私は四十歳、とある中堅商社で経理として働く男である。 真摯に誠実な私は煙草も吸わず酒も嗜むほどだった。 もちろんパチンコや競馬など賭け事にはまったく興味なく、浮気など考えたこともなかった。 私は決して嘘を言わない男として会社の幹部からもかなり信用されていた。 しかし会社の同僚は私を融通が利かないとか糞真面目過ぎると罵り、明らかに煙たがっていた。 プライベートでは会社の同じ部署の後輩と結婚、小学校六年になる娘を儲けていた。 妻は狐目の唇の歪んだ女だ。 どう贔屓目に見ても美しいとは言えないが、贅沢というものには決して馴染まぬ歯痒いくらいに呑気な目立つことの嫌いな優しい女性である。 この頃では郊外に一軒家を建てたばかりで家族三人、身に寄せ合い順風満帆の幸甚な生活を送っていた。 だが、その幸せな生活も長く続かなかった。 なぜなら私が人を殺したからだ。 私は地元の警察署へ自首して、たまたま対応した刑事に全てを話した。 小肥りの彼は穏かな顔貌で笑うと右の頬に深い笑くぼが生まれていた。 歳、恰好は私とあまり変わらないと思った。 私は彼の前だと面妖に落ち着き、油紙に火がついたように事件のことをペラペラと話すことができた。 「私、氷室大輔と言って近所に住む会社員です」 「それで用件は? 」 「はい、スナックで働く深堀圭子という女性を殺しました」 刑事の顔から突然笑みが消え、顔色を曇らせた。 「うん、それは本当か? いつ、どこで? 」 「私は卑怯な人間です。昨晩、車の中、二人で毒薬を呑み心中しようとしたのですが、私は呑めなかった。だから彼女だけが・・」 「それで彼女の死体は? 」 「雑木林の杉の木の近くに埋めました」 会社の先輩、蔭山に連れられて行った「霞」というスナックで私は圭子に出会った。 彼女の美しさは初夏の緑のようにはつらつとした感じではなく、月の光でできた虹のように妖艶で怪しかった。 歳は三十前後、濡れ羽色の黒髪、彫りの深い顔貌、黒目の勝った瞳、すらっと伸びた脚線美と、豊満な肉体の持ち主である。 百人の男がすれ違うと、百人が振り返らざるおえないほどのたぐい稀な美貌だ。 私はその圭子に一目ぼれ、雷に打たれたように全身に電気が疾り、瞬く間に脳天が痺れてしまった。 それからの私は圭子と不倫関係になるのに時間はかからなかった。 私は頭髪も薄く貧祖に見え、度の強い脂ぎった眼鏡をかけた小肥りの中年男であったが、彼女は私の誘いを断らなかった。 どちらかというと私と肉体関係になることも積極的であった。 生真面目な中年男にとっての不倫は甘い蜜の味がした。 もう蟻地獄に嵌った蟻のように抜け出すことができなかった。もがけばもがくほど深みに嵌っていったのだ。 そんな夜、私は車で圭子と会った。 夕闇に三日月が浮かび、数多の星が今にも降ってきそうに晴れてはいるが、蒸し暑い日であった。 風は凪いでいた。 彼女は私が妻と離婚できなかったことから苛立ち、毒薬を呑み心中しようと言い出した。 しかし私はできなかった。 彼女は毒薬を呑んだのに、私は呑んだふりをして捨ててしまった。 情けないことだ。私は死ぬことさえできなかったのだ。 次の瞬間、圭子は突然苦しみ出し、呼吸困難に陥り息を引き取ってしまった。 その時間は僅か数分、私は何もすることができなかった。 ただ彼女が死んでいく姿を呆然と眺めるしかなかった。 私は頭が混乱、空気がしぼむほどにうなだれてしまった。 その後、圭子の死体を近くの雑木林の杉の木の下に埋めると、恐怖に慄き逃げ出したのである。 案の定、私はその夜、罪の意識に苛まれ一睡もできなかった。そして自首することを決めた。 私が地元の警察署に自首した翌日、刑事たちは私と多数の制服警官を連れ、遺棄した現場へと向かった。 雑木林の杉の木の下を指差し「ここに埋まっています」と私はすっかりと怖気づいた声で呟いた。 刑事は慇懃な態度で「本当だな? 」と再度尋ねると、私は声を押し殺し頷いた。 彼らは即座に私の指定した場所を掘り返したが、いくら掘っても私が言うように女の死体は出てこなかった。 私はあまりの愕きに身を慄わせ絶句した。 刑事は怪訝そうに顔をしかめ、私を睨みつけ不遜な物言いで質問してきた。 「死体なんか、出てこないぞ」 「そんな訳ない。私はここに間違いなく死体を埋めたんだ」 不思議なことはそれだけではなかった。 刑事は私から場所を聞き圭子の働いていたスナックを「霞」や住居のアパートを訪ねてみた。 私はどちらも一度しか行ったことがないが、刑事に上手いこと説明することができた。ところが刑事の話だとそのスナックの形跡はまったくなく空き家になっていたそうだ。 それに住居のアパートにも中年男一人が住んでいたということだ。その中年男は一年以上住んでおり、深堀圭子という女性もまったく知らないと答えたらしい。 