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作品名:虚無の像 作者:TBA

第2回  




昔習字の得意だった母親に習っていた彼女の字は粒ぞろいにとても綺麗で、それでもって彼女の母親の字ととても似通っていた。昔悪戯で母の筆真似で書いた手紙を父に渡し、彼の怒りを買った事がある。
そんな丁寧な字で長く綴られた遺書が、今私の手元にある。それを皆さんにご覧頂こうと思う。彼女の気持ちが長々とそれには綴られていた。

拝啓
お父さん、美夏ちゃん、浩くん、裕ちゃん。猛暑の中ですが、夏ばてなどして居ませんか?水分と塩分補給を忘れてはいけませんよ。お母さんが毎年この時期になると言っていた台詞です。懐かしいでしょう、浩くんと裕ちゃんは覚えているかな。

お父さんは、相変わらず扇風機の前に下着一丁で(首にかけてあるタオルは洋服じゃありませんからね。)だらんと口を広げているんでしょう。
浩くんは、相変わらず下着一丁のお父さんの真似をしながら、受験勉強をしているんでしょう。頑張ってね、浩くんなら必ず高校に受かるから、私が確かに保証するよ。
裕ちゃんは、相変わらず夏休みの宿題をほっぽり出して、遊びに出掛けて居るんでしょうね。夏休みの宿題をやらないと、私はもう叱る事が出来ないので、お父さんや浩くんに叱られてしまいますよ。きちんとやろうね。

美夏ちゃんは・・・。
随分の間偶にしか会わないから、いま何をやっているのか容易に想像できないのだけど、きっと智一さんとも上手く行っていて、悩みといえば子育ての忙しい事だけなんでしょう。要領の良い美夏ちゃんなら、もしかして悩みすら無いのかもしれない。って、そんな事はないか、失敬失敬。


この度は、皆さんに私が生まれてこの方悩んでいた事を、告白したくて筆をしたためています。あと皆さんに謝ろうと思って。タロウが死んだ時やお母さんが亡くなった時に見せた、皆の綺麗な涙を流すような結果になってしまった事を、私は悔やみながらあの世へ逝きます。また、その涙が大変羨ましくもあります。
後悔はしているのだけど、私はこれから皆さんのような大切な人間を失う度に、その綺麗な涙を流せずに居る事が、大変居たたまれなくて苦しくて。


私は「虚無の像」だと、周りから何度も云われました。
特に交際を持っていた異性から、別れを告げられる理由の最後にこの言葉を投げつけられる事が多くありました。もしかしたら皆さんもそう、私の事を思っていたのかもしれませんね。この異性達よりもずっと近くに居た皆だから、きっと察して居ると思う。
だから私のきちんとした心内を皆だけには絶対知って欲しくて、この遺書を書こうと決心しました。


最初に私にそう「虚無の像」だと言ったのは、初めてお付き合いをした男性です。(お父さんと美夏ちゃんなら、分かると思う。)彼と別れた理由を「擦れ違い」だと言っていたけど、本当は違うんです。実際引き金になったのは、彼が浮気をしている現場を私が「見てしまった」事にあります。当然彼はその後私を呼び出して「あれは一種の出来心なんだ。」とかなんとか、自分だけ興奮して更に狂ったように二番煎じの御託を並べていたのですが、私は「浮気」に関しては何も責めるつもりはありませんでしたので、「良いよ、分かっているから。そんなに謝らなくて大丈夫。」と彼を諭しました。すると彼の顔がみるみる内に変わって行き、閻魔様の前に立っていた罪人の気色を瞬く間に閻魔大王様に変えてしまったのです。彼が放った言葉を私は今でも一字一句覚えておりますので、此処に記したいと思います。
(此処から先は彼の台詞です。)
利恵、お前に一つ言っておきたい事がある。
俺はお前の事が嫌いではない、寧ろ好いているんだ。穴が空く程にずうっと見つめて居たいとも思うし、家にも帰したくない程に愛しているんだ。君への愛に溺れている。
でも君は俺の事を愛してくれているのだろうか?そう問えば君は「愛しているよ、世界一。」と言ってくれるだろう。でも、そんなのはただの文字面だけだ。君の魂はいつも別の場所に留まっている。
俺に対しては決まって笑顔で、慈愛に満ちた満面の笑みをくれる。でもその心の中は?俺の事でいっぱいになった事なんか、あるのだろうか、利恵。
俺は君の本当の心が欲しい。君の胸の内を開きたい。俺に寵愛を注いで欲しい、勿論真の心から。
デートをしていても、情事の間も、それが終わって会話をしている時も、君の心は俺へとは向かってこないんだ。
君はまるで「虚無の像」だ。  もう、別れよう。 辛い。
(此処までが彼の台詞でした。)
美夏ちゃんは、美しい心を持っているからもう貴方の綺麗な涙を流しているのかも知れません。でも私は可笑しいものです、何の感情すら湧き上がってこない、更に言えば私の為にどうしてそう顔を上気させたりまた青ざめたりするのだろう。とその気持ちの変化を知りたかったのです。
でも彼の辛い事を強いるには、多少面倒臭かったので彼との交際を終えました。私は彼を愛していたし、とても好きだと今でも思っているのですが、別れる事に関しては何も感じませんでした。
その晩から三日程食が細くなったのは、別れたショックであるとお父さんたちは言っていたけど、実はこの「虚無の像」という言葉が頭から離れなかったんです。何時も平穏だった私の身体に何か暴風が通ったようで、胸の奥が微かに「ぎゅう」となったのです。
その頃から、私は自分が狂人なんでは無いかと感じ始めました。今迄も少し人よりも冷徹であったり時には酷薄であると考えてはいましたが、彼にハッキリと言われてしまってからは、自分の中にある「感情」の存在が気になり始めてしまったのです。これが私の混乱の始まりで、死に間際の今でも私の「感情」が何処にあるのかさっぱり分かりません。


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