さらわれたゆりか
ある晩、早めに帰宅したゆりかのパパが、おでんを囲んだ夕食の席で、 「実はおまえたちに、相談したいことがあるんだがなあ」 「まあ、なんなの、えらそうに。わたしたち、耳がおかしくなったのかしらねえ?」 「まあ、ママ、まじめに聞いておくれ。今度の週末にね、家族そろって、一泊旅行でもしようかと思ってね」 テーブルのまわりで、女どものはしたない歓声が上がった。 「一体、どういう風の吹き回し、あなた?」 「うん、実を言うとだね、今度、会社の慰安旅行の下見をしに、箱根の保養所に行かなくちゃならなくなったんだが、ついでだから、おまえたちもいっしょに、連れて行こうかと思ってさ」 「まあ。下見のついでですか? それで、どこなんですって?」 「箱根の保養所だよ」 ゆりかとママは顔を見あわせた。 車で着いてみると、箱根の保養所は、山また山の中にある、さびしい場所に建っていた。豪華なホテル並みの建物は、さすがに期待してはいなかったが、さびれた山小屋のような入口に到着すると、ゆりかもママも失望を隠さない。 パパが車のトランクから、旅行用のバッグを出して来ると、ママがあたりを見まわして、 「本当に、何にもないところなのねえ」 山荘のまわりは名も知れぬ草木が生い茂り、おせじにも素敵なながめとは言えなかった。ゆりかは駐車場に当てられた空き地を離れ、建物のわきを回った。 「あっ、山がある!」 保養所の裏手が、急勾配の登り坂になっていて、そのまま、目の前の斜面へとつらなっている。 「今日、おみえになる予定の、天堂さんだったろうかね?」 建物の横手から、年をとった、腰の曲がった管理人さんらしいおじいさんが近づいて来ると、 「一泊だけですけれど、よろしくお願いしますわ」 と、人あたりのいいママがあいさつをし、 「ごやっかいになります」 と、パパも頭を下げた。 「はいはい。食事は、夜の七時ちょうどに、食堂の方でな。八時になっても、お見えにならん時は、調理場の方で片づけてしまいますんで、そのおつもりでな。入り口には売店もありますから、いりような物は、そこで買ってください。あと、お風呂場はそっちで、食堂は角を曲がった、突き当たりを右へ・・・」 パパは疲れをいやすために、あてがわれた部屋の畳の上で足を伸ばし、ママは売店でおまんじゅうを買って来ると、さっそくお茶をいれた。 ゆりかはパパとママを探検に誘ったが、二人は疲れきってしまって、 「することがないから、しばらく眠るのだ」 と言い、探検には、ゆりかだけが出発することになった。 保養所の外に出たゆりかは、建物の裏手に出ると、目の前の山をながめた。もともと、ゆりかたちがいるところが、山の中だったから、かすみのような雲が、手の届くほどの距離を、あるかないかの風に吹かれて、現われては消えていくのをながめていると、ゆりかの胸は自然と高鳴った。 「あっ、痛い!」 ゆりかは保養所の表に戻ろうとして、出会いがしらに、曲がり角から現われた人とぶつかった。よろけた拍子に、手の甲をすりむき、ゆりかは反対側の手で押さえつけると、むっとしてふり返った。 ゆりかとぶつかった男の人は、きたない手ぬぐいを頭に巻き、背中には薪をしょって、ゆりかにおじぎをすると、どこかへと行ってしまった。ゆりかの知らないおじさんだった。ゆりかは肩をすくめ、手の甲を見た。薪か何かにぶつけたのだろうか、すり傷からは血がにじんでいる。 ゆりかは舌打ちをして、消毒がわりに傷をなめた。それから保養所の表側に出ると、幅五メートルくらいの砂利道を歩き始めた。 道はまったくの一本道だったから、ゆりかは歩きながら、どこまで続いているんだろうといぶかった。 すすきの野っ原を抜け、道はやがて、さびしいアカマツ林に出くわした。アカマツの林はほの暗く、さしまねくように、無数の枝々を揺らしている。 ゆりかは思いきって林の中に踏み込むと、松ぼっくりを探そうと、地面に目をこらした。 ゆりかは気がつかなかったのだろう。そこが本当はただのアカマツの林などではなく、その木々には、神秘的な魔力がそなわっていたことを。
