子供のころは、大人が眩しく見えて仕方がなかった。色々な知識や経験を経た、その人の完全体というべきなのだろうか。大人になれば、自分のことがはっきりと見え、これからのことをなんでも自分でできるようになれると思っていた。お金をため、色々な人を助ける力を手に入れられると思っていた。それはまるで、ヒーローを見ているように感じた。父の大きな背中を、母の愛情を一心に受けた子供たちのほとんどはそう、感じるだろう。 けれど、大人を大きく、偉大に感じ、大人になればなんでもできると思っている時代こそが、その人の子供時代だと思うのだ。 ならば僕の子供時代は、きっと、永遠に終わることはない。 あの時、僕は願ってしまった。 誰か・・・どうか誰か、あの子を助けてください。もう、僕では無理なのです。ずっと、ずっと僕の思いつく限りの力と、知識と、思いを注ぎ込んだけれど。僕にはどうすることもできなかった。だから、どうか誰か、あの子と僕を、救ってください。立ち止まってしまったあの子を、あの子においていかれた僕を、そしてあの子を置いていってしまった僕を・・・助けてください。お願いします、と。
◇ 時間通りに家をでた。駐車場にある車に乗り込む。今日は現場監督の初日、だけどもう一人同僚がでている。重量計算、構造計算書etcは問題もなく、今日まで順調にきていたし、資料はすべて昨日現場においてきたから、僕一人いなくなっても問題ないだろう。 だから僕は今日、仕事をサボった。 僕はそのサボりを決めた頭を使って車のアクセルを踏み込んだ。行き先は決まっている。 約1時間、車を動かすと、見慣れた道についた。桜並木だ。ここ数ヶ月、仕事が忙しくて立ち寄ることはなかったけど、今年の春もきれいに桜が咲いている。まだ冬を感じさせる枝、道路にはまだ散った花びらはなかった。この町の、この道が、僕にとって故郷の玄関だと思っている。それは、毎回この道を通るときに、僕は自然と安堵するからだった。でも僕は、故郷であるこの町が、年を重ねるごとに、苦しい場所に変わっていくと感じている。車を走らせると自然に眼に飛び込んでくるのだ。子供のころに通った道がきれいに整備され、新しい店やビルが立ち並び、昔遊んでくれた老夫婦の家にはマンションが建っていた。ほんのわずかにだけど、変わっていくこの町が嫌だった。まるであのころから何一つ変わっていない僕だけが、この世界から取り残されている錯覚にさえ陥った。 そうして変わっていく故郷を、フロントガラス越しに眺めていくと目的の場所にようやくたどり着いた。 よかった。この場所だけは変わっていなかった。 病院。ここで僕の人生は、ようやくスタートした場所だった。小さいころ、いや、まだ僕が早く大人になりたいと思っていたころ、僕はここでようやく大人とはどんな存在だと、自分勝手な解釈だけど、ある程度理解した場所でもあった。 車を駐車場に止め、院内に入ると、早速足元の感触がコンクリからリノリウムに変わった。きっと部屋も変わっていないはずだ。そうして僕は後ろを向いたまま前進している気持ちで、ある部屋に向かった。 病室に着き、名前を確認する。よかった、ここもあの時のままだ。もし、病室が変わっていたら、一体僕は何を信じて歩けばよいのだろうか。そう思うとまだこの場所があることがたまらなくうれしかった。でもそんなことを思った自分に気がついて、自分を嫌悪した。 僕は、その日病室には入らなかった。来る気分だったけれど、会う気にはどうしてもなれなかった。僕は、病室の前に花を置いてその場を立ち去った。アネモネの花を。 振り返ってみれば、あれからもう5年もの歳月が流れた。僕はもうあのころのような元気も、性格もない。あれはいつ、誰に言われたのだろうか。昔、誰かに言われたことがあった。 人は、思い出しか持つことができない、と。
