二
一方、悪魔の耳が自分の話を聞いていたとは夢にも思わない幹彦は、床の中に入ったまま、今しばらくは闇に目を大きくして、漫然と物思いに耽っていた。ところが妹の軽いいびきが耳許に聞こえ始める頃、ほのかに甘ッたるい匂いが室内に満ちて来たかと思うと、彼の意識はだんだん煮くずれるように、朧げになって来た。夢か現か、彼はそのうッとりするような恍惚の狭間の中に、沈むともなく沈んで、それがやがて、ハッと目がさめた気に帰ったかと思うと、いつか彼はにぎやかな往来に沿って歩いていた。目を上げると冴えた月が出ていて、白く照らされた河岸の縁に柳が連なっていた。そこへ夜風が吹くと、そよと枝の葉が裏返った。これはもう春の夜の魚河岸に違いないと、彼は思い出した。 幹彦は、少し生酔いにあるように、酔漢でにぎわった軒下などへ、チラチラと目を誘われつつ、何でも日本橋の方へと歩いて行った。けれども何所をどう歩いて見ても、珍妙な景色が彼の目を離れなかった。というのも彼が踏んでいる往来では、必ずしもしッとりした美女が、四五人ずつ画のように立っていて、それが示し合わせたように、暇をつぶしている。その又美しい女たちが、たまに恋しそうに、白暖簾の垂れた居酒屋へ消えてみたり、又顔を出してみたり、熱ッぽい息づかいを見せる。が、彼を驚かしたのは独りそればかりではない――――。 幹彦が人々の背中を一つ押しのける度に、およそ自分よりも醜悪な男が、上等な葉巻を銜えながら、毛深い腕を女の肩へ回して、いやらしく笑っている。それがたまさかに目を奪う景色ならば、彼の目はそう脅かされはしまいが、一様にぶ男だけが、周囲を娘たちで飾り立てて、わッしょいわッしょいと往来から喝采を浴びているのには、やはり幹彦を閉口させない訳には行かなかった。 「これは一体、どういう風の吹き回しだ? 僕など相手にもならないくらいな、化け物とそう変わらない醜い男たちが、ああまで容姿端麗な乙女らに、片脇さえ余さず、にぎやかに抱かれながら、あちらこちらをねり歩く。」 と今度は驚嘆した目を、そのまま目さがしに変えて、 「では、目鼻だちの整った、男ぶりのいい連中は、いったい今時分、何所でどう暇をつぶしているのだろう?」 こう思った幹彦は、次には注意ぶかく軒下を歩いて見て、とッつきにハッと飛び上がった。それというのも、さも女に事欠かぬような鉤鼻の、西洋ふうな紳士が、錆びた金盥を抱いて、人目も憚らずにおいおい泣きながら、彼の懐に飛び込んだからだ。 「旦那〳〵、どうか、この下らない顔をご覧になって下さいな! 一体どうすると、こんな整った顔の男が産まれて来るのでしょう? わたくしはこの顔をもッて生まれて来てからというもの、娘ッこ一人、自分の胸に抱いた事なんかありゃしません。おーいおい。ほんのつい先頃にも、行きずり入った店の女に手を出して見た所が、まあ散々に煙たがられてしまって、だんだん聞いてみると、スパイシーでないこの顔に、恋だ愛だのと、そのような感情が、皆目起こらないというじゃありませんか。それはわたくし無二無三に腹を立てまして、お前はこの整ッた顔だちが、一途に気に入らないのか! といって障子の桟を鷲づかみに致した所、上から下から暴れに暴れたが運の尽き、主人にも勘当をつけられて、今ではこんな身の落としよう。いったい旦那のような、はちきれんばかりのぶ男に生まれないで、どうしてこの世に享楽がありましょうか? ねえ旦那ッたら旦那ッ!」 幹彦はだんだん聞くうちに、何でもただならぬ気がして、掴みかかッた鉤鼻をふりもぎふりもぎ、思わずその場から転げ出した。 「いやいや、ついに飛んでもない世になったものだ。あれだけ格好の好い鼻の男が、これだけある女たちから、まるまる喰いッぱぐれていて、それどころではない、こんな醜い僕の顔へ、あるまじき羨望の眼差しを向けるとは、何としても女たちの価値観が、あべこべに一転してしまっていると見て、ほぼ間違いはなさそうだ。」 幹彦は、腥い月明りの吹かれる通りを、また柳の下まで引き返してみながら、軒のつまッた店先、赤い丹塗りの板橋、点綴した灯の岸向こう、等々から向けられた、石火矢を放つような乙女らの視線を、これまた意識しない訳には行かなかった。 「まてよ」と彼は考えるのだった。「こういう世の中になってしまったからには、僕の立場は一体どうなってしまうのかしら。いやいや僕だって例にもれずに大いにぶ男に育まれたに違いないのだから、今に目を瞑ッていても、女たちが囲い込んで来ない筈はない。なぜって、今ちょッと駆け込んだだけでも、いったい幾人の女たちが僕の勇ましい、いや、無様らしい走りッぷりに、心をトキメかした事か知れない。現に僕がこう一人考えを巡らしている間にも、厚化粧の女房たちが屋根から顔を出して、身を揺すッて児をあやしながら、既婚を怨むようにこちらへ見惚れているではないか。これはいよいよ、血と骨とのようだった僕の念願が、その通り現実になったと考えて見て、ほぼ間違いはなさそうだな。」 彼は差詰めこう考えた後、急に気がすさまじくなって、道中侍のように胸を威張らせたかと思うと、わざわざ女の混み合う板橋の上へ、その足を踏み入れて行った。 そのちょうど橋桁のうしろには、一疋の悪魔がしゃがみこんでいて、これを残らず聞いていた。 『よしよし』と悪魔は首尾よく頷くのだった。『あの男の命は、十中八九は己の手中に落ちた。今に楽々と女に酔い痴れて、鱠のように骨抜きになった所を、あの男の言った、「思うさま恋人に惑溺できればこの命、悪魔にだってくれてやってもいい!」という文句を、眉間に叩き付けて、その通りに命を差し出させよう。』
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