木戸の向こう
ゆりかとペン子は、プンデルカンドの宮殿には戻らずに、〈出会いの井戸〉からまっすぐに、カンバーランドへ帰ることになった。 「殿下には、あんたたちがよろしく言っていたとお伝えするわ。二人とも、心おきなくお発ちなさいな」 「ありがとうございます、ペヨルカさん。わたしたち、色々とお世話になっちゃった。これで失礼しますね」 ゆりかとペン子は、来た時と同じ方法で、誰にも気どられずに、カンバーランドのお城に戻った。二人は今度のことを、ロデリア姫にも誰にも、秘密にしておこうと誓いあった。 ゆりかがプンデルカンドから戻って、二週間あまりが過ぎた。そのあいだにも、二つの国のあいだをせわしなく使者が行き来し、二人の婚礼の日取りと準備が整いつつあった。ゆりかは王女の“魂のふたご”で、また王室の客人でもあったが、王女の結婚式については、何も知らされなかった。王女は例の〈お妃教育〉とやらで、毎日目がまわるほど忙しいらしく、王女のお付きの女官たちも、固く口止めされているのか、ゆりかにお城で起きていることを詳しく話してくれる人は誰もいない。ゆりか付きの侍女のイパメルも、結婚式の準備を手伝わされているのだろうか、ゆりかのところへは顔も見せなかった。ゆりかはカンバーランドに来て初めて、自分がまわりからとり残されたような、さびしさを感じていた。ペン子がときおり人間の姿に戻って、ゆりかをなぐさめてくれたが、そんなことでは、ゆりかの気持ちはおさまりそうもなかった。 そんなある日、ゆりかが一人で、お城の庭園を散歩していると、国王さまとお妃さまが、連れ立ってやって来るのに出くわした。 ゆりかがあわてて引き返そうとするより先に、思ったよりもそばに来ていた二人の足音が、すぐ後ろから聞こえてきた。 「そんな! あなたのせいではありませんか! 今さらそんなことをおっしゃられるなんて、卑怯ですわよ!」 突然、王妃さまの叫び声が聞こえた。 「おやめなさい、みっともない。いくら言っても、始まらんのだからして。あれのことについては、私もさんざんに悩んだのだよ。だが、〈天球院〉の決定をくつがえす方法は、どうしても見つからないのさ。なあ、こらえておくれ。国王の妃に嫁いだのが、身の不運と思うてな。存外、思わぬ幸福が、ここから開けてこないとも、限らんのだからして」 「あなたは本当にそうお考えになるのですか? ここから思わぬ幸福が開けてくると、本当にあなたはお考えになるのですか?」 ふいに王妃が、甲高いヒステリックな声で、王さまを罵り始めたので、ゆりかは悲鳴を上げて、植え込みから走り出しそうになった。 二人が通り過ぎたあとで、ゆりかはがまんができずにその場を駆け出して行き、庭園の裏手にある大きな木戸の前に来ると、そこで一人ぼっちでたたずんでいる、ロデリア姫の後ろ姿を見つけた。 (あっ。もしかすると、ロデリア姫は、今の言いあいを聞いていたんじゃないかしら?) ゆりかは抜き足差し足で、その場から立ち去ろうとした。 その時、ゆりかの足がツゲの小枝を踏みつけて、乾いた大きな音を立てた。 ふり返った王女の目が、ゆりかに気がついて、大きく見開かれた。 「まあ、こんにちわ」 「こ、こんにちわ、王女さま。な、何を見ていたんですか?」 ゆりかはばつが悪くなって、訊いた。 「これよ。この木戸の飾りを見ていたのよ」 王女の答に、ゆりかが目をやると、その木戸の真ん中ら辺には、ぴかぴかの真鍮で造られた巨大な怪獣の頭飾りがついていた。牛と鬼の合いの子のようなその怪獣は、今にもほえ出しそうな形相で、むき出した牙のような歯並びを、大きく開けた口から、気前よく見せつけている。 ゆりかが恐る恐る、近づいて行くと、 「グログムよ。詩人のオシアンの歌った詩にある通り――
“時の浜辺の いや果ての 砂漠の奥に 住まいする”