◇ 「あーあ、つまんねぇ」 オレは適当にばら撒いたボールを、特に目標もなく、目的もないままゴールにけった。蹴り方もばらばらだったから、知らないやつがみたらただの玉蹴り遊びにしか見えないだろう。いや、実際玉蹴り遊び同然なんだけど。 「なら勉強したらどう?せっかくまだ学校が開いているときに登校したんだからさぁ」 「ハルコうるせぇぞ。さっさと勉強終わらせてこっちでサッカーやろうぜ。で、後で見せてよ」 「またそんなこと言って。どうせ私で遊ぶだけじゃない。まあ別に見せてもいいけど。でもハルオって確か文系の大学受けるでしょ?これ、物理だけど・・・見る?」 「やめてくれ、そんな暗号見せられても困るだけだっつーの!まあいいよ、あいつがくるまで暇潰してるわ」 「そう、やっぱり来るんだ」 それっきり会話が途切れた。まあオレとこいつの会話なんていつもそんなもんだし、特にきまずくなるなんてこともない。会話が途切れて気まずくなんてのは、まだ付き合いが短い証拠ではないかと思う。 オレは夏休みで誰もいないグラウンドでただ一人、引退後もこうして遊び半分堕落半分の気持ちでボールを蹴っていた。一方、野村春(通称ハルコ)は、グラウンドの片隅に置かれたベンチに座っていた。そこは、(間違いなく)周囲の学校よりも多く木で作られた影部屋だ。そこで先ほどオレに見せた物理の教科書を、まるでクロスワードをやっているような顔ですらすらとペンを走らせていた。 時計の短い針が11を、長い針が30を指したところで、夏にもかかわらず上下黒の服を着た根暗男、天野零(通称ゼロ)がエナメルバックを持ってやってきた。 オレも、こいつもこの夏最後の大会まではサッカー部に所属。ポジションは同じボランチだ。夏休みである現在、勉強での疲れや気持ちをリフレッシュするために、たまにこうして一緒にサッカーをやっている。 「遅いぞゼロ」 「遅くはない、時間通りだ。昨日メールしただろう」 「そうだったか?でもオレより遅いっていう事実は曲げられないぜ」 「あ、天野君だ。やっほー」 どうやらクロスワード(物理編)の区切りがちょうどついたらしく、ハルコは長い髪を揺らしながらゼロのところまできた。でもなぜかこいつ・・・みんなはゼロのことを天野と呼ぶ。何故だろう? 「やあハルコ。暑いのに勉強熱心だね。」 「いや、勉強なんてたいそうなもんじゃないよ。まあ試験科目に物理はあるけど、これはただの遊びで解いてるだけだよ。だってこれTだもん。」 「ところで、昨日ハルオから聞いてたよな?」 「天野君が来る時間?なんか言ってたきがする。夏は朝一が一番いいのに、ゼロは昼前にくるとかなんとか、そんな感じで愚痴ってたよ」 オレは昨日の晩、ハルコに電話してことを思い出した。とっさにでた「やべ」なんて証言をごまかすようにドリブルを始めた。 「もうしょうがないなぁ、ハルオは。じゃあ天野君、がんばってね」 「ああ、つまんなかったら帰ってもいいんだぞ」 「ありがとね」 こうして、オレと、ハルコと+1は、グラウンドを見事に独占した。ハルコはまたさきほどの影部屋にもどり、今度は文庫本を読みはじめた。そしてオレとゼロは二人でサッカーを始めた。 まずは、体操にランニング。次に基礎的なメニューをこなした。まあ部活でやっていたことを二人で消化しただけだ。でもオレ達が一番盛り上がったのは、リフティングリレーだった。これはもちろん、リフティングをしながらリレーをすること。でもこれが難しく、熱くなれた。 そうやって、オレとゼロは、飽きもせず時間も忘れてサッカーに打ち込んだ。たったの二人だけだったけれど・・・。 影が伸びすぎたことに気がついて、オレとゼロは今日はここまでと、気持ちにくぎりをつけた。 「お〜い、ハルコォ。荷物持ってきてくれ」 「わかった。」 ハルコは手早く自分の荷物だけまとめて来た。 「なに?どうしたの?」 「おまえなぁ、オレの荷物はどうしたんだよ」 「自分の荷物は自分でどうにかしてください〜」 「おまえ、今度犯してやるからな」 「「はいはい、馬鹿言ってないで早く取って来い」」 ゼロとハルコのダブルで言われては、オレに勝ち目はない。