カンバーランドよ、永遠に
二羽の鳥はまっしぐらに、北へ向かって飛んで行った。プンデルカンドの森林地帯が眼下を通り過ぎ、灰色の山岳地帯が前方に現われると、 ―― 大丈夫ですか、ゆりかさん、ご気分の方は?―― 「大丈夫よ。なんともないから、心配しなくてもいいわ」 ―― あの女が方向を変えましたわ。どうやら、キクニート山脈へと向かうつもりらしいですわ―― 「どこへって?」 ―― キクニート山脈ですよ。バルト世界の果てにあるといわれる、〈人知れずの山々〉ですわ。一度入ったら、二度と生きては出られないと言われている、魔の山々ですわ。おそらく、敵の本拠地があるのでしょうね。油断は禁物ですわ―― 「そんな!―― パピリカさん、その山に入る前に、やっつけることはできないの?」 ―― できないことはありません。あの女をやっつけるだけなら、ここでもやれますし、プンデルカンドの宮殿でも、十分やれました―― 「だったら、どうして?」 ―― そんなことをすれば、あの女をあやつっている敵の正体が、わからなくなるからですわ―― 「て、敵の正体?」 ―― そうなのです。今度の敵の正体。私にもそれが何なのかは、はっきりしません。おおよその見当なら、ついてはいるのですがね。私がマデリンをやっつけてしまえば、敵は私たちを警戒して、どこかへと逃げてしまうでしょうよ―― 「そいつが―― その敵が―― マデリンやイゴールをあやつっているのね? なんだって、結婚式を妨害しなけりゃならなかったの?」 ―― わかりませんが、それこそが、敵の正体をつきとめなければならない、最大の理由なのですわ。ゆりかさん、あなたがペンダントの精といっしょに、〈出会いの井戸〉へ行った時のことをおぼえていますか?―― 「ええ、おぼえているわ・・・やだ、パピリカさん、知ってたの?」 ―― 当然ですとも。あの晩、私も人間のおばあさんに身をやつして、ロデリア姫のお供に、あの場所へと出かけたのですからね。何を隠そう、王女さまの手紙に魔法をかけて、プンデルカンドへ届けるよう、使いの者に持たせたのは、この私なのです。王女さまは侍女のイパメルを通して、私のところに、言伝てと手紙とをよこしたのでした。 ペンダントの精に、向こうで起きたことを聞きましたが、私のことをゆるしてくださるように、王さまにじかにお願いくだすったそうですのね。どうもありがとうございましたわ―― 「まあね。あっ、だけど、あなた、魔法で牢屋を抜け出したりはしないって、王さまと約束をしたんじゃなかったっけ?」 ―― はい、その通りですわ。ですからわたくし、ちゃあんと替え玉のわたくしを、牢屋の中に残しておきましたのよ。それに王さまにはゆるしをもらい、牢屋の扉は番兵に開けてもらったのですからね、いずれにせよ、『魔法で牢屋を抜け出したり』は、しておりませんわよ―― 「そうかなあ。物は言いようだと思うけどね。それで、それで?」 ―― はい。あの時、私はあの場所―― 〈出会いの井戸〉についてすぐ、あなたとペンダントの精に気がついたのですが、しかし、せっかく隠れていらっしゃるのに、あなた方の楽しみを奪っては申しわけないと思い、そのまま気がつかないふりをしていたのですわ。ペヨルカも、私には気づいていないようでしたわ。あるいは知っていて、気づかないふりをしていてくれたのかもしれませんけれどね、魔法使い同士のつつしみとして。あなたはあの時、あの森の奥にひそんでなりゆきを身守っていた、あやかしの生き物の姿に、気がついていましたか?―― 「ええ、気がついていたわ。というか、あとになってだけどね。足跡を見つけたのよ」 ―― だそうですわね。ペン子に聞きましたが、あの生き物こそ、私たちがめざしている敵の送り込んだものなのですわ。あるいは、敵の本体そのものかもしれませんわね。私はあの時、心の目であの生き物を見つめ、あいつが私たちの知らない〈魂の形態〉を持っていることに、すぐに気がつきましたわ。と同時に、向こうでも私に気がついたらしく、あっという間に、どこかへと姿を消してしまいましたが、私はこれまでに、あんなにも特殊な〈魂の形態〉を、見たことも聞いたこともありませんでしたわ―― 「た―― “たましいのけいたい”って?」 ―― 今は説明しているひまがありませんが、おおざっぱにいうと、あなたやわたくしとは異なった世界の、異なった材料で作られている生き物、とだけ申しておきましょうかしらね。そいつが森の奥からこちらを見すえているのを見つけた時、私はこの世の者ではない敵の存在に、気がついたのですわ―― ゆりかとパピリカが問答をしているあいだにも、マデリンの変身した鳥はぐんぐんと速度を上げて、やがて、行く手の険しい山並みを目がけて、急降下して行った。 マデリンは、とある山の頂きの一つに近づくと、ごつごつとしたその山頂に舞い降りて、岩だらけの地面に、ばったりと倒れた。 「ああっ、マデリンが!」 ゆりかは急降下したパピリカの背中から飛び下りると、あわててマデリンに駆け寄った。