四
しばらくは尻居に倒れていた妹、衣類を川水に湿らせつつ、驚嘆の眼をあきながら、依然として悪魔の術中に置かれている現実に、落胆の色を隠せなかった。そうして自分にとって、唯一現に戻る頼みは、女に惑溺しかかった兄を説伏させて、正気に起こさせる他には、なに一つ手だてがないのだと、そればかりがハッキリとしていた。妹は、これはまた大役だと思わずにいられなかった。 「顔の容貌が不味くって、愛しい人から平手されて育ったような兄さんにとって、あべこべにそれが理由で美女たちから猫可愛がりを受ける、この魔術の世界では、きっと天職を見いだした人間のように輝いて、夢にもこの世界を否定しないわ。つまり、どうしたってあたしの説伏には、悪魔の肩をもってでも、聞く耳を持たないでしょう。」 それでも妹は、やはりこの魔術の世界を兄に伝え、そのいんちきに気がつかせる為に、また下駄の歯の音を響かせない訳にも行かなかった。 「どいてどいて!」と妹は女の山を掻き分け掻き分け、馬鹿な兄の許へ急き込むのだった。「兄さん兄さん! しかじかの理由で、この魚河岸一帯には、悪魔の恐ろしい魔術がかかっているの。そうして兄さんが女に溺れた所を、悪魔は昨夜兄さんの云った通りに、その命をとりに来るわ。そんなら、兄さんは夢のような女たちをいち早くに見限ッて、あたしと一しょにこの魔術を解かなければ、兄妹して永遠にこの魚河岸へ骨を埋めることになるのよ!」 ところがと言うべきか、当然と言うべきか、しげしげと女の尻を見上げる兄には、妹のこの落語じみた話になど、一つも貸す耳をもたなかった。 「しッ、しッ、あっちへお行きったら、お行きよ。どうも近頃のお前ときたら、兄の女遊びの邪魔ばかりが面白いようにやるじゃないか。あんまり兄さんの云うことを聞けないと、ここから下の、一月のように冷たい川の中へ、すぽッと投げこむよ。」 「兄さん! 兄さん! もう兄さんと言えば!」 『無駄だよ』と悪魔は直せつ妹の頭の中にささやくのだった。『無駄な努力だよ。お前の兄は、今や自分になびく女に熱くなって、妹の退屈な話になど、一つも聞き届けられないのだよ。それならさっそく、己さまはいつもの三つ叉の槍を手に、いよいよお前の兄の命を頂きに参ろうかね。』 こう悪魔がせせら笑う間にも、負け嫌いな妹の目からは、大つぶの涙が押し上がって、そのままカーッと目の前が熱くなったかと思うと、いきなり兄の頬を平手でうった。 「この分からず屋のとんとんちきッ! 兄さんはぶ男で、ぶ男の兄さんの所へ集ッて来る女なんか、ふんどしの押し売りか悪魔の手下くらいしかないって事に、なぜもっとすみやかに気が付けないのよ! この馬鹿の馬鹿の馬鹿の、大ッ馬鹿ッ!」 「大ッ馬鹿? おいよくも云ってはならない事を平気で言ってのけたなこの小便垂れめッ! 兄の頬ッぺたをうつ妹がどこの世にいるッ! 何て狼藉な女だッ! 同じ母親の腹を使った妹と思えばこそ、鏡のように澄んだ心でお前を眺めて来たが、もうそれも今夜かぎり、いよいよお前とは兄妹の縁を断絶せざるを得ない!」 とうとう鼻の穴をふくらませた兄は、まッすぐにらみ上げる妹の襟首を、握るか掴むかして、そのまま砂袋を放る要領で、妹の小さい体を投げた。 『ハッハハハア!』と腹を抱えた悪魔が、爆竹の爆ぜるみたいに、月の上に躍り上がった。『もうこれ以上の惑溺はないよ! 自分の妹をうち捨ててでも、女の胸に頬ずりするのだから、仕方がないじゃないか。己もようやっと、強情な印度人に引き続いて、心もろいと評判な日本人の、その命をとることが、今に叶のだ。カッカッカッカッ!』 欄干の一方のつけ根に、胴を円くつッ伏した妹の、その下向きの顔が、くやし涙に砂をまぶした、悶え泣きに汚れているのかと、胸をわくわくさせがら忍び寄った悪魔は、そこへクスクスとすすり笑う忍び音に出会って、今までの絶倒をぴたッと静めた。元来、手を打ち鳴らして雀躍りすべき悪魔の表情は、次第次第に下から妹を覗き込んでいく内に、そこへ想像だにしていなかった、ニヤニヤした照れ笑いに鉢合わせて、彼はぎょッと毒気を抜かれた。 『おい貴様ッ!』と悪魔は全身をもがいてまごつくのだった。