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一段々々、慎重に、リリーは歩を進めて行った。 井戸の中はせま苦しく、生き物の食道を伝い下りて行くのにも似た、閉所恐怖の感覚に、リリーは襲われた。 下からはさいぜんの風が、リリーのケープをなぶるように吹きつけてくる。それが、空調設備により交換された空気らしいことに、リリーは気がついていた。 鉄の梯子段はだしぬけに終わり、リリーは踊り場に出ていた。一方の壁をくり抜いて、石の段々が下りている。例の唸り音が、その先から聞こえてくるのは確かだった。リリーは覚悟を決め、階段を下り始めた。石の階段は意外なほど長く続いていたが、見つかった時と同様、いきなり終わった。目の前の剥き出しの壁を、リリーは見つめた。天井付近にダクト用の吹き出し口がついていて、生温かい風が吹き出している。壁にはクローム合金製の、潜水艦のハッチを思わせる丸いドアがあり、ハンドルがついていた。リリーはハンドルに手をかけた。 「まあ! まあ! まあ! まあ!」 リリーの目の前に、見渡す限り機械で埋めつくされた、だだっ広い部屋が広がっていた。縦横百五十フィート平方あまり。床はリノリウム張りで、市松模様に色分けされている。 何よりリリーを驚かせたのは、設置された機械の豊富さだった。 壁の四隅の箱型機械は、回転しているスプールを見るまでもなく、大型コンピュータのCPUだった。これと同じ機械が国防総省に収められ、核爆発のシミュレーション演算に使われているのを、リリーはテレビで見た記憶があった。 他にもNASAのミッション・コントロール・ルームで使われるような、多機能型のモニター装置や、何に使うかわからない、文字盤や計器類の並んだ機械もあった。それらの設備には全て電源が入り、室内を夕暮れ色に浮かび上がらせた間接照明の下、リリーには見当もつかない目的で、ランニングしていた。 リリーがしばらく見とれていると、背後で動きがあった。 ふり返ると、一本のフレキシブル・パイプでつり下げられた光電管の《眼》が、天井の一角から、食虫植物の蔓のように伸びてきた。 電子の《眼》は青味がかった、つややかな銀のメタル・クロームで覆われ、それ自体はまがまがしい赤い色で、神秘的に光っていた。 「オ前ハ何者カ?」光電管の《眼》が口をきいた。電気的に合成されたコントラバスで。 「ソコノ侵入者、重ネテ質問スル。オ前ハ、何者カ?」 ローストビーフは好きだが、自分がなりたくはないリリーが、口をぱくぱくさせた時、電子の《眼》は電子の堪忍袋の緒を、電気的に切断した。 「ソコノ侵入者、直チニ身分ヲ明カシナサイ。ソコノ侵入者、直チニ身分ヲ明カシナサイ。繰リ返シマス。ソコノ侵入者、直チニ身分ヲ明カシナサイ。サモナイト――」 「あの――わたし――リリーよ!」 驚いたことに、《眼》はおとなしく、するすると引っ込み、前とは違ったリズムと抑揚で、機械同士のセッションが始まった。 「やあ、リリー。よく来たね」 ふり返ると、男が立っていた。 初老といってもいい、サファリルックの、背の低い白人の男で、手には半透明の液体の入ったカクテルグラスを持ち、白い口髭に、同じように白い髪をオールバックに撫でつけている。 紳士かそうでないかにかかわらず、リリーは一目見て、その男を知っていると思った。 「パパ?」