オレは軽く舌打ちをして、走って荷物をとりにいった。 最後に、オレとゼロは水呑場で、簡単に体を拭き、着替えた。門のところで待っていたハルコに「悪い」といって。帰路を共にする。帰るころには、すでに空は紅く染まっていた。 「ところでハルコ、あんたはやっぱりハルオとは一緒の大学じゃないのか?」 「うん。本は好きだけど、やっぱり文系方面はちょっとね。それで、近くの短大に決めたの。家も近いし・・・まあ色々な事情でね」 オレは、色々な事情という単語を聞いてすこし、頭にきた。でも、ハルコ本人が、自分自身の力で決めたことに口を挟むほどオレは馬鹿じゃあない。 そこで、あることに気がついた。 「おいハルコ。おまえ、その肩の傷どうしたんだよ」 「え?やっぱり見えてるの?やだなぁ、昨日バイト先でうっかり道具を落としちゃって、それで・・・」 「そうか、気をつけろよ」 そのときハルコは、うんとしか返事をしなかった。そうして、オレとハルコとゼロは、紅く染まる夕日の中、最後の夏休みを満喫しながら家にたどり着いた。
遅れながら自己紹介。オレは雨宮晴(通称ハルオ)。オレと、ハルコは小学校高学年の時に始めて同じクラスになった。すると苗字と名前のせいで番号順に並ぶと自然に席とその他もろもろが隣どうしになった。さらに字は違うけど読み方まで同じのおかげで、小学校時代はずっと喧嘩していた。だからオレ達のことを知っているやつは、みんな「ハルオ」と「ハルコ」と呼んでいる。けど実際に、喧嘩以外の思い出はない。 中学校にあがればこんな事とはオサラバできると思っていた。思いたかったのかもしれない。でも誰の呪いか、中学時代の三年間もすべて、同じクラスになった。 オレはまた同じように喧嘩する毎日が待っていると思った。でも、実際は違った。中学校という心機一転の環境のせいか、それともオレ達が少し大人に近づいたせいか、それともその両方なのかはわからない。最初のうちは、それこそツンケンした関係だったのだけど、気がつけば、オレ達はすごく仲がよくなった。それこそ、恋愛対象の関係なんて眼じゃないほどにまで・・・。 振り返ってみれば、どうして急に仲良くなったのかオレは覚えてない。ハルコはどうか知らないけど、少なくてもオレにそんな思い出はない。でもいいんだ。今が楽しいからそんなものはどうでもいい。そうしてハルコとの中学校生活を終え、オレは自分の居心地のいい場所にい続けるために、ある程度の努力の結果、無事にハルコと同じ高校に通うことができた。 でも事件はおきた。三年前と同じ呪いが続いていたのか、予想通りにハルコと同じクラスになることはできた。でも、出席番号でオレは2番だった。そしてオレの目の前にいたやつがいた。 天野零だった。 そのときの気持ちは覚えている。なんたってオレの席の横に座っているのはハルコでなければならないと思っていたからだ。そうしてオレは、入学式終わって早々にやつを体育館裏(お約束)に呼び出した。ところがあいつはオレの死闘の申し込みを無視しやがった。 翌日、HRが始まる前に喧嘩するまんまんでゼロの胸座をつかんだ。オレは、そうして一言言ってやった。「席替えろ」。その時のクラス中の顔は覚えている。もう顔に書いてあった、「はあ?こいつ何言ってるんだ?」そう書いてあった。それからあいつはこう言ったんだ。 「あんた、誰?」 オレは頭に血が上ったのを自覚したまま、やつの頬を思いっきり殴った。天野はオレと同じくらい背が高く、おれ達二人の席を巻き込みながら倒れた。大きな音がした。その音で急いだのだろうか、すぐに担任が教室に入ってきた。もちろんオレはその場で体を拘束され、殴られた。殴られて我に返ったとき周囲を見てみると、誰も席を立ったものはいなかった。