三
その夜のかれこれ同じ時刻に、たまたまこの魚河岸を通り掛かった、一人の背の低い少女があった。それがどう思ったか、颯爽と赤い橋を渡って行く、例の幹彦の不味い面構えを一目見るが早いか、しばらくは口をOの字に開けたまま、只ぼんやりと人波に立ちすくんだ。 そこへ又通り掛かったのは、常に皮肉そうに顔を笑わせた、南国育ちの美青年である。 「あいすいません、今あすこの橋の欄干で凭れ掛かっている男は、まあ随分とまずい顔ですが、誰だか知りはしませんか?」 浅黒い肌をもった美青年は、娘の指ざした方角に沿って、うッすら笑った顔を曲げたかと思うと、さも冷ややかに言った。 「あーあーあのお方ですか。僕は何も知りませんが、どうやら今宵よりお目見えになった、飛ぶ鳥を落とす勢いのぶ男らしいですよ。今も行き違った娘たちが、妙にゾクゾクした声を使って、すこぶるぶ男だったわね、などとうわさ話をしていましたッけか。ではさようなら。」 南国の男がけんもほろろに先を急ぎたがるのを少女はびっくりして引き留めながら、 「まあ待って、あたしの話を最後まで聞いて下さい。あたしも今夜ここへ来たばっかりで、何が何やら、ちッとも得心が行かないんです。あなたのような健康的な美青年が、朽ちた垂木のように背中を曲げているし、そうかと思えば、目を疑うような不細工な男が、天下をとッた顔つきを道中見せびらかしているし、まるでこの魚河岸は、あべこべです。」 「あべこべ? お嬢さんの方こそ、あべこべでしょうよ! どうせこんな整ッた顔になど歯牙にも掛けないおつもりで、よくまあそんなご冗談を!」 「冗談――――待ってッてば!」 尾があれば静かに垂らしそうな美青年が、黒い月影の中にすッぽり身を隠してしまうと、残された少女は大きく腕を組んで、何かを頻りに考えている様子だったが、やがて決心でもついたのか、ポンと木履を鳴らして、唯一この場で見覚えのある、醜い男の背中を目指して、広い板橋の上を渡って行った。 そのちょうど橋桁のうしろには、一疋の悪魔がしゃがみこんでいて、このとき頭上を走り抜けた少女に目を大きく動かしたかと思うと、ハッと後脳をつかんだ。 『己には聊か軽はずみでキュートな所があるが、どうも今回もそれが祟ッたらしい。あの男の、その妹まで、己の魔術の巻き添えを喰ッていようとは、いくら目先に迫った、人間の命に目が眩んだとはいえ、己もなかなか物騒な事をしてくれたものだ。だがしかしたかが小娘の一人が、よしんば誤って兄の欲望の世界へ紛れ込んだとしても、ぽッちりと赤く腫れた蟲刺されよりも、害はない。それどころか妹は、兄の貴重な死に目に会えるのだから、己も案外憎い手心を加えたものと考えよう。』 妹が下駄を打ッて、赤い橋の中央へ出て見ると、今も娘たちから恥ずかしがられていた兄は、ぎょッとした目を妹へ下ろした。 「君はひょッとすると、僕の妹じゃないですか? いやいや、その殊勝らしい顔に見誤りはなさそうだ。やれやれいつもいつもそうやって、よく僕の居所を突き止められるものだな。」 幹彦は妹を目の下へ据えながら、彼女と年恰好の変わらない、恥ずかしがった少女の頭髪を抱いて、その匂いを味わった所だった。 「やッぱり兄さんの顔は、そこだけ色を塗ったように、一目でわかるのね。あたし急に魚河岸なんかに立たされたんで、嫌に心細くって、泣きそうだわ。―――あら? けれど兄さんにしては、妙だわ。おかしいわ。兄さん、兄さん、その頬ずりしている女の子は、その、カドリールか何かの、稽古相手かしら?」 幹彦は、ゆッくりと醜い顔を撫でながら、さも分からず屋の妹を持て余すように、舌打ちをやった。 「お前ばかを云ってはならないよ。今や兄さんという存在はね、女から女へと引ッ張り凧の凧なのだよ。さあ見てご覧、この娘たちの瞳の中に燃える恋の炎をさ。ちょッとやそッと、僕がやる気を見せて、額にキッスでもしたまえな。