泥人間
「ゆりか、お料理は食べないの? 冷めるけど」 「いい。ほしくないの」 「それなら、パパがもらっちゃうぞ」 浴衣に着がえたパパが、おどけながら箸をのばすと、ママがあわてて、ゆりかの皿をのけた。 「あなた、せかさないでくださいよ。それにしても、変ね。どこか、ぐあいでも悪いんじゃないの?」 「ううん、平気よ」 「だったら、いいけど」 ママは心配しながらも、それでも食事を続けた。 ゆりかはパパとママと三人で、箱根の保養所の食堂で、小さなテーブルに着いていた。いつもなら真っ先に、おみをつけを食べるゆりかだったが、さすがに今夜は食べられそうもない。 (きっと、林の中で落としたのよ。林のどのあたりだったのかな? ようし、こうなったら、待つしかないんだわ。何が現われるかはわからないけど、相手が来るまで待つしかないんだ。あたしはロデリア姫の“魂のふたご”よ! 絶対に負けないんだから!) その晩の午前二時過ぎのこと。 あてがわれた部屋の布団の中で、丸くなっていたゆりかは、かすかな物音に、ふと目を覚ました。 ふすま一枚をへだてて、廊下をこちらへと近づいてくる、奇妙な足音が聞こえてくる。 廊下とのさかいのふすまをはさんだ、見えない相手とのにらみあいが続いたあとで、その正体不明の何者かが根負けして、静かに立ち去る気配がした。 ゆりかは間髪を入れず、パジャマのまま部屋を出た。 廊下の突き当たりを左へ曲がり、そのまま娯楽室の前へ来ると、ドアの下のすき間から、かすかな明かりがもれているのに気がついた。 たっぷり一分もたってから、ゆりかは思いきってドアを開け、娯楽室の中に踏み込んだ。 「ああっ! パピリカさん!」 ちろちろとまたたく、漁り火のような、赤いおぼろな光に照らされて、部屋の真んまん中には、大きなみどり色のクジャクが、仁王立ちに立っていたのだ。 「パピリカさん、会いたかったわ! 来てくれたのね!」 「おや、ゆりかさんですのね? どうかしましたの、ゆりかさん?」 「ううん、何でもないのよ。ちょっと身ぶるいがしただけよ。それにしても、なんか、久しぶり!」 「はい、お久しぶり。ゆりかさん、以前に会った時よりも大人びて、ずいぶんきれいになられましたわね」 「えへへへへ。そうかなあ。パピリカさんも、なんだか前よりも、ずっと、ずっと若返ったみたいよ。それよりねえ、あたし、大変だったのよ」 ゆりかはペンダントをなくしたてんまつを、パピリカにしどろもどろに伝えた。 「それは一大事でしたわね。“善は急げ”と言いますから、わたくしたち、あなたのペンダントを探しにまいりましょうかしら?」 「ええっ、今から? だって、外は真っ暗よ」 「魔法使いにとっては、昼間も暗やみも同じことですわ。何のために魔法の力が、あるとお考えなのですか?」 言うが早いか、パピリカとゆりかは―― あのゆりかが見た、アカマツの林の入り口に立っていた。 「ここですね、あなたがペンダントをおなくしになった場所は? それにしても、なんという不注意でしょう! それでは、これから中に踏み込んで、そのペンダントを見つけるといたしましょうか」 「あ―― あの、パピリカさん―― あ―― 明日では―― だ―― だ―― 駄目―― なの?―― ま―― まだ―― 真っ暗だし―― それに―― それに―― とっても―― 寒いし―― こわいわ」 「何を言い出すかと思ったら! あなたがペンダントをなくしたのだから、あなたが取りに行くのが本当でしょう? わたくしだけでも、先に帰らせていただきましょうかしらね?」 「わかったわよ、行くわよ。いっしょに来てくれるよね?」 