マデリンは鳥から人間の女の姿に戻ったが、身動き一つしていない。 ゆりかが、マデリンを起こそうとすると、 「いけませんわ! すぐ近くに、気配がしますわ!」 「ええっ、何の気配?」 そのとたん、目もくらむような稲妻が何度もきらめいて、叩きつけるような轟音とともに、雷撃が二人のすぐそばに落ちた。火花がそこら中にとび散り、岩だらけの地面を、電光が走り抜けた。電光はそのまま二人のまわりを、邪悪なヘビのように這いずり回り、小高い岩場や斜面をなめ回して、やがてどこかへと見えなくなった。突然、風が冷たくなると、あたりはまたたく間に、濃い暗やみにつつまれた。 「こ、こわい!」 「大丈夫ですよ! 私がついていてさしあげますからね。何が起きても、安心していなさい」 パピリカがおだやかな、威厳のある声で言った。そのとたん陰気な笑い声が、山頂いっぱいにこだました。 「誰です! 出ていらっしゃい!」 空中の一角から、鋭く輝く針の雨が降ってきた。すかさずパピリカが、魔法でみどり色の防護膜を張ると、針ははね返されて地面に突き刺さり、無数のヘビやとかげや、蛆虫に変わり、しゅうしゅう、ずるずる、げろっげろっ、くえっくえっと、山頂一帯をおぞましく這いずり回り始めた。 「ふふん! 趣味のおよろしいこと!」 パピリカの皮肉っぽいつぶやきに、地面を這っていた無数の生き物たちは、白い蝶々の大群に変わり、どこへともなく飛び去って行った。 「さて、お次は、何が出てくることやらね」 つぎの瞬間、山頂の砂粒や、細かい石のかけらが、煎った豆のように飛び跳ね始め、気がつくと二人のまわりの大岩までもが、ぽんぽん、がらがら、どんがどんが、飛び跳ねていた。いやもう、その音のすさまじいことといったら! ゆりかは頭がどうにかなってしまいそうで、あわてて耳をふさいだ。砂や、つぶてや、大きな岩々は、気が触れたように跳ねながら、不気味な歌を歌い出した。
たかが たかが クジャクが 一匹 ごらんよ 女の子と クジャクが 一匹 ふみつぶせ! 押しつぶせ! たいらにしろ! のしちまえ!
「おだまりなさい! ごろた石のくせに!」 パピリカが短く呪文を唱えると、岩や砂粒は跳ね回るのをやめて、無害のボンボンや、クッキーやアーモンドに変わった。そのとたん、空の一角から、いまいましげなうなり声が聞こえ、お菓子の群れは、もの言わぬ鉱物に戻った。 「ああっ、パピリカ! あれは、何?」 山頂の暗やみに、白い人影のようなものが現われると、二つ三つ―― 七つ八つと、見る見るうちに数を増して、ゆりかがあれよあれよとながめているうちにも、白い影が全部で十三人、ゆりかとパピリカを囲んで、かげろうのように、揺らめきながら近づいて来るのだ。パピリカがすかさず、魔法円陣を地面に出すと、ゆりかと、倒れているマデリンと、自分自身を守らせた。こわいもの見たさというのだろうか、ゆりかは両手で顔を覆ったが、つい片方の目を開けて、ながめてしまった。 (あれ? あれれ?) ゆりかは両目を開いた。 そこにいたのは、幽霊ではなくて、ゆりかが絵本で見たことのある、美しいニンフ乙女たちだったのだ。 どことなく人魚を思わせる姿かっこうの、しかし、足はあるニンフ乙女たちが、全部で十三人、手に手に純白の水がめ型の美しいたてごとを持ち、長く伸ばした黒い髪をたなびかせて、七本ある銀色の弦を、白く流れる細い指で、いとも壮麗にかき鳴らしている。その音色を聞いているうちに、ゆりかはいつしか夢見心地になり、ふらふらと魔法円陣を出て行きそうになった。パピリカが素早くくちばしでゆりかを引き戻すと、ニンフ乙女らに鋭い視線を向けて、小声で呪文を唱えた。 乙女らのまぼろしはかき消え、甲高い悲鳴だけが、とどろき渡った。 「ふふん! くだらない、タルパ・タルパですわよ」 パピリカが吐き捨てたとたん、今度はゴーッという地響きが地の底から聞こえ、岩だらけの山頂が揺れ始めた。 「ぎゃっ、地震だわ!」 ゆりかが叫ぶと、いくつもの大岩が音を立てて、斜面をなだれ落ち始めた。 突然、ものすごいような地割れが起こって、ゆりかの目の前でぱっくりと割れた地面の裂け目から、真っ黒い土砂が噴水のように吹き出すと、煙の向こうに、蜃気楼のように、おぼろげな巨大な影が立ちはだかった。
「誰だあっ、おまえらはあっ? 何をしに、どこから来たんだあっ?」
間のびした大男の、その声たるや、嵐の真っ最中の風のように、恐ろしい勢いで逆巻いている。ゆりかは大江山の鬼どものことを思い出して、声のした方を、ちらっと見上げた。 冷えて固まったマグマを思わせる、暗黒色のごつごつした体の表面。 岩石に似た顔は灰色の雲に覆われて、はっきりと見てとることができない。
「おまえらは、何をしに、ここへ来たんだあっ! 用がないんなら、とっとと帰れえっ!」