こいつらときたらまるッきり、紅茶に染みこませた砂糖のように、跡形もなく蕩ッけちまうのさ。」 この一とおりでない兄の変貌ぶりには、さすがの妹も生き肝を抜かれて、しばらくは暗い流れを背に、ぽッと立たされていた。が、それでも気を新しくさせて、何か言葉を継ごうとする度に、兄は当てこするように、互がわりに娘たちを引き寄せ、突き放して、嬲った。このようにいよいよ中られた妹は、その大きな目に熱い涙を押し出して、「馬鹿馬鹿」と拗ねた口しか利かなくなるかと思うと、今度は力いッぱい下駄を打ッて、どッと橋の畔へ引き返して行った。そうして柳の葉の淋しそうに垂れ下がった地面にしゃがみ込んで、誰も見ていないのを確かめた後、はずかしめられた心をグッと押さえて、妹は涙に震えた。 「毎回を女から爪弾きされて、腹いせのように油絵の筆を動かす兄さんが、どこといって一途であたしは好きだったのに、今の兄さんと来たら――――。」 月の高さががッくりと下がった頃、すッすッと鼻を啜る妹の脚もとには、川と瀬とが月明かりにキラキラ輝いて、そのわずかな照り返しが、芥の流れついた橋桁のうしろへ、ほんのり明海を見せた。これらの小景に目を向けて、ただポカンとしていた妹は、その橋桁のうしろに浮び上がった、およそこの世にあるまじき悪魔の背中を、はッきりと目の中に入れて、おやと思った。見ると、その小さな悪魔は、小砂利のつまッた土手に尻をつけ、頭上に架かった橋の、その欄干へ凭れた兄の姿を、まるで鉄砲の狙いでも定めるように、まじまじと見張っていた。 ときに強いひらめきが打ち寄せる妹には、これまで見て来たあべこべの世界と、石を投じれば必中するほど間近に座った悪魔とを、平行に思い浮かべながら、これらが一体なにを意味するのだか、その答えに行き当たるのに、少しも時間を費やさなかった。 「ははん」と冷たく笑った妹は、木履の鼻緒をつまむと、冷たい土手の上を、ひたひたと素足で下りた。それから兄へ食い入るような視線を上げている悪魔の、その背後からだんだん忍び寄って、妹は、握りやすいその首根を、ギュッと強く搾った。 「あらいやだ。おしゃまな小猿を捕まえたかと思ったら、なんて小さな悪魔がいたものだろうね? このあべこべの世界は、残らずお前のしわざ?」 不意を喰ッて飛び上がった悪魔は、大きな目ん玉を上目にさせて、しめしめと笑った妹と目を合わせたかと思うと、さも「しまった」らしい顔をして、その場でもがいたり、身をちぢめたり、無二無三に逃げようとした。 『いつの間に………くそッ!………放せ………放さないかッ! 己さまは世にも恐ろしき大魔王の僕ぞ!』 これを聞いても妹は、ガタガタと身を震え上がらせもせずに、ただニヤニヤとしながら、悪魔の身体を腕いッぽんで支えていた。 『ええいッ! 悪魔を恐れぬとはこのあまッちょめ………しからばお前の体を三匹の轡虫に変えて………焼いたり焼かなかったり、やッぱり焼いたりしてしまおう!』 妹はやはり何とも答えない変わりに、つかんでいる悪魔の頭をいきなり川の底へ沈めて、ざぶざぶと激しくやった。 『ぶはッ………よしよし、わかったわかった。お前の願いを何という条件もなしに、二つだけ叶えてあげる。』 「きっと嘘だわ。」 『ハッハハハハ! 悪魔は嘘を吐く、これは人間界では一つの名物にもなっているようだが、いやいやそうではない、確かに我々魔族は、挨拶がわりに嘘を吐く。しかし一たん人間と契約を交わした後では、我々は契約の虜となって、それ以外を忘れてしまう。ロシア人の書いたものの中に、我々はそう働いている。』 「契約?」と妹は水を切ッて悪魔を川底から引き上げながら、 「悪魔の契約って、何かの本で読んだことがあるわ。嘘にしては嘘っぽくないわね、じゃあ願いは二つも要らないから、一つだけ叶えてもらおうかしら。」 『ハッハハハハア! 欲がぶッ!