リリーは、ルナチク市にたどり着いたいきさつを、今でもはっきりと覚えていた。 名も知れぬ町の、人目を避けるように入ったドラッグストアの薄暗い店内で、ルナチク市に増え続けるホームレスをどうするか話し合う、公開シンポジュームの中継映像がテレビに映っていた。 リリーはできるだけ目立たないよう、店の隅に移動すると、ミルクセーキとチョコレートソースをかけたシナモン風味のドーナツを一ダース注文し、そのあいだも目はちらちらと、旧式のテレビのブラウン管に吸い寄せられていった。 店の主人はリリーを見てびっくりし、注文を聞いて二度びっくりしたが、何も言わずに支度にとりかかった。 その時のリリーはかなりひどい身なりをしていた。金はあちこちからくすねた物を屑屋に売って稼ぎ、強盗一歩手前のことまでして、日々の糧を手に入れていた。リリーには良心以外に、売れる物はなかった。 テレビに映される出席者の、饒舌なおしゃべり。拍手。拍手。ブーイング。また拍手。スタジオのやりとりに耳を傾ける、小さな町のドラッグストアのありふれたお客たち。テレビに映ったこぎれいな出席者たちは、食い入るように見つめるかれらのような人間の存在を、知っているのだろうか。 主人が注文の品をカウンター越しに押し出すと、リリーはテレビのことも店のことも忘れて、飢えた仔オオカミのように貪り食った。リリーの舌は甘みを求めて、狂いかけていた。 討論のあいまに、市のホームレスの実情を示すビデオクリップの映像がはさまれた。リリーはちらっと目をやり、注意を奪われた。画面の隅に、ひっそりとうずくまるようにして、あの刺し殺された元農夫の男がいたからだ。 映像はすぐにスタジオのスツールに腰掛けて話し合う、テレビ映えする男女の中継に切り替わったが、リリーは胸がまだどきどきしていた。 あの人が生きている。あの人が生きている。あの人が生きている。 そんなことってあるだろうか。 いや、あるはずがないわ。あの人は死んでしまったはずだもの。 この目で死骸が横たわり、あの人から血の海が流れ出すのを見た。あの人が棺に納められ、墓穴に埋められる光景が、まだ目に焼きついていた。だけど―― リリーはテレビ討論会に出席していた男女の、パフォーマンスを意識した会話に、激しい憎しみと反感を抱いた。べとべとした、甘いミルクセーキとドーナツも、リリーの憎悪を癒しはしなかった。 リリーは半時間ほどでその町から姿を消し、人には言えない手段で運賃を手に入れると、翌日にはルナチク市のセントラル・ステーションの、巨大な中央スクエアに着いていた。 一歩、駅の外へ踏み出した途端、リリーはその街の空気がいっぺんで気にいった。陰険で、華やいだ、淫らがましい闇のような、ぴりぴりするオゾンの気配に満ちている。 ここなら楽しくやれそうだわと、リリーは直感した。 まずは安心できる、快適なねぐらを手に入れることだ。宿なしだけが持っている嗅覚を働かせ、リリーは西に向かって歩き出した。 ほどなくして市の境界を示す、鉄の跳ね橋が見えてきた。 この街で、リリーはベリンスキー警部と知りあったのだった。
リリーに「パパ」と呼びかけられた男は、さしたる反応も示さずに、瞳をあらぬ方に向けたまま、はりついたような笑みを浮かべていた。 「ああ、そうか!」 リリーは合点がいった。 男はホログラム映像なのだった。 立体的に映るべく、部屋のどこからか投影された、偽りのシミュラクラ。 相手が《本物》でないのを知って、リリーは安堵した。 「あいにくと出迎えに行けなくて、すまなかったね。手が離せない用事ができたのだ。きみは気がついていると思うが、今、きみが見ている私の姿は、本当の私ではない。本当の私は、あいにくと言っていいか、遺憾千万と言っていいか、死ぬか、行方不明になっている頃だと思う。違うかね?」 リリーはあいづちを打ちかけて、やめた。 映像はあらかじめ計算していたのか、「わかっている」とばかりにうなずいた。 「ところで、おまえさんが私の予想とは裏腹に、偶然ここの施設にたどり着いただけで、ここがどこなのかも知らず、目の前でしゃべっている、この陰気にして滑稽、かつ見ず知らずの年寄りが誰なのかといぶかっているとしたら――私の予想では、そうなる可能性も十二分にあるので、致し方ないのだが――自己紹介をしよう。私はケッセルバッハ。バーノン・J・ケッセルバッハ。オナイパ・レイヤール線の名誉ある発見者の一人。量子物理学のしもべにして、アマチュア考古学と天文学とを究める者。