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作品名:みどりの孔雀 作者:zamazama

第21回   黒い影
       黒い影




 大江山から戻ると、ゆりかとパピリカは、からす天狗の家で、せんべいと菜の花茶のおやつをごちそうになった。からす天狗の女房が、あまりにしつこくひきとめたので、お茶の一杯くらいは、飲むことにしようと思ったのだ。からす天狗は、現像がすむまで二人に残るようにとしきりにすすめたが、パピリカは首をふって、
「すぐにゆりかさんを、彼女の世界に送り届けないといけませんのよ。あまりに長く、こちらにとどまっていると、彼女に悪い影響が出るかもしれませんのでね」
「悪い影響って何? ここはひょっとして、死後の世界か何かなの?」
 ゆりかの問いかけに、パピリカは甲高い声で笑っただけだった。
 パピリカが呪文を唱える直前、ゆりかは例の和紙の古本をのぞいた。さし絵の鬼たちは、傷ついてだらしない見ばえになっており、金棒のかわりに二本の松の木を、松葉杖のように両腕にかかえていた。小さなおさむらいたちも、気のせいか、鬼たちを囲んでいる位置が、以前とは違っていた。ずっとさし絵をながめているうちに、ゆりかは本の中に吸い込まれそうになり、あわてて表紙を閉じた。
 つぎの瞬間、からす天狗の家がぼやけて、ゆりかはあの神社の境内の林の中に、ぽつんととり残されていた。
「ゆりかさん、ごきげんよう!」
 ふり返ると、パピリカがみどり色の光に吸い込まれて、消えるところだった。
「ああっ、待ってよ、パピリカおばさん! 行っちゃわないでよ!」
 ゆりかは声をかけたが、パピリカはウインク一つを残して、見えなくなった。
「ああ、行っちゃった!―― だ、誰よ、そこにいるのは?」
 ゆりかがふり返った。
「だ、誰なの? からす天狗さんなの?」
 何者かが自分のことを、じーっと見つめている気がする。
 ゆりかはしばらく突っ立っていたが、急にこわくなると、その場を駆け出した。
「あっ、痛い!」
 ゆりかは神社の境内を出たところで、向こうからやって来た自転車の女の子と、もろにぶつかった。
「イタあい! イタいよう!」
「あっ、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
「大丈夫なもんですか! 骨折したら、どうしてくれるのよっ! あっ、天堂さん!」
「ああっ、大西さん!」
 起き上がってきたその女の子は、ゆりかのクラスメートで、男子からも女子からも絶大な人気のある、クラス委員の(ツインテールがご自慢の)、体格のいい、大西直子だった。
「どうしたの、天堂さん、こんなところで? お使い?」
 直子は、ゆりかの手に握られた魚入りのビニール袋を、いぶかしげに見やった。(ゆりかはからす天狗の家に置いてきたビニール袋を、忘れずに持って出ていたのだ)
「ううん、何でもないの。大西さんこそ、どうしたの?」
「あたし、これから、ピアノのおけいこに行くところなんだよね。今度の日曜日に、ピアノの発表会があるから、その練習。今さらしても、かわりっこないのに、三石先生ったら、めちゃうるさいんだ。あらっ、天堂さん、血が出てるよ!」
 見ると、ゆりかのひざ小僧から、黒ずんだ血が、つつーっと筋を引いて流れている。
「痛くないの? 平気なの?」
「ううん、平気よ。こんなの」
「へええっ。天堂さんて見かけによらず、案外がんじょうなんだねえ。もっと泣き虫かと思ってたよ。あらっ、天堂さん、素敵なペンダントをしているのねえ!」
 ゆりかがびっくりしたほど、直子はゆりかの胸もとのペンダントを、しげしげとながめた。ゆりかも思わず、〈孔雀天使のペンダント〉を、手で覆い隠したほどだ。
「あたしね、ずっと前から天堂さんには、ちょっと興味があったんだよね。それじゃあね、天堂さん。また明日、学校でね!」