要するに圭子はこの世の中に存在してなかったのである。 それどころか私をスナックに連れて行った蔭山という先輩にも刑事は事情を聞いてみたが、なんと彼も私をそんなスナックに連れて行ったことはないと証言していた。 私は意味が分からず、鬼によって見つかった隠れんぼの子供のごとく絶望に襲われていた。 刑事は私を釈放しようとしたが、私は間違いなく女を、圭子を殺して埋めたと訴え続けた。 結局、警察はそんな私の扱いに困り果て、精神病院へと送り込んだのだ。 その精神病院は人里離れた森閑とした山奥にあった。 周囲を刑務所のようにコンクリートの高い壁に覆われ、ネズミ一匹逃げ出すことはできない。 私は背の高く屈強な体の黒井という医者の診察を受けることになった。 温厚な顔貌で語り口は優しいが、目が異常なほどに冷酷である。 唇はひしゃげ、筋肉を軋ませながら意地の悪い笑い方をしている。 「あなたはパラノイアという病気です。つまり人を殺したという妄想を常に抱く精神病ですね」 「私はどこもおかしくない正常だ。でも私は人を殺して埋めたんだ。間違いない。ここから出してくれ」 病院には奇声を発する老人や椅子などを投げつける若い女など・・多くの患者が強制的に入院させられていた。 あくまで私は正常であったが、周りの狂人に圧倒され、私自身、気がおかしくなりそうになった。 ただ幸いなことは人に危害をくわえることがないと判断され、私は病院内を自由に動くことが出来た。 数日後、そんな私を妻子が見舞いに来た。 今回の事件での一番の被害者は私の妻と子供ではないだろうか。 私の不倫、殺人、精神病を・・妻は同時に知った衝撃と戦慄に翻弄され、落ち込んでいるのだろうと思った。 妻は上品で清楚な女性であったが、私を見舞いに来た時には目を真っ赤に腫らせ、憔悴しきっていた。 数日会わないだけで随分と老けたような気がした。 また娘もずっと泣いているだけで激しい嗚咽に襲われ、話すことさえできない。 まことに不憫である。 「あなた、人なんか殺してないんだから、こんな所いないで早く帰って来てよ」 「すまん。私だって、こんな所いたくないよ。でも人を殺したことは本当なんだ。わかってくれ」 ところでこの頃、私は病院内で幽霊を見るようになった。 つまり私が殺した、あの深堀圭子が病院の庭や廊下を一人呆然と歩いているのだ。 あの死んだ時に纏っていた赤い服を着て病院内を彷徨っている。ただ目は明らかに険しかった。 と言って彼女、幽霊の深堀圭子が私に話しかけてくる訳ではなく、ただ酷笑を浮かべ私を見張るように見つめるだけであった。 しかし私が畏怖の念に捉われながら近づくと、彼女はその場を立ち去り、忽然と姿を消していた。 圭子は私一人が生き残ったことを恨んでいるに違いないと思った。 それからの私は寝ても醒めても圭子の顔が瞼にちらつき、良心に苛まれ、罪の重さに打ちのめされた。 私が圭子の幽霊のことを黒井医師に相談したところ、彼は私の精神病、パラノイアが酷くなっていると診察していた。 そんな時、私は会社の先輩、蔭山の見舞いを受けたのだ。 彼は切れ長の目に端整な顔立ちであるが、茫洋とした捉えどこのない横顔をしている。 ただ蔭山は筋金入りの卑怯な極悪人であった。 蔭山は経理の地位を利用、会社の金、数億を横領していた。後輩の私はそのことを知り、社長に報告しようとした時、今回の事件が起こったのである。 見舞いの蔭山を目にした時、私は屈辱を吐き捨てるかのように蔭山に質問をぶつけた。 彼は圭子の働くスナック「霞」に私を連れていったが、刑事にはそのことを否定、「霞」というスナックも圭子という女性も知らないと答えていたからだ。 ところが彼はニヤリ二ヤリと嘲けた笑いを顔に貼り付け、勝ち誇った口調で話しかけてきた。 「先輩、霞というスナックと圭子という女、ちゃんと憶えてますよね? どうして警察の人に正直に答えてくれないんですか? 」 「だって俺、そんなスナックも女も知らないからな」 「私、先輩が横領していたこと知ってるんですよ。社長に報告することだってできるんです。ちゃんと警察に話してくださいよ」 「俺を脅すつもりか? 残念ながら今の気の狂った、お前の言うことは誰も信じないよ。それに今日、ここに来たのはその社長からの伝言を伝えるためだ。お前はクビだって・・温情で退職金は出るらしいよ。良かったな」 「先輩、何隠しているんです? 今回の殺人事件や消えた死体についても何か知ってますね? 」 「いや俺は何も知らないよ。ただ一つ言えることは、お前のその糞真面目で馬鹿正直な性格が人生を狂わせたってことだよ」 「やっぱり何か、知ってるんですね。何でもいいから教えてください。圭子の死体はどこにあるんです? 彼女は生きているんですか? 」 「ふん、お前は精神病院から一生出れないだろうから教えてやろう。