いや、究めるは不正確だったな、ただの《道楽》なのだからして」 男は《ドウラク》を《ドウガク》と発音した。男の言葉には強いドイツ語訛りがあり、知性の高い人間が、もっぱら書物のみでマスターした外国語を話す時にありがちな、不自然に回りくどい言い回しと、几帳面に正確過ぎる発音をしていた。 リリーが黙っていると、虚構のバーノン・J・ケッセルバッハが、空中のどこかにグラスを置き、リリーをふり返って微笑んだ。 「さて、何から話そうかね。何をしにここへ来たんだね? 何が望みだね? 何を知りたいのかね?」 リリーは一瞬、持ち前のユーモア感覚を刺激され、 「あなたの背中に油を差しに来たのよ」 と言おうとして、やめた。 「あのう、あなたは、どうしてこんな場所にいるんですか?」 「ふむふむ。私がどうして、ここにいるかを知りたいんだね?」 ケッセルバッハはそうすることで、質問がよりよく理解できるとでもいうように、何度もうなずいた。 「それは良い質問だ。ここは私の“秘密基地”なんだよ」 「秘密基地?」 「そうだとも」ワンテンポずれて、ケッセルバッハがうなずく。「秘密基地だ。私は屋敷にいたくない時や、考えごとに耽りたい時など、屋敷にある秘密の地下通路を使って、ここへやって来る。なかなか洒落てるだろう?」 「あのう、あなたはここを自分で作ったの?」 「そうだよ。私はここを何かあった時の用心のために、特におまえさんのために、こっそりと時間をかけてこしらえたのだ」 「どうして私のなの?」 ケッセルバッハは目をすがめたが、リリーが尋ねると、うなずいた。 「ああ。わかるよ。おまえさんは恐らく何も知らないのだろう。おまえさんには最初から、話しておいた方がいいだろうね」 リリーの目の前で、ケッセルバッハの映像が消えた。 続いて、部屋の照明も消える。 どこかで「えへん」と咳払いの声がした。 リリーがふり返ると、壁際の一箇所だけ明りの灯ったところに、モニター装置があり、小さな画面にケッセルバッハが映っていた。リリーがびっくりして走り寄ると、画面のケッセルバッハが、茶目っ気たっぷりにウインクした。 「驚いたかね? ここは全て屋敷の地下に埋設したマスター・コンピュータが、管理しているのだ。これからおまえさんに見せるのは、おまえさんを発見した経緯を、ディスクに記録して編集したものだ。きっとびっくりするぞ。乞う御期待だ!」 (このお爺さん、少し頭がおかしいんじゃないのかしら) リリーはいぶかった。 モニター映像が、教授から、青空の下に広がる砂漠に変わったので、リリーは度胆を抜かれた。 砂漠はこれといって特徴のない、ありふれたものだったが、見渡すかぎり風紋がキモノのようにひだを作り、ところどころに岩塩を含んだ地肌が露出して、乾燥地帯にだけ咲く褐色のアカザが、おできのようにぽつぽつと生えていた。 リリーが憑かれたように見つめていると、砂漠にケッセルバッハその人が現われた。 「どうだね、驚いたろう?」 よくできた合成映像だ。 「そこは、どこなの?」 「ヌビア砂漠だよ。アフリカのスーダンにある。ここに、オヤナ遺跡という古墳群があるのを、知っていたかね?」 「いいえ、知らないわ」 「ここには《難船した水夫の話》として知られる、古代エジプト王朝の伝説の舞台となった遺跡があると思われた。その話というのは、難破して一人助かり、とある離れ島にたどり着いたプント国の船乗りが、物言う大蛇に命を救われるのだ。大蛇の話では、ある夜、天から星が落ちてきて、乗っていた人間が一人を残してみな死んでしまった。ただ一人生き残ったその女の子は、今もある場所で眠り続けているので、自分はその子が目を覚ますまで、ここで守っているというものだ。水夫は大蛇のおかげで命をながらえ、苦労の末、故郷に帰り、この話を伝えることができたのだ」 「不思議な話ね!」 「私はその伝説に惹かれ、この近辺を調査するべく、かつて私的な考古学チームを編成したことがあったのだよ」 砂漠の二次元教授は、もったいぶって話を始めた。 