―― という伝説の怪獣よ。もっとも誰一人、実物を見た者はいないのだそうだけれどね。 私は小さい頃に、私のお守りをしてくれたばあやの目を盗んでは、たった一人で、よくここへ来たものでした。この木戸の向こうには、どんな世界が広がっているのだろう、一体、何があるのだろうって、知りたくて知りたくて、たまらなかったからなのよ。でも、私はまだとっても小さくて、背だってとても低かったから、この木戸の把手に手が届かないうえに、おまけにこの飾りが、こんなにもこわい怪獣の頭でしょう? この飾りが私をにらみつけて、いつもこう叫ぶような気がするのよ。 『まだ駄目だ! まだ先へ行かせるわけにはいかないぞ! おまえのような小さい奴は、この俺さまがとって食ってやる!』って。 ねえ、ゆりか、あなたの住んでいた世界って、一体、どんなところなの?」 「さあ、どんなって言われても・・・。ごく普通のところよ。退屈だし、魔法使いもいないし、王さまや女王さまもいないわ。外国ではともかく、私の国ではね。パピリカやペン子ちゃんみたいな魔法使いがいるのは、ちょっと想像もつかないな。 わたしのいた世界ではね、すごくつまらない、ありふれたことしか起きないのよ。きっとあなたには、ものすごーく退屈で、ものすごーく味気ない場所だと思うわ。それにあそこは、ものすごく息苦しいのよ。怪獣も魔法使いもいないわけだしね。ここでは全部、本当のことだもんね」 その時、侍女のイパメルが王女さまを呼びに来て、帝王学のスパルタ・スパルカン教授が、〈導きの間〉で王女をお待ちしていると告げた。 王女がイパメルにともなわれて姿を消すと、親しいペンダントの精が、一陣のつむじ風とともに現われた。 「まあ、ペン子ちゃん!」 「はい、ペン子です! ゆりかさん!」 二人の少女たちは、抱きあって再会をよろこびあった。 「ペン子ちゃん、このあいだの動物の正体について、何か手がかりはつかめたの?」 「いいえ、まだなんです」 ペン子は、プンデルカンドから帰ってからの十数日来、牢屋のパピリカと連絡を取りあい、外で起きた異変について、さまざまの調査を開始していた。ゆりかの言った『動物』というのも、〈出会いの井戸〉の森で見た、あの不思議なつめあとの主のことだった。ペンダントの精であるペン子は、たびたび虫や鳥に姿を変えて、この奇妙な動物の手がかりをもとめて、カンバーランドやバルト世界のあちこちを、飛び回っていたのだった。 「そうなんだ。どこにも手がかりは見つからなかったのね」 「わたしの能力では、まるっきり不十分なんですね。本当に申しわけがありません」 「そんなこと、絶対ないって。ところで、考えたんだけどさ、わたしたちでどうにかして、お姫さまの結婚式をやめさせられないかしら? パピリカは、『無理だ』って決めているけど、そんなこと、絶対に、やってみなけりゃわからないわよね。どうにかして、やめさせてあげたいのよ。王女さまはあんなに、いやがっていたもの。向こうだって、あんなにいやがっていたんだし」 ゆりかは、ロデリア姫の悪口を言っていた、アヨング・オキの顔を思い出して、くすくすと笑った。 「さあ、どうでしょうか。どんなに考えても、無理ですわ。だって、〈天球院〉がからんでいるんですから」 「また〈天球院〉か。最後には、いつもその名前が出てくるんだなあ。〈天球院〉、〈天球院〉て、そんなにおっかないところなの、〈天球院〉て? ペン子ちゃん、あなた、知ってるの?」 「知らなきゃ、もぐりですわ。天にある法廷みたいなところの、地上における支部でしょうか。うまく説明ができません」 「そうなのね。ねえ、わたしをその〈天球院〉へ連れて行ってくれない? どんなところか、確かめてみたいのよ。わたしをその〈天球院〉へ連れて行ってよ」 「わおっ! あなたを〈天球院〉へ連れて行けとおっしゃるんですか? ううん・・・どうかなあ。