一
幹彦という醜貌な男は、ある雨の夜、一人むつかしい顔をして、手鏡に映る己の顔を眺めていた。その顔は残念なことに、部屋に灯した、小暗い電燈を受けて、ひとしおGrotesqueに浮かび上がっていた。とうとう彼は、ぶッきらぼうな気持ちを押さえきれなくなって、言った。 「ああ畜生! 何て僕は醜い男なのだろう!」 彼は腹んばいになって、なおも手鏡の底に映り込んだ、憎っくき我が醜貌を、平手で打った。 「僕はこの顔のお陰で、様々な娘たちから遠ざけられているばかりか、ほんのつい先頃にも、行きずりに入った店の女から、あたしは貴方の顔には恋をする事も愛する事も出来ないわ、などと手痛くやられた。それは口惜しくて、カッと来たから、障子の桟をつかんで、火鉢を蹴ったように暴れてやった。すると女は恐れをなして逃げてしまうし、店からは建具を弁償させられるし、その時のすさまじさといったら、なかったね。ところがこれでも全部は自分から出た所為ではないかと、気が気じゃなかった。いったい恋だ愛だのと、つまりは顔じゃないかしらん。ここは羅馬でもないし、僕だって、顔さえこの通りぶッ飛んでいなかったら、今ごろあの女とよろしくやっていない筈はない。」 幹彦は、一人頬杖をつきながら、こうとりとめのない独語を尽くしたかと思うと、後は只、己の心のように朧〻した天井へ向かって、漫然と薄目を上げていた。 すると板戸を一枚挟んだ向こうから、夜中を憚る女の跫音が、近づくともなく近づいて来るかと思うと、間もなく襖が開いた。 「あらいやだ起きていた。」 細々と開いた襖の間には、幹彦の寝ながら目を上げている姿に動顛した、妹の白い表情が挟まっていた。 「起きていちゃあいけないかい? 寝られないから、寝ないでいたんだ。お前の方こそ、こんな夜の夜中に、いったい何所から戻って来た。」 「………………。」 妹は畳に上がって、音もなく襖を閉てると、しずしずと部屋の縁を歩いて、箪笥に向いながら、膝を落とした。その箪笥は、兄の衣類を収める他に、妹の秘密の衣類を隠す場所とを兼ねていた。 「ははん。」 「なに?」 「いやなに、親父がぷりッぷりする理由が、今に読めたのさ。」 床に腕枕した幹彦には、か弱い灯の光りにさえ、妹の耳のうらまで赤くしたのが、闇に刃の閃くように、はッきりと眺められた。いつもならば、ぐうの音も出ないほど、やいのやいの言ってやる所を、この時ばかりは、それも結構な事だなと、一入落胆の色を隠さなかった。 「はあ。」 「あら? 珍しく叱らないのね。いつもならあたしが知らない男と一しょに居るだけで、兄さんたらすッ飛んできて、あたしの髪の毛をひッつかんででも、つまらない説法をしようとするのに、それが今夜に限って、馬鹿みたいにぼんやりしちゃッて、いきおい流行病にでも罹ったの?」 「流行病とは、お前なかなか上手じゃないか。僕はね、いいか笑わないでくれよ、僕の今夜はね、恋愛の真理というものに就いて、まあ深く掘り下げていた所なのさ。ほらそんな洋服なんかどうにでも放ッといて、ここの、明かるい兄さんの枕もとへ、まあ、お座りな。」 「何を改まっちゃって、いやよ。あたし歩き通しでもう眠いの、明日になさい、ありッたけ聞いたげるから。」 「いいから、さ、さ、ここへお直り。」 「いやッていったら、いやよ。つまり、あれだわね、兄さんあたしの夜帰りの癖に難癖つけるのでしょう?」 「叱るも褒るも、ないじゃないか。いいかい、兄さんこれからお前に手鏡を渡すから、そこに映る自分の顔をよおッくご覧。」 「あれこれあたしが買って抽斗に仕舞って置いたやつじゃないの、近頃ないないと思ったら、兄さんなぜそう勝手に人の荷物を掻き回すの。」 「覗いたかい? そら覗いたのかい? そうしたら、ほらッ、何か思いついた事があるだろう?」 「え、あたしの顔だわね。」 「もッとよくご覧、よおくご覧な。お前の顔は、その鏡に映りこんだ通り、甚だ美に欠かない造りではないのかね?」 「美に―――なに?」 「ウー、つまりだ、美しい顔じゃないのかね。」 「まあッ、まあッ、どうかしら! ついみッたくない顔じゃないなあと思って、お化粧していたけれど、そこまで兄さんに駄目を押されてみると、いよいよあたしは美しい顔に育ったのね! ねえもッと、もッと明かりをこっちへ寄越してちょうだいよ、ね、ね、」 そこまで話をこぎ着けた頃、幹彦は妹と手鏡を争うようにつかみ合った。 「じゃあ、次には兄さんの顔をよく覗いてご覧な。」 強い灯の明かりに入った兄の顔は、その醜い凹凸に沿うてひょうきんな影をつけながら、妹の顔の間近に合わさった。 「ぶッ、やだッ、夜も夜中に、気色悪いッたらありゃしない。冗談はよして、ちッとは向こうを向いといてちょうだい。」 幹彦は、噴飯する妹の様子をさも満足そうに眺めた後、再び暗がりへ顔を隠した。 「これが恋愛の真理という奴さ。お前には殊に美しい顔があるから、それとは気にも留めずに、言い寄る男を従えて、こんな夜分までお祭り気分でいるが、それが僕と来たら、お前だってぶッ飛ぶくらいの醜貌だものだから、一遍だって、女と恋を愉しんだことなどない。こっちで恋をしたって、あっちで恋をしないのでは、僕には一生恋愛というものを味わう事ができない。違うかい? この面ひとつで、恋もでき、この面ひとつで、一生女に愛されない。僕なんかは、百姓家に産まれた、種が欲しいばかりの女を迎えて、お互いに恋もなく、愛もなく、うん十年も一しょに生活を伴にし、何とか、愛着ていどの、下らない夫婦の未練を勝ち得られるだけの事だろう。ああこの忌ま忌ましさといったら、まるで鼻毛だね! 僕は何が嫌いと言って、矛盾ほど毛嫌いするものはない。或る者には無尽力で与えられ、或る者―――つまり僕だが、そこには庚申薔薇の蕊についた一露ほども与えられないとは、これが人類の矛盾でなくて、何だというのだッ! およそ人間に与えられて正当な、天職を、僕だけが永遠に許されない、憐れむべき片羽と変わりはない! ああたった一度で好いから、両方から走り寄って、力いっぱい互いの胸を抱き合うような、そんな大恋愛に自分をも見失ッて、思うさま恋人に惑溺したいものだなあ! もしそれが叶うとするならば、この命、悪魔にだってくれてやる!」 二人の兄妹は、兄が極まったのと、夜も深まったのを潮に、互いに枕を並べあって、床についた。 ところが一疋の悪魔が、箪笥のうしろにしゃがみこんで、これを聞いていた。悪魔は、恋愛に惑溺しさえすれば、自分に命をくれてやッてもいいと豪語した、幹彦の言葉を、鵜呑みにして、小躍りを始めた。 『ばかに胸騒ぎがして、遙ばる印度からやって来てみれば、これは願ッてもない話にありつけたものだ。よし、ここは一つ、この男と勝負をつけて、男がむざむざと女に酔い痴れた所を、案の定、己はその命をとってやる事にしよう。』
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