 自転車にまたがり、大西直子は去って行った。ゆりかはどぎまぎしながら、わかば団地の自分の部屋に、飛んで (本当は走って) 帰った。
「ママ、ただいま!」
「あら、どこへ行ってたのよ? ずいぶん早かったじゃないの? あんた、『小松』に行ったきり帰らないから、猫またにでも、さらわれたのかと思ってたわよ」
「まさか! 猫またって、何よ? ちょっと旅に出てただけよ」
 ゆりかはマンダレーさんのお屋敷に行き、それからあとの冒険について、ついうっかり、ママにしゃべりそうになった。
 あやうくそれを思いとどまると、魚の入ったビニール袋を、ママに手渡した。
「まあ、助かる、助かる。と言っても、ママ、魚は大きらいだから、パパにあげちゃおうかな。あら、あんた、けがをしてるじゃないの? ちょっとこっちに来て、ママに見せて。うわっ。化膿しないうちに、消毒しないと。くすり箱、くすり箱」
 ママは、プラスチック製の救急箱を、奥の部屋から取って来ると、ゆりかのひざの傷を消毒して、バンドエイドを貼りつけた。
「これでよし、と。ところで、どうしたの、このけがは?」
「うん。大西さんと、自転車で転んだの。じゃなくて、ぶつかって転んじゃったのよ」
「本当? あんた、ひょっとして、学校でいじめられてるんじゃないの? もしそうなら、パパかママに、ちゃんと相談するのよ。勝手に自殺なんかしちゃ、絶対いやよ」
「まさか! 自殺なんて、するはずがないよ!」
「ならいいけど。おやつにホットケーキを焼いてあげるから、宿題をかたづけてしまいなさいな」
 ママは最近、ホットケーキ作りに凝っていた。
 甘ったるいシロップの香りが流れる、午後のひとときを、ゆりかは机に向かいながら、
 (大人って、途方もないことを考えるもんだなあ。まいった! まいった!)
 と、考えてすごした。
 つぎの日曜日、ゆりかは近所のイエス・キリスト教会の礼拝に出席して、牧師さまの退屈な説教を聞いた。
 午後も遅くなって、家でお昼のハムサンドイッチを食べたゆりかは、食後の運動もかねて、からす天狗のいる神社に出かけた。
 ゆりかは、神社の境内の林の中にある、一本のイチョウの木をえらんで、一番下の枝によじ登った。
 運動オンチのゆりかに、やすやすと登られる木など、この辺には一本だってありはしなかった。ゆりかの運動靴は、むなしく木の皮の表面を、何度もこすっただけだった。
 その時すぐそばから、男たちの話し声が聞こえてくると、
「おせえじゃねえか! 待たせるねいっ!」
「すみません、親分。意外と道が曲がりくねってて、迷っちまって」
「こんな所に神社があるなんて、いい場所を見つけましたよねえ」
 声の主は三人組で、あまり上品な男たちとは思えない。ゆりかがいるイチョウの木から、五、六本は離れた別のイチョウの木のそばに集まって、ひそひそと相談を始めている。
「つまり、俺たちが外で待つあいだに、親分が中を襲うんですね?」
「馬鹿! 逆だって言ってるだろうが。俺が待つあいだに、おめえらっちが、銀行で一仕事やらかしてくるんだよ!」
「うまくいくと、いいっスけどねえ」
「馬鹿っ! うまくいくようにがんばるのが、おめえらの腕の見せどころじゃねえか!」
「すみません、親分。ところで、昨日ここらを下見に行った時に、へんなうわさを小耳にはさみましてね」
「何だ、言ってみろ」
「へええ。昨日、コンビニにたたき(強盗)に入った奴がおりまして、そいつが、あっさりとつかまったらしいんですが、そいつがおまわりに言うことには、そいつ、空飛ぶゾウと女の子、それにクジャクを見たんだそうですよ」
「なんだあ、クジャクを見たあ? それで?」
「それで・・・全部です」
「・・・馬鹿野郎!」
「イテテッ! 殴らないでくださいよ、兄貴! ひっどいなあ。人権蹂躙ですよ!」
