空から雨が降ってきている。太陽は境と咲夜がいなくなったことで完全に消え去ってしまった。光源のない世界で、月は懸命にこの世界を照らし続けている。太陽という自身を照らす光がないけれど、今まで与えてもらっていた光を使ってなんとか自身のできることを全うしようとしていた。 それがたとえ自身の命を削る行為だとしても。 絆は困惑していた。 確かにこの世界に逃げ込んだのは私自身だ。自分自身の強い思いから体が勝手に昏睡状態に陥り、気がついたら夢を見続けていた。 そして華霧冬至という存在が、この夢に意義をもたらした。本当は守木雪という女性が思い立ったとわかっている。けれど、実際にここまでやってくれたのは間違いなく冬至だった。 彼は知っている。私がどんな思いでこの夢の中での半年間過ごしてきたかを。 私は羨ましかった。気がつけば自身の体は死に向かっていた。そのことで頭が一杯になって、心が一人になってしまった。そうしていつしか私の身の回りも私だけしか見当たらなかった。朝も、昼も、夜も、いつだって私は一人ぼっちだった。友達だった人間も最初の一週間で来なくなった。本当は来てほしかった。でも死に直面している人間が当たり前に生きている人間に願ったとしても迷惑なだけなのだ。 人はいつだって自分が可愛い。死にたくはない。楽しいことだけを思っていたいのだ。だから家族も必要最低限しか会いに来ることはなかった。 いつしか私は、今まで当たり前のように持っていた“普通”をいとも簡単に失ってしまった。だから私は今もこうして普通に憧れた。憧れた時点で普通なんてもう手に入らないとわかっていたけれど、やめることはできなかった。やめられなかった。 そうして私は一つの選択をした。 私は私以外の人間に左右されることなく死んでやろう・・と。そうすれば私は自殺という死に方をすることができる。他人から哀れに思われたから、家族に見捨てられたから、そんな理由で死んでいくのは耐え切れそうになかったからだ。 死ねば、普通になれると思った。まだ人間らしい心が残っているうちに死んでしまいたかった。そうしなければ醜い自分に自分が耐え切れないと思ったから。まだ普通の中に入っているのだと錯覚していたかったのだ。 けど、それすらも許してくれない人間がいた。その人物こそが華霧冬至だった。私が死のうと屋上から飛び降りようとしたとき、彼は何故か必ずそこにいて私にこういうのだ。 「君は僕の見ているところで死ぬのかい?それでは自分で死ぬことにはならない。まあこっちに来なさい。僕には君を殺すことはできない」 つまりこういうことだ。人のいるところで死ねば、自殺として成立しないのだそうだ。もし私が冬至の目の前で死ねば、冬至は私を“見殺し”にしたと同じことだと。助かる人間を助けないのは殺人も同義だと言った。実に医者らしく、実に彼らしい回答だった。 それからというもの、私は冬至がいるとわかっていてわざとフェンスを飛び越えた。そして彼は見透かしたようにいうのだ。 「ほう?今日はどういった理由で死ぬのかな?」 そして冬至はたばこを咥えて、はにかむように笑った。私もおかしくなって笑い、冬至と私はフェンス越しに会話をするようになった。 私は冬至に救われていたのだと思う。死ぬことの素晴らしさも、生きることの苦しさも全てぶちまけた。冬至もその意見に賛成することはしなかったが、反対もしなかった。そのことは私をひどく落ち着かせた。私の思っていることを支持するわけでも、説教するわけでもない。ただ受け入れてくれたことがうれしかった。 皮肉にも普通じゃない人間のおかげで普通を取り戻していった。ある日冬至は初めて私の病室に足を運んだ。そのときのこともよく覚えている。 毎日決まった時間に私の担当医が検診にくる時間に彼はやってきた。 「おやおや、忙しそうですね。手伝いますよ」 バカだと思った。実際バカだった。担当もなんでもない医者が担当医の手伝いをするなんて前代身門だ。当然のように私の担当医は冬至できるかぎりの発言で追い払おうとした。でも冬至はまるで引こうせず、担当医に着いてきた看護師にまで巻き込む始末。私はそんな光景に思わず高笑いをあげて、こう言ったのだ。 「華霧先生、お願いします」 何故かそのときは満面の笑顔どころか思わず頭を下げていた。 それが最後の決定打になり、担当医だけを病室から追い出してしまった。その頃の私は病院内でもある程度名の知れた問題児だったから、いつの間にか私と仲良くなっていたから理解できなかったのだろう。 