脱出
ゆりかはさっと緊張した。 その時、バルコニーに一陣の風が吹いて、ひとかたまりの黒いものが、ばさばさっと舞い下りてきた。 それは一羽の、黒い、大きなハゲタカで、つばさをばたつかせて欄干にとまると、つぎの瞬間、マデリンの手下のイゴールに変わった。 「イゴール! 手間取っていたのかい? それで、手がかりはつかめたんだろうね?」 イゴールは欄干から飛び降りると、素早く魔女に耳打ちした。 「何だって、パピリカの奴が? じゃあ、なおのこと、ぐずぐずしてはいられないわけだ。おいで、ゆりか! こうなったら、すぐに、あれを始めなきゃ! イゴール! おまえは部屋の隅にひかえておいでよ! それから、ポリロ・ポリローニとジフテリア・キュー!」 二人はどこからか、すっ飛んで来た。 「おまえたちは念のために、この城の防備を固めるんだよ! 手配がすんだら、おまえたちはここに戻って来るんだ! さあ、お行き! まったく、ぐずなんだから! さあ、のろまのゆりか! この魔法円陣の中にお入り! さっさとしないか!」 「あの、何をする気なの?」 「シエネ・イエネ・キエネ!」 マデリンは、自分が描いた魔法円陣の中央に、ゆりかを立たせると、 「これであんたの姿は見えなくなった。やい、ゆりか! あたしの声が聞こえるね?」 ゆりかは頭を、くらくらと揺さぶった。 「よーし。これであんたは、あたしの言うなりだ。ためしに腕をぶらんぶらんさせて、輪の外に出てごらんよ」 ゆりかは夢遊病者のように、ふらふらと円の外に出ようとした。 「あっ、痛い!」 ゆりかは見えない壁にぶつかり、はじき返された。 「そうら。あたしの言った通りだろう。うっふふふふ。あたしはちょいとしたまじないを、これからあんたにかけてやる。いっとき、あんたの心は、あたしの心と混ぜあわさるのさ。悪く思わないでおくれよ。こうでもしなけりゃ、なくしたペンダントを探せないし、なくしたペンダントが見つからなけりゃ、パピリカを呼び出せっこないからね」 (えっ? ええっ? えっ? えっ? えええっ? ペ、ペンダントを―― も、持っていないの?) マデリンが、おごそかに呪文を唱えた。 気がつくと、ゆりかは宙に浮かんでいて、はるか下に、魔法円陣に立たされた自分とマデリンの姿が見えていた。ゆりかはびっくりして手足をばたつかせると、床の上の自分に近づこうとした。 ―― そこで、自分の分身に何が起きるのか、ながめておいでよ―― マデリンがゆりかを見上げて、にやりとした。 若い魔女が両手を広げて呪文を唱えると、宙に浮かんでいたゆりかの体が、床の上の分身めがけて、急に吸い寄せられ始めた。 (こ、こわい! 誰かっ、誰かっ、誰かっ! 誰かっ、助けてーっ!) その時だ、ゆりかを縛りつけていた力が急に消え、ゆりかは突然、自由になった。 こわごわと目を開けると、マデリンがおびえきった表情で、宙をにらんで突っ立っている。 なにごとだろうと、ゆりかが頭上をあおぐと、天井に細いひび割れが走って、あっという間にそのすき間が広がると、エメラルド・グリーンの光が、そのあいだから差し込んできた。 (あっ、パピリカさんだわ!) 宙に浮かんでいたゆりかが天井へ戻ると、みどり色の光る球体が、部屋の中に踊り込んで来た。イゴールが黒ワシに変身するや、みどり色の球体めがけて、飛びかかって行った。反対に電光をあびせられて、すぐに消え失せた。 と見る間に、今度は大ヘビの姿になって、巨大な胴体をのたくらせながら、みどり色の光の球体に飛びかかった。大蛇はみどりの球体を追いかけて、しきりとかみつこうとするが、そのたびに球体は目にもとまらぬ速さで、ヘビをかわしている。マデリンも負けてはいない。こちらはヒョウに変身すると、大蛇とヒョウは、みどり色の光る球体を、追いかけ始めた。 (パピリカ、パピリカ、パピリカ、何とかして! お願いよ!) みどり色の球体がまばゆく光った。 ヒョウと大蛇が、空中で静止した。 「あああっ!」 ―― しばらく時間を止めたのですわ―― なつかしい声がして、ゆりかがふり返ると―― 「ああっ! パピリカさん!」 ゆりかは、目の前に立っていた、みどり色のクジャクに飛びついた。 「今度こそ、本物なのね! パピリカさん、どうもありがとう!」 「ゆりかさん、ぐずぐずしているひまはありませんわ。一刻も早く、ここを出ましょう!」 「でも―― でも―― でも―― 」 「『でも』は、なしですよ。さあ、急いで、急いで! 私の背中にお乗りください! 時間が溶け始めましたわ! さあ、ぼやぼやしないで! 早く! 早く! 早く!」 (お願いよ、もう一人のあたし! 今度、取りに来る時まで、ちゃんと残っていてよね!) 「行きますよ、ゆりかさん!」 パピリカは、一気に天井の割れ目を突き破ると、マデリンの城を飛び出して行った・・・。