「それはもう、もちろんのこと」 というわけで、二人はアカマツの林に踏み込んだ。 昼でも暗かった林は、夜なればこそ、いっそう黒々として不気味で、今にもゆりかとパピリカを、飲み込んでしまいそうだ。 「ねえねえ、まだ歩くの?」 「まだまだ歩きますよ。まだまだ、ずっとずっと先です」 「魔法で飛んでは行けないの?」 パピリカはゆりかをにらみつけた。 「あ、痛い!」 まつかさを踏んづけて、ゆりかは足をくじいてしまった。 「お気をつけになってください! それに、もうちょっと急いで!」 「疲れたわ! パピリカさん、そろそろ休ませてくれない?」 「いいえ、駄目です!」 ゆりかはくちびるをかみしめて、意固地になって、足を引きずりながら、なおも歩き続けた。 三十分ほども歩くと、パピリカが立ち止まった。 「さあ、着きましたよ。ここが終点。それとも、入り口とでも言った方がいいかしらね? あんたにとっては同じこった、どっちでもね」 「あ―― あなたは、誰!?」 パピリカに生き写しだったクジャクは、甲高い声で笑い出すと、笑いやんだ時には、すっかり別人の女に早変わりしていた。 「あっ! あなたは―― マ、マデリン!!!」 「おっと、逃がしゃしないよ! おまえは大切な、人質なんだからね!」 「くそう! 放してよ! 放してよ!」 「放すもんかい。どっちにしろ、もう逃げられっこはないよ。ここはハデスの野のはずれで、あんたの世界とは、かけ離れてしまったのだからね」 「畜生! 畜生! 卑怯者! 放せっ! 放せっ! 放せーっ!」 「あんたにそう呼ばれるのは、これで何度目だろうかね。結構、悪い気はしないけどさ」 「パピリカ! パピリカ! 来て! 助けて! お願い! お願い! お願い! お願い!」 「おーや、はばたき一つ、聞こえてはこないよ。ここからもう一度、呼んでごらんよ」 「パピリカ! パピリカ! 早く来て! お願い! お願い! お願い! お願い!」 「私もいっしょに、叫んであげようかね? そうすりゃ、あのクジャクばあさんも、助けに飛んで来るかもしれないよ」 マデリンはせせら笑った。 「ど―― どうして―― わたしを―― どうして―― だ―― だましたの?―― 」 「誰もあんたを、だましやしないよ。あんたが勝手に、だまされただけじゃないか。あたしはあんたを、ちょいとばっかり、からかいたかっただけなんだよ。それに気がつかない、あんたが悪いのさ。いとも簡単に引っかかってしまう、あんたがね」 「そんな―― そんなことって―― あるの?」 「あるともさ。この世では、りこうな奴が勝利を握り、愚かな奴が負けを見る。おまえも、あのパピリカがいなけりゃ、ちょろいもんだったよ」 「何よ、自分だってパピリカがこわくて、逃げたくせに!」 「何だって?」 「あんただって、本当はパピリカに、かないっこないくせに!」 ぴしゃり! ゆりかの頬が赤く腫れた。 「二度と、そんな口をきくんじゃないよ! さもないと、ハニブーに変えてやるからね! それとも、ブタにでも変えてやろうかな。そうだ、ブタがいい! あんたは地面を這いずり回って、一生鳴いて暮らすのさ。ブーブー鳴いて、暮らすのさ。そいつがおまえにゃ、お似あいなのさ。あっはっはっはっはっ」 ゆりかは、つかまれた手を振りほどいて、泥土の上を駆け出した。 「お待ち! 逃がしゃしないよ! ゆりか!」 背後でマデリンの叫び声が聞こえると、ゆりかの履いていたスリッパが、かたほう脱げた。 「あああっ!」 ゆりかは泥土の上に倒れ込んだ。そして、われとわが目を疑った。 地面が―― どこまで行っても、きりがないと思われた、あの泥土の地面が―― あちこちで、ムクムクとうごめき始めたのだ。 