もうそこからは滅茶苦茶だった。私を見るのか、看護師をみるのかわからなかった。いや、きっと冬至のことだから両方見ていたに違いない。 いつもならすぐに終わるところをたっぷり十分も費やしてやっと検診が終わる頃、顔を真っ赤に染め上げて看護師は病室から出て行った。 「いつかセクハラで訴えられますよ。」 「大丈夫。あの子、前にやれるとこまで行ったから」 「最低ですね」 「だろう?実は僕もそう思っていたところだ」 そしてまた二人で笑った。 幸せだと感じていた。実際幸せだったのと思う。あの頃の現状からすれば私は幸せだったのだ。たとえ自分に治す気がなかったとしても、自分の病気のことを忘れているときだけは間違いなく幸せだった。 けど、それこそが間違いだった。普通を知っている私が幸せだと感じたとしても、それもう遠い記憶の中の幸せで、普通じゃなくなった私は本当の幸せがなんたるかを失念していたんだ。 不幸と幸福は無限にループする。それが普通だ。けれど普通じゃなくなった私は、不幸に制限がなくても、幸福には制限があることを失念していたのだ。あの時、私は人生で二度同じ過ちを繰り返した。二度目の幸福から転げ落ちた。 「それで、今日は何をしにきたの?まさか本当に私に会いにきたわけじゃないでしょ」 あの時はわたしは冬至という人間を今とは異なる感想を抱いていた。冬至はまず他の人のようではない。正確に言えば、人の真似をしている霊長類だ。ねじの一本が外れているように見えるが、実のところねじが一本しかない。それが冬至という人間だと思っていた。今はもうわからない。ここのところ冬至の人間らしい部分がみえてきたため、答えがあやふやになってしまっている。 「君にプレゼントだ」 何も持ってきていないのにそう言うのだから私は混乱した。冬至は終始笑顔で、私の部屋にあるただ一つのカーテンを開け、ある一点を指差した。 「あの先にあるのは希望だ。珍しくまともなプレゼントだろう?」 その言葉と、光景に私の幸福は音もなく崩壊した。 冬至のまともなんてまともじゃない。生まれついての異常者の思っているまともなんて普通を知っている者からみればそれはいらないことに他ならない。そうあの時は思っていた。 何故なら、このとき見せてくれた光景があまりに眩しすぎたからだ。 私と同じように病室のベッドにいる男の子は上半身を起こし、複数の人間と話していた。 男の子の表情は決して明るいとは言えないものだったけれど、周囲の人間の表情を見ていれば、ここに来る前はさぞかし幸福で恵まれている環境に身をおいていることがありありとわかった。 後のことはほとんど覚えていない。叫ぶような私の声とうろたえる男性の声がただ病室に鳴り響いた記憶しかなかった。 それっきり冬至は私の部屋に来ることはなかった。私も会いにいくようなことはしなかった。私には考えることで一杯だったからだ。 朝も、昼も、夜も、ずっと窓の景色を眺めていた。 朝はピクリとも動く気配すらなく過ぎた。昼は思い立ったようにどたばたしていた。夜になれば仲がよさそうな友達の男の子と二人組みの女の子が毎日のようにやってきていた。そして友達が帰るころに男の子の両親が少し話しをしてから帰っていき、寝るまで肩を震わして泣き続けていた。 もう自分のことを考えてはいなかった。カーテンの向こうにある景色を見ることで全てを忘れようとしていた。本来あるべき人間関係と、私自身がずっと望んでいたものの全てがあの向こうには存在していた。 それが決して手に入るものではないとも思っていた。精神的にも、物理的にも到底届かない。私と男の子の病室の間にある空白と言う名の空間が物語っていたのだ。 周りのことなんてまるに気にならなかった。私の行動は風呂と食事と排便の三種類に限定されていた。睡眠は体が勝手にやってくれるので興味はなかった。 そうして、いつしか二ヶ月が経過していた。 他人から心配され、幸福の絶頂にいるのに自身は不幸だと勘違いしている男の子はあっけなく退院していった。 同時に私は現実の中に引き戻されていった。 幸福の光景をみることが叶わなくなった今、自分に残されたのは自分だけだった。血走った眼球。荒れ放題の肌。やつれ、弱りきった体に追い討ちをかけるように病気は進行し続けた。 そんな私はいつしか水分を失った唇を開いた。 「もう、面倒臭い」 そうして私は、自身からも逃げ出すことに成功したのだった。
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