『おい貴様は何をそんなにほほ笑ましくしているというのだ! 兄に捨てられて、その兄の命も、いまに亡くなるという寸前を見計らって、この世に如何なHumorousがあるというのだ!』 所どころ砂のかぶッた袖口を叩きながら、妹がぼちぼち立ち上がった前後にも、やはりその顔のニヤけた点が、片時も悪魔をホッとさせなかった。 『やい貴様ッ! 貴様貴様貴様ッ! 己の質問へせっせと答えろ! こんな屈辱の汀に立たされて、何が何するとそんな笑顔になれるというのか、ちゃんとした返事によっては、貴様だけをこの魔術の世界から逃がしてあげてもいい!』 妹は腹を大きく抱えながら、いよいよ笑いが治まらない様子で、悪魔のふくれッ面を一つ世界から閉め出すように、その声は魚河岸のあちらこちらに高鳴った。 「あー苦しいったら、ないわ。ふふふ、まあ可笑しい! あたしね、可笑しいの。くふふふ、だって、だってね、金甌無欠のように思えたこの魔術の世界に、こんなつまらない、そして底抜けな欠点が、ただ一つだけあったのだもの、そりゃ誰だって、ぶふふふふ、吹き出さずにいられないわ。あたしも、兄さんも、お前のような悪魔だって、この欠点を忘れて、飛んだり跳ねたり、まあ色々に血相を変えて、今にして思えば、ひとしおお尻がこそばゆいわ。」 『欠点だと? カッカッカッカッ! 悪魔をつかまえて嘘を拵えるなど、よちよち歩きの赤児だね。』 「まあ無理もない。これは悪魔でも思いも寄らないような、もッとも馬鹿馬鹿しい人間の矛盾なのよ。けれどもね、これでも勝負の内にあるというのなら、その勝敗の行方には、必ずしもあたしだけが、輝ける勝利の丘に、ぽつねんと立たされているようね。」 悪魔は驚嘆の目を見開いて、この歳は十三四の小娘の姿を眺めた。が、その小娘が彼の魔術の欠点に気が付いた一人だと云う事を知った時に、彼の驚きは果してどれくらいだったか。大胆にも悪魔の目ん玉を、右から左へと追わせた妹は、赤い橋の畔から柳の葉をわけながら、どッと人のにぎわいそうな、灯のかんかんと燈った軒下ばかりを目さがしして、その中へ消えて行った。 『己は悪夢に悩まされているのかしら』と悪魔はしなしな萎えて、尻居に落ちるのだった。『あの妹のいう事が実際だとすれば、己はどうやら大きな過ちを犯しているらしい。それも悪魔でも思いもよならい、というからには、己には到底わかるまい人間の矛盾が、この美事な魔術の大壁に、たった一つの風穴をあけて、千年も二千年も、間が抜けていた事になる。ああ忌ま忌ましいッたら、ないね! 己も長らく悪魔をやっていて、こんなにやりよくない相手は、あの宇宙好きな猶太の爺さんの他は、なかなか味わわずに生きて来た。さっそく兄妹の両命を、この手のひらにとり上げたとしても、己は永遠に己の魔術の中に、大いなる風穴をあきながら、スースーとすきま風にあてられて、残った悪魔の半生を全うしなければないない! ああ返す返す忌ま忌ましい女だッ! この上は、兄の命をとるのを幾ぶん見送ってでも、妹の出方を窺うに他あるまいか。』 悪魔は進退に極まッて、塗りの剥げた欄干へよじ登ると、小さくしゃがみ込んだ。そうしてその内に、大勢の女たちの話声が、サワサワとさざめき出すかと思うと、盛況しい暖簾の間をくぐッて出て来た妹の、その殊勝らしい顔へ、彼は、見るというよりは、むしろ睨むように、大きな眼を動かしていた。 妹は傍らを、一人の男に伴いを受けながら、夜風にザワつく柳をくぐりくぐり、板橋の中程まで同道した。と同時に、さざめきだった女性の一団も、それを追う形で、橋の上ならどこでもひしめき合った。悪魔は四五十を数える人出を目に入れて、これが己の魔術の欠点かと、眉があるならばそれをねじ上げるように、不思議がった。 『待て待て、わからないじゃないか? 人間はこれだけ仰山ひろわれて来ると、己の魔術は破られるのかい?』 「いいから」と妹は一人の男を脇に挟んで言うのだった。「いいから静かに見ときなさい、これから兄さんの、つまり人間の矛盾を見せてあげるわ。」
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