まるで今しがたまで、何でもなかった地面に、急に命が宿ったかのように、泥土の地面が、そこら中でこぶを作って盛り上がると、大小無数の人間の姿になって、いっせいにゆりかに向き直ったのだ。 (あれ? 誰かがものすごい声で笑っているけど、一体、誰が笑っているんだろう?) マデリンが空中に現われた。地面の上を転げ回って、笑っているゆりかを、腕組みしながら見下ろすと、 「ふふん! どうだい? ただのニンゲンの子供のくせして、あたしにたてつこうとするからだよ! あきれたね! あれほど大口を叩いていたくせに、もう口からあわを吹いているじゃないの。さては恐ろしさのあまり、気が狂ったんだね」 マデリンは冷たく、ゆりかを見下ろしながら、笑い声を上げた。 「どうだい? あんたにかけられた〈災い封じ〉の呪文を解くために、あたしとイゴールと二人して、あんたに術をかけたのさ。あんたは気がつかなかったようだけど、ニンゲンに化けたイゴールが、あんたの手の甲にひっかき傷をつけて、その傷からあんたの血を、一滴ばかりもらい受け、それを使ってペンダントの守護の力を、一時的に消し去ったのさ。あんたときたら、あたしの作ったタルパの白いまぼろしに、いとも簡単に引っかかっちまったね。それっ、飛びかかれ、泥人間たちっ! ただし、命だけは取りなさんさ! さあ、やれっ!」 その声に、泥人間たちが、いっせいにゆりかに飛びかかった。 その数、何十というかれらの手が、いっせいにゆりかを押さえつけ、泥のかたまりが、ゆりかの口に押し込まれた。 ゆりかは泣きながら悲鳴を上げ、最後の力をふりしぼって手足をばたつかせると、やがて何もわからなくなった・・・
「ゆりか!」 保養所のひらべったい布団の上で、ママははね起きた。 たった今、とてつもなく恐ろしい夢を見て、耳のそばで誰かの叫び声を、聞いた気がした。 ママは枕もとの夜光時計を見つめた。 時計の針は、午前三時ちょうどを指している。 ママは急いで部屋の明かりをつけ、薄い部屋着をはおると、隣の部屋とのさかいのふすまを開けて、真っ暗な室内をのぞき込んだ。 ママは激しい胸騒ぎをおぼえ、中に入ると、天井から吊り下がった電灯のスイッチをひねった。 「ああっ、ゆりか!」 部屋の中は、もぬけの空だった。ママは割れ鐘のように、一つしかない心臓を高鳴らせると、あわてて廊下に飛び出した。 向こうからやって来た誰かと、ママは出会いがしらに衝突した。 「まあっ! なんだ、ゆりかじゃないのっ! こんな時間にどうしたのよっ? お布団を抜け出したりして、ママ、死ぬほど心配したわよっ!」 「だって、おしっこがしたかったんだもん!」 「それで、おトイレはすんだのね?」 「うん、すんだ、すんだ。だから、ここにいるんじゃないの。ああ、眠いよう」 「ママ、ちょっとおどろいたのよ。あなたが、どこかよその場所へ行ってしまって、もう二度と帰って来ないような気がしたから。でも、そんなことを考えるのは、もうなしにしましょうね。あなたもおやすみなさい。まだ朝は来ないのよ」 「はあい、ママ。おやすみなさあい」 ゆりかはむにゃむにゃ言うと、自分の部屋の布団にもぐり込んで、寝入ってしまったようだった。ママもくすくす笑いながら、自分の部屋の布団に戻った。やがてママの寝息の音が、隣の寝室に聞こえてきた。 その寝室の布団の中では、ゆりかに姿を変えた一匹の化け物が、らんらんと目を輝かせて、うつろな薄笑いを浮かべていた。
(第一部 了)
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