「すみません、親分。こいつが、くだらねえヨタ話をお聞かせしまして―― 黙ってろ、このタコ!」
「やめとけ。かわいそうなこたあするな。ところでと、クジャクはともかく、女の子とゾウが飛ぶなんざぁ、聞いたこともないなあ。うん、ねえ」
「すみません。この馬鹿には、あっしから、よーく言って聞かせますんで」
「うん、頭の治療は早くした方がいい。それにしても、ゾウに女の子がねえ。時世かねえ」
 ゆりかはここにいることを感づかれては大変と、死に物狂いで息を止めた。
 その時、ゆりかは、
「くしゅん!」
 と、くしゃみをした。
 つぎの一瞬の、異様に長く感じられたこと――
「ああっ、あんなところに、ガキがいる―― !」
「こいつ、聞いてやがったな!」
 続いて起こった一連のできごとを、ゆりかはあとになっても、正確に思い出すことができなかった。ゆりかがおぼえていたのは、やけに派手な服装の数人(あとで思い出したところでは、三人だったはずなのだが、もっと大勢いるように感じられた)が、ゆりかのいる木の前に現われて、ゆりかをとり囲んだ、まさにその時――
「ぐぎゃっ!」
 という叫び声が聞こえ、男の一人が、顔面を押さえてうずくまった。
 続いて、真っ赤なポロシャツを着て、髪の毛を赤く染めた人相の悪そうな男が、ゆりかの後ろをおどろいた表情で見つめ、つぎの瞬間、ゆりかの目の前から駆け出して行くと、ゆりかに迫って来た三人目が、
「おぐぞっ!」
 と、つぶれたような絶叫とともに、地面に転がった。
 ゆりかの目の前を、赤いポロシャツの男が横切り、そのあとを、黒い小さな影が通りすぎて、木立ちの向こう側に消えた。
「ぐぎゅがっ!」
 という最低の悲鳴がとどろいてから、あたりは嘘のように静かになった。
 気がつくと、ゆりかの耳もとで女の子の悲鳴が聞こえ、どこまでも、どこまでも、しつこくつきまとってきた。
 その悲鳴が、自分の物であることに気づいたのは、ゆりかがわかば団地への距離を、三分の二ほども走ったあたりだった。
 団地の棟の入り口で、ゆりかは、階段から下りてきたばかりの大西直子と衝突した。
「あ、イタあい! あっ、なんだ、また天堂さんかあ! よかったあ!」
 直子は笑い出しながら、
「ほんと、天堂さんとわたしは、この頃よくぶつかるよね。連絡網のプリントで調べて、天堂さんの家に寄ってきたとこなのよ。今度のピアノの発表会に、天堂さんを誘おうかと思ってさ。あら、どうしたの、天堂さん?」
 ゆりかは今、神社で見たことを、しどろもどろに、直子に話して聞かせた。
「う・ん。正直言うと、信じる気にはなれないなあ。本当に見たことなの、それって?」
 ゆりかがうなずいても、直子はまだ半信半疑だ。
 直子の提案で、二人は神社にとって返すと、境内には入らずに、道ばたからながめていたが、林の中は人気がなく、しーんと静まり返っているばかりだ。
「ふーん。天堂さんが嘘を言うなんて、信じられないけど、でも、そんなことって、本当にあるのかなあ。そうだ、あの人に相談してみようよ。ゆりかちゃん、行ってみない、交番?」
 日頃のゆりかなら、絶対に断わったはずだが、興奮していたのと、直子に信じてもらいたい一心とから、うっかり承知していた。
「クボタン、いるの?」
 学校のそばの交番に来ると、直子は中にいたおまわりさんに、ずいぶんなれなれしい口をきいた。
 壁の地図に印をつけていた、若い小柄な警官がふり向いて、
「なーんだ、おませちゃんか。きみの恋人は来ていないよ。今日は非番だな」
「あら。恋人って、何よ。菅原さんてば、ずいぶん失礼しちゃうな!」
「おーやおや、いらっしゃい、直子ちゃん」
 机に向かって日誌を開いていた、年配の警官が、二人の方に顔を上げた。ゆりかはそのおまわりさんを一目見て、心臓がおへその下まで、すーっと下りて行くような気がした。