あの圭子はお前が横領のことを会社幹部に告白できないように近づけた女だ。だから、あのスナックもアパートも深堀圭子という女もこの世には存在しないのさ」 私はこの蔭山の怪しい言葉から彼が圭子のこと、殺人事件のこと、彼女の死体が消えたことなど全てを知っている、いや全てを企み、仕組んだことを理解した。しかし彼は意味ありげにせせら笑うだけで、最後まで具体的なことは何一つ語らなかった。 そこで私は絶対にこの精神病院を出てやろう。そして今回の事件が全て蔭山の仕業であるという証拠を摑み、真実を解き明かそうと思った。 私は嘘をつけない性格であった。だからこの自分の性格や病院内を自由に動き回れるという特権を利用、精神病院を出るための妙案を思いついた。 それはその日の夜に実行した。 まず私は具合が悪いと騒ぎ出し、黒井医師の部屋を訪ねた。 そして翌朝一番で私は殺気に満ちた目で看護婦長のもとへ疾り寄り素っ頓狂な声をあげた。 彼女は傲岸そうな鷲鼻に反り歯の剥き出た肥った女だ。人相学的に言ってもまったく救いようのない凶相の顔である。 「看護婦さん、私、黒井先生を殺して桜の木の下に埋めました」 私はそう言って、窓から見える庭の中央の桜の木を指差した。その桜の木は綺麗に刈られた緑の芝生の中央にあり一際目立っていた。 看護婦は暫く黙考、一瞬顔を硬直させたが、すぐに、ほころばせた。 「氷室さん、パラノイアの症状が酷くなったのね。今は忙しいから後でゆっくり話、聞くわ」 実のとこ、私は昨晩、黒井医師の部屋を訪ねた時、突然食事のときのナイフを激しく振り上げ、彼の心臓を一突きにして殺し、獣ように喚いた。 「悪いが、地獄に落ちてくれ。自由になるためだ」 黒井医師は「ウォー」と奇声を発し、空中を二三度、両手で掻き毟ると、そのまま仰向けにドッと倒れた。 地面には大量の血が大蛇のように這っていた。 むろん彼は一瞬苦痛に顔を歪め、喉を鳴らしたが、すぐに動かなくなった。ほとんど即死であった。 その後、私は部屋の血を処理すると、黒井医師を担いで桜の木の下へと運んだ。そして真夜中に木の下に彼を埋めたのである。 昼近くになって状況が一変、病院内にただならぬ喧騒が漂った。 黒井医師が自宅だけではなく病院内でも見当たらず、行方不明になった。 その時、あの肥った看護婦長が私の告白した言葉が頭を過ぎり、喚き出した。 「氷室って患者が黒井先生を殺して、桜の木の下に埋めたって・・」 早速、病院関係者はスコップを持ち出し、桜の木の下を掘り返し始めた。 証言通りに黒井医師の死体が出てきた。 私は自分が言ったことがやっと信じでもらえたことにそっと胸を撫で下ろし、一人ほくそ笑んだ。 もちろん病院関係者によって連絡を受けた刑事たちが駆けつけ、殺人と死体遺棄の罪で私を逮捕した。 なぜなら私がこの精神病院を出る妙案とは、間違いなく殺人を起こし、警察に捕まることだった。つまり私は殺人罪で刑務所に入り、七年くらいで世間に出られると考えていたのだ。 ところが私の考えは甘かった。 私は国選の女弁護師へ意図的に殺人を犯したと主張した。 彼女は牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡を光らせ、正義感の強そうな薄い唇を噛み締め頷いた。 私の話を誠実に聞き、哀れんだ視線で私を見つめている。 「そうなの。安心なさい。あなたは心神喪失だから無罪よ。良かったわね」 「私は心神喪失でも無罪でもない。人を殺してるんだよ。だから刑務所に行かせてくれ。罪を償わせてくれ。お願いだ」 「可哀想に・・よっぽど酷い治療を受けて、まともな精神じゃなかったみたいね。わかった。私にまかせて・・」 運が悪いことに私が入っていた精神病院は患者の扱いが酷く、前々から問題になっていたらしいのだ。 数ヵ月後、黒井医師殺害の殺人事件は裁判が始まり、審議された もちろん検察は殺人罪に問えると主張、七年の実刑を求刑した。 一方、女弁護師は心神喪失だったと主張、無罪を求めた。 裁判官はテラテラとした禿げ頭にあくまでも長い顎の持ち主である。 いつもえびす様のようにニコニコと微笑えんでいるが、目は針のように青白く光っていた。 私が裁判所の中央、被告席に立った時、裁判官は少し昂奮、長い顎が紫色に変じていた。 私は神妙に背筋を伸ばすと、緊張で顔を強張らせ、判決を待った。 「被告を無罪を処する」 裁判官が私に下した刑は弁護師の主張が通り、無罪であったが、判決内容は心神喪失や人格障害による殺人だとして、病名は違うが、私は同じ精神病院へまた送り込まれてしまった。 それは私が一生、精神病院から出ることができないと覚悟を決めた瞬間でもあった。
了
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