記域。それがこの場所の名前。またの名を鬼域、鬼哭とも呼ばれていた。 名前の通り、この場所には鬼が住んでいる。故にここには何人たりとも出入りする所か見ることも叶わない。しかし、周囲の人間には言い伝えられている。 迷いしものが足踏み入れればたちまち消えてしまうだろう、と。 実際に信じているものはいない、何故ならば誰が消えていったか誰も知らず、誰が広めたかも誰も知らないからだ。だが、地域の住民はただ一人欠けることなくこの言い伝えを頑なに伝えている。馬鹿馬鹿しいと頭でわかっていながらだ。そんな消滅の意味を孕んだこの場所を、黒い者達が覆い尽くそうとしていた。
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ。
数にものを言わせて占領した門には今だに傷一つなく、地面には黒いシミがボトボトと落ち続けている。 「愚かね」 鬼域・・・いや、記域の遥か上空、落ちて続けているそれ達からだいぶ離れた場所で管理人である鬼無里紅葉は呟いた。必要最低限の使用人である鬼たちは下位への非難を確認して現在はこの上空から記域を見守っている。予想以上の光景が目の前に広がっていた。人間界とは切り離されたこの場所では鬼たちの制限はない。よってこの場所での交戦は敵戦力の殲滅を意味している。いくら何百、何千もの死者を寄せ集めたところでこの12人が負ける道理などありえるはずがない。あの方が裏切らなければ・・・。 鬼無里紅葉は無表情のまま下界を見下ろす。そこには死体が転がっている。文字通り、そこらへんにいくつもの死体がころがっている。落ち葉のように、虫のように、ゴミのように。綺麗に作成されたベンチも、計算されて育てられた花も、感性で創造された噴水も、すべて赤く染まっている。別に世界に切り替わっているといってもいいのではないだろうか。 死体といっても様々ある。首がない死体。四肢がない死体。雑巾のように捻られた死体。上半身だけがない死体と、下半身だけがない死体。手足がバラバラに組み合わさっている死体。そして、とても死体とは言いがたい死体。 「はあ・・・はあ・・・くそっ、強いな」 ミニスカ警官のコスチュームに身を纏ながら、次々に空から現れるそれ達を相手にしているのは、“無敵”コスプレイヤー、いや、“無敵”ウェイトレスの蘭だった。 彼女はこの西館にある食堂を守り抜くために西館の入り口正面で戦っていた。彼女に能力はない。ただの鬼でしかないが、それでも彼女はそれ達を必死に打ち負かしている。すでに倒したそれ達を重ねれば、一クラスは集まりそうなほど彼女は頑張っている。しかし、そろそろ限界が近付いていた。以前天野が殺したそれとは質が違うし量も違う。今回のそれは、微弱ではあるが意識がある。しかも、動く早さと腕力が普通の人間ではない。 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね! 犬のような声と共に頭に流れ込んでくる負の感情は愚直なまでに統一されている。もちろん蘭の頭にはずっと自身を殺したいほどの念が響いている。聞きなれてはいないけれど、別段気にするような感情でもないが、あまりに五月蝿いほど流れ込んでくるため、すでに嫌気がさしていた。 「このぉ!」 ついさっきからようやく死者達の殺し方のコツを掴んできていた蘭は、また一匹の頭を粉砕した。死者たちの存在としての生命力はきっと人間より高い。心臓を潰しても、血を抜いても、四肢を千切ってもおそらく死なない。ならば、頭部を破壊し、全身を粉砕するといった“殺す”行為ではなく“壊す”行為がもっとも効率の良い消去方法だった。 「まだあんなに・・・」 ドンドン!と上空から再び死者の増援が落ちてきた。コンクリではないため、土がいいクッションになり死者達は上空から落ちても破壊には至らない。まるで計算されたかのようにさえ思えた。蘭は全方を凝視する。数にしてざっと20。蘭には西館を守るという使命があった。お嬢から言い渡されたわけではないけれど、100年以上この館で働いてきたからか、自身でも驚くほど愛着がわいていた。蘭の拳に力が入る。 「まだまだぁ」 ぐっと足に力をこめ、前方の死者に突っ込もうとした瞬間、目の前に壁が立ちふさがった。 「一体何!?」 「あなた、まだ残っていたの?はやく下位へ非難しなさい!」 淡い紫のマフラー、クリーム色のセーター、そしてカジュアルなジーンズと格好よく着用し、あたかも会社帰りのOLを思わせて登場したのは12人うちの一人、桜井小夜子だった。しかし蘭は驚いたまま固まっている。それもそうだった。なぜなら、小夜子はある生き物に跨っているからだ。 頭部までの高さが身長160cmの蘭の倍もありそうなほど巨大。形状は馬、しかし爪が生え、頭部には二本の角が生えているその姿はまるで東洋の龍を連想させた。 邪魔邪魔邪魔死ね殺せ。 死者達の念が小夜子の頭にも容赦なく降り注ぐと、小夜子の表情が渋った。 「邪魔ね。ほら、鬼麟(キリン)」 オオオオオッ!と咆哮する鬼麟。そして、口を大きく開けた瞬間、灼熱の炎が死者達を襲う。