席から離れたやつといえば、オレに殴られて床に寝ている天野と、オレを羽交い絞めにしている担任教師と、目の前にいたハルコだった。そう、殴ったのはハルコだった。そのときハルコが言った言葉も覚えている。 「このアホ」 もちろん拳は握られていた。 でも、教室にそれ以上の怒鳴り声は上がらなかった。変わりに笑い声が聞こえた。笑っていたのは、天野だった。天野は何も悪くなく、もう完全に被害者なのに、まるでツボにでもはまったように腹と口を押さえて笑い出した。もう何がなんだかわからない状況だったことは確かだった。 そうして天野はひとしきり笑ったあとで、「あんたたち面白いな」といって、微笑んだ。 それからはとんとん拍子だった。停学という形で高校デビューを迎えようとしていたオレを救ったのは、なんと天野だった。その日の放課後、生徒指導室で停学を言い渡される寸前で、天野が部屋にやってきては、「あれは先生方と驚かせるためにお芝居だったんです。」なんて狂言を吐き、天野と一緒に入ってきたハルコはしきりに謝っていた。二人のおかげで、オレは校則を原稿用紙10枚という本当に軽い処罰を受けた。もちろんそんなものはハルコと天野と(無理やり)分担して片付けた。 それから、本当にそれからオレの本当の意味での高校生活が始まった。天野とオレは何かを始めたいということで、未経験ながらもサッカー部に入部した。すこし、中学と違ったことは、オレとハルコが二人っきりになることはほとんどなかった。なぜなら天野がそんなオレ達を付回すようになった。オレだけのとき、オレとハルコとその他がいるときは極力近づいてこないけど、二人きりという状況下になったときだけは、寄ってくるのだった。実に不思議なやつだろう。 高校時代は確かに楽しかった、その一言に尽きる。やりたいことは見つからなかったけど、やっていることは楽しかった。 そんな風にして、オレの高校生活は終わりを迎えると思っていた。いや、思っていたかった。 一年生の終わりにハルコが、バイトを始めた。設計事務所で働き始めるとオレ+1に告げた。確かにハルコは考え方が理系だし、物理等の計算問題なんてものは朝飯前だといわんばかりのレベルだった。それに、家って素敵だね、なんてこともすこしだけ聞いたことがあるような気がした。 オレはその話を聞いたとき、何かが崩れた音を聞いた気がした。でもそれがなんなのかはまるでわからなかった。わかりたくもなかった。 でもオレは本当はこのときに気がついてあげるべきだったのだ。でもあの時は、たしかにあんな場所でバイトをすることを猛反対したけど、言いくるめられてしまったオレには、もう口出しする権利なんてないと思っていた。だがもし、もしあの時もっと反対していれば、せめてバイトだけでもやめさせていれば、こんなことにはならなくて済んだのかもしれない。そう思うと、ひどく後悔した。
◇ オレは、走った。とにかく走った。ここがどこなのかはわからない、気がつけば走っていた。なんで走っているのかわからなかったけれど、走らなければいけないと感じた。腕の感覚はなく、足にはコンクリートとの摩擦で暑くなっていた。あたりは何もない、何も見えない、暗黒だった。 誰も、いないのか?こんなとき、いつも見てくれるハルコは?何も言わないけど、何も言わなくても何かしてくれるゼロは? あ・・・れ?他には、何故か、どうしてか、もうどうしようもなく、知っている奴が思いつかない。どうして・・・どうして、ああそうか。オレは、気の合うやつがこんなにもあっさりと、簡単に見つかりすぎて、他の人間の興味が気薄だったのか。 じゃあしょうがない、走ろう。あの二人が見つかるまで走り続けよう。オレにはそうすることしか考え付かない。だってオレは、あいつらが居ればそれでよかった。こんな時間が、関係がずっと続けばいいな、なんてことを真剣に、マジに思っていた。改めて思い直すと、これが、オレのささやかな祈りだったのかもしれない。