ち上がった。 「涼子たち、間に合わなかったな」と俺は一人ごちた。 そして精算カウンターに千円札一枚を払い、男を見失わないよう後を急いで追った。 「釣りはいらないよ」 それからの男は階段を疾り降りて行く。 俺は携帯で涼子に今の状況を伝えながら、男を尾行した。 涼子と刑事たちは近くまで来ているらしい。 どうしてエレベータを使わないんだろう? と俺は思っていた。 男は七階と八階の踊り場の男子トイレの大便部屋に駆け込んだ。 俺はトイレ前の階段に坐り、男が出てくるのを待っていた。 と、彼は紺色のパイロット制服や帽子を身につけ、トイレを出てきた。両袖に四本の黄色い線の入った冬用のユニフォームである。 それに緑色のボストンバックを持っている。 「今度はパイロットか。着替えるのも大変だな」と俺は鼻で笑って呟いた。 中年男が出た後、俺は大便部屋を覗いてみた。 ハンフリーボガードの衣装が脱ぎ捨てられ、壁には[隣の百貨店の屋上へ十五分で来い]と赤文字で書いてある。 しかし空っぽの青い鞄が見当たらない。 新宿駅の周囲には四社のデパート、百貨店が建ち並んでいたのだ。 「今度は××百貨店か。仲間も用心深いよな」 俺はトイレを出る時、男の清掃員とすれ違っていた。 顔はよく見えなかったが、ねずみ色の作業着と野球帽を被っていた。 俺はパイロットに変装した男を追いながら、決心した。 (もうすぐここに涼子と刑事たちが来る。よーし、ここで、あいつを捕まえよう) 「現金強盗犯、ここで変装は終わりだ」 俺はそう叫んで男に飛び掛かった。 必死に抗う男と俺はもみあった。 結局、俺は中年男に馬乗りになって、取り押さえた瞬間、涼子と刑事たちが駆けつけた。 と、刑事たちはそんな俺を褒めると思いきや、俺の腕を取って、男を助けたのだ。 「さあ、早く行って・・」 「何するんだ。せっかく捕まえたのに・・」 後方で涼子の金切り声が聞こえてきた。 「先輩、違うの。おじさんは息子を誘拐されたから、犯人の指示通りに身代金を運んでいただけなの」 「じゃあ、どうして、トイレで毎回着替えるんだ? 」 「それも犯人の指示らしいの。刑事たちをかく乱するための手段だったのよ。もちろん携帯や小型マイクなどは着てる服と一緒に捨てるよう指示されてたみたいよ」 「嘘だろう・・」 俺は早とちりの行動を取ったことに一人唇を慄わせ、苦笑した。 そして頬がひきつるように歪み、みるみるうちに赤くなった。 顎の長い老刑事が落ちている緑色のボストンバックを拾った時、一瞬顔色が変わった。 「うん、軽い、これは金が入ってないぞ」 パイロットに変装した男が、血色を失い、体を起こした。 「さっき、喫茶店の電話で言われて、青い鞄を大便部屋のタンクに突っ込んできましたよ」 「えッ、何だって・・」 「じゃあ、私、行きますね。今度は十五分以内に××百貨店の屋上ですから・・」 パイロットの男は、猛ダッシュで七階のエレベータへと向った。 俺と刑事たちは大便部屋へと戻った。 ところが先ほどは濡れてなかった床が水でビッショリに濡れている。 どうしたんだろう? と俺は一瞬考え、頭の中が真っ白になった。 大便部屋の上部には縦三十センチ横四十センチの白いタンクが取り付けられていた。 そこで若い刑事が蓋をした便器に乗りタンクを覗いたが、青い皮製の鞄は入ってない。 「誰か、来たのか?」 「そう言えば、さっきここを出る時、清掃作業員とすれ違ったな」 「顔は見たか?」 「うーん、帽子を深めに被ってたからよく見えなかった」 次の瞬間、また怖ろしいほど顎の長い老刑事の怒鳴り声が轟いた。 「清掃員を捜せ!」 と、俺はトイレを飛び出そうとする刑事たちを手で制した。 心の真っ暗の闇に火が灯ったように、いい考えが浮かんだのだ。 「ちょっと待ってください。刑事さん、そんなに焦んなくても大丈夫ですよ。トイレの外の床を見てください。水の跡が続いているでしょう。これを辿って行けば自ずと犯人の所に行きますよ。だって水の入ったタンクに鞄を突っ込んだんだから鞄も濡れているはずですよ」 「そうか。お兄さん、頭、いいな」 あの顎の長い老刑事は、険しい目で睨みつけ濁声で珍しく褒めた。 しかし俺はその言葉を素直に喜ぶことができず、緊張で喉をゴクリと鳴らした。 それから俺たちと刑事は点々と続く水跡をつけていった。濡れた青い鞄を運び出して時間があまり経過してないからだろう。水跡は乾くことなく明確に残っていた。 水跡は七階のエレベータ前で続いていた。 あの顎のしゃくれた老刑事は病んだ獣のように呟いた。 「エレベータに乗ったな。良かった。エレベータガールが乗ってるから何階で降りたか、わかるぞ」 エレベータに乗った刑事たちは、早速、青い鞄を持った清掃員について聞いてみた。 エレベータガールは二十歳過ぎのふっくらとした色白の女性であった。 彼女は暫く、記憶のアルバムを捲っていた。結果、営業用の笑みを浮かべ答えてくれた。 「そう思い出しました。その人なら地下二階の駐車場で降りましたよ」 この時ほどエレベータガールが天使に見えたことは後にも先のもなかっただろう。 地下二階に降り立った俺たちは、コンクリート上の黒い水跡を追って歩いた。 俺は心臓が戦慄と昂奮で高鳴っていた。 心の中では犯人の車が出発してないことを願っていた。 と、水跡が一台の黒い乗用車に辿り着いた。 幸甚なことにその車には若い男が乗っていた。 不気味な笑みを顔に貼り付け余裕で煙草を吸っている。 三日月のように顎の長い老刑事の指示のもと、若い刑事や制服警官たちが車を瞬く間に包囲した。 刑事たちに気づいた瞬間、犯人は目に青白い殺気を漂わせた。 次の瞬間、犯人は車を急発進させ、抗った。 しかし刑事たちがボンネットに飛び乗り、車のフロントガラスを破ると、彼を引きずり出し取り押さえてしまった。鍛え上げた敏捷な動きである。 五千万の身代金も水には濡れてしまったが、無事に回収された。 犯人みとって一本の煙草が、逮捕に繋がったということだ。 一方、パイロットに変装した男も、小学生の息子を百貨店の屋上で無事に保護したらしい。 犯人は携帯、喫茶店の電話、便所の落書き、地図などを利用、中年男に次の指示を伝えていた。 また変装用の服、カツラなどの小物は前もって、様々な色の鞄に詰め込み、大便部屋に置いていたのだった。 その後、俺と彼女は夜の部の映画を気分良く鑑賞した。 それから涼子とは、たわいもないことで喧嘩、別れてしまったが、それからはずっと会ってない。 だから、この事件は彼女とのいい思い出として、心の中に一生、残り続けるだろう。 了
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