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作品名:醜い男 作者:遊佐ひろみ

最終回   5

     五

 それとちょうど同じ頃、幹彦は欄干を背に両ひじを置きながら、自分に首ッ丈の娘たちを一列にして、その一つ一つの吟味に迫られていた。が、だんだんと橋の上を人々がひしめき合うようになったので、恋に餓えた目を忌ま忌ましそうに逸らすと、見るともなしにすぐ自分のうしろへ一瞥を加えた。すると自分の妹と、それから見知らぬぶ男とが、きれいに顔を並べて立っているのには、ちょッと意外そうな目にまばたきを一つした。
「おい何だいこの女の旗行列は? またお前の差向かい? まったくお前のしつッこさと来たら、人家に味をしめた野良猫と変わらないじゃないか。今度は急に人で橋の上を混ましたりして――――ははん、読めたよ。何でもこれからおしくら饅頭でも始めて、その勢いを殺さずに、仕返しに、僕を橋の上から突き落として溺れ殺す寸法だな。さすが兄妹の縁をきッた奴だけあって、中々せこい真似を考えるじゃないか。」
 ところが妹は、ニヤニヤと兄の顔を眺めたかと思うと、次にはひッ張って来た男を引き合いに出すように、強く抱きすくめながら、
「兄さん兄さん、この人が魚河岸で一番の醜い男だそうよ。」
 と、幸福そうに言うのだった。兄は、始めこそ冗談のつもりにしていたが、エヘヘと一足まえに立った、血便そのもののような醜い面を見つけると「こりゃ酷い醜貌だ」と鼻の先ッちょを摘まんだ。幹彦にたけなわだった娘らも、替わる替わる彼の所に立って来て見ては、「あら醜貌、醜貌」などと恥ずかしがった。妹はそれらへ満足そうな目を向けながら、なおもこう続けた。
「この人は名を糞尾利金太さんといってね、連日入った店の壁を使って、百八人もの嬲物たちを立たせて、それがズラズラ十三列になった所を、自分をどれだけ愛しているか、朝まで披露させて、一人一人から慰められる、一風変わった人なの。」
 幹彦へチラチラと目を上げて、糞尾ははにかんで見せながら、「いやいやお嬢さん、十四列ですよ十四列。どうぞお間違えなく」と頭を掻きムシッて虱をにぎった。
「早い話がね、兄さん。あたしはつい今さっき店に入って十三列の嬲物たちを眺めた後、やっぱりあたしもこの人に一目惚れをして来たって訳なの。ところが糞尾さんも絵から出た美人に出会ったとばかりにあたしに一目惚れをしたから、これは何でも都合がいいという事になって、あたしは糞尾さんとの結婚に頷いたの。そんなら、兄さんに報告しない手はないから、こうして新郎新婦二人そろって、まあ兄さんのお楽しみの所をお邪魔したってわけ。あらなぜッて、女に生まれたからには、猫も杓子もそうしないわけにはいかないわ。こんなぶッちぎりの醜い男のお嫁さんに選ばれて、一生胸を焦がして暮らせるだけでも、今から女心が燃え盛るわ。ねえ糞尾さん?」
「お義兄さん」と魚河岸きッてのぶ男は、糞に目鼻の開いたような顔を、幹彦の間近に突き出した。「お義兄さん、あっしは今は身分をやくざ者に置いてはいますが、この顔の恩恵で一度も米塩に困った事はありません。時にあっしがお義兄さんの妹さんと一目合わさった時より、恋もしました、愛もしました、やはりあっしが魚河岸でいッとう醜貌という評判が、お義兄さんの妹さんと、あっしを相惚れにさせやした、これはあっしにとっては珍しくもない話ですが、今の所はあっしの嫁さんとしてこの妹さんを貰い受けましょう。ですからお義兄さんとあっしは、誰がなんと言おうとも、晴れて義兄弟に結ばれやしたから、以後お見知りおきを。」
 糞尾はぺしゃんと一つお辞儀を済ませると、後は務めを果たした役人風に、横柄に煙草をふかし始めた。その姿は見れば見るほど、任侠欣ぶべき芸者に退治せられる、敵役の寸法へすッぽりと嵌ッていた。この敵と義兄弟になった暁には、いかな不快な思いを覚悟しなければならないか、想像するでさえおぞましいとばかりに、兄は不足らしい顔に眉をつけて、したたるほど幸福らしい妹へ、驚嘆の目を下ろしていた。そうしてその内に、「おいちょッと」と、さも「おいちょッと」らしく疎な髭を撫で下ろしながら、妹の腕の輪を引ッたくって、糞尾をその場に置き去りにした。
「おいちょッとお前はココがどうかしちまったのかい? あの面をよーッくご覧になって、もう一度自分の心を確かめてご覧な。あれじゃあ糞味噌がいい所じゃないか。何だって、あんな敵役をつらまえて、結婚を叫ぶのさ。ほかにだって、ほら兄さんよりも立派な目鼻立ちの、汚れてはいるが西洋ふうの紳士が、軒下に金盥を抱えて、うろりうろりとしているじゃないか。ちッとはこの川風に頭を冷やして、もう一度よく考え直してご覧。」