「おだまり、岩石巨人! おまえはただのあやかしにすぎまい!」 パピリカが叫んだとたんに、大男は黙りこくった。 「私はおまえに、訊きたいことがあります! おまえは一体、どこからこのバルトの世界へとやって来たのか! そして一体、いかなる用があって、私たちの王国をたぶらかすのか?」
「お、お、お、お、おれ、おれ、おれ、おれ、し、し、し、しらない、しらない、しらない、しらない・・・お、お、お、おれ、おれ、おれ、た、た、た、ただ、ただ、ただ、し、し、し、しはい、しはい、しはい、し、し、し、たい、たい、たい、たい、だ、だ、だ、だけ、だけ、だけ、だけ・・・も、も、も、も、も、もの、もの、ものすごく、すごく・・・すごく・・・」
「ただ、支配したいだけですって? 一体、何をですか?」
「ば、ば、ば、ば、ばると・・・ばると・・・ばると・・・こ、こ、こ、このせか、せか、せかい、せかい、せかい、ぜんぶを・・・」
「この世界全部を、支配したいんですって?」
「そ、そ、そ、そう、そう、そう、そのと、と、と、とお、とお、とお、り、り、り、り、り・・・」
「おふざけも、いいかげんにおし!」 パピリカが魔法で、岩山の一角を突き崩すと、恐ろしく盛大に噴き出した大水が、あっという間に岩石の巨人を、一息にふもとへと、押し流してしまった。
「うわあ―― っ!!!」
という、すさまじい悲鳴だけを残して、岩石巨人は、どこかへと流されてしまった。 「ふう、すごかったあ! 今のがわたしたちの敵だったのねえ・・・これでもう、大丈夫よねえ・・・」 「いえいえ、戦いはまだまだこれからですよ、ゆりかさん。今のはちょっとした、敵のまやかし。ほんのいたずら程度のことにすぎないのですわ。ああやって、こちらの出方をうかがっているのですわ」 「あれが・・・いたずら? 今のあれが・・・ただの・・・いたずら?」 「ええ。おつぎは、どんな手でくるものやらね」 パピリカがつぶやいたとたん、山頂のはずれにある、ごつごつした岩場の一角に、小さな赤いほおずきの群れのように、いびつな形をした鬼火の群れがともり、そこに一本の白木の十字架と、そこに鎖でしばりつけられた、血だらけの青いドレス姿の女の子が浮かび上がった。 「ああっ! ロデリア姫だわ!」 ゆりかが駆け出そうとすると、パピリカが抱きとめた。 「いけません! あれもまぼろしです! 本物ではありませんわ!」 「でも、本物かも・・・」 「いいえ、違いますとも!」 ゆりかが魂を奪われたように、荒れ果てた岩場を見つめていると、囚われの王女が、ふと顔を上げた。 「・・・ゆりか?・・・そこにいるのは?・・・ゆりか・・・ゆりか・・・助けて・・・お願い・・・ゆりか・・・」 「パピリカ、王女さまが『助けて』って・・・」 「いけません、あれはまやかしです。罠ですわ」 「で、でも・・・」 「いいえ、王女さまではございません。あれは敵の仕掛けたまぼろしですよ」 ゆりかは生贄の王女を、もう一度見上げた。 「・・・ゆりか・・・助けて・・・助けて・・・お願い・・・ゆりか・・・」 そのロデリア姫の美しいドレスはぼろぼろで、いく筋もの乱れた金髪が、額や頬にくもの巣のようにまとわりついている。むき出しにされた王女の白い腕や肩には、無数の切り傷や、笞で打たれたとおぼしいみみず腫れの赤い跡が、見るも無惨に、生々しく浮かび上がっている。ゆりかが見つめれば見つめるほど、王女の青いドレスのかぎ裂きはむごくなり、生傷は深くなって、見るも恐ろしいありさまとなり果てた。 黒いローブ姿の僧侶が六人ばかり、ひとかかえもある金物の焼き串を手に、岩場のかげから進み出て来ると、僧たちは、大昔のドルイド僧のように、不気味な呪文のようなお経を唱えながら、十字架のまわりを、反時計回りに、ねぶるように歩き始めた。 「ゆりかあっ! ゆりかあっ! ゆりかあっ! ゆりかあっ! 助けてえっ! 助けてえっ! 助けてえっ! 助けてえっ!」 「パピリカ! お姫さまを助けてあげて! 偽物でもかまわないから!」 「いいえ、いけませんわ。あいつらはああやって、私が呪文を唱えるのを、待っているのですよ。そうやって、こちらを逆魔法で、罠にはめようとしているのですわ。みすみす敵の計略に、はまることはできませんわ」 「でも、あの人は、王女さまにそっくりなのよ!」 「いいえ、いけませんわ!」 ゆりかは魔法円陣を割って出て、岩場の方へ駆け出そうとした。 その目が、王女のあらわになった胸もとの、赤い〈薔薇真珠のネックレス〉にとまると、ゆりかははっとして立ち止まった。 「どうしたのですか、ゆりかさん? 助けには行かないんですか?」 「いい、やっぱりよす」 岩場の上では、読経が終わり、ギラギラときらめく六本の焼き串が、王女の体を順番に刺しつらぬいた。その時の王女の上げた悲鳴ときたら―― ! ゆりかのふさいだ両耳の奥で、王女の叫び声がぱったりと途絶え、あたりは不気味なまでに静まり返った。その時、ふさいだはずのゆりかの両耳に、か細い女の子の、すすり泣く声が聞こえてきた。 ゆりかが恐る恐る目を開くと、岩場はそこだけが別世界の絵のように、赤い鬼火に照らされたままだった。