「あれは今から五年ほど前になるかな、私の友人で、著名なオルメク遺跡の発見者でもあるロンドン大学考古学研究室の異才、比較神話学の世界的権威、ウィリアム・ローランド博士をリーダーとする、特別編成の遺跡調査チームが、その年の暮れ、オクリス河源流にある、オヤナ遺跡の古墳群の一角に踏査を挑んだのだ。 出資者は私と、著名な大金持ちで、やはりアマチュア考古学者でもある中国系のさる財閥の御曹司だ。もっとも彼は名前のみの参加で、実際に発掘に立ち合ったのは、リーダーであるローランド博士と私以外、学生と、志願した十数名の協力者と、現地の日雇作業員が十数名いるだけだった。 長くなるから、はしょるとしよう。友人と私は、その遺跡の地下墳墓とも言うべき納骨堂の暗がりに、奥の玄室へと続く、もう一つの秘密の地下トンネルの入り口のあるのを発見した。そこには、この地方の祭司の身分の家の者が埋葬された、聖なる社があると考えられていたから、地下の納骨室に、さらに奥に伸びる秘密の通路が設けられていたことは、さして意外ではなかった。だが友人はさすがに専門家だと見えて、冷静に自分を抑えてはいたが、ひどく興奮しているのが、手にとるようにわかった。その時の映像を、私が手持ちのカメラで撮影した」 画面が暗くなり、一転、高感度カメラで撮った、特有の質感の映像が映し出された。 むきだしの玄武岩に囲まれた通廊を、ライトの明りに照らされた、ストライプのシャツの背中が進んでいる。通廊は人一人がようやく通れるほどの広さで、シャツは天井のすぐ下をかがんだまま歩いている。途中カメラが岩肌をなめると、固い壁に、平塗技法で描かれた奇妙な四足動物や、見なれない不思議な図形や、あやしげな組紐紋様の並んだグロテスクな意匠の壁画群が、黄白色の輪の中に、おぼろに浮かびあがった。 画面が切り替わり――いったんストップした撮影をまた再開したのだろう――狭い通廊のどんづまりに、数人の発掘チームの人間がたむろしているのが映った。 オックスフォードクロスのシャツを袖まくりした、若いちんぴら風の白人青年が、ヌビア人らしいガイドを相手に、腕組みをした手をさかんに振り回してしゃべっている。カメラが焦点を合わせると、金髪の青年は無精髭を伸ばした顔で、にやりと笑いかけた。 「おい、バーノン。そんなもの回してないで、助けてくれよ。きみじゃないと手におえないんだ」 「オーケー、選手交代だな」 と、これはあきらかにケッセルバッハの声が答え、レンズの前に白髪頭の、口髭を生やした壮年の学者が笑いながら現われて、 「まだ、ちゃんと映っているかね?」 と、カメラわきの撮影者に尋ね、レンズに向かって舌を突き出した。 また撮影が中断したらしく、画面が石の壁の中央にあいた、小さな横穴の入り口を大映しにした。 ぶつん。画面がまた切り替わる。 撮影者がケッセルバッハに交代したらしく、くだんの青年がカメラに向かって、妙にあらたまった口調で、 「我々は本日、オヤナ遺跡の地下納骨堂へ続く道をたどり、とある玄室の奥に開いた横穴の入り口を発見した。これから中に入ってみるつもりだ。時間は記録しているね?」 撮影者がうなずいたらしく、ケッセルバッハの声が、 「ああ」 「よし。それじゃ潜ってみよう。これでいいかい?」 「完璧だな」 モニター画面いっぱいに、暗室のような空間が映し出される。四方を石の壁に囲まれ、奥行きもかなり広い。暗視カメラ特有の赤みがかった映像の中で、カメラが天井を映し出す。 誰かが現地語で怒鳴る声が聞こえた。画面が上下に揺れ、部屋の奥に安置された、棺のような物をクローズアップした。 「棺だ! 王棺だぞ!」くだんの青年の叫ぶ声が聞こえた。 撮影者がカメラマンの特権で、同行者の背中をかきわけて近づいた。 石でできた棺の蓋の、奇怪なレリーフが浮かび上がる。 続いて画面が切り替わる。 