俺の愛車、シルバーのポルシェ911カレラが何者かに傷つけられた。 大学の駐車場にほんの数時間、停めている間の悪戯であった。 その傷はドア付近一メートルにわたり鋭利な突起物で傷つけられていた。 またポルシェの屋根には焼けた野球帽が置かれている。 帽子中央にはニューヨーク・ヤンキーズのマークをかろうじて見ることができる。 しかし激しく燃えた影響だろう。帽子の面影は前鍔部分に残るだけである。 俺は怒りが真っ黒な塊になり、喉元に突き上げてきた。 「誰なんだ。こんなことしやがって・・? それにこの焼けた帽子は何なんだよ?」 そのポルシェは父親から大学合格祝いに買ってもらったご褒美だった。 三流大学から苦労して大手銀行の支店長になった父は、息子の俺には有名私大のK大学やW大学に入ることを切望した。 だが、俺の高校時代の成績は中の下、どう考えても前の二つの大学への合格は皆無であった。 だから父親は酒に酔った調子に合格したらポルシェを買ってやると大口を叩いたのだろう。 俺は寝る間も惜しみ勉学に励み、今春見事にK大学に合格した。 合格を知った父の喜びようは、「本当に? 嘘だろう」と素っ頓狂な声をあげ常軌を逸していた。 そして約束だからと言って、ポルシェ911カレラを即金で買ってくれた。 むろん俺はお好みの車種であるため、毎日の手入れは怠らず後生大事に乗っていた。 だからこそ今回の事件で俺はやり場のない怒りに腹の中が煮えたぎっていたのだ。 それからの俺は愛車のことばかりが気になり、学校でも自宅でも駐車した車を数十分毎に見に行くようになった。 それこそ寝ても醒めても愛車のことばかりを考え、明らかにノイローゼ状態であった。 そのかいあって暫くの間、愛車への嫌がらせは止んでいた。 ところが、数日後の夜、煙草を買うため路上駐車した時、僅か数分の間に愛車がまた悪戯されてしまった。 右側ドア部分、数箇所が何者かに蹴られたようで、少しへこんでいる。それに前輪のタイヤ二つが鋭利な刃物で刺されたらしくパンクしている。 それだけではなくボンネットの上には前回同様黒焦げになった男物のスーツ数着が意味ありげに置かれている。 紺と青のスーツだが、もちろん自分の物ではなく見覚えがない。 俺は怒りに唇が慄わせ、大袈裟に頭を抱え込んでしまった。 恨みの篭った眼差しで周辺を見廻すが、犯人らしき姿はない。 というか、道を歩く人たちが皆犯人に見えてくる。 「やられた。まただよ。これは復讐だ。俺を恨み、付け回している奴がいる。間違いない」 俺はボンネット上の黒焦げのスーツを摘み上げ、マジマジと睨みつけ、「チェ」と舌打ちした。 そしてそれらのスーツを路上に投げつけると、忌々しく唾をはいた。 「また黒焦げ・・気持ち悪いな。待てよ。これって火事を意味しているのか?」 俺は目を瞑った瞬間、一ヶ月前の火事シーンが瞼に甦ってきた。 友達の家に行った時、たまたま目にした火事の光景だった。
それでも数週間後、愛車が修理から戻ってきた日はさすがに気分が良かった。 俺は愛車が悪戯された事件も一時的に忘れ、自宅前、鼻歌まじりで洗車に時間を費やしていた。 風が死んだ。蒸し暑い日だった。 「これ、あなたの車なの? 素敵だわ」 と、年上の優子と名乗る女性が突然、温顔をほころばせ話しかけてきた。 小さなうりざね顔とシニョンに結った濡れ羽色の黒髪。黒目の勝った大きな瞳も、初恋の頃のゆるがせにできぬ俺のタイプだ。 映画女優そこのけの美しさだ。 それにとってつけたようなシャネルのスーツで二十代後半のみずみずしい肉体を惜しげもなく曝け出している。 身なりや化粧から水商売に違いない。 俺は一瞬、どこかで見たという思いが胸を過ぎったが、彼女の美貌に心を奪われ、彼女の気を引くことに躍起になった。 この時には彼女から辛酸を舐めさせられるとは夢にも思ってなかった。 兎に角、有頂天になった俺はあれこれと得意げにポルシェ911の説明をするが、彼女の表情は上の空で目は異常に冷め切っている。 