足がすこし楽になったきがした。 ふと、振り返る。 そこには、ハルコとゼロが居た。ゼロはこっちを向いていたけど、ハルコは背を向けていた。オレと、ハルコと、ゼロの距離はどんどん離れていく。でも、ハルコとゼロの距離は変わらない、それでもすこし離れている。辺りは黒く塗りつぶされている。 あれ?ちょっと待て。これは違う。間違いだ。こんなものは嘘・・・嘘だろ?どうしてオレが、先頭にいる? どうして走っているのがオレだけなんだ?こんなのは駄目だ。やめよう。走るのを今すぐやめよう。 何故やめない?どうして止まらない?オレ一人で、こんな暗い場所、駄目だよ。怖いんだよ。迷ってしまう。頼むからオレに付いてきてくれ、だってオレの足が止まらないんだ。オレだけが止められないんだ。どうして・・・どうしてオレだけが!?足に重しがついているみたいに重くなった。 次第に、ハルコの後ろ姿が、霞んで見えた。オレはまだ、後ろを向きながら前を走っている。そしてハルコの顔が見えなくなったとき、ゼロの顔が霞んで見えた。オレは泣きそうになった。実際泣いているのかもしれない。そうだ、泣いていることに関してはすこし癪だけど、泣いているせいで二人の顔が見えにくくなっているだけだ。 そう思い込んだ。 もう、二人の姿は見えない。かすかに、二人の居た場所だけが、暗くないとだけはわかった。それはまるで、網膜に焼き付いている太陽のようだ。頬が濡れる。 二人のいたところは遠くはなれ、見えなくなってしまった。けど、まだ思い出すことはできた。時間をたっぷりとかければ二人の顔がはっきりと脳内に浮かぶ。声もまだ覚えている。ハルコのおせっかいな言葉も、ゼロの興味ないフリだだもれ発言もまだ覚えている。どんな声だったのかも、どんな風に笑うのかも、どんな風に・・・どんな、大丈夫だ。こうして思い続けているうちは大丈夫だ。 気がつけば、オレは、走るのをやめていた。オレも二人のように立ち止まっていた。 オレは、ここで待っていればきっと二人もこの場所に来るんじゃないかって思っていた。だから、オレは後ろを振り向いたまま、立ち止まった。 呼吸はとうに停止している。 待ち続けた。待ち焦がれた。待つしかなかった、他に思いつかなかった。そうしないければならないと思っていた。そう思いたかった。 やっぱり、大丈夫じゃなかった。怖くて、迷って、二度と二人に会うことはできないのだと悟り、叫びたい衝動に駆られた。
「置いてかないでくれ!」 屈んだと思っていたけど、どうやら起きただけだった。夢を見ていたらしい。何かを叫んだことは覚えているけど、何を叫んだのかはわからなかった。 まあいい、オレは夢を覚えていられるタイプの人間じゃあない。なら気にしたって無意味だ。 ふと、掛け布団がきれいに二つ折りになっていた。どうやら思ったより勢い良く起きたらしい。ラッキ、そのまま畳んじゃえ!ベッドだけど・・・。掛け布団の端をつかみ、もう一度きれいに二つ折りにして、ベッドの片隅に置いてその上に枕を投げた。 さて、休み終了まで残すところあと一週間。そろそろやらないと不味いかな・・・。 オレは簡単に着替えをすませた。夏だからな。そして携帯電話のメモリーをだした。でもまず、腹ごしらえしようと思う。
◇ 登校初日、オレは堂々と遅刻した。 だって夏休み明けなんてこんなもんだろ?みんなそうなんだからオレもそうだ。だれも悪くない、なぜなら1ヶ月半も休みをとらせれば誰だって腑抜けてだらけるさ。そうだ、こんな長く休みをとらせた学校が悪いのだ。 幸運にも、この学校に門なんてものは存在しない。いや、あったけどオレが毎日通るこちら側には門はない。 だから、こちら側の生徒はどうどうと遅刻できるのだった。でも先生方のお叱りが漏れなくセットでついてくるのは余計だと思う。 そんなこんで、オレは悪の手先の魔の手をかいくぐり、まるで勇者になった気持ちで教室にたどりついた。