ある日、都内の丸菱銀行のとある支店が強盗に襲われたと警視庁・捜査一課に連絡が入り、老刑事、大門虎吉は即座に現場へと急行した。 彼は五十九歳、来年、定年を迎える一匹狼的刑事であった。 警部補佐で係長の大門は昇進試験にはまったく興味がなく、その生涯のほとんどを現場にこだわってきた。 しかし低い階級の割りには彼の経歴は華やかなものだった。 難事件を次々と解決、警視庁随一の名刑事と呼ばれ、幹部連中の信頼度も大きかった。 大門刑事が解決した難事件の一つには時効間際の裕明君誘拐殺人事件があった。 今から二十年前、都内の小学六年生の小暮裕明君が誘拐、殺人されていた。 当初、警視庁は同級生の目撃した小肥りの髭の男が犯人だと断定、捜査を進めたが、結局、髭の男は見つからず捜査は暗礁に乗り上げていた。 ところが大門刑事の長年の執念と活躍により時効直前に事件は解決した。 事件発生時、同級生により裕明君は虐め殺されていたという事実を摑み、彼は電撃的に同級生数人を逮捕していたのだ。 兎に角、大門刑事は幹部たちから全国の重大事件の意見、指示を求められるほどだった。 だから、逆を言えば、大門が警視庁幹部に要求するなら、どんな無理難題も快諾されることを意味していた。 ただそんな傲岸で優秀な大門にも定年までに達成したい目標があった。 それはお蔵入りした難事件の解決と思いきや、そうではなかった。長年連れ添った悪妻の命令、三十年以上吸い続けた煙草を辞めることであった。禁煙には何度なく挑戦したが、その辛さに我慢できず断念を重ねていた。 さすがの大門も還暦前には煙草や酒の影響だろう。血圧や血糖値などの値が高く、ドクターストップがかかるほどにあらゆる生活習慣病が進行していたのだ。 大門は妻を世界で一番に苦手としていた。 彼女の悪妻ぶりを伝える話がある。 大門刑事の妻は日頃から口煩く、彼が食事の時にクシャクシャと音を立て咀嚼する癖を激しく罵った。 「あなた、そのクシャクシャって音、どうにかなんないの? 育ちの悪さが出るわよ。もういい大人なんだからしっかりしてよね」 「ごめん、気をつける・・」 「あなた、ごめんで済むなら警察はいらないのよ。わかる?」 「はい・・」 と、次に妻の視線は大門の握る箸を捉えた。クロスして、どう見ても普通ではない。 「ほらまた箸がクロスしている。本当にみっともないわね」 「ご・・ごめん。でもすぐには治らないだろう」 「努力しないからでしょう」 そこには後輩刑事を怒鳴りつけるような大門刑事の姿はなかった。 警視庁では鬼として怖れられた朗刑事であったが、妻の前では羽の萎えた孔雀のように神妙に俯いているだけだ。 それこそ借りてきた猫状態であった。
パトカーの中、白髪と老獪な皺に覆われた彼は、怖ろしく長い顎で鳥打帽を深めに被り、禁煙パイポをくわえながら唸った。 鷹の目のような獲物を追う鋭い視線が印象的である。眉を顰め生々しい溜息が殺伐とした空気を慄わせている。 「また丸菱銀行か? あそこは呪われてるな」 つい一ヶ月前、丸菱銀行の現金輸送車が二人組に襲われ、二億円が強奪されたばかりだった。 現金輸送車が大手電気会社に従業員の給料二億円を運ぶ最中、白昼堂々と街中での犯行だった。 偽装制服警察官に変装した犯人たちは、パトカーで走行中の現金輸送車に近づき、銀行関係者を誰一人傷つけることなく、手際よく輸送車と現金を奪っていた。 しかしそのパトカーは盗難車が改造されたものらしく、犯人たちの似顔絵が一般に公開されrたにも関わらず、彼らは捕まってなかった。 その似顔絵のチラシには痩せた顔に頬骨の出た、反り歯の中年男と強情そうな鷲鼻と能面のような一重瞼の若い男が描かれていた。 大門がその銀行に着いた時、多数のパトカーや制服警察官に囲まれ、物々しい雰囲気になっていた。 銀行内では銀行員やお客、百人近くが人質になっていた。 それに犯人はゴリラの覆面を被った二人組らしい。 そこで業を煮やした老刑事、大門の怒鳴り声が銀行内外に轟いた。 「犯人に告ぐ。もうお前たちは囲まれている。大人しく投降しなさい」 しかし待てど暮らせど、犯人からの返事はまったくない。 