もっと楽しいところへなら、いろいろとご案内ができると思いますけど・・・」 「ありがとう。いつか連れて行ってもらうとして―― でも、今はどうしても、〈天球院〉へ行かなきゃならないのよ。確かめてみたいこともあるし。ねえ、わたしがそこへ行っても大丈夫だと思う?」 「さあ、どうかなあ。〈天球院〉へ行けるかどうかは、こちら側ではなく、向こう側が決めることですから。それに危険な場所でもありますし、こちらの世界の人々は、あそこへは行きたがらないんですのよ。あの場所をとっても怖れているんです。かと言って、あそこへ行ったから、何かひどいことをされるというわけでも、ないらしいんですけれど」 「そうなの? じゃあ、ますます行きたくなったわ。わたしにとっての交番みたいなところかもね。 あのねえ、パピリカが、〈天球院〉との約束は、絶対に守らなきゃいけないっていうから、〈天球院〉ってどんなところか、確かめてみたいと思ったのよ。それに―― それにね―― できたらわたし―― お姫さまの結婚式をとりやめにしてもらうよう、〈天球院〉の人に頼んでみるつもりなの」 「あわわ。ご自分が何を言っているのか、わかっているんですか?」 「あら、いけないの?」 「ううん、いけなくはないけど―― どうかなあ―― 」 ペン子がつま先で、地面をほじくっていたが、 「わかりました! 善は急げだ! わたしの背中に乗ってください! 〈天球院〉まで、ひとっ飛びしまあす!」 「えっ! ペン子ちゃんの背中に乗るの?」 ペン子はにやりと笑い、みどり色の光を放って、一羽の大ワシに変身した。 「さあ、どうぞおお! わたしの背中に乗ってくださああい!」 恐る恐るゆりかが近づくと、ペン子ちゃん大ワシは、鋭い目でゆりかをにらみつけた。 「大丈夫。かみついたりはしませんぞおおおお」 大ワシが笑いをかみころして言った。 ゆりかがおっかなびっくり、ワシの背によじのぼると、大ワシは二、三度はばたいてから、ふわりと浮き上がった。ゆりかはぎゅっと目をつむり、こんな時のために、侍女のイパメルに教わったおまじないを唱えた。
「 “土をにらんで 聖アルゴスのクジャク
スープを作ろう ニワトコの苗と 犬をすこうし 猫をちょっぴり 鍋を煮立てて 一昼夜
つぎの朝には できあがり しゃっくり木切り 小鬼の木
赤ん坊泣いても 包丁みがけ
血の雨走れ イボとれろ”
あれれ? こんなのだったっけ? ペン子ちゃん、この前の時みたいに、一瞬では飛んで行けないの? つばさで飛んで行くの? きゃああああ―― !」 ゆりかは大ワシの背に、あわててしがみついた。 大ワシのつばさが空気を打つたび、盛り上がった筋肉が、ゆりかの下でうごめいている。そのうち、ゆりかはすっかりこわくなくなり、気分もよくなっているのに気がついた。 「どうですか? いいながめでしょう? カンバーランドはおろか、バルト世界全体が見渡せますよ!」 ペン子ちゃん大ワシの言ったことは本当だった。その時、ペン子ちゃん大ワシはゆりかを乗っけて、カンバーランドのはるか北方をめざして、まっしぐらに飛んでいたのだった。 「ごらんなさい、あの山々を! まるで山脈全体が、水晶を溶かしたようですねえ!」 ゆりかはペン子ちゃん大ワシの説明に、ほれぼれとしたように、またあらためて山々をながめた。 そのうちゆりかは眼下の風景に、とてつもなく奇妙な変化が起きているのに気がついた。 自分が大きな、がらんどうの部屋に置いてある、一台の丸い大テーブルの上を飛んでいる気がしてきたのだ。 そして、その円形のテーブルの上には、今、目の前にあるくだんの山々が乗っていて、その全体を巨大なガラスのドームが覆い、空に浮かんだ星々は、周囲の壁にはりついた部屋の模様が、ただ光っているだけだったのだ。 