これはもうレベルアップしてんじゃね? もうHRが始まっているかと思った。けど担任はまだ到着していなかった。ほら、やっぱりオレは悪くないのだ。だって大人であるはずの担任すら遅刻してんじゃないか。 あれ?でも席が一つあいているな、ハルコか・・・。どうしたんだろ。ハルコの席?そ れはおかしい。ハルコなら休まない、正確には休んだところを見たことがない。もちろん遅刻もないし早退もない。そりゃあ風邪になったり、怪我したりする。でも大きな怪我なんてしてないから腕にギプスしたまま登校したこともあった。風邪を引いたときは、全部休みの日だった。 皆勤賞。 どうしても来られないときは、必ずといっていいほどオレのところにメールがくるはずなんだ。それが、ゼロはともかくオレに何の連絡もなく休むはずがない。オレは何の迷いもなく断言できた。自己満足だろうと、自意識過剰だといわれてもしょうがない、でもなんだろうと今までそうだったのだから他にいいようがないのだ。でも・・・。 嫌な予感がした。すぐに振り払う。 とりあえず自分の席について、後ろを向いた。 「よお、ゼロ。相変わらずしけてんな、なんかいいことあった?」 「ごまかすな」 珍しく、きつい口調だった。それも当然だと思った。 「ああ、ハルコのやつ。どうしたんだ?」 睨まれた。あーはいはい、正直に言えばいいんだろ。正直に、でも実際オレにもわかんないのが真実だ。 「わーったよ。ったく、お前本当・・・やっぱいいや。で、ハルコだったよな。お前は あの時以来ハルコとは連絡とってないんだろ?まあそうだろうな。オレが最後に連絡取ったのは、最終日だったな。たしかあの時は電話で、バイトで現場見せてもらいに行くって・・・」 「ハルオ、それはもう回想でもなんでもない。答えだ」 「やっぱりお前もそう思うか。どうすっかぁ」 オレとゼロは双方なにも言わずに席を立った。もちろん職員室に行くためだ。 まるでタイミングを見計らったように担任がノコノコはいってきた。心なしか足取りが重く感じた。 「天野、ハルオ、席につけ」 「そんなことはどうでもいいんすよ。ハルコがまだ来てないんだよ」 「いいから席に着け、そのことに関して話がある」 オレとゼロは静かに着席する。オレは教室でただ一人の大人であろう人物の胸倉をつかんで聞き出したかった。殴ってでも早く聞きたかった。一秒でもはやく。でもそうはしなかった。先ほどからオレのシャツのすそを引っ張っているやつがいた。 静寂が教室を支配した。次に驚愕、悲哀、同情の順番で部屋が染まった。こんな単語一つでは言い表すことなどできはしない。泣き声が聞こえ、同情の言葉が聞こえ、慰めの言葉が聞こえ、いたるところから人ではない人の言葉が聞こえ、そのすべてが重くのしかかる風に感じた。でも、オレはそのとき一体何を思ったのだろうか。 気がつけば、オレは教室から飛び出していた。 オレは、信じない。きっと教師側の悪ふざけなんだ!今まですき放題やっていたオレに対しての新学期そうそうの一発ギャグに違いない。そうでなければ他になんの理由があるっていうんだ。でもオレは駆け出した。 振り返る。教室の扉から、ゼロの姿が見えた。 オレが走っていて、ゼロは止まっていて、ハルコの姿がない。既視感。違う、見てな どいない。ありえない。
ソンナコトハオキルハズガナイ
「天野、来い!」 オレの叫びが通じ、戸惑いながらも走ってきた。 周りの教室からは、何事かと不審な目をしたギャラリーが窓を開けてこちらをのぞきこんでいた。 興味がない、オレにはお前たちなんかどうだっていいんだ。 顔のない見物者。