「ところで、と―― 今度はどんな難題を持ち込んで来たんだい、直子ちゃん?」
「あたしじゃないのよ、大橋さん。この人―― 天堂さん、さっき言ってたことを、全部話しちゃいなよ」
 二人のおまわりさんと世界中の目が、自分にそそがれるのを、ゆりかは感じていた。
「どうかしたのかね、きみ? 口がきけないのかね?」
「どうしたの、天堂さん?」
 いつか学校の図書館で、ゆりかを嘘つきと決めつけた、あのひとだまを見た年配のおまわりさんが、机の向こうからゆりかをじーっと見ている。
 直子さえいなければ、
「ごめんなさい! 何でもありませんでした!」
 と回れ右をして、ゆりかは交番を出たのだろうが、直子の手前、そうもいかない。
「どうしたの? あたしが言ってあげようか」
 直子が、ここに来る途中ゆりかに聞いたことを、かいつまんで、大橋巡査長に聞かせた。
「―― というわけなのよ。クボタンなら信じてくれると思ったから、来たのよ」
「どうしたもんかなあ。うーんと、困ったなあ」
「さっさと調べに行ってよ。泥棒たちが話すところを、友だちが見たと言っているのよ、大橋さん」
「ううん、と。疑うわけじゃないんだが・・・それにしても―― いやはや、途方もない!」
 大橋巡査長は日誌を閉じて立ち上がると、それでも自転車を押して、ゆりかと直子と、連れ立って歩き出した。ゆりかは自転車を押して歩く警官の隣で、何度も逃げたくなる自分と、必死で戦わなければならなかった。
 大橋巡査長は神社に着くと、古びた鳥居の前に自転車を止めて、境内の林を調べにかかった。
「ここだね、きみが木に登ろうとしたのは? よーし、二人とも地面に何か落ちている物はないか、調べてくれたまえよ」
 しばらくあたりを見まわしていた直子が、マジシャンのような手つきで、地面に落ちていた何かを拾い上げた。
「ふうむ、金の腕時計か。汚れていないし、文字盤もきれいだなあ」
「て言うか、新品。天堂さんが見た連中が、落としていったのかもよ」
「可能性はあるね。おや? あれは何だろう」
 大橋さんが目をつけたのは、ゆりかが立っていた場所から五、六本は離れた、一本のカエデの木のうろだった。
 うろの縁には、真新しい、真っ黒いしみのようなものが、べたべたとこびりついている。
「間違いない、血だぞ。ついさっき、ついたみたいだな。おや、中に何か入ってる」
 大橋巡査長は、木のうろに手を突っ込んで、ごそごそとかきまわしていたが、その手がつかんで取り出したのは、真っ黒い動物の毛の束と、小さな黒い、光る拳銃だった。
 大橋巡査長が呼んだパトカーが来て、所轄署の刑事たちが、ゆりかと直子と大橋巡査長にくわしい事情を聞き終わるのに、二時間ばかりもかかった。
 ゆりかを襲った男たちの人相は、後日、またあらためてゆりかから聞くとして、とりあえず、ゆりかと直子を家まで送り届けるという任務が、本物の私服刑事から、大橋巡査長にあたえられた。ゆりかはもちろんのこと、大橋巡査長も思いのほか緊張していたが、一番興奮していたのは直子だった。
「ねえ、天堂さんが見たっていう銀行ギャング、モンタージュ写真か何かでつかまえられないの? 警察には悪いことをした犯人の写真が、いっぱいあるんでしょう?」
「直子ちゃん、きみはテレビの見すぎだよ。今はモンタージュ写真は使わないんだよ。もっぱら似顔絵でさ。現実とテレビとは、違うんだよ」
「あら。でも、あたし、天堂さんの見た男の人たちって、絶対『プロ』だと思うな。きっと前科があるはずよ。コンピューターを調べれば、わかるんじゃないの?」
「それで、見つかったら逮捕するのかね?」
「あら、いけないの? なーんだ、日本の警察って、つまんなーい。あ、あたし、ここでさよならね」
「おいおい、あんまり、おうちの人に、心配かけるんじゃないよ!」
「はいはーい、わかってまーす!」
「それと、人には言いふらさないこと! わかってるね!」