石の蓋が開き、中に納められた一回り小さな別の棺が映し出された。カメラに取り付けられたライトの明りが、硬質のプラスチックでできているらしい、二番目の棺の表面をつややかに光らせている。小さめの棺は長方形で、四隅は湾曲し、えんどう豆の莢 (さや) を思わせる、異様な形状を成していた。表面は無地で、色合いまではわからなかったが、上と下では、あきらかに二層にわかれている。棺を覆う蓋に、小窓がついていた。 四角く切った覗き窓。 カメラが近づいて、中を映そうとした。小窓にはガラス状の物質がはめ込みになっているらしく、ライトで反射して見えなかった。 「オーケー、こっちのを使おう。カメラのやつは消していいぞ」 技術者らしい男の声がして、別の光源が発生し、カメラの露出の限界を超えて、映像が白っちゃけた。 画面が適度な明るさを取り戻す。カメラがまた棺に近づく。小窓がクローズアップされた。 「ジャジャーン! そうなのです。なんとその中に眠っていたのは、『眠れる森の美女』ならぬ、『眠れる墓の可愛い子ちゃん』だったのです!」ケッセルバッハの声がいった。 小窓の中にはリリーがいた。 眠っているみたいだった。 突然、合成されたケッセルバッハが現われたので、リリーは心臓が止まりかけた。 ケッセルバッハがまじめな口調で、 「女の子はまるで、テニスンの不朽の詩に登場する《シャーロットの乙女》か、若くして死出の旅路に旅立った、あの『ハムレット』のオフィーリアのように眠っていた。そして安らかなその寝顔は、あの天から落ちてきた《星の子》の伝説を思い出させた。 わたしたちは最初、棺の中にいるその少女は、ミイラに違いないと思った。何しろアイソトープ年代測定法を使用するまでもなく、墳墓が閉じられてから、相当の年月が経過しているのは明らかだったからだ。だから小窓のガラスが曇っているのを発見した時の、われわれの驚きといったらなかった。ごらん」 映像が元の発掘現場に戻り、ボリュームを絞った騒がしい音声に、ケッセルバッハのナレーションがかぶさった。 「おい、見ろ! この子供、息をしているぞ!」 「そんな! 何かの間違いだろう!」 「水滴が落ちただけじゃないのか! 天井をもっとよく見てみろ!」 「本当だ! 信じられん!」 「私たちはその場で討議した結果、玄室の入り口をいったん封印し、棺の中の《白百合の君》を――ほかならぬおまえさんのことだが――国外へ運び出そうということで、一決した。作業員一同を言いくるめ、夜の闇に乗じて、棺ごと遺跡の外へ運び出すと、翌日の正午には、ポートスーダンに向けジープを走らせていた。ジープの荷台には、飲料水用のポリタンクに擬装して、防水シートでくるまれたおまえさんの棺が乗っていた。わたしたちは名も知れぬその少女を、《眠れる白百合の姫》、もしくは単に《百合》(リリー) と呼んでいた。 誰にもとがめられることなく、無事目的地に着くと、荷物を運び出せるよう、小型の漁船をチャーターした。友人はいたたまれない様子で、ポートスーダンから出航するわたしと荷物を見送っていたよ。 かわいそうな、ウィリアム! さぞかし、われわれと行動をともにしたかったろう! 目を閉じると、今でも心配そうに見つめる彼の姿が浮かぶようだ! 「公海に出て三日目。定期航路の船に乗り込んだわたしは、船の無線が伝えるニュースで、ウィリアムの死んだことを知らされた。発掘現場で事故が起こり、作業員を含む数十名が、土砂の下敷きになったと言うのだ。 私はすぐさま、これは嘘だと直感した。事故ではなくトラブルに巻き込まれて、ビルは殺されたのだ。そしてその原因は、船の第三船艙に積み込まれた、例の棺に決まっている! 私は直感の命ずるまま、アフリカ沿岸の港ごとに船を乗り継いで、そのまま三ヵ月以上もかけて合衆国に戻った。一度なぞ、どうしても女の子の呼吸の有無が気にかかり、ケープタウンで船を下りると、そのまま飛行機に乗り換えようとした。 