数時間後、夜の帳に包まれた銀行内外は昼間の喧騒とは違い不気味に静まり返っていた。 老刑事は固唾を呑み、黒く塗りつぶされた闇の銀行内を窺っていた。一触即発の騒然とした夜気が漂っている。 その時、事件が大きく動き出した。突然、「バーン!」とけたたましい銃声音が銀行内から響いてきた。 老刑事は誰か殺されたか? と思い、戦慄に唇を慄わせた。 あまりの緊張感に喉がカラカラである。 と、ドアが開き、百人近い人質が一斉に飛び出してきた。 老刑事の目の前、老若男女の人質たちが着の身着のままで、悲鳴をあげ安全な場所を求め逃げ惑っている。 老刑事は人質の若い男性を一人捕まえ、焦った声で質問をぶつけた、男は長時間の恐怖に顔を歪め、声を上ずらせ答えた。 「犯人は?」 「な・・中にいます」 老刑事の「突入!」という合図の直後、百人以上の制服警察官や特別機動隊員があらゆる窓やドアから突入した。 懐中電灯の明かりの先、銀行内のフロアに佇む覆面の犯人二人を発見した。 特別機動隊の面々は犯人たちを取り囲み、一斉に銃を向けた。 「警察だ。武器を捨てなさい。抵抗すると撃ちます」 彼らは機動隊員の迫力や殺気に圧倒され、即座に拳銃やナイフを投げ捨てた。 数人の隊員が二人に飛びつき、手錠をかけた。 「銀行強盗犯人の身柄、確保!」 次の瞬間、機動隊員が二人のゴリラの覆面を剥がすと、七三のサラリーマンカットの中年男が白日のもとに晒された。 と、彼は怯えきったきった表情で信じらぬことを口にした。 「違う、俺たちはここの行員なんだよ。犯人に覆面を被せられ、武器を渡されると、ここに立っているよう命令されたんだよ。勝手に動くと殺すって・・」 「なんだって・・だったら犯人たちはあの人質の中にいたんだな。し・・しまった」 後に他の銀行員が確認、彼らが丸菱銀行の行員であることが明らかになった。老刑事たちは、まんまと犯人のしかけた巧妙な罠にひっかかっていたのだ。むろん覆面をしていたため、人質の誰一人、犯人の顔を見てなかった。 それにもまして、もっと面妖な事は銀行員に金庫を開けさせたにも関わらず、犯人たちは一円足りとも盗んでなかったことだ。 金庫内に入った老刑事は山のように積まれた札束を見て愕然とした。 札束は全て一千万の札束ごとに丸菱銀行と印刷された帯封によって綴じられている。 「どうしてこんなに金があるのに犯人の奴、盗まないんだ? 不思議だ」 老刑事は現場にいた銀行員たちに慇懃に近づくと、不遜な物言いで質問した。彼らは羽の萎えた鳥のように俯き、答えに窮した。 「お前たちよ。犯人のことで何でもいいから何か憶えてねえか?」 「そう言うば、犯人たち、銀行に入ってきた時、中身の詰まった大きなバックを持ってました」 「なんだって・・銀行強盗するときって、空のバックを持ってくるんじゃねえのか・・」 しかし銀行内にはそんな大きなバックは落ちてなかった。 それに逃げ出した人質たちも誰一人大きなバックを持ってなかった。というか、そんな大きなバックを持っていたら、かなり目立つはずである。 老刑事は額に深い皺を作り禁煙パイポを地面に投げ捨てると、病んだ獣のように唸っている。苛立ちを募らせ、目は明らかに血走っている。 「うーん、わからん。どういうことなんだ? 」 すると、大門刑事は何かを思い出したようで眼を針のように光らせ、携帯電話を取り出した。 「もしもし、大門だ、ちょっと調べてもらいたいことがあるんだ・・」 そして、その奇妙な銀行強盗事件から一週間、犯人はまだ逮捕されてなかった。 と、同じ銀行支店でまたしても事件が起こった。 銀行に時限爆弾をしかけたと謎の男から電話があったらしい。早速、制服警察官や爆弾処理班たちが現場に駆けつけた。その中には、あの老刑事の姿もあった。 警察官たちは銀行から銀行員やお客たちを即座に外に誘導した。むろん、この爆弾事件はテレビなどのマスコミによって緊急報道されていた。 犯人は爆破予告時間を午後十二時と指定、警察官たちは銀行内の爆弾探しに躍起になった。予告時間まで一時間を切っていた。 しかし老刑事は銀行内に爆弾を捜すことなく、焦る様子もなく涼しい表情で銀行裏門に佇んでいた。ただ銀行を出入りする制服警察官や銀行関係者に炯眼な眼差しを投げかけていた。 