◇ 面会謝絶。病室の扉にはそう書いてあった。でも関係ないと思ったけれど、何者かの力によって中に入ることはかなわなかった。どうやら教室を飛び出していった後、担任が病院に電話をしたそうだ。ここまで悪意に満ちた余計なお世話を初めて体験した。あの教師をいっそ殺そうかと思った。今のオレにはその力が芽生えているんじゃないと思うほど強く願った。今のオレには、悲しみが満ちているはずだったけれど、そんなものはなかった。怒りがあった。激しく、破壊の衝動がオレを支配した。その矛先は一体どこに向かっているのだろうか? ハルコをこんな状態にしたバイト先、教師、運、社会、人間、家族、友達、学校、どれも違う。自分に怒った。今まで感じたことがないほどの怒りを感じた。次に現れたのは、怒りではなく、願いだった。どうか、ハルコを助けてください。どうか、どうか・・・。ああ、どうしてオレは気がついてやれなかったのか、どうして予測できなかったのか、どうして守れなかったのか、どうして見続けていなのか、どうして安心しきっていたのか・・・・どうして、一体どうしてなんだ?どうしてオレが悪いのか、そうか、オレのせいにしてほしかったのか。 自分の無力さに絶望した。そうして無力さに気が付いたとき、力が抜けて、その場にへたり込んだ。脱力感。 どれくらいその場にいたのだろか、わからない。するとお腹が鳴った。お昼の時間が近い、どうも3時間ほどいたらしい。なぜかおかしくなった。こんなとき、こんな状態になっているというのに、お腹が減っているなんて間の抜けた俺自身がおかしかった。 そうして笑えなくなるほど笑った。無理をして、無理やり笑おうとした。しばらくして声が続かなくってやめた。 「ハルオ、大丈夫か?」 「え?」 声が聞こえた。でもゼロだった。ゼロはいつもの同じ無表情だったけど、口がきつく結ばれていることに気がついた。 オレはバカだ。結局は自分のことばかりだった。本当にきついのは、悲しいのは、辛いのはハルコの親たちなのに、オレはどうしてすぐ自分のことで精一杯になってしまうのか、なさけなかった。 ゼロのおかげでちょっとだけできた余裕をフル活用して、その場に居た医者と、教師と、ハルコの親に挨拶と謝罪を申し出た。ゼロはいいんだ。ゼロに何をかけてもゼロだから。 それからようやく説明をまともに聞いた。 予想通りだった。バイトで、自分が携わった新築のビルの工事を見物にいき、そこで事故にあった。交通事故だったそうだ。現場を見上げていたせいで、居眠り運転をしていた車にまるで気がつかず、周囲の声も届かず、そのまま・・・。 幸い、傷が残るような怪我はなかった。でも重大なことがあった。事故時に頭部への強い衝撃のせいで、昏睡状態になってしまった。 意識不明の重態。 植物人間。 夢の世界の住人。 医者は、いつ意識がもどるかまるでわからないといった。 オレは説明を聞いても取り乱さなかった。さっき取り乱したせいで、もうそんな気力はなかった。皮肉にも、そのおかげでオレは病室に入ることができた。
消毒液の匂いと、病室独特の匂いが、鼻につく。オレはこんな場所に入るのは初めてだった。だからオレはこの匂いに対してすこし反発心が起こった。でもハルコがいた。ハルコは、単に眠っているようにしか見えず、声をかければ起きてしまいそうな、安らかな寝顔だった。でも、最後にみたハルコの顔よりはすこし、やせていると思った。しかしオレは、一週間ぶりにハルコに会うことができた。ようやくオレと、ハルコと、ゼロの三人がそろった。でもこれは一体なんの冗談なのだろうか?今までこんなことは起こる予兆もなかった。誰もかけることなく、誰も増えることなくこのままなにも変わることなく日々が過ぎていくと思っていたのに、何でこうなってしまったのだろう?なぜ一番いなければならないハルコが欠けなければならないのだろうか?一体誰が決めたのだろうか? オレは、ハルコの頬をできるだけそっと、優しくなでた。何かが込み上げてきた、でも飲み込んだ。それでも、頬にまで伝わる塩水だけは、止めることがなかった。 それからのことはよく覚えていない。
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