だが、予約を入れ、チケットを取りに行った空港のカウンター越しに、私の名前を出してオペレーターに尋ねている、見ず知らずの役人風の黒人の姿があった。私はただちにその場を引き返したが、私の背筋を凍らせたのは、男の聞き違えようのない外国語風の訛りだった。それがスーダンの現地語の特徴に似ていたのに、私は母親の鼻のいぼを賭けてもよいぞ。 私は用心しいしい、空港と名のつく場所にはいっさい立ち寄らず、空を飛ぶ物はダイシャクシギであっても警戒した。そして当初の予定通り、船で時間をかけて港伝いに小旅行を繰り返した。 アメリカに到着すると、私は変名で手頃な不動産を物色し、今、おまえが立っているこの場所に、前世紀のリバイバル・ゴシック様式の広壮な屋敷を見つけ出した。私はおまえさんの生命維持と、今世での目覚めを最優先に考え、それへの準備の計画を実行に移すことにした。 細かいことは省くが、私は友人の助力よろしきを得て、一年かけずにこの施設を完成した。 その間、私は行方不明ということになっていたので、同僚の中には、あれっきり私の失踪を、事故と結びつけて解釈していた連中もおったようだ。事故で亡くなったとされるローランド博士の遺体が、いまだ発見されないことや、中国人の大金持ちで、発掘の財務一切の面倒を見てくれたスポンサーでもある友人が、かの国の交通事故で亡くなったことを知ると――轢き逃げ事故だったそうだ、彼の魂よ安かれ!――私は極度に用心深く、かつ疑い深くなった。身の回りに誰も寄せつけず、護身用のオールド・ルガーを、バスルームにまで持ち込むようになった。 私がX線撮影、その他で知った例の棺の構造は、精巧にこしらえられた一種の耐熱・耐寒カプセルらしいということだった。棺の中にはサーモスタットに似た自動温度調節機構も備わっており、空気の浄化と交換も、目に見えない取り入れ口から、自動的に行われているらしい。 よもやと思って、逆オナイパ・レイヤール線を照射してみたが、別段、何の変化ももたらさなかった。この光線は思わざる副次的効能により、人間の網膜と水晶体に刺激を与え、失明した視力の回復に効果を発揮することが知られていたが、棺に眠るおまえには、何の効き目もなかったようだ。 私的な非破壊検査が失敗すると、わたしはいよいよ棺の正体を確かめることは、後回しにせざるをえなかった。外部の専門家にゆだねるとなると、棺そのものを見せないわけにはいかない。他人は信用ならなかったし、事故で死んだ友人たちの顔が、脳裏から離れなかった。 私が棺の存在を他人に知られるのを恐れたのは、一つには、それが非合法に外国から持ち出された物であることと、一つには、度重なる関係者の死があったためだ。気の毒な作業員たちを除いても、この棺に関わった責任者が、二人も死んでいるのだ。 私はオカルトには関心を持たなかったが、例のトゥト・アンク・アメン王にまつわる有名な《ファラオの呪い》の伝説を思い出した。そのくせ、棺に最も近い場所にいるこの私が、何ごともなく無事でいるのは変な気がした。 「本年、十月のある日のこと、屋敷を取り巻く森のはずれで、正体不明の複数の男たちがうろついているのを、監視カメラがとらえたのを機に、わたしは待ちに待った対決の時がきたのを知った。武器や待ち伏せの仕掛け、必要なら一個小隊の軍隊とも、二日は渡り合える火器を用意していたので、かえって早く来ないものかと待ちわびてさえいた。見えない敵に怯えるのは、もううんざりだ。いさぎよく戦ってやればいい。そう考えると、気楽になった私は――」 突然、ケッセルバッハの映像が途切れた。今度は普通のビデオ録画画像に切り替わり、ケッセルバッハがカメラの前に、緊張した面持ちで現われた。 「――いかん。誰か来ているらしい。いったんここで打ち切ろう。 リリー。私は、いつの日か、おまえが目覚めた時に困らないよう、ここに各種の記録と、この世界に関するあれこれをまとめたテープを作成し、棺の中のおまえ目がけて、低周波の音波で、繰り返し繰り返し、照射し続けてみる。