多数のテレビ局スタッフや新聞記者が押し掛け、空には食べ物に群がるハエのようにマスコミのヘリコプターが飛び交い、ただならぬ喧騒が銀行に湧き立っている。 と、二人の制服警察官が裏門から大きなダンボール二つを台車に積み現れた。 老刑事の明晰な瞳が輝き、他の私服刑事たちへと語りかけた。 (あいつらが犯人だ)と・・ 老刑事たちは瞬く間にその制服警察官を取り囲んだ。 彼らは老刑事の出した警察手帳を見て、神妙に敬礼した。 二人はサングラスをかけているが、頬骨の尖がった反り歯の中年男と鷲鼻の若い男・・どこかで見たことがある顔だ。 大門刑事は二人の制服警察官が、現金輸送車を襲った犯人たちであると確信していた。 制服警察官二人は明らかに目が泳いでいる。 「そのダンボールは?」 「銀行関係者に頼まれて、この箱、安全な所に移動するんです」 老刑事がダンボールを開けると、二億円の札束が出てくる。一千万ごとに丸菱銀行と印刷された帯封で綴じられている。 「これは?」 その言葉は目の前のライオンを猫だと言い張るぐらいに説得力がなかった。 「銀行内にはもう金なんか残ってねえはずだがな。どこから出てきたんだろう。偽警察官め。お前たちを逮捕するぜ」 「どういうことなんだ?」 「ふん、最初から爆弾なんか仕掛けられてねえんだよ」 老刑事たちは慌てて逃げ出そうとする犯人たちを押さえつけ、手錠をかけた。 と、開き直った犯人たちは、あぐらをかき、ふてぶてしく笑っている。 「どうして、わかったんだよ? 」 「金庫の万札の番号を調べたら、現金輸送車で盗まれた金と番号が同じだったからな。お前たちが金を盗むためじゃなく、金を交換するため銀行強盗したって、すぐに理解できたよ。だから嘘の爆弾事件を計画、マスコミを通じて報道したまでのことだ。そしたら、案の定、お前たちが金を取りにのこのこと現れやがった。ところで、その金、どこに隠してたんだ? 」 「エレベータの天井裏さ」 「ふーん、考えたな。どうりでいくら捜しても見つからない訳だ」 丸菱銀行の建物は四階建てで一、二階にはATMの機械や窓口、金庫、三、四階には役員の部屋などがあり、エレベータが備え付けられていた。 大門刑事は他の刑事や制服警官たちに強盗事件以後、徹底的に銀行内を調べさせていたが、残念ながらエレベータ内は調査してなかった。 結局、銀行内に二億円は見つからず、大門刑事は顔面に不気味な笑みを貼り付け、呟いていた。 「うん、やっぱり犯人たちにお金、取りに来てもらおう」 実のとこ、犯人たちは一ヶ月前、現金輸送車を襲い二億円を強奪したが、二億円の万札は連番で警察に知られており使うことができなかった。 そこで彼らは丸菱銀行へ強盗に入り、二億円を金庫内の札束と交換していた。 しかし思いのほか時間がかかり、警察によって銀行が包囲されてしまった。 だから彼らは銀行内に交換した金を隠すと、人質のふりをして逃亡したのだ。 この銀行爆弾事件の囮捜査が警視庁の幹部連中の許可を得ることができたのは、ひとえに老刑事の長年の警察組織への貢献からだったと言えるだろう。 また一連の丸菱銀行事件の犯人を逮捕したことで警視庁いや警察組織の面目を保つことができ、幹部たちもそっと胸を撫で下ろすことができたのである。 老刑事、大門は若い刑事から煙草を一本貰うと、美味そうに吹かした。 「うん、うまい。やっぱ事件解決後の一服が辞められねえな。仕方ねえ。禁煙は暫く中止だ。んー、また妻にどやされるな」 この老刑事の大捕り物は詰め掛けたマスコミ、テレビ局のカメラによって捉えられ、全国に放送されていた。 と、大門刑事はテレビカメラを睨みつけ、顔面に焦りの色を疾らせながら、突然喚き出した。 「おい、勝手に撮るなよ。女房に煙草吸ったことがバレるだろう」 しかし風を切ってさる老刑事の後姿や踵の削れた革靴には銀幕のヒーローのような派手さはなく、生活に疲れた哀愁だけが漂っていた。 百戦錬磨の名刑事・大門がどんな凶悪犯罪者より怖いのは口煩い悪妻であることは明らかだった。
了
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