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ゆりかはやわらかい腐葉土が積もった地面を、しばらく松ぼっくりを探して歩き続けた。 ふいに、ふわふわした白い物が、目の前を通りすぎ、ゆりかはハッとした。 見上げると、モスリンのような、白い半透明の、にじんだ光のかたまりのような物が、二十メートルほど向こうの木々のあいだを、幽霊のように漂っている。 ゆりかが見つめていると、ふわふわしたその白い物は、くるくる回ったり、ふいにあちこちを移動したりと、気まぐれに場所を変えながら、ゆりかを林の奥へ奥へといざなった。ゆりかは誘われるままに、白いふわふわした光を追いかけ始め、気がつくと、帰りの方角を見失っていた。 アカマツ林の、急に切れた向こう側に、見渡す限り一面の、真っ黒い泥土の荒れ野が広がっていた。枯れ木一本、草一すじ生えてはいず、気の滅入るような灰色の雲さえ、上空には垂れ込めている。 ゆりかは、来た方向をふり返った。通り抜けてきたばかりの林の向こうには、あの保養所で見かけた山が、くっきりとそびえていた。 (よかったあ。まだ箱根の山の中なんだわ) ゆりかは前方の、泥土の荒れ野に目を戻した。さっきの白い物が、泥土の荒れ野の上空を、おいでおいでをするように、遠くで揺れながら漂っている。 「よーし! つかまえてやる!」 ゆりかは一歩、泥土の上に踏み出しかけた。 「危険よ! 戻って! その泥に足を踏み入れたら、戻れなくなりますわ!」 急に女の子の、耳ざわりな甲高い声がした。 ゆりかはびっくりして、あたりを見回したが、目につく場所には、人っ子一人見あたらない。 ゆりかは突然、こわくなると、もと来た方向へ、走って逃げ始めた。 走って、走って、ゴムまりのように走って、ゆりかは転んで倒れて、泥だらけになりながら、なおも走り続けた。 奇蹟のように前方が開けて、ゆりかはアカマツの林を抜け出て、元の砂利道に来ていた。 「どうしたの、あなた? 泥んこだらけじゃないの?」 砂利道にはゆりかのママがいて、びっくりしたように、ゆりかに近づいて来た。 「あ、あの中で―― あの―― は、林の―― な、中で―― ゆ、ゆ、ゆ、幽霊を見ちゃった―― ふわふわした―― 白い幽霊が・・・」 「林って?」 ゆりかはふり返り、ぽかんと口を開けた。 今、走り出てきたばかりの、あの松林が見あたらない。 一面すすきが生えた野っ原が、気持ちのいい青空の下に、どこまでも伸び広がっているばかりだ。 ゆりかが言葉を失っていると、ママが笑って、 「はいはい、はいはい。もう、おかしなことは言わないのよ。それより、お風呂がわいたって、管理人さんが知らせてくれたのよ。お食事の前に、入ってしまいましょうよ」 「う、うん」 ゆりかはおざなりに返事をしてから、ママと歩き出した。 (そうか。あれは魔法で作った、まぼろしの林の、タルパ・タルパだったんだわ。くそう! だまされるもんか。あたしにはパピリカのくれた、この魔法のペンダントがあるんだから!) ゆりかは胸に手を伸ばし、あわててスカートのポケットに手をやると、中をひっかき回した。 左右のポケットを調べ、それからウロウロと、来た道を戻りかけた。 「どうしたの? ハンカチを落としたんなら、ママのを貸してあげますよ」 「違うの。ハンカチと違うの」 ゆりかは万が一、地面に落ちていはしないかと、一心不乱に目をこらした。 ない! ない! ないわ! パピリカにもらったペンダントが、なくなっちゃったわ! ゆりかはふらふらとめまいに襲われて、急に気を失いそうになった。
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