「わかってまーす! 了解! 了解!」
 直子は、とある四つ辻でゆりかたちとわかれると、さっそく家の人にこのことを伝えようと、一目散に駆け出して行った。ゆりかは、おまわりさんと二人きりになり、気まずさを余計に感じながらも、歩き続けた。今にも大橋さんが、
「本当のことを話しなさい」
 と言いそうで、気が気ではない。
 さいわい、おまわりさんは何も言わず、二人はわかば団地に着いた。
 ママは、おまわりさん連れで、娘が現われたのを見て、ヒステリーを起こしかけたが、警官と話しているのを、誰にも見られたくはなかったので、ひとまず大橋巡査長を家の中に招き入れた。
 三人が台所のテーブルに着くと、大橋巡査長は、起こったことを手短かに伝えた。
 ママはさっそく金切り声を張り上げた。
「なんて危ないことをするの!!! ママ、絶対にゆるしませんからね!!! 今後二度と、絶対に、外には出しませんからね!!! わかってるの!!!」
「まあまあ、おじょうさんが悪いわけではありませんよ。むしろ警察に協力してくれた勇気に、感謝をしている次第です。すぐに警戒網をしいたので、犯人たちがつかまるのも、時間の問題でしょう。身元はじきに割れると思います。心配するにはおよびません。万事、順調ですから」
 大橋巡査長は、ママを安心させるために、見えすいた嘘をついた。
「ところで、と―― 万が一の場合には、おたくのおじょうさんにも、似顔絵を作るのに協力していただければと考えておりますが、大至急というわけではありませんので、はい。念のために、付近のパトロールも強化しますが、もちろん、そんなものが必要になるとは、これっぽっちも考えてはおりませんです。はい」
 それから世間話のように、大橋さんは、パパとママの勤務先と、ゆりかの小学校を聞き出すと (それはもう、知っているはずだったが)、
「それでは、本官は、これにて失礼!」
 と、おどけて敬礼して、団地を出て行った。ママはしばらく、そわそわと落ち着かなげに歩き回っていたが、お得意の愚痴を聞いてもらおうと、パパに携帯電話で連絡をした。
「それは、それは! やっぱり俺の子だなあ! うひひひ」
 としか、新聞記者のパパは返事をしてくれず、しまいには、
「俺は今、いそがしいんだ。ごめんよ」
 とだけ言って、電話を切ってしまったので、ママはおどろくより先に、あきれてしまった。
「アメリカなら、即、離婚だよね」
 と、ママは半べそをかいたが、単に同情してほしいだけなのを知っていたゆりかは、静かに台所を離れて行った。
 その夜、ゆりかはずいぶん遅くまで起きていて、絵でも描こうかと、机の上の電気スタンドをつけた。疲れていたのと緊張していたのとで、いつまでたっても寝つかれなかったのだ。
 明かりが反射して、窓がまぶしいので、半開きのカーテンを閉めようとすると、団地の中庭に誰かいるのに気がついた。
 ギョッとして身をひるがえし、恐る恐るガラス窓をのぞくと、砂場に確かに、誰かがいる。
 その人影は、団地の住人が置き忘れたらしい、三輪車をこいでいた。
 その人影は、ある瞬間にはチンパンジーのように見え、また別の瞬間には、曲芸をするクマのようにも見え、体の輪郭を少しずつ変えながらも、あいかわらず三輪車をこぎ続けていた。
 机の上の置き時計を見ると、もう夜の十一時を過ぎている。ゆりかはがまんができなくなると、ピンクのカーディガンをはおり、子供部屋を駆け出した。
 コンクリートの階段を、飛ぶように二段飛ばしで下りて、ゆりかは中庭へと出た。街灯の明かりの届くところに来た人影に、ゆりかは思いきって声をかけた。
「あなたは誰なの? そこで何をしているの?」
 すると三輪車の人影が、こちらをふり返った。






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