心臓の鼓動がやけに大きくて、そのあまりの大きさに音が聞こえるほどだ。手足は自動的に動き、眼はちかちかしている。オレじゃないオレが、オレを支配し続けていた。一体どこに向かっているのだろうか。どこに・・・行けばいいのだろうか。 そういえば、ウォークマンの電源がついたままだった。どうも周囲の音が耳に入ってこないかと思ったらこのせいだったのか。でもイヤホンから流れ出る音は、すごく微量だったのだ。ボリュームは最大なのに・・・。ただただ、オレの耳にはいるのは、暗く、恐ろしい音楽が小さく響いた。 ラ・カンパネッラ。 学生服のまま浮浪者のように彷徨っていると、気が付けばどこかわからない路地裏にたどり着いていた。両手はポケットに突っ込んだままだったが、奥から沸いて出ているような腐臭の抑えるために手を抜いた。 卵や野菜のような腐臭ではない。これは肉だ。肉が固まり、腐っていくような匂いだ。臭い。我慢できないほどに。 でも足が止まることはなかった。 こんなに臭いのに、どうしてオレは腐臭のもとに向かっているのだろうか。わからない、香りに誘われた虫のように思えた。次第に手足の感覚がなくなってきたみたいだった。
奥に進んでいき突き当たりを曲がる。 そこは、地獄が広がっていた。 まだ若い女性が鉄の杭で両腕を貫通されて壁に張り付けられていた。手足は切り裂かれ、内臓は飛び出て、衣類は何もない。しかし顔だけはとても安らかで、綺麗だった。遺体と思うしかない人間だったもの周りは赤で統一されていた。眼を凝らすと間違いだったことに気が付いた。赤はペンキではなく、コンクリや壁にはびっしりと血がこびり付いていただけだった。そうして遺体から、血が流れ出ていないことに気が付いてしまった。 「なんだこれは・・・。うっ!」 あまりの光景に我を取り戻して現実に引き戻されると、急激な嘔吐感が身を襲う。胃の全てをぶちまけるだけにとどまらず、胃自体も出してしまうくらい勢いよく吐洒物を撒き散らした。 「一体誰がこんなことを・・・そうだ、警察!」 慌てて携帯をとりだそうとしたけど、手が震えて携帯を落としてしまった。落としたことに気が付くまでほんの少しの間があった。ポケットから携帯がするりとおちるそのさまを終始見終わったところでようやく体が動いた。 拾おうとしたけれど、視界の隅からすっと別の手がでてきて携帯を拾った。 顔をあげると、ブラックのスーツを着た男性がいた。髪はオールバックでサングラスをしていてとても怪しい。ふいに、心がざわつき、頭が混乱してしまった。 (逃げないと!) 男のわきを通りすぎようと足を踏み出そうとしたけれど、男は遮るかのように携帯を持った腕を突き出した。 「君のだろう?」 低いバス。しかしとても聞き取りやすい声だった。逃げたいけれど、携帯を男にもたせたままでは危ない気がしてならなかった。当たり前か。 「ありがとうございます」 自分の声とは思えないほどかすれた声がでた。何に対してこんなにも緊張感を抱いているのだろうか。後方にある死体か、それともこの怪しい男か。どちらでもあるのかもしれない。 「なあ、力がほしいか?」 そう男はいった。急にそんなことを言われてもなになんだかわからない。力?一体どういうことだ?何のことだろう・・・力・・・オレは力がほしいのだろうか。けれど、オレはそんなものよりももっとほしいものがあった。平穏だ。もし、力があったらいいのに、なんてことはしょっちゅうある。でも自身の力は自身の力で鍛えるものだ。仮に他人に与えられたものがあるならば、それはきっと偽者だろう。だからオレは、 「あ、いらないです」 とあっけなく、そっけなく答えた。 再びわきを通りすぎようと、足を前へ突き出す。こんどは邪魔がなく日常に戻れるかと思った。すこし安心した。けど・・・。 バサッ、と目の前に黒い何かが音を立てて遮った。驚いて身を反らすと目の前にあるものがわかった。 翼、それも漆黒の翼。