――――ないですなあ………それでは、その願いというのは、どういったご用件でございましょう?』 そこで妹の一つの願いは悪魔の耳に語られた。 『ははア、なるほど恐れ入りました。いえいえやりますとも。―――それではお姉えさま、わたくし、このぶら下がったままの情けない姿では、何事も極まらないのですから、手前のむさ苦しい小首にお掛けになった、その愛らしいお手を、そッとお外しになって下さいましな。』 妹のつかんだ悪魔の首が、すッかり彼の思い通りになった頃、いきなり川の水が岸の上を這い出して、妹の上を下へと争ッて堤に上るのを待たずに、土砂を噛んだ真ッ黒い鉄砲水が、なみなみ川岸へ押し寄せた。 『カッカッカッカッ!』と悪魔は腹を抱えながら濁流に流されるのだった。『どんな卑劣な手段を使おうとも、己さまの首さえ自在なれば、この通り川を氾濫させるなど、お安い御用だね。なぜッていってご覧、己はこの喉を笛のように吹かせて、魔術をかけるのだから、お前の手から逃れたこの喉笛が、今からこの世界にどんな天変地異を巻き起こそうとも、何ら不思議もないねえ。それと、よくもよくもこの己さまに末代までの恥じをかかせてくれたね。ありがとうございました、なんて悪魔が頭を下げるとでも思ったのかい? カッカッカッカッ! よし今度はそのお返しに、お前にはあらゆる絵本になってもらって、その結末のページだけをくり貫いてやったとしても、実にユニークに違いないなあ。だがしかし、己にはお前の兄の命の方が、もう少しといった所で手に入るので、はなはだお前には関心が薄い。薄い薄い! まあ、二度と己の寝首を掻こうとはせずに、その見窄らしい柳の葉を手巾がわりに噛みしめて、自分の兄の没世の瞬間を、心待ちに待ちわびているんだな。』 悪魔は、橋桁をすッかりのみ込んだ川の早瀬に片足いっぽんで立って、蜘蛛が笑うとしたらこんなだろうと思われる、さも忌ま忌ましい笑い方を、月に向かって盛んにやった。 『それから』と悪魔は、さも『それから』らしく眼ばたきを一つして、『それからお前がつい今し方口にした願いについては、己はまず叶えてあげられないと思ってくれて差し支えない。お前は悪魔の大嘘を信じてくれたのだよ。もっとも騙された相手が嘘つきの大家とあっては、お前も潔くあきらめがつくだろう。あッ! お前ひょッとして今、この場から走って逃げて、逃げられない事もないと、本気で期待したのではないかい? 図星だったかい? ハッハハハア! 一ついい事を教えてやろう。お前ら兄妹はね、己の拵えたこの魔術の魚河岸以外に、屠殺場の戸口の椅子の下にさえ、自分たちの骨を埋める所を持たないでいるのだよ。あの向こう岸にひしめき合った墓群を、よーッくご覧よ、あすこにはお前ら兄妹のように、己との勝負に悉く敗した人間、つまりお前たちの先人方が、おーいおいと忍び泣きして、夜土に眠っているんだよ。カッカッカッカッ!』 『ああそれから』とまた、悪魔は『ああそれから』らしく上唇を舐めながら、『ああそれからね、これが勝負というからには、幾分でもお前に公平さを欠いていると思ったから、張り切って教えるよ。いいかい? 悪魔は何でも一度しか云わないから、よく聞きな――――。 もしもお前が、お前の兄のとぼけた心を説伏させて、兄が自らの決心によって、このあべこべに蠱惑を極めた世界を、スパッと否定する事が叶ったのなら、この魔術の世界は、己にも、神にも、誰にもわからないものになってしまうのだよ………カッカッカッカッ!』 水の中に石を投げ込んだように、夜空に一つ穴が空いて、悪魔はその中へ飛び込んだかと思うと、今まで堤際まで押し寄せていた川の早瀬は、また何事も起きなかった以前のように、たッぷりと広い瀬を見せながら、皓々と月明かりに照らし出された。
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