イゴールの竜
ゆりかは悲鳴を上げ、どこまでも、どこまでも、落ちて行った。 ふいに、固い地面に受け止められて、ゆりかは洗面台の前に立っていた。 「あんた、大丈夫かい? こんなにやすやすと引っかかるんなら、やるんじゃなかったよ」 ポニーテールの女が、妙なことを言いながら近づいて来て、開き放しの水道の蛇口を、さっと閉めた。 「本当に、何ともないんだろうねえ?」 ゆりかはうなずいたとたん、こみ上げてくる吐き気に、胃の中の物を全部もどした。 「おいおい。それに、やれやれだ。なんて、手数のかかるちびだろう。仕方がない。場所を変えるとするか」 あたりの景色が、ぐにゃりと溶け出して、気がつくとゆりかは、見なれない屋敷の中に立っていた。そこは北欧風の、妙に居心地のいい立派な大広間で、正面の壁には炉格子のついた暖炉とマントルピースがあり、あたたかそうなむらさき色の炎が、盛大に燃えていた。 「どうしたんだい? 本当に大丈夫なんだろうねえ?」 「ええ・・・へいき・・・平気よ・・・」 ゆりかはめまいを感じて、急に気を失ってしまった。 気がつくと、ゆりかは長椅子の一つに寝かされて、さっきの女がかがみ込んで、ゆりかを介抱しているところだった。 「まいったねえ。こんなにやわなんだね、ニンゲンって。よかったら、これを飲むといい、気分が楽になるよ」 女は、手にした透明のグラスの青い液体を、ゆりかに飲ませた。 不思議なことに、ゆりかの気持ちが急によくなり、めまいを感じたのが嘘のようだ。 ゆりかがおどろいていると、女の手の中で、グラスが突然、消え失せた。 「さてと、何から話そうかね? あたしの名はマデリンだよ。ここは、あたしが魔法でこしらえた、屋敷の中さ」 「ええっ、ま、魔法!?」 「おどろいているね? あんたが、あの〈デパート〉とかいう建物の中で、正気を失ったもんで、すっかり計画が狂っちまったよ。あんた、名前は?―― な・ま・え・だ・よ」 「―― ゆ、ゆりか・・・て、天堂・・・ゆりか・・・です・・・」 「ふふん。年齢は九つと。ここまでは、こっちの調査した通りだね。それで、いつ、誰からどこで、どうやって、そのペンダントを手に入れたんだい? あんたの持ち物じゃあないんだろう、そいつは?」 「え? え? ペ、ペンダント?」 「そうだよ。あんたが持っている、そのペンダントさ。あんたら、なまっちょのニンゲンごときが、簡単に手に入れられる代物じゃあないんだ。そいつを、どこで誰にもらったか、白状してもらおうか」 「どういうつもりなの? あなたは―― だ、誰なの?」 「うふふふふ。こわいのかい? あんたを見ていると、なんだかねっちりといじめてみたくなるねえ。そのペンダントを誰にもらった? お言い!」 「いやです! 誰にも話したりしないって、わたし、ある人と約束をしたんです! 絶対に約束は破れません!」 「ほほう、そうかい? 本当に、そうなのかい? よーし、イゴール! イゴール! 出ーてーおーいーで! イーゴーオール!」 部屋のドアが乱暴に開いて、つぎの瞬間、真黒いマントを着た一人のせむしの大男が、コマのように回転しながら出て来た。 「こいつは“つむじ曲がり”のイゴールさ。あたしの手下だよ」 そのせむしの大男は、マデリンに向かってうやうやしくおじぎをすると、ゆりかにも、にたりと笑いかけた。 「イゴール、ここにいる、このちびの気取り屋に、おまえのお得意を、見せておやりよ。このちびは、おまえのショーが見たいんだとさ」 イゴールは、いやらしい顔をしわくちゃにして、またにんまりとした。 つぎの瞬間、イゴールの体は見る見るうちにふくれ上がり、あっと言う間に巨大なボアに変わると、ヘビは部屋中いっぱいにとぐろを巻いて、しゅうしゅうとのたくった。大ヘビは、いやらしい目でゆりかを見下ろして、真っ赤な舌を、出したり入れたりしながら、ゆりかに向かって片目をつぶった。 と、ヘビはむらさき色の煙を発していなくなり、かわってその場に現われたのは―― な、なんと、一匹の巨大な竜だったではないか! 竜は、前足にはいやらしいかぎづめを持ち、背中にはコウモリを思わせる、膜のような薄いつばさを生やして、むらさき色のいぼにおおわれた全身からは、いやな匂いのする黄色い液体を、じゅるじゅるじゅると床いっぱいに垂らしている。目は、酔っぱらいの目のように充血して、尻尾には青いトゲ状の突起を、一列に生やしている。 竜は、肝っ玉がちぢむほどの大声で吠えると、壁にかかった槍や盾、額に入った、ふたまたに枝わかれしたハンノキの大きな絵が、やかましい音を立てて床に落ちた。 竜はもう一度吠えて、炎を吹いた。 