そのあまりの黒さゆえに、烏を連想させた。そして、翼は男からでている。男の背中から・・・翼!?これは一体なんだ?作り物だろうか、それともアクセサリーか?いや、さっきまでこの男の後ろには何もなかった。何も見えなかった。だが現実としてオレの目の前には漆黒の翼が存在している。まるでゲームの世界にいるようにさえ思えた。ファンタジーか。どうしてこんなものが目の前にありオレの行く手を遮るのか?わからないことだらけだ。 「どうした。あまり驚かないな」 男はつまらなさそうにいうけれど、オレは十分すぎるほど驚いている。都会におびただしいほどそびえたつビル。並びすぎたビルの影にまるで迷路のようにある路地裏の奥で発見してしまった無惨な解体現場。地獄をみてしまった哀れな一市民の目の前に現れた謎の男。もうこれだけでオレはゲームの世界にとびこんでしまったような錯覚を覚えた。だがやはりここは現実なのだと実感してしまう。 頭の中で一つの言葉が何度も何度もでてきている。 逃げろ! 逃げたい、今すぐこの場から逃げ出したい。でもできないんだ。だって、足が・・・震えて・・・動かないのだから。 「どうしたんだい?」 翼を生やした男が笑う。声や、仕草はこちらをいたわっているように見える。サングラスに翼という異形姿は真逆のイメージしか生まない。 「あんたは一体なにものなんだよ?」 まだかすれた声がもとに戻らない。たった一言はなしただけなのに汗で髪がぬれてしまった。背中にシャツが張り付き、動機がはやくなっている。マラソン後のように大きく酸素をとりこんでも、酸素をほっする体は満足しない。 そんなオレをみた翼の男は、にっこりと不気味に、笑った。 「ようやく、聞いてくれたね」 「どういうこ」 「さてさて、本題に入ろうか。」 こちらの言葉を遮って勝手に盛り上がっていく男のサングラスに違和感を覚え、オレはゆっくりと顔をあげると、あまりのことに腰を抜かしてしまった。サングラスごしでもわかる、男の目が紅く光っている!さらに尻餅をついたことで男の背中には、二枚の羽が生えていることが今頃わかった。 だめだ、もう何も動かない。だがどうしてだろう、こんなにも思考だけははっきりしている。 「君は選ばれたんだ!この僕に!さあ変わろう、そして生まれ変わろう!この世界を、人間達をすべて消し去るんだ。君はついさっきまで感じていたじゃないか、絶望を、失望を。さあ、人間への興味をなくした君が最初に興味を持ったのはなんだと思う?・・・そう!僕のような人間ではない生き物だ!さあさあさあさあ、さぁ!君も、僕たちの仲間にいれてあげよう。そんなに震えなくても大丈夫。こっちにくればそれすらもわすれるからさ」 両手を広げ、翼も広げ、愉快に軽快に快活に、そして狂おしい笑顔で演説する男に恐怖を通り越したなにかがオレを制圧しようとしていた。 すでに男はオレを見ておらず、その視線は天高く上りつめ、あの赤く光る月に向かっていた。 そうして顔を上げた男からサングラスが落ちた。 ああ、リスト。あなたの音楽は僕にとっての最後の音楽になりそうです。イヤホンはとうにはずれているはずなのに、耳にあの音楽が耳にへばりついている。そして、眼には、男の邪悪で、純粋な眼が染み付いた。 紅い目玉の中心に暗黒の眼がそこにはあった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
深夜、ビルの隙間から変化する合図が鳴り響いた。 一体そこで何があったのかは、誰も知らず、何者かが知っている。ただ、スタートの合図だけが、人間の耳に入った。
今日この日、朽木 良一は・・・人間でなくなってしまいました。 オレの心にはいつも、絶望があるようです。だがこれで、誰もオレを振り回すことができなくなったかもしれない。
ゴメンネ・・・か。
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