「頭を冷やせ?」と妹は声に鋭さを加えるのだった。「あら兄さんご自分で何を言ったのかその意味をちゃんと分かってらっしゃるのかしら? あんな醜貌をつらまえて、それをまさかハンサムなんかと比較して、お前頭を冷やせだなんて、兄さんまるであべこべだわ! 兄さんだってなかなかの醜貌だけれども、糞尾さんの方が、輪を掛けてど醜貌なのだから、ちッとも構わないじゃないの。それとも何かしら、ほかの娘たちは良くっても、あたしだけは醜い男を好いちゃいけないッて、こう言うの?」
「ああいけないよ。お前には幸せになってもらわないと、兄さん最も困るんだ。なぜッて言ってご覧、ハンサムばかりが男の上げ下げにはならないけれど、お前には夫を世間に出しても気恥ずかしい思いをしない顔と一しょになって欲しいんだ。血迷ッても、あんな糞尾だか臭尾だかという、目のやり場に困るようなひょッとこと一しょになってもらいたくない、何もこれはお前のえり好みばかりが問題じゃなくてね、あれを義弟にもつ身にも、あれの親戚になる親父の身にも、命懸けの問題なんだよ。そりゃお前お袋だって――――なんだいお前蛸みたいな顔をしてさ。兄さん何も誤った事を説法していないだろう?」
「誤っていない? まさか兄さん本気でそう思っているの? そんなら兄さんそれは矛盾というものよ。違う? 自分はこの魔術の世界で醜貌に甘んじてウマウマ楽しんでいる癖に、なぜあたしがそれと同じように醜貌と結婚をして楽しもうとする時に、足を掛け、袖を引ッぱるのかしら? 自分の醜貌に惚れる女たちをお認めになるなら、あたしと糞尾さんの結婚もお認めにならなくては、すべて嘘だわ。」
「嘘でも矛盾でも、嫌なものは嫌なのだもの。わからないかい? 兄さんのこの感情は何も兄さんばかりじゃあない、湯屋の番頭だってもっている感情なのだよ。お前が本当に糞尾と結婚するというなら、僕はこのあべこべの世界をいっさい焼き払って、焼け野原にしてしまうよ。」
「まあ乱暴乱暴。でもね兄さん、何もこの世界を焼き払わなくっても、あたしと糞尾さんの結婚をやめさせられる方法が、たった一つだけあるわ。」
「方法?」
「そう。その方法とはね、兄さんがこのあべこべの世界の女たちに惑溺しないで、それらを今すぐに否定することよ。尤もでしょう、この世界は悪魔が兄さんの命をとるためだけに急ごしらえで創った、あべこべの世界なの。だからあたしが糞尾さんと結婚するのも、あべこべから出発しているもので、それが否定されて、魔術が説けてしまえば、元通りあたしは兄さんの望むような相手を見つけるわ。そうでないと、あたしは糞尾さんと心中でも何でもして、手ずから一しょになる決意だから――――。あら糞尾さんが汚い目であたしを呼んでいるわ、ではさようなら。」
 とうとう妹は花嫁のお別れを告げて、そこへ兄を一人ほッたらかすと、吸い殻を川へ投げ入れる新郎の許へ、浮き浮きした下駄の歯の音を響かせて行った。
 幹彦は、餓えた目で欲しそうに美女を眺めたり、忌ま忌ましい目を横目に糞尾を目の敵にしたり、春の夜の魚河岸に物凄い時間を過ごしていたが、その内に何か決心でもついたのか、やがて女を押しのけて板橋の中央まで出て、そのまた寄って来た女たちを手のひらで制すると、後にはこう大声に叫んだ。
「妹の説教はもっともなものだ。僕の心にはハッキリと矛盾が見られる。僕は何が嫌いと言って、やはり矛盾ほど毛嫌いするものはない。これが人類の矛盾でなくて、何だというのだッ! 誤った心をしているのは、妹でもなければ糞尾でもない、それはまったく僕の方だった。僕がぶ男の好かれるこの世界に賛同するには、妹の結婚も賛同せねばならない。また妹の結婚を否定するには、ぶ男の好かれるこの世界を否定せねばならない。僕はどうしたって十三列に嬲物を立たせる、妹の結婚相手を認める訳には行かない。したがって僕はこのぶ男の好かれる、現実とはあべこべの世界を否定しなければならない!」
 すると欄干の上にしゃがみ込んで、残らず聞いていた一疋の悪魔が、口々に何かののしッた声を上げたかと思うと、さも忌ま忌ましそうに三つ叉の槍を投げ捨てて、そのまま橋の上へゴロンと横になった。そうしてその内に、今まで美しい美しいとため息して眺められた、魚河岸いったいの若い女たちが、次々に石のように動かなくなって行ったかと思うと、どの人の形もだんだん怪しくなって、終いには豆腐を殴ッたようにドロドロと身を毀しながら、柳の葉を揺らしてやって来る風に、白い残った泡ぶくだけが、春の夜の魚河岸に舞い上がった。それが敗北に似たほのかな匂いとなって、幹彦の消えていく意識の中をいつまでも漂い続けていた。
『これが己の魔術の欠点であり、人間の矛盾という奴か。ええい忌ま忌ましいといったら、自分を殴った相手を取り違えて抱きしめてしまうほどだ。あと一歩という所を見計らって、妹のしたことと云ったら、ないじゃないか。なぜあの男は、すんなり妹の結婚を認められなかったのかしら。なぜ己れがぶ男の癖に、糞尾の醜貌に醜さを感じたのか、己には渚に敷きつまッた砂の一粒ほども、理解することが出来ない。そういう面から云ったら、矛盾の多い人間よりも、己たち悪魔の方が、どれほど純粋な生き物に出来ているのだか、しれないものだね。』