「だからこのタイプのポルシェは新車で千二百万円くらいするんです」 「ふーん、そうなの」 「良かったら乗りません? 近くまで送りますよ」 「本当に? ありがとう。じゃあ、駅まで・・」 優子は明らかな作り笑いで若い娘のように黄色い歓声をあげた。 彼女が俺に好意を示していると勘違い、俺は心が舞い上がっていた。 「あのー、前にどこかで会ってますよね。きっと、俺たちって運命の赤い糸で結ばれていますね」 「そうよ。前に会ってるわよ」 彼女はそう答え、俺を蔑むように見つめた。 そしてシャネルのバックから一枚の写真を取り出した。 それには獣のように顎の長い中年男が写っている。 俺はその写真の男に見憶えがあり、瞬時に記憶のアルバムを捲っていくが、思い出せない。 「この人、私の主人。彼、先日火事で亡くなったの。駐車違反した車が邪魔して消防車が通れなかったのよ」 一ヶ月前、目撃した火事が脳裏に甦った。 あの日、路上に駐車した俺のポルシェが邪魔になり、消防車が通れなかったらしい。 結局、気がついた時には愛車は駐車違反でレッカー移動された後だった。 その火事の最中、全焼する家の前[主人がいるの。助けて・・]と泣き叫ぶ女がいた。 俺は絡み合った記憶の糸を解き、ようやくその女が目の前にいる優子であることを思い出した。 俺の彼女への淡い恋心は一瞬にして凍りつくほどの戦慄へと変わった。 「あの時、俺が道の真ん中に違法駐車したから、消火活動が遅れて、ご主人、亡くなったんですか?」 「やっと思い出したみたいね」 「でも俺は駐車違反で罰金を払い、二点原点され、罰を受けてますよ」 「なによ。それくらい・・私なんか主人を亡くしたのよ」 「じゃあ、俺のポルシェへの嫌がらせもあなたが? 」 「そうよ。あなたの車が全て悪いの。わかる? 」 このことは俺にとって意外な展開、青天の霹靂であった。俺の弁解の声は喉元で固まった。 「ご・・ごめんなさい」 「でも、あなたを恨んだからって、主人は戻って来ないのよね」 「そうです。亡くなった人は戻って来ませんよ」 「あの主人とは見合い結婚だったの。職人だった彼、最初はよく働いてくれたわ。でも彼、その内。賭け事を覚えちゃって・・それから私をキャバクラで働かせて、本人はまったく働こうとしなかったのよ」 「男として最悪ですね。ただのろくでなしじゃないですか」 「そう・・ろくでなしの主人だったの。何よ。人殺しのあなたに言われたくないわね」 「すいません」 「だけど死んでちょうど良かったかもしれないわね。むしろ私は主人から解放されたことで、あなたへ感謝しなければいけないみたいね」 「そ・・そんな、か・・感謝なんて・・」 車を降りる時、彼女は慈愛に満ちた目で俺を見つめていた。 「もうこの車には嫌がらせしないから安心して・・」 「本当に? 良かった。ありがとう御座います。今後は気をつけますね」 「最後に一つ聞いていい? あなた、写真の男、私の主人、前にどこかで見たことある?」 「はい、さっきから思い出そうとしているんですが、思い出せないんですよね。でも、どこだったかな? 確かにどっかで会ったことがあるんですよ。いや見たんですよ」 優子は薄い唇の端を悪魔のように吊り上げ意地悪そうに冷笑した。 「えッ、どこで?」と彼女は呪われたような低い声を絞り出した。 俺は優子の眼差しが一瞬、青白い殺気に変わっていることを見逃さなかった。 しかしその時の俺はもう愛車への嫌がらせはないという彼女の言葉を信じ、ひとまず安心、彼女の眼差しはさほど気にならなかった。 ところが、数日後、俺の命を脅かすような事件が高速道路上で起こった。 俺は時速百二十キロで爆走、快適なドライブを楽しんでいたが、一瞬で地獄行きのドライブへと一変してしまった。 と、ブレーキが利かない。 俺は外側のコンクリート壁に何度となくポルシェを擦りつけた。 車は「キーッ」と軋み音をあげスピードが緩まっていき、ようやく止まった。 それは僅か数秒の咄嗟の判断と行動だった。 