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B・Jことバイロン・ジュリアス・ワインストラウブは、キーボードを打ち込む手を止め、顔を上げた。 今、耳元で誰かの叫ぶ声を聞いた。子供のようでも、しわがれた年寄りのようでもあった。 今のは何だったのだろうか。 B・Jのデスクの上――電子の方ではなく現実の方――には、ここ数日に寄せられた読者からの手紙や電報、地方紙に転載されたB・J・ワインストラウブの署名入りの記事の切り抜き、それに何だかわからない、うず高く積もった紙の山が築かれていた。《ワシントン・ポスト》や《インターナショナル・ヘラルド・トリュビューン》、《ニューヨーク・タイムズ》の切り抜きもあった。 山の中腹には、ビデオテープも埋もれていた。昨日と一昨日のB・Jのテレビ出演場面を全て収録したテープで、編集長秘書のアニー・クイックルが、機転をきかせて録画を手配してくれたのだった。同僚がくれた《コングラッチュレーション・カード》や、早くもしおれ始めたカーネーションの残骸、色々なメッセージを書き込んだカードの類も散乱していた。キャサリンのくれたカードには真っ赤なキスマークが押され、「わお! 私とうとう見つかっちゃったのね! 〈天使〉より」という、ふざけた文句も走り書きされていた。 ドアが開いてバーンズ編集長が入って来た時も、B・Jは考えごとに耽っていた。 「いよう、ヒーロー。出来たか?」 「え?」 「『え?』じゃないだろうが。どれ、見せてみろ」バーンズは肩越しにのぞき込み、「ま、だいたい、こんなもんだろう。早く仕上げにかかってくれよ」 「ずいぶんお酒臭いんですね。飲んできたんですか?」 「ああ、バーガンディーを少々な。大伯母様のおごりでさ」 バーンズは出て行きかけ、デスクにとって返すと、 「彼女、おまえさんのテレビ出演の件を、えらく気に入ってたぞ。例の〈天使〉の目撃者や、居所についての情報を提供した人間に、賞金を出すことも検討しなきゃと言ってたな」 「《マダム》がそんなことを? 出すとするといくらですか?」 「さあな。百万か二百万、ことによっちゃ、一千万か。何しろ〈天使〉が見つかったら、肖像権その他一切の権利をよこすよう迫って、ビスケットの宣伝に使うんだと言ってたからな」 それなら、ありうる話だ。 市議会の不正恩給受給者リストの記事をまとめ、編集長に一発目でオーケーをもらうと、B・Jは昼下がりの街へと繰り出した。 B・Jの足は自然と騒ぎのあったショッピングモールへ、そのそばの遊園地へと向かった。バーンズとの会話でいっとき晴れていた心のもやもやが、またぞろぶりかえしてきた。 B・Jのもやが晴れたのは、モールの駐車場に横づけされたホットドック・スタンドのワゴンを、目にした時だった。 「おや、旦那。また会いましたね。その後、景気はどうですかい? あの子はどうしてます?」 スタンドの主人はB・Jに笑いかけると、フランクフルトを焦がさないよう、油をはねかしつつ転がした。 「あんた、ぼくのことを知ってるのかい?」 「知ってるのかいですって? あたしゃ、こう見えても、一度来たお客の顔は、忘れたことがないんでさあ。特に、あたしの自慢のこいつらを、褒めて下すったお客はね」 男は、あぶられているのはどれもこれも手塩にかけた赤ん坊たちばかりだというような視線を、ソーセージに送った。 「たいした記憶力だなあ。確かにこいつを食べた記憶があるよ。生涯最高のホットドックだった」 「でがしょう?」 B・Jはかまをかけた。「ぼくは一人で来たはずだけど」 「いいや、旦那の勘違い。お連れが一緒でしたよ。ほら、リリーですよ。すぐ先の公園で、花やいんちき宗教のパンフレットを売り歩いている、ポン引きの女の子。誰かれを引っかけては、よくここへ連れて来るんですよ、あたしからのお駄賃目当てにね」 「ああ、あの客引きさんか。金髪の、目のくりくりっとした、抜け目のない」 「そう、どんぴしゃ」男はにやりとした。 「可愛い子だったな。その後、ここへは来るのかい? 会って、ここを教えてくれた、お礼が言いたいんだけど」 「へええ、あの子に会ったら、あたしからそう伝えておきますよ。もっとも、ここ二、三日、とんと見かけませんがね。そう言えば、旦那を連れて来た日から、見かけないのか。ほら、すぐそこの遊園地で大騒ぎがあったでしょう、小さな子供が宙吊りになった? お客さん、冬眠でもしてたんですかい?」 「あいにくと、そうなんだ。確かかい、女の子が騒ぎのあった日から、姿を見せないって?」 「ええ、もう確かも確か。どんぴしゃ」 「それ、一つもらおう。いや、そっちだ。レギュラーサイズの方」 主人が含みのある顔をして見せたので、B・Jはラージサイズを二本購入した。何食わぬ態度とは裏腹に、B・Jは指先が震えるのを感じていた。 スタンドの主人が嬉しそうに歯を見せながら、特大のフランクフルトを二本、特製プレートで焼いている時、油がはね飛んだ。 「あちちっ」 「大丈夫かい?」 「ああ、なんてこたあないです。慣れてますよ」 店の主人はまたにかっとしたが、突然その顔に不思議な表情がよぎると、ぼんやりとあたりを見まわし、すぐ真顔に戻った。 「お客さん、今、あの子のことを訊きなすったかね?」 「あの子って、リリーなんとかいう風変わりな娘のことかい? 訊いたよ。それがどうかしたの?」 「変なことも、あればあるもんだ。いえね。このあいだ、あの子のことを質問していったやつがいたんでさ。ふいと思い出したんだが――」 「へえ、そうなの。どんなやつが訊いたんだい? 警官?」 「それがね、たいへんな年寄りでしたよ。このあたりじゃ見かけない、すそのながーい黒のマントかなんか着込んだ、外国風の身なりをした、おっそろしく背の高い年寄りでしたよ。気味の悪いツラをしたね。それにしても妙だなあ。どうして今の今まで、きれいさっぱり忘れてられたんだろう。あんなに気味の悪い年寄りだったのに」 ナプキンではさんだホットドックを手に、B・Jは女の子と出くわさないものかと、公園へと向かったが、期待はかなわなかった。
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