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それから半時間ほどのち、シドンとウイドンの領地のさかいにあたる、静かな森のこぎれいな泉のほとりで、ゆりかとパピリカは、疲れきった体を休めていた。 カンバーランドの、西のはずれのその森は、コナラやブナに似た原生林に覆われて、昼なおまだ暗く、ゆりかは名も知れぬ草木のあいだに転がった、ごろた石の一つに腰をかけて、ぼんやりと泉の表面をながめていた。 「ここまで来れば、ひと安心ですわね」 パピリカは、ゆりかから離れて、つばさの先を泉の水にひたしながら、 「まだまだ油断はできませんが、あいつらのことですからね、きっと当分は、見当違いの方角を、探し回るに決まっていますわ」 「でも、あたしの体は、あっちに置いてきちゃったんだもの、心配だな」 「ご心配なされるには、およびませんことよ。このパピリカ・パピリトゥスめが、命にかえても、あなたの分身を取り戻してさしあげますからね。〈大魔法使い教典〉と、神聖クジャクのアルゴスの、聖なるつばさの先にかけて」 「本当?」 「そんなに心細いですか?」 「そりゃあね、やっぱりね」 二人はしばらく黙った。 「ごめんなさいね、ゆりかさん。本当に申しわけがありませんわ」 ゆりかがびっくりして、クジャクの魔法使いを見ると、パピリカはこれまで見たことがないほど、しょげ返っていた。 「わたくしどもと知りあったばっかりに、あなたを途方もない災難に、巻き込んでしまいましたわね。さぞや、わたくしどもを、恨んでいることでしょうね」 「そんな、恨むだなんて―― 私はむしろ―― ありがとうを言いたいくらいなのよ」 「まあ、『ありがとうを言いたい』ですって? それはまた、どうしてですの?」 「だってね、ほら、ここの景色を見てよ。あなたはここに―― このわたしを―― 連れて来てくれたじゃないの―― そりゃあね―― ちょっとは―― 心細いけど―― 」 「いいんですのよ。あなたの本心は、お見通しですわ。ありがとう、ゆりかさん。あなたは本当に心のきれいな、お優しい方ですのね」 「あのう―― 」 「ええ。あなたから、どうぞ、ゆりかさん」 「それじゃあ、言わせてもらうけどね」 と、ゆりかは前置きをして、 「さっきマデリンが、わたしの世界に、わたしとそっくりの替え玉を送りこんだって、話していたんだけど、そいつがパパやママに、何かするんじゃないかと思うと、すっごく心配なの」 「お察しいたしますわ。いかにも、あの女のやりそうな手口ですわ。でも、お気づかいは無用とぞんじますわ。それと申しますのも、あの女がわざわざ、あなたの世界にあなたの替え玉を送り込んだのは、あなたのご両親に、あなたのいなくなったことを、悟られないようにするためだと思うからです。つまり、あの女もこの世界のことは、ひた隠しに隠さなければならない立場だからですわ。しばらくのあいだは放っておいても、問題はないとぞんじますけれどね。それよりも、あなたの分身をどうにかしなければね」 「そうなのね。ところで、何を言おうとしてたの、さっき私が言いかけた時だけど―― ?」 「ええっ、何がですか?」 「ごまかさないで。何を言おうとしてたの?」 「そう。それはですね―― 」 パピリカはもったいぶって、うろうろと行ったり来たりを始めると、やがて決心がついたものか、 「ゆりかさん、お話しいたしますわ、いつかのお約束の通りに。王女さまとわたくしが逃げ回っている、その本当のわけを、これからお話しいたしますわ」 「待ってちょうだい! そのわけは、わたくしから話すわ!」 ゆりかがふり返ると、薄みどり色のきれいな、蛇腹状のひだが前身頃についたドレスを着た、世にも愛らしい少女が一人、こちらに向かって歩いて来るのが見えた。 「ロデリア姫!? 」 ゆりかが叫び声を上げた。
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