* * *

 幹彦は、静かな床に身を横たえて、閉じ合わさった目蓋を一つあけた。己の心のように朧〻した天井も、醜貌を隠した灯の外も、いつかすッかり朝になった。ま横へ顔をねじると、真夏の強い日差しが、雨上がりの庭の面を、カッと照らしながら、キラキラと水っぽい細かい光を風に揺らしていた。
 昨夜、兄妹がのぞき込んだ手鏡は、その銀の唐草を見せながら、静かに面を伏せていた。妹はすでに床を上げた後で、この部屋には残り香さえ立ち去った後だった。
 彼は起きるともなく起き上がって、畳をよちよち這いながら、縁側まで顔を出すと、ことさら大きく尻餅を突いて、庭先へ両脚をぶら下げた。
 そこへ涼しい服装をした妹が、これもまた涼しい目を庭の薔薇の花壇へ合わせながら、風のよく通る廊下を素足にすえて来た。その先の幹彦は、ぼんやり煙草を銜えながら、勿論この妹に気にもとめなかった。彼は、昨夜に見た夢の余りに強烈だったので、全身にすさまじい光りを受けた後のように、いつまでも余韻と強い印象とが頭から抜けないでいた。
「おいお前、もう起きていたのかい。」
「え。」
「それじゃあ僕の昨晩に云ッた言葉の内で、一つだけ誤っていた点があるから、ここで訂正しておくよ。」
「誤り? そんなら、どんな誤り?」
「うん。昨夜の僕は、確か、この面ひとつで、恋もでき、この面ひとつで、一生女に愛されない、と云ったんだね。」
「ふむふむ現にそういったわ。それが誤っていたのかしら?」
「ああそうさ。世の中にはね、自分の兄を救う為に、僕よりもぶ男をつかまえて、ひっしに一目惚れをねだるような、そんな酔狂な女もいた、と云うことだよ。」
 それから幹彦は庭下駄になって、真夏の日の光を浴びながら、庚申薔薇の蕊についた一露を見下ろすと、じッと何かを考えていた。


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