火は天井をなめ、四方の壁を走り、足もとの高価そうなじゅうたんを飲み込んだ。 「もういいよ。目を開けてごらん」 恐る恐るゆりかが目を開くと、竜も炎も消え失せて、元の屋敷の中だった。壁にも天井にも、焼けこげ一つついていない。床に落ちたはずの絵や盾も、きちんと元の通りに、壁に掛かっている。 ゆりかが呆然としていると、人間の姿に戻ったイゴールとマデリンが、にやにやしながらゆりかの前に進み出てきた。 「どうだい、すごかったろうが? いつでもあんたの好きな時に、このイゴールに、変身してもらって、かまわないんだからね。今のはちょっとした、まやかしの〈タルパ・タルパ〉さ。だけど、このつぎは、まやかしとは限らないかもねえ」 「い、今の、すごいやつ・・・あれは、お、おばさんたちが出した・・・て、手品か何かなの?」 「手品って、何さ? 魔法と呼んでもらいたいね。それに、『おばさん』だって?」 「魔法? じゃあ、あなたは、パピリカさんと、おんなじ―― 」 ゆりかはあわてて口をつぐんだ。 マデリンは、にやりと笑った。 「なるほどねえ。ポリロ・ポリローニとジフテリア・キューの二人が、いつまで経っても戻らないから、おかしいなあとは思っていたけど、あんたは、あのパピリカの知りあいなんだね? どうやら、あんたが大事に持っている、その〈みどりのしずく石のペンダント〉も、あの女にもらった物なんだろうね。あの女が、そいつをあんたにやったところを見ると、どうやら、あんたもただのニンゲンの子供というわけではなさそうだ。それさえわかれば、もう十分―― ジーコフ、出ておいで!」 ゆりかがゾッとしたことには、ゆりかの左の肩先から、長い長い髪の毛を、だらりんと空中に伸ばした、水色の半透明の一匹の猿が―― それは、ガラスのように向こう側が透き通っていた―― にょっきりと生え出て、ゆりかに向かってウインクをすると、ふわふわとマデリンめがけて漂って行った。 「うふふふふ。悲鳴をあげているね。こいつはあたしの使い魔で、ジーコフという名の〈タルパ猿〉さ。あたしが魔法でこしらえたんだよ。こいつはとっても、りこう者でね。あんたの数え方で、もう三日もあんたにとりついていたんだよ。よーしよし、おまえ。この子にあいさつをしな」 「やめて! 近寄らせないで! けがらわしい!」 「おーやおや。おまえさんも、きらわれたもんだねえ。もうタルパにお戻りや。おまえさんの役目は、終わったよ」 マデリンの肩先にとまっていた、水色の透明な猿のような固まりが、じょじょに姿を変えて、マデリンの頭に吸い込まれて、消えた。 「おええっ!」 「それじゃあ、話をしようかね。イゴール、おまえは下がっておいで。用があったら、呼ぶからね。ゆりか、こっちにおいでよ―― おいでったら、おいで!」 ゆりかは恐る恐る、言われた通りにした。 マデリンはゆりかのあごに手をかけて、じーっと見下ろすと、 「いい子だねえ。何もかも、お話してごらんよ。パピリカは今、どこにいるのさ? ロデリア姫はいっしょなんだろう? あの二人は、今どこなんだい? お答えよ―― さっさと、お答え!」 「あ・・・あの・・・わたし―― い、言えません!」 「お話し! お・は・な・し・っ・た・ら、お・は・な・し!」 ゆりかはマデリンから逃れようとした。そのとたん、マデリンの両目の奥がぎらついて、ゆりかの頭のどこかで声がした。 「お話し、ゆりか! ロデリア姫とパピリカのことを! あんたが知っている、すべてのことを!―― 」 (駄目! しゃべっちゃ、駄目っ!) ところが、ゆりかは自分の声が、これまであったことを、マデリンに告げているのを聞いた。 「ふふうん、そうかい。だったら、あんたも、あの二人がどこにいるのかは、知らないわけだ。よーし。いいことを思いついたよ。いいかい、あんたは、このあたしの言うなりだ。身も心も、あたしに従うんだよ(ゆりかはぺこんとうなずいた)。あんたは、パピリカに教わった呪文を唱え、今からあの女を呼び出すんだ。そして王女が今、どこにいるのかを聞き出す。あたしが術をといたら、あたしが命令したってことは、すべて忘れること。そして、あんたはあんた自身の意思で、あたしが言った通りにするんだよ。それじゃあ、こちとらは姿を消すとしようかね。術をとくよ! それっ、一、二の三!」 (あれれ? あたし、今まで何をしていたんだろう?) ゆりかはあわててあたりを見回して、見なれない屋敷の大広間にいるのに気づくと、足が自然と、壁に作りつけの本棚に向かった。 その本棚は、床から天井まで届く巨大なしろものだったが、なにげなく中の一冊の本を抜き取ると、ゆりかは無造作にページをめくっていった。 その手が、お粗末なカンガルーのさし絵のあるページにきて止まると、その絵はなぜだか生きていて、大きな目玉が二つ、ぎょろぎょろと動いて、紙の向こう側に、のめり込むように消えた。 ゆりかは何も見なかったように、何食わぬ顔で本を閉じ、棚に戻すと、マントルピースに近づいて、その上の二つの陶器でできた細長いつぼを、はじとはじに、離して置いた(その理由はすぐにわかる)。 それから、ポーチからペンダントを取り出して、魔法の呪文を唱えた。