黒衣の僧侶の姿は消え、十字架には、青いドレスの王女の体だけが、鎖につながれたままぶら下がっている。 王女は、最後の力をふりしぼるように、ゆりかに向かって頭をもたげると、うらみを呑んだ目で、ゆりかを見つめて言った。 「・・・ひどい・・・じゃない・・・私を・・・見捨てる・・・なんて・・・それでも・・・あなた・・・私の・・・お友だち・・・なの・・・?」 「嘘つき! 嘘つき! 嘘つき! 嘘つき! あなたなんか―― あなたなんか―― ただの偽物じゃない!」 そのとたん、王女の体が小刻みに揺れ出すと、王女はさもおかしそうに、くつくつと笑い出した。十字架の王女は、気が触れたように笑い続け、次の瞬間、鬼火といっしょに、十字架ごとかき消えた。 「ゆりかさん、よくぞ見破りましたわねえ。感心いたしましたわよ」 「王女さまが、赤いネックレスをしていたんで、気がついたのよ。本物は夕べ、王女さまがわたしにくれたはずだもんね。あれって、もしかしたら、わたしの心の中にある王女さまの姿を、盗み出したんじゃないの?」 「これは、これは! そこまで見抜くなんて、たいしたものですよ! などと言っているうちに、またまた変なものが、こちらへと近づいて来ますわ!」 「ああっ、本当だ!―― あれは―― パ、パパとママだわ!」 山頂の暗がりから現われた二つの人影は、忘れようにも忘れられない、なつかしいゆりかの両親だった。 ゆりかが今度こそ、魔法円陣を走り出そうとすると、 「無駄でしょうね。あれもまた、まやかしですからね」 ゆりかはみぞおちが、いやあな予感に、ぎゅうっと締めつけられるように感じた。 「ゆりかあっ! ゆりかあっ! ゆりかあっ! ゆりかあっ! どこにいるんだあっ!」 「ゆりかあっ! ゆりかあっ! ゆりかあっ! ゆりかあっ! 戻って来てちょうだあい! ゆりかあっ!」 「パパ! ママ! こっちよ! ここよ!」 「いけませんわ! あれはまやかしですわよ!」 魔法円陣を駆け出そうとしたゆりかを、クジャクが首とつばさで、はがい締めに抱き止めた。 ゆりかのパパとママは、娘の姿が目に入らないのか、魔法円陣のそばを行きつ戻りつしながら、娘の名前を呼び続けている。 パパとママが目の前を通りすぎると、突然、二人の背後の暗やみから、いやらしい触手を伸ばした、二匹のお化け植物が現われて、パパとママに近づいて行くのが見えた。 「あっ! マンドラゴラだわ!」 ゆりかは叫んで、今度こそ魔法円陣を飛び出してしまった。 「ゆりかさん、危ない! 戻っていらして!」 「パパ! ママ! こっちよ! ここよ!」 その声に、パパとママがふり返った。 もう、パパとママではなかった。 真っ赤なくちびるが耳まで裂けた、目は虚ろに見開かれた二つ穴の、世にもおぞましい人間動物が二体、その場に、前かがみの姿勢で立っていたのだ。 つぎの瞬間、二匹はゆりかを目がけて、飛びかかって来た! 「ゆりかさん! お伏せになって!」 ゆりかの頭上を、みどり色の閃光がよぎって、二匹の人間動物が、いやな匂いの煙と悲鳴を発して、あっさりと消滅した。続いて、マンドラゴラが二匹とも、パピリカに襲いかかって来た。 二匹の怪獣植物は―― これもおそらくは、まやかしなのだろうが―― 素早い動きで何本もの蔓をいっせいに伸ばすと、地面すれすれをクジャクは飛びのき、襲いかかってきた蔓の攻撃を、危ういところでかわした。マンドラゴラは追撃の手をゆるめずに、なおもパピリカに挑んで行く。その蔓が、ふたたびするするっと伸びて、クジャクの尾ばねをものすごい早さでつかみ取り、パピリカは力づくで、地面に引きずり倒された。 「ああっ、パピリカ! やられちゃう!」 その時、ゆりかの肩を、親しげにたたくものがあった。 ゆりかがふり返ると、 「ああっ、ナーガラージャおばさん! 来てくれたのねっ? ちょうど、来てほしいと思っていたところなのよっ!」 「そんなことじゃないかと、思っていたのさ」 ナーガラージャは長い鼻をぶらんぶらん揺さぶると、 「こんなところに立ってちゃ、危ないよ。おばさんと、岩場のかげに隠れていようかね」 「うん」 ゆりかは疑うことなく、ナーガラージャの鼻に手を取られて、近くの岩かげに避難した。 マンドラゴラは二匹とも思わぬ強敵で、パピリカがくり出す武器や、あらゆる妖術を打ち破ってしまうと、あわや、パピリカが息の根を止められる寸前という場面も、一度や二度ではなかった。 実のところ、この二匹は、パピリカの心の中にある〈おそれ〉そのものから生み出されたものだった。 こいつらは、パピリカの弱みを知りすぎるほど知っていた。そして、パピリカが苦しめば苦しむほど、なお一層その弱点をついてくるのだ。 「負けるな! もうちょっとよ! あと少しよ! そこだ! やっちゃえ! 今だ! 撃て!」 ゆりかの叫び声に、マンドラゴラが二匹とも気をとられて、その一瞬すきが生まれた。 