ゆりかは頭をぶるぶると振って、あやしい幻を追いはらった。幻は、すぐに消え失せた。 その時、二人の向かっている方角には、地球でいうと北極星にあたる、〈パーマー=ソラリス一番星〉が、冷たく、青白い光を放っていた。その星に向かってまっすぐに飛べば、〈天球院〉に行きつける者は、〈天球院〉を見い出すであろうと、古くからの言い伝えに言われていたのだった。(ただし、その者たちが〈天球院〉のみこころにかなうならばだ) ゆりかは〈天球院〉に関するこの世界の秘めた伝説を、ひと通りペン子から教えてもらった。 「―― というわけで、〈天球院〉にたどりついた者は、誰もその場所や、そこで起きたことを話さないんですよ。厳重に口止めされているからだとか、一説には、〈天球院〉が自分たちの安全を守るために、その人たちから、自分たちに関する記憶を、一切消してしまうからだとも言われているんですわ」 「まあ、こわいところなのね! こわい人たちもいるの?」 「さあ、どうでしょうか。〈天球院〉に関しては、誰も正確な知識を持たないんです。それでかえって、〈天球院〉のことを、みんなは気味悪がっているのかもしれませんけれどね」 大ワシは素晴しいスピードで飛び続け、やがて、眼下の景色が一変したのに、ゆりかは気がついた。あたりの山々が、人の侵入をこばむように、岩だらけのいかめしい、荒々しい姿に変わっている。 さかまく気流が渦を巻くように、ゆりかと大ワシの全身を包み込んだ。 「ペン子ちゃん、あれ、聞こえてる?」 凍てついたゆりかの耳に、不思議な、妙なるメロディーが響いてきたのだ。 それは歌声のようでもあり、遠くかすかに、しかし心の芯に強く鳴り響く、澄みきったカリヨンの音色のようでもあった。 ペン子は何も言わなかったが、両のつばさをぴんと伸ばすと、前方にそびえる山々の一つ、通称〈三角山〉を目指して、勇躍降下して行った。 大ワシは何の前触れもなく、ふいに山頂に降り立った。 「着きましたああ! 下りてもよろしいでえええす!」 ゆりかはがくがくと震えるひざで、地面に降り立った。 見渡すと、岩ばかりの荒れ果てた殺風景な光景が、広がっている。 「なんだかさびしいところなのねえ。こんなところに、本当に〈天球院〉なんてあるの? あれれ? ペン子ちゃん、どこ? どこなの?」 あわてて見回して、ゆりかは途方に暮れた。 ペン子の姿がないのだ。 「ペン子ちゃん? ペン子ちゃん? どこに行ったの? 隠れてないで、出て来てよ! ペン子ちゃん? ペン子ちゃん? ペン子ちゃん! ペン子ちゃん!―― ああっ、ペン子ちゃんが―― !」 ゆりかはおどろいて、目の前の地面のくぼみに駆け寄った。 そこに、あのみどり色の宝石のペンダントが、落ちていたのだ。 ペン子はどうやら持てる体力を使い果たして、元の姿に戻ってしまったようだった。ゆりかはペンダントを急いで拾うと、ていねいに汚れをはらい、首にかけた。 一本の踏み固めた細い道が、岩山の向こうの斜面づたいに、ずっと伸びているのが見えている。ゆりかは、たぶんあの方向だろうと見当をつけて、その方へ、どんどんと歩いて行った。 小道をしばらく行って、ふと、わきを見ると、粗末な木の看板が立っているのに出くわした。ゆりかが近づいてながめると、看板には、この世界の文字で何かの注意書きが書かれていた。 文字はたちまち、つぎのような日本語の案内文に変わった。
<天球院にご用の方は、この道をまっすぐです→>
〈ただし、ご用のない方は、お越しにならない方が、身のためですよ〉
看板の下には、そのような恐ろしい文句も現われた。 ゆりかはごくりと、つばを飲み込んだ。 それから、覚悟を決めて、また歩き始めた。
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