催眠学習のテープのようにだ。 それがおまえさんの耳元に届くかどうか、もしもあるならば、おまえさんの潜在意識とやらに届くかどうか、私にはわかりかねるが、おまえが《リリー》という名前であることと、おまえさんを発見したいきさつとを、繰り返し繰り返し、照射し続けてやろう。それからあとは、おまえが目を覚ましてからのことだ。 リリー。おまえさんを一目見た時から、これは私の娘になる人間なのだと直感した。どういう意味なのかはわからない。さも馬鹿げても聞こえるだろう。だが、私は棺の中で眠るおまえを見た瞬間、私はこの娘を守るために全力を尽くそう、私はそのために生まれてきたのだからと、確信したのだ。 もしかしたら、棺に組み込まれた何らかの安全装置の――私には計り知れない科学の力で達成された、特殊な波長の音波による、催眠暗示の働きなのかもしれない。私には何とも言いかねる。言えるのは、ただ一つのことだけだ。 リリー。おまえは生きている。そして、これからも、生き続けなければいかん。おまえがいかなる世界で生まれた者か、この惑星の人間なのかどうかも、今はわからない。だが、それが何だと言うのだ。 私はおまえと別れるにあたって、私の最も愛する詩のひとくさりを、おまえさんに残してやろう。 それは亡き友人と同じ名を持つ、ウィリアム・ブレイクという詩人の書いた一節だ。 『小さきものよ、 歓喜と明朗によりて作られしものよ、 行きて愛せ、 地上の何ものの援 (たす) けをも借りることなく』――」 テープが止まり、一瞬、モニター画面のケッセルバッハが、ゆがんだまま静止した。 だしぬけに映像が途切れ、それで終わりだった。 「ちょっと、このあとはどうなるのよ?」 「それは、俺たちも知りたいよな」
リリーはふり返った。「誰なの、今のは? 隠れてないで出てきたら?」 「“誰なの、今のは? 隠れてないで出てきたら?”」 リリーの口ぶりを真似しながら、奥の暗がりから男が出て来た。 長身の黒人で、身なりもよく、いい葉巻を喰わえていた。 「ほう! ほう! ほう! 俺さまの姿を見ても驚かないとは、なかなか勇ましい、度胸のある、見上げた可愛い子ちゃんだぜ」 「フクロウにしちゃ、目の方がきかないらしいわね。あんたを見て、どうして驚かないといけないのよ? 薄汚ない格好をしているから、あきれただけよ」 「言うな。おつむの方もなかなかどうして、捨て難い可愛い子ちゃんだぜ、あんたは」 「今度わたしのことを“可愛い子ちゃん”なんてぬかしたら、あんたの股間のイチモツをはじき飛ばすわよ。どうせ、あたしの小指の先ほども、ないんでしょうけどね」 「何だと?」 「そんなことをしてる場合じゃないでしょ、ボス?」 別の暗がりから甘ったるい声がして、大口径のウージーをベルトに差し込んだ伊達男が、両手をひらひらさせながら現われた。「早くこいつを押さえるなり、羽交い締めにするなりしてちょうだいよ。いつかの二の舞はごめんよ」 男の口ぶりから、自分を見知っていることを、リリーは知った。 花売りの得意客ではなさそうだ。 リリーの疑問は、優男の後ろからデブちんが現われた時、氷解した。 これまた見事なデブちんだった。 リリーは、その男の体型を、ゆめ忘れてはいなかった。 警察ビルの中庭まであのバンを運ぶあいだ、中に乗っている一人は、昔の喜劇俳優のロスコー・アーバックルにそっくりだわと思ったものだ。 《ボス》と呼ばれた男がにやにやした。「どうやら俺たちのことを思い出したらしいな、ちびの気取り屋の可愛い子ちゃん?」 「あいにくと、汚いものと醜い光景に限って、忘れられないものでね」 「まったく、口のへらない、ませたクソガキだぜ」〈マーキュリー〉が喰わえていた葉巻を投げ棄てた。 このままだと部屋中の人間が、肺癌になるかもしれない。 「この国では、野蛮人と絶滅しかけた動物に関しては、恐ろしく法律が寛大のようね」 「うるせえぞ、ちびのひらひらマント。