瞬く間に死者達を丸呑みにした炎は、一瞬のうちに目の前にいた死者の存在を世界から消し去った。 「小夜子姉さ〜ん。早く次行こうよぉ」 蘭と小夜子の上空から巨大な物体が落ちてきた。 ボトボトボトボト。 新たな怪物、新たな味方の正体は巨大な虎だった。模様はまさしく虎、しかし雪のように真っ白な毛並みに小夜子の乗っている鬼麟よりも巨大な生物はすでに兵器の領域ではないだろうか。そんな怪物のような虎にまたがっているのは黒のジャンバーに黒のハイネック、ジーンズに黒色のブーツと、真っ黒千早だった。 「ほら、伝鬼(デンキ)も言ってるよ」 まさしく虎のように咆える伝鬼。咆えると同時に体中から電流が放電され、未だ落ちるのをやめようとしない死者達を殺しつくした。 蘭はまだ頭が追いついていなかった。実のところ、男性の館でしか働いた経験がない蘭にとって女性の鬼の能力を見るのはこれが初めてだった。しかも小夜子の能力もまた他から見れば特殊だった。いや、12人の能力自体特殊なのだろう。 桜井小夜子。彼女の能力は“幻想生命”。能力で作った命、体、そして力。どれもこれもがオリジナル、そしてイレギュラーな存在だ。思いつく限りの存在を、思いつく限りの力でこの世界に生み出された命はまさに幻想種。言葉通りの、意味どおりの想像上の生き物だった。そして小夜子はそんなイメージ思念体の創造主である。 小夜子と対となるような能力を持つ朝倉千早、彼女もまたイメージ物質の創造主だ。桜井小夜子は生物を、朝倉千早は無機物を作り出す。二人の違いは決定的な差が生じている。千早はただの道具を生み出すだけなので、それこそ一瞬で大量に作り出すことができる。一方小夜子は最低でも生み出すのに一日かかる。前に神楽光と戦闘しようとしたものは、自身の影、自身の残骸から生み出した本当に即席の生命に過ぎない。しかし今現在使役しているものは、一体生み出すのに約半月の時間を費やしている。形だけなら簡単だ。一週間もあればできるだろう。しかしそこからが大変な作業になる、何しろ本物の魂を使っているのだから・・・。そんな能力にワンランク以上ものスペックを有している小夜子だからこそ千早は慕っているのだ。 「まあいいわ。蘭さんだったわね、とりあえずあなたも下位にいきなさい。羽津鬼!」 透き通るような音色とともに現れたのは、前長15mはあろうかというほどの巨鳥だった。馬のような竜よりも、白い虎よりもさらに巨大。頭部は芸術品のように色鮮やかで、鳥なのに腹部にはうろこが生えている。そして何より眼を見張るのが全身からあふれ出るような炎だ。まるで不死鳥・・・フェニックスだ。 「さ、これに乗って行きなさい」 「でもまだ・・・」 「後のことは任せて、ね?」 蘭は館をちらりと見た。確かに自分よりもこの生き物達のほうが何倍も強い、それだけははっきりとわかる。しかし何故か不安が心を支配する。不安要素なんてどこにも見当たらない。すでに千もの死者がこの地にいるだろう、だが自身よりも弱いものがこの生き物を倒すとは到底思えない。しばらく考えたすえ、蘭はようやく答えを導き出した。 「わかりました。西館をよろしくおねがいします」 「わかったわ。私はこの場に留まり続けないけれど、私のものをつけます。あら?」 小夜子は思いもよらない人物を見ておかしくなった。蘭の背後、西館から出てきたのは、全身を黒いコートで覆い、無精ひげを生やした鬼、籠原煌(カゴハラキラ)だった。 「籠原さん!」 蘭は籠原を見た瞬間、心を支配していた不安が一気に消えてしまった。それもそのはず、籠原は男性の鬼どころか12人の鬼のリーダー格、つまり実力だけでいうならば1・2を争う実力者だったからだ。 「これはそれほどまでに重大なことなのかしらね」 「後にわかる」 「ふ〜ん、そう。じゃあこの場は任したわ。あと、念のために羽津鬼を上空に待たせるけど、落とさないでね」 「努めよう」 そうして、小夜子の巨鳥は蘭を乗せて下位に向かって大きな翼を広げて飛び立った。続いて千早に呼ばれた小夜子も鬼麟に乗って次の殺戮現場に向かって颯爽と駆けていった。 「重大だ。今日ほど待ちわびた日はない。」
殺せ、殺せ、死ね、死ね、邪魔だ、殺せ、死ね、死ね、殺せ!
新たに堕ちてきた死者の群れ。犬のように舌をだらしなくだし、唾液を口からこぼしながら籠原に向かっていく。 「贄となれ」 籠原はコートに手を入れたまま立ち尽くす。だが、目の前にはいつのまにか、死者の残骸が転がっていた。頭部はつぶれ、四肢は地面に埋まり、背骨は逆に曲がっていた。まるで何かに押しつぶされたように思える。
桜井小夜子ですらこの事態に気が付かない。神楽光ですら気が付かなかった事態だ。西館を守る、籠原、ただひたすら殺戮を楽しむ秋葉、殺す価値もないと判断して何もしない桐ヶ谷、そして鬼無里紅葉、この四名だけが現在の自体の重大さを理解している。 記域を襲撃している死者たちはきっと何も知らないだろう。自分達が襲っているこの場所こそが自分達の墓場なのだと・・・。
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