たちまち、天から無数の火の雨が降りそそぐと、二匹のマンドラゴラは叫び声を上げて、一山の灰になった。 「ふう! やったわ! やったわ! やったわ! 勝ったわ!」 「やれやれ! やっと片づきましたわねえ! ゆりかさん、もう大丈夫ですよ。ゆりかさん? ゆりかさん?」 「こっちよ! ここにいるわ!」 岩かげから走り出そうとしたゆりかの体を、伸びてきたゾウの鼻がくるくると巻き取って、あっと言う間にゆりかは、空中高く持ち上げられた。 「ああっ! 痛いわっ、ゾウおばさん! 何をするの!」 その声にふり向いたみどりのクジャクの視線が、白い巨ゾウに向けられた。 「おや? あなたは誰ですか?」 さっきまでナーガラージャだった半透明の灰色の固まりが、長々と伸ばした一本の腕の先で、ゆりかを揺さぶっている。 「ゾウおばさん! ゾウおばさん! ゾウおばさん! やめて! やめて! 下ろしてよ! 下ろして! 下ろして! 下ろして! 下ろして!」 「あたしは、ゾウおばさんなんかじゃないよ。フォム、フォム、フォム、フォム」 灰色のゼリー状の固まりが、ゼリーにふさわしい、ぶよぶよした震え声で、せせら笑うようにゆりかに言った。 ゆりかは、いやらしいお化けを一目見るなり、 「きゃああああっ! パ、パピリカ! パピリカ! パピリカ! 来てえっ! 助けてえーっ! 助けてえーっ! パピリカ! パピリカ! パピリカ! パピリカ―― ッ! 来てえっ! 助けてえーっ! 助けてえーっ! 助けてえーっ!」 「来ルナ! 来レバ、コノ子ヲ、落トスヨ!」 パピリカが近づこうとすると、灰色のゼリー状の怪物が制止した。 「落とせるものならば、落としてみなさい! おまえがその子供を、地面にたたきつけるのが先か、私がその子供を受けとめるのが先か、どちらが早いか、試してみますか?」 「やめてえ! ひいっ! 下ろしてえっ! 殺されるうっ!」 ゆりかの悲鳴を聞くやいなや、パピリカの目から挑むようなまなざしが消え、全身から力が急に抜けた。 「わかりましたよ。好きにするがいいさ。私は手向かいはいたしませんわ」 ゆりかが見ている前で、ゆっくりとゼリー状の怪物から、灰色のこぶが突き出て、パピリカの方へと伸びて行った。パピリカは伸びてきた怪物の腕に、すっぽりとくるみ込まれた。 突然、空中から人間の―― 女の子の笑い声が響くと、真っ赤な火の玉が火花を散らして、目まぐるしく一同の上空を飛びかい始めた。 火の玉はしばらく飛び続けたあとで、岩場にぶつかってはじけ飛び、あとには一人の人影が立っていた。 「ああっ!―― あなたは―― まさか―― まさか―― まさか―― まさか―― 」 なんと、その人影は―― ゆりかにそっくりだったのだ! 二番目のゆりかは銀色の、悪夢にうなされた一夜のようにねじくれた、長くて太い、こん棒のような杖を持っていた。黒いフードつきのマントを、邪悪などんぐりのように着込んでいる。 本物のゆりかがものも言えずに立っていると、二番目の(すなわち火の玉となって現われた方の)ゆりかが、盛大に笑い声を上げた。 「やったわ! やったわ! 勝ったわ! あはははははははは―― !」 「だ、誰なの! あなたは誰なの!」 「私が、誰かって? 私は、あなたよ」 二番目のゆりかは、さもおかしそうに笑うと、 「私はあなた。あなたは私―― 二つながらに、影ぼうしよ」 「何よ! 偽物のくせに! 私の格好をしていたって、偽物だってことは、ちゃんとわかっているんだから!」 ―― ゆりかさん、あれは―― まやかしでは・・・ありませんわよ・・・少なくとも・・・今までの・・・まぼろしとは・・・違う・・・よう・・・ですよ―― 「ええっ!? そ、そんな―― 」 ゆりかは、パピリカの心の声に、もう一人の自分をにらみつけた。 ―― あれは・・・よくは・・・見えませんが・・・あれは・・・あなたの・・・分・・・分身・・・ですわよ・・・ほら・・・おぼえて・・・いませんか?・・・ブルガ・・・マデリン・・・マデリン城で・・・あなたに・・・マデリンが・・・した・・・ことを―― そうだった。こちらの世界に来た時に、マデリンがあやかしの術をかけて、ゆりかを二つに分けてしまったのだが、その時の片割れは、マデリンたちといっしょに、どこかへと消えてなくなっていたのだった。 すると、あれは―― ―― ここから・・・では・・・はっきりとは・・・見通せ・・・ませんが・・・どうやら・・・向こうの・・・あなた・・・の分身・・・には・・・何者かの・・・邪悪な・・・霊の・・・ような・・・力の・・・渦が・・・しっかりと・・・とり・・・憑いて・・・いる・・・よう・・・ですわ―― 「パピリカさん、だ―― 大丈夫なの?」 ―― ・・・だ・・・大・・・丈・・・夫・・・大・・・丈・・・夫・・・です・・・わ・・・以前に・・・あなたに・・・言った・・・こと・・・を・・・いつ・・・までも・・・忘れ・・・ないで・・・いて・・・くだ・・・さい・・・ね・・・いつ・・・でも・・・どこ・・・でも・・・何が・・・起こ・・・ろう・・・とも・・・あな・・・た・・・は・・・私・・・を・・・頼り・・・に・・・する・・・こと・・・私を・・・信じ・・・て・・・いて・・・くださ・・・い・・・ね・・・最後・・・に・・・笑う・・・者が・・・真の・・・勝・・・者・・・そし・・・て・・・それ・・・は・・・パピ・・・リ・・・カ・・・パピ・・・リ・・・トゥ・・・ス・・・私を・・・おいて・・・ほかには・・・あり・・・ま・・・せ―― パピリカの声は、ふっつりと途切れた。 「いやああああっ! なんにもしないでええええええっ―― !」 ゆりかの見ている目の前で、ゼリー状の怪物にくるまれたパピリカのエキスが、ゆっくりとパピリカからしみ出して、灰色の汚い怪物の中に、吸い込まれていくのが見えた。 「パピリカさん! パピリカさん! パピリカさん! パピリカさん! 逃げて! 逃げて! 逃げて! 逃げて! ペヨルカ! ペヨルカ! ナーガラージャおばさん! 助けに来て! 助けに来て! 助けて! 助けて! 助けて! 助けてえーっ!」 「おっとっと、誰も来やしないよ。ここはすっかり異空間だものね。あなたの声は、誰にも聞こえないんだよ。おっとっと、あたしの声だったわね。いけない、いけないっと」 偽物のゆりかが、またも甲高い声で笑い出した。ゆりかはその顔に、つばきを吐きかけてやりたくなった。 「くそう! くそう! そうだ、マデリンがいた! マデリン! マデリン! 起きて! マデリン! 起きて! 起きて! 起きて! 起きてえぇぇーっ!」 魔法円陣の中の若い魔女は、気絶しているのか、ぴくりとも動かない。 「無駄だよ。その女は、目を覚ましっこないよ。その女の魂だって、ほかの連中のといっしょに、ある空間に閉じ込めておいてあるのだからね」 「畜生! 畜生! 卑怯者! おまえなんか死ねばいいんだ! おまえなんか、死ねばいいんだあぁぁっ!」 「うふふふふふふ。わたしなんか、死ねばいい。そうさ、わたしが死ねば、あんたも死ぬ。わたしが死ぬのは、おまえの死だもの。ごらん、パピリカを! もう、三分の一になっているから!」 ゆりかはぎょっとして、パピリカを見た。 そして、すぐに顔をそむけた。 かつてパピリカだったものの名残りが、ゆっくりとみどり色のエキスを吸い取られて、にぶいこげ茶色のかたまりに変わっていた。その表面には、色つやがまるでなくなり、しわくちゃの汚いひだひだまでができていた。反対にゼリー状の怪物は、すっかりパピリカの魔法力のエキスを吸い込んで、全身がメロンのシロップを飲み込んだような、あざやかなみどり色に染まっている。 最後に怪物は、パピリカの養分を、一滴残らず吸い取り終わると、しなびた残りかすをぺっと吐き出した。茶色いしみだらけの、くさったバナナの皮のようなパピリカのかすが、地面に音を立てて、ぺちょんと貼りついた。 それで、一巻の終わりだった。 パピリカは死んでしまったのだ! 「いやああああああっ―― ! パピリカおばさああああああん―― !」 茶色いかすが、ゆりかの呼びかけに応えて、かすかに身もだえしたように見えた。 「あっはははははははははは! あっはははははははははは! あっはははははははははは! あっはははははははははは! わたしの勝ちだよ! わたしの勝ちだよ! わたしの勝ちだよ! わたしの勝ちだよ!」 第二のゆりかは、甲高い声で笑った。 本物のゆりかは両手に顔をうずめて、しくしくと泣き出した。 こんなことって、あるだろうか? こんなことって、あるだろうか? パピリカが死ぬなんて! パピリカが死ぬなんて! そんなこと、絶対にあるわけがない! そんなこと絶対に、何かの間違いよ! わんわん、おいおい、泣きじゃくって、ゆりかは泣いて、泣いて、泣きわめいた。 咳き込むくらいに泣き続け、なんで泣いているのかわからなくなるまで、ゆりかは泣きに泣いた。 第二のゆりかは、そんな片方の自分の姿を、呆気にとられたように見つめている。 突然、第二のゆりかの耳の穴の奥から、黒い霧かスモッグ状の気体が、ねっとりと流れるように、吹き出し始めた。溶けた溶岩かコールタールのように、流れ出した命を帯びたそのガスは、少しずつ形を変えて、本物のゆりかに近づいて行くと、今まさにゆりかの体にとり憑こうとした。 その時、ゆりかの胸の上で、〈みどりのしずく石〉のペンダントが飛び跳ねると、鎖を引きちぎって前方に飛び出し、目の前の黒い霧をめがけて、飛びかかって行った! 「ぎゃっ!」 と、目もくらむような閃光と同時に、痛ましい悲鳴が聞こえて、両手を伸ばしたペンダントの精が、うつぶせに倒れた。 「ああっ、ペン子ちゃんが!―― ペン子ちゃん! ペン子ちゃん! ペン子ちゃん! ペン子ちゃん! しっかりして! しっかりして! しっかりして! しっかりして! ペン子ちゃん! ペン子ちゃん! ペン子ちゃん! ペン子ちゃん! 大丈夫? 大丈夫? 大丈夫? ペン子ちゃん! ペン子ちゃん! ペン子ちゃん! ペン子ちゃん!」 