雨の中彷徨っている人間がいた。傘も差さず、急ぎもしない。重たくなった髪は垂れて眼を隠している。衣類は濡れて肌に張り付き、靴はぐちゃぐちゃと音を立てている。 彼の名前は秋山色取。数ヶ月前、彼は自身の半身とも呼べる存在を失った。色彩が崩れた残骸、それが現在の彼だった。彼はついさっき、ようやく自体を飲み込み始めていた。今日までの半年間の記憶が作られた舞台上で演じていただけだということ。この世界が夢だということ。そして兄が死んだこと。 彼は夢の中で彷徨っている。眼が覚めることのない世界で迷っている。帰りたくない世界から逃げたい気持ちと、そんなことが許されるわけがないという良心の葛藤の中で迷っている。 何も考えられないのに、何も考えたくないのに体が自然と動いていた。目的のない歩行から、歩行こそが目的となっているかのように。ただ、前を見続けようとしているかのように。それはここが夢の中だからだ。心が体を作っている。そして心は体の所有物だ。ゆえに色の心は死んではいない。そんな色の体は皮肉にも本人の意思とは無関係に生きる糧を探していた。 気が付けば、誰もいないスクランブル交差点の中央にいた。一体ここはどこだろうか?見たことのない飲食店に見たことのないコンビニ。どれもこれも有名なチェーン店であることには変わりないのだけれど、彼には名前さえも思い出すことができなかった。 空気の振動。音が耳に入り込んできた。車のクラクション。とても大きな音だ、きっと乗用車ではないのかもしれない。音は大きく高く、そして不快だ。そんな音は今の彼にとってストレスのなにものでもない。だがどうしてこの場所でこんな音が聞こえるのだろうか?彼はすでにここが夢だと理解している。証拠に周囲を見渡しても人どころか生物と呼べる存在なんて見ることができなかったのだ。 不快心から目を背けるように音と反対方向に顔を向ける。瞬間、彼の眼は大きく見開かれ、動かない。動けない。肉眼でもはっきりとわかる距離だからきっと30メートルくらいだろうか。一つの自転車に二人の人間。二人乗り。二人は楽しそうに笑い、話している。見たことのある学生服は、現在彼が着用しているものと同一のもの。後ろに乗っているのは漕いでいる少年と雰囲気がとてもよく似ていた。二人は見覚えがあった。忘れるはずがない顔だった。 色から顔からサッと血の気が引いていく。クラクションは鳴り止まない。自転車に乗った二人は楽しそうにおしゃべりをしている。止まらない。 (やめてくれ。止まってくれ、お願いだ。頼む!やめてくれぇ!) 色は叫び、止まらない。痛いくらいに、願わない。涙が、届かない。必死に、やめてはくれなかった。 衝突した。轟音が鳴り響き、衝撃が肌に刺さった。聞いたことがあるような、それでいて聞きたくないようなほど大きな音が鳴り響いた。ブレーキ。金属同士の衝突音。悲鳴。非命。阿鼻叫喚。 秋山色取は逃げ出した。現実を見せる夢から逃げ出した。あの時あの場所で起こった出来事の記憶が否応なしに自身に叩きつける。次第に息が上がり、足が重くなり、体が熱い。何も見えない、聞こえない。一頻り走ると落ち着きと理性が舞い戻る。ようやく周囲の情報が五感を通じて流れ込んできて、ここがどこだか理解した。公園だった。自宅から学校のちょうど間にある公園。そして事故現場からもっとも近い思い出の場所。 止まない雨。 荒い呼吸のままベンチに座る。頭が重すぎて、前を向いていられなかった。腕をももに乗せて一息つき、気が付いた。 「あ・・・あああっ」 赤い、赤い、赤い! 赤い液体がついていた。手についていた。生命の源。死の象徴。 驚きのあまり声が言葉にならない。必死に手をぬぐう。雨で落とそうとした。地面の泥で落とそうとした。けれど血は一向に堕ちてくれない。こびりついていた。 もういやだ。忘れたい。記憶を沈めたい。そう切に願う。あの時の恐怖が体を支配し、あの時の恐怖が心も支配している。 だが願いは叶わない。ここは夢の世界。この世界で兄を呼び起こしたいと願っているから。再び兄と再会したいと、そう願ったのは他の誰でもない色本人だったからだ。 その場で膝をつく。 (消えろ。消えろ。消えろぉ!) 手に付いた血を必死に落とそうとするが、落ちることはない。落ちるはずがないのだ。 ここは夢だから、この血も、幻想も何もかも自身の記憶から作り出されているものだから決して消えることはない。 視界の先からも赤い液体は流れてきた。雨に流されていた。 (今度はなんだ・・・) 赤い手の先から流れてくる紅い液体の出所を見るために視界をさらに先に向けると、心の大半が世界に持っていかれた。 そこには死体と死体の向こうに立ち尽くす少女の姿があった。死体、それは見慣れた体、見慣れた顔、そして見たことのある光景だった。その死体はかつて、色が兄と呼んでいた者に酷似していた。 秋山彩人(あきやまさいと)それが死体についていた名前だった。 数ヶ月前、事故が起きた。色と彩を乗せた自転車が車にはねられたという事故が。二人乗りをしていた自転車と、飲酒運転が発覚したトラック、両方被害者で、どちらも加害者だった。 その運転手は事故のせいで職と金を同時に失い、路頭に迷った。色は兄を失い人生に迷った。 そうして、二つの世界に分けられた兄弟がいた。片割れは病院に送られ、もう一方は・・・。 そこから歯車が回りだした。皮肉にも、兄の死が原因で。 少女は死体の胸にそっと手を置いていた。 色の顔が動き、少女の顔も動いた。色の顔は誰が見てもボロボロで、誰が触っても崩れ去ってしまいそうだった。少女は、雨のせいでしっとりと濡れた黒髪は肩を少し越した程度の髪の長さで、頬やおでこに髪がぴったりとくっついている。そのせいか普通にしていれば可愛いと思えるような顔が生気をなくしたような妙に無機質じみていた。そんな女の子がそこには存在していた。 色を目の前の女の子はただ見ていた。哀れんでいるわけでもない。同情しているわけでもない。無表情のまま、視線は色に向けられているだけだった。 ザッザと女の人は歩み寄ってくる。もう色には考えることはできない。目の前の女の子は色の眼の前まで近寄って、こういった。 「帰りましょうか」 月は急ぐように昇り始めていた。
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