「パピリカ! パピリカ! すぐに来て!」
みどり色のまばゆい光線が、ゆりかのペンダントの宝石からほとばしり出て、クジャクの姿をしたパピリカ・パピリトゥスに変わった。 「おやおや、ゆりかさん、お久しぶりですわねえ。と言っても、こちらの世界では、さして時間は経っていないのでしょうけれどねえ」 (おや?) という顔で、パピリカは、部屋中に視線を走らせた。 「パピリカさん、少しおしゃべりがしたいのよ」 (ダメえっ!) と、心のどこかで、小さくなったゆりかが叫んだ。 パピリカの返事は、 「ようございますとも。あらあらあら? あちらにつぼが二つございますが、あのつぼは、離ればなれに置かれていますのね。なかなか趣味のおよろしい、つぼですわ」 「そんなことより、何か飲み物はいらない?」 「いえいえ、結構ですとも。それより、話し方も変わられて、まるっきりの別人ですわね」 「わたしは王女さまの“魂のふたご”よ。ふるまい方も、変わらなくてはいけないでしょ?」 「お心がけのおよろしいこと。ロデリア姫さまも、きっとおよろこびになられることでしょうよ」 「ところで、あの方は、今どこにいるんですか? わたし、あの方にお会いして、お聞きしたいことがあるんですの。あの方は今、どこですの?」 「お姫さまは今、〈次元のゆりかご〉につつまれて、この世界でも名高い、ストロンボリ火山の噴火口の中ですわ」 「まあ、噴火口の中ですって!」 ゆりかと頭の中のゆりかが、同時に叫んだ。 「何ですか? 『そんなところにいて、熱くはないの? 苦しくて、死んじゃわないの?』ですって? いえいえ、苦しくはございませんとも。そのための〈次元のゆりかご〉ですからね。今頃は、母王妃さまのお腹の中にいた時のような、熱くもなければ寒くもない、ちょうどいい居心地のよさのはずですわ。少なくとも、本棚の中の一冊の本の中に隠れているよりは、はるかにましでしょうね」 「きゃっ!」 と、ゆりかが叫び声を上げた。 「あっ!」 と、ゆりかの心の中で、小さくなっていたゆりかも、同時に叫んだ。 「畜生!」 と声がして、一冊の皮装丁の本が、矢のような素早さで、本棚から飛び出して来た。 パピリカが鋭い、さえずるような大声で叫ぶと、列の並びの本たちが、いっせいに飛び出して、書棚から飛び出したその一冊の本を、あっという間にはさんで、棚につれ戻した。つかまった本は、もがき苦しんでいたが、暴れれば暴れるほど、両側の本たちのしめつけは、さらにきつくなってくる。 ゆりかが何か言いかけると、 「お黙りになって!」 パピリカの目から、一条の光線がほとばしり出て、ゆりかの体は金縛りにあったように固まった。 「ふふん! ゆりかさん、おかわいそうに!」 パピリカは視線を本に戻した。 「そんなにフムフム言っても、無駄ですよ。おそらく、その声から察するに、マデリン、あなたですね。なんて、お馬鹿さんだろう! 私をだまそうとした報いを、たっぷりと味わうがいいわ!」 本はあきらめたように、おとなしくなった。 「このパピリカ・パピリトゥスを、あざむこうとするなんて! そんな程度の低い術も破れないようでは、口先だけの〈タルパ・タルパ使い〉のなまくらな腕は、あいかわらずのようね。あきれたわ! 切り刻んで火あぶりにしようか、ハデスの血の池に、沈めてやろうか?」 「待って! この子にかけた呪文は消す! だからゆるして!」 マデリンは本の中から叫んだ。 「ニキタ! クリクリ・ニキタ!」 ゆりかは急に体が楽になるのを感じ、パピリカに駆け寄った。 「パピリカさん!」 「ご無事で、何よりでしたわね。くわしい話は後回しにして、まずはこの女を始末してしまいましょう」 「ええっ? 女って? 始末するって?」 「この女が、あなたにしたことを思い出して、あなたが適当と思う判決を、この女にくだしていただきたいのですわ。この女に仕返しする権利を、あなたにさしあげるのですわ」
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