ゆりかの呼びかけもむなしく、ペンダントの精は身じろぎ一つしない。黒い気体はあきらめたのか、第二のゆりかの体に戻って行った。 第一のゆりかは、激しい憤りのおかげで、恐怖もどこかへと吹き飛んでしまった。 「ちょっと、あなた! 一体あなたは、何者なのよ! どこから来たのよ! あたしに、何のうらみがあるわけ?」 「・・・うらみ?・・・うらみ・・・うらみ・・・うらみ・・・」 「そうよ! 何のうらみがあるの? あなたは一体、誰よ? どこから来たの? 何者なの? 名前はないの?」 「・・・なまえ?・・・なまえ?・・・なまえ・・・なま・・・え・・・どこから・・・きた?・・・どこから・・・き・・・た?・・・どこから・・・きた・・・しらな・・・い・・・しら・・・ない・・・しら・・・ない・・・しら・・・な・・・い・・・」 「そんなわけないでしょう! ものには全部、名前があるんだから! あなたにもちゃんと、名前があるはずよ!」 突然、第二のゆりかの顔が、別人のようにゆがんで、ゆりかはショックを受けた。 偽物のゆりかが話し始めた時、その声は単調で虚ろな、間のびした亡者のうめき声のような、不気味な胴間声だった。 「・・・わたしは・・・どこか・・・とおく・・・の・・・くにから・・・とおく・・・の・・・せかい・・・から・・・きた・・・もの・・・だ・・・」 「遠くの世界? 遠くの世界って、一体どこよ?」 「・・・しらな・・・い・・・わから・・・な・・・い・・・し・・・ら・・・ない・・・わか・・・ら・・・な・・・い・・・」 「それは、このバルトの世界のどこかなの?」 「・・・い・・・いい・・・や・・・わ・・・わ・・・から・・・ない・・・わ・・・から・・・ない・・・わ・・・から・・・な・・・い・・・わ・・・から・・・ない・・・どこ・・・か・・・なまえ・・・の・・・ない・・・ところ・・・から・・・その・・・その・・・おん・・・なに・・・おんな・・・に・・・よばれ・・・よばれ・・・よばれ・・・て・・・き・・・き・・・き・・・きた・・・」 「女? マデリンのことね?」 「・・・そ・・・そ・・・そ・・・そう・・・そう・・・そう・・・そ・・・そ・・・そ・・・そう・・・そう・・・そう・・・そ・・・そ・・・そ・・・そう・・・そう・・・そう・・・」 「一体、あなたは誰なの? さっきから聞こえている、このブンブンいううなり声は、一体何なの? あなたは一体、どこからしゃべっているの? あなたの名前は、何ていうの?」 「・・・し・・・し・・・し・・・し・・・ら・・・し・・・ら・・・な・・・い・・・し・・・ら・・・な・・・い・・・し・・・ら・・・な・・・い・・・し・・・ら・・・な・・・い・・・し・・・ら・・・な・・・い・・・お・・・お・・・お・・おれ・・・おれ・・・おれ・・・あるひ・・・ある・・・ひ・・・お・・・お・・・お・・・おいだされ・・・お・・・お・・・おいだされ・・・た・・・た・・・おお・・・ぜい・・・の・・・おおぜいの・・・なかま・・なかまと・・・お・・・お・・・お・・・おと・・・おと・・・され・・・おと・・・おと・・・され・・・た・・・た・・・た・・・ま・・・ま・・・ま・・・まぶ・・・まぶ・・・しい・・・まぶ・・・しい・・・ひ・・・ひか・・・り・・・ひかり・・・ひかり・・・で・・・で・・・で・・・でんこう・・・でんこう・・・」 「電光?」 「・・・で・・・で・・・で・・・でんこう・・・でんこう・・・まぶしい・・・とて・・・も・・・まぶしい・・・でんこう・・・でんこう・・・お・・・お・・・お・・・おれ・・・おれ・・・たちを・・・おれたち・・・おれたち・・・を・・・おそ・・・おそ・・・おそ・・・おそった・・・おそった・・・おそった・・・おそった・・・お・・・お・・・おれたち・・・おれたち・・・ひ・・・ひ・・・ひ・・・ひめい・・・を・・・ひめいを・・・ひめいを・・・あ・・・あ・・・あ・・・あげ・・・あげ・・・あげ・・・あげ・・・た・・・た・・・た・・・た・・・おそ・・・おそ・・・おそろ・・・おそろ・・・し・・・い・・・おそろ・・・しい・・・ちち・・・ち・・・ちちの・・・ちちの・・・ちちの・・・いか・・・いかり・・・いかり・・・いかり・・・いかりが・・・お・・・お・・・お・・・おれたちを・・・おれたちの・・・おれたちの・・・め・・・め・・・め・・・めを・・・めを・・・めを・・・くらま・・・くらま・・・くらま・・・くらま・・・せ・・・せ・・・せ・・・た・・・た・・・た・・・た・・・」 「父の―― 怒り?」 ゆりかは、さっと顔色を変えた。 とっさに頭の中に、あることが思い浮かんだのだ。 「誰なの? 誰なの、『父親』って? 一体、誰のことなの? あなたを襲った『電光』って、一体、何のことなの?」 「・・・し・・・し・・・し・・・しら・・・しら・・・ない・・・しらない・・・しらない・・・しらない・・・わから・・・わから・・・な・・・い・・・わから・・・な・・・い・・・わから・・・な・・・い・・・わから・・・ない・・・おも・・・おも・・・おもい・・・おもい・・・おもい・・・だせ・・・だせ・・・だせ・・・だせ・・・な・・・な・・・な・・・な・・・い・・・い・・・い・・・い・・・い・・・い・・・」 ゆりかは頭の奥で、日曜学校で習った聖書の一節が、いなづまのように閃くのを感じていた――