顔から噴出す汗を手の甲で拭うと、胸が潰れるほどに長い溜息をついた。 少し落ち着いた時、恐怖から身体がこわばるほどに萎縮した。 「やばい。まただよ。マジあの女に殺される。 どうしてだろう? あの火事のことは許してくれたんじゃないのかよ。俺はもう、車なんか懲り懲りだ」 調べた結果、やはり愛車はブレーキが利かないように細工されていた。 だから俺は縁起の悪いポルシェを下取りに出すと、学校へは電車で通うようになった。 そんな時、俺は大学校門であの女、優子に会った。 彼女はなんと俺が下取りに出した、あのポルシェ911に乗っていたのだ。 左側のボディーは凹んでいるが、まだ十分に疾ることができる。 「乗っていかない。家まで送るわよ」 「えー、これ、俺の車ですよね?」 「そうよ。中古で少し傷跡が残ったままだから安かったの。思わず買っちゃった」 「お・・俺、電車で帰るからいいです」 と、優子は逃げようとする俺の腕を摑み車へ強引に引きずり込んだ。 車内での俺は優子の悪辣な言葉に羽の萎えた孔雀のように俯いていた。 「あなたでしょう。この車に細工して俺を殺そうとしたの? もう火事のことは許してくれたんじゃないんですか? それにどうして俺の乗っていた車を買うんです?」 「火事の件はもう終わったわよ。でも別件は終わってないの。この車であなたは苦しむのよ」 「別件って? 何のことです?」 「だからそれを思い出す前にあなたには死んでもらうのよ」 「えッ、う・・嘘だろう」 優子は不気味な笑みを顔面に貼り付けた。 次の瞬間、彼女は疾っている車の助手席ドアを開け、俺を勢いよく突き落とそうとした。 女とは思えぬ凄まじい力だ。 俺は車のシートに手をかけ、助手席から外へ宙ぶらりん状態になっている。 車は猛走、スピードを落とすことはない。 すると、女はサバイバルナイフを取り出し、俺の顔を切りつけた。 「痛ッ!」 俺は一瞬シートを摑む手を放し、顔を覆った。 と、俺は車から勢いよく落ちていく。 「ウォー!」 俺は絶叫、激しく地面に叩きつけられた。 顔が歪むほどに激痛が身体に疾り、血が大蛇のように地面を這っている。 骨折しているのだろう。 激しい痛みに襲われ、身体が動かない。 通行人の連絡で間もなく救急車が駆けつけ、俺を病院に搬送した。 その途中、救急車が唐突に止まり、運転手の金切り声が轟いた。 「誰だ。こんな所に車を止めている奴は? 通れないだろう」 俺は何が起こったんだろうと思い、痛い身体を起こし、運転手の先を覗き込んだ。 と、救急車の前、狭い道路を塞ぐように、俺のポルシェ911が違法駐車されている。 優子の仕業だ。むろん運転席には彼女の姿はない。 あの火事の日と同じで消防車が俺の愛車によって足止めされたように今は救急車が通れなくなっている。 俺は薄れていく記憶の中、死を覚悟した。 次の瞬間、俺は優子と彼女の夫の姿が瞼に甦ってきた。 あの日、火事が起こる少し前、俺は駐車場を捜し愛車で優子の家近くを彷徨っていた。 そのとき、俺は家の前、怪物のように顎の長い中年男が優子に抱えられ家に入って行くところをたまたま見かけていた。 夫は苦痛に顔を曇らせ辛そうに足をひきずっていた。 目を凝らして見ると、脇腹からは大量の血が溢れ出て優子の手にはナイフが握られていた。 俺はほんの一瞬の出来事だったので、日々の生活に忙殺され今まで思い出せなかった。 あの優子は夫の死亡時の生命保険金と火災保険金を貰うため、夫をナイフで殺害、彼を家に連れ帰っていた。 その後、家に放火していたのだ。 だから、保険金を受け取る前に、俺が事件のことを思い出し警察に連絡すると困ると考え、殺しに来ていた。 救急車が立ち往生する中、俺はそう思っていた。 全てを理解したせいだろう。面妖に気分が楽になった。 頭の中、騒然とした喧騒が遠ざかっていき、その内、完全に意識がなくなってしまった。
了
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