〈―― それは悪魔とかサタンとか呼ばれる、全世界をまどわす、年をへた蛇・・・〉 (「ヨハネ黙示録」第十二章九節)
第二のゆりかは、苦しい息の下で、なおもしゃべり続けた。 「・・・お・・・お・・・お・・・おれ・・・おれ・・・おれ・・・おれたち・・・おれたち・・・おれたちは・・・に・・・に・・・に・・・にく・・・にく・・・にく・・・む・・・おそ・・・おそれる・・・おそれる・・・ちちを・・・ひかりを・・・まぶしい・・・で・・・で・・・で・・・でんこうを・・・でんこうを・・・でんこうを・・・でんこうを・・・おそれる・・・おそれる・・・おそれる・・・おそれるうううぅ・・・」 岩場の第二のゆりかが、突然白目をむいて、ぐはっとばかりにゆりかをにらみつけた。 その顔に、不気味なにたにた笑いが浮かび、くちびるが奇妙なぐあいにまくれ上がると、第二のゆりかは上下の歯をむき出して、いきなり、げらげらと笑い始めた。その顔に、数えきれないほどの人や生き物の姿が、入れかわり立ち変わり、現われ始めた。 白人、黒人、黄色人、男、女、赤ん坊に年寄り、大人、子供、犬や猫、鳥や魚、ヘビにとかげ、けだものたちの顔が、つぎからつぎへと、現われては消え、現われては消え、現われては消え、現われては消えていくのだ。まるで地獄に落ちた、かつて生あるものだったすべての亡者たちが、何百、何千、何億という亡者の顔たちが、入れかわり立ちかわり、あの世からやって来て、本のページをめくるように、つぎからつぎに、ゆりかの顔を借りて現われては、ゆりかをあざ笑い、どこかへと去って行った。 (駄目! もう死ぬんだわ!) 本物のゆりかは、目をつむった。 岩場の第二のゆりかの甲高い笑い声が強くなり、ハエの羽音のようなうなりが、そこら中でざわめいた。 ブウン―― ・・・ブウン―― ・・・ブウン―― ・・・ブウン―― ・・・ブウン―― ・・・ブウン―― ・・・ブウン―― ・・・ブウン―― ・・・ その時、ゼリー状の怪物の胴体が痙攣して、いきなり元の十倍の大きさまでふくれ上がると、だしぬけにゆりかのすぐそばで、ばちん! と大きな音を立ててはじけ飛んだ。 びっくりする第一のゆりかの目の前で、みどり色の炎の輝きが、目にも止まらぬ早さで、そこから飛び出すと、岩場の第二のゆりかに向かって、勇躍猛然と躍りかかって行った。 空気を引き裂く甲高い悲鳴と、何億、何十億という憎悪の上げる、すさまじい雄叫び、そして聞きおぼえのあるゆりか自身の断末魔の絶叫が、ほとんどいっしょくたになって、山頂全体にこだました。 本物のゆりかが目を向けた刹那、岩場の上のもう一人のゆりかが、一瞬ぼんやりとした薄笑いを浮かべて、目もくらむ、あざやかなみどり色の閃光につつまれたのが見えた。 つぎの瞬間、岩場の第二のゆりかが、甲高い笑い声を発して、いとも盛大に、そこら中に砕け散った。ゆりかの切れ切れの細かい肉のかけらが、血となって、しぶきとなって、地上いっぱいに、雨あられとなって降りそそぐと、赤い肉汁と黒いもやもやとが、一瞬遅れて空中に吹き出した。 黒いもやもやは、しばらく宙をさ迷っていたが、次第にゆっくりと集まって来ると、ゆりかのいる山頂へと降下して来た。 間髪を入れず、さいぜん飛び出した、みどり色の閃光が、ぐるぐる輪を描いて、黒いもやもやに飛びかかると、みどり色の閃光と黒いもやもやは、しばらく空中で激しく争っていた。 山頂全体に、またも雷鳴がとどろき、大地を稲光が照らした。 稲光と雷鳴は、幾度も幾度も続いた。 「・・・ああ・・・ああ・・・世界が・・・宇宙が・・・回る・・・回る・・・回る・・・回るう・・・」 ゆりかはおめきをあげて、その場にあおむけに倒れ込んだ。 「ゆりかさん、お元気ですか? 私の声が聞こえていますか?」 聞きおぼえのある優しい声が、すぐそばからして、みどり色のクジャクのパピリカ・パピリトゥスが、ゆっくりとつばさをはばたかせながら、ゆりかのかたわらに着地した。 「とうとう終わりましたわよ。全部というわけではありませんがね、一応、元の世界へと追い返してやりましたわ。おやおや、泣いているのですか? どこか、おかげんでもお悪いのですか? けがでもなさったのですか?」 「いいえ! わたし、けがなんかしていないわ! わたし、今、最高にいい気分なのよ! わたし、歌でも歌い出したいくらいなの! 本当に素敵で、最高の気分なのよ!」
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