てめえの脳天に、こいつをお見舞いしてやろうか?」 「この世界の人間のやることは、野蛮で見ていられませんですな」 四番目の声がして、床の葉巻が蒸発した。 リリーがふり返ると、しわがれた声の持ち主にふさわしい、しわだらけの、直立したドアマットのような物体が、音もなく暗がりから浮き出すように現われた。 すべるように移動すると、リリーの真向かいに位置をしめる。 「これは、これは。お久しぶりですな、王女さま」 見る者をぞっとさせる、老衰しきった、得体の知れない年寄りで、恐ろしく古風な、足元まで隠れる、フードつきの黒いマントを着て、両手を中にたくし込んでいる。 「ご機嫌うるわしくあらせられ、みどもも慶賀に耐えませぬぞ」 リリーは身震いした。 「誰よ、あんた? わたし、あんたなんか、知らないけど」 「忘れておられるのも、ご無理はありませぬ。信じられぬ幾星霜、夢のごとき年月が、過ぎ去ったのですからな」 「おい、じいさん。そんなことはどうでもいいからよ、早いとこ、こいつを始末しちまおうぜ。あんたがやらないなら、俺たちがやるぜ。こいつにはえらく、貸しがあるんだ。なあ?」 老人が一睨みすると、〈マーキュリー〉は身をすくめた。 老人はリリーをふり返った。 「ずいぶんと長いこと、お探しいたしましぞ。本当に長いこと、時間がかかりました。でも、わたくしめはとうとうやりとげましたぞ」 「何を? あなたは誰なの?」 「さあ、わたくしめと一緒に参りましょう、姫よ」 老人がリリーに手を差し伸ばした。 リリーが払いのける。 「何をなされる! てまえは、あなた様をお連れするために――ただ、そのためだけに、今日まで生きながらえてきたのですぞ!」 「だって――そんなの・・あたし、知らない!」 「姫。わがままを言われるものではない。さあ、まいりましょうぞ。これからはてまえどもが、あなた様のお世話をいたしますゆえ」 「こいつの世話をするんだって? そんな話、聞いちゃいないぜ。第一、姫って何のことだよ?」 老人の射すくめるような視線に、〈マーキュリー〉はふたたびたじろいだ。「オーケー。わかったよ。あんたの好きにするさ。畜生め」 「さあさ、まいりましょう。お父上様とお母上様も、お待ちかねですぞ」 「パパと、ママ?」 「左様。お二人は、あなた様が地上に現われる日を待って、永遠の《コーダの眠り》に、おつきになられているのです」 「《コーダの眠り》? パパとママ?」 「お父上とお母上です」老人は繰り返した。「お二人はあなた様のお越しを、首を長くしてお待ちです。みどもと一緒にまいりましょう。お姫さまにご用意した、〈憩いと安らぎの場〉があるのです。さ、さ。まいりましょう」 「ちょっと待ってもらいてえな、じいさん。俺たちは、あんたがこいつの居場所を教えるってえから、おとなしくついて来たんだ。それを――」 老人の目の奥の煥火 (おきび)が燃え広がった。〈マーキュリー〉がたじろぎ、伊達男とふとっちょが、痺れたように立ち尽くす。 「あなたは誰? 本当にあなたは誰なの? おお、そうだ!――」 リリーは身震いして、老人を凝視した。 「あなたがケッセルバッハや、ほかの人たちを殺したのね! 遺跡やよその場所で事故を起こしたのは、あなたなのね! それだけじゃ足りなくて、ここも燃やしたのね!」 「はて、ケッセルバッハとは? 事故とは何でしょう?」老人は首をかしげた。「みどもがここへまかりこしましたは、あなた様にお目見えするためと、館へお連れするため。また『どうやって入ったのか?』とのお尋ねですが、入り口があるならば、入るのは造作もなきこと。なんなら、お手並をお見せしてもよろしいが」 「だったら、やってみせてよ! ほら、あそこにあるドアを開けてみなさいよ。結構、重たいのよ」 「承知つかまつりました。そうら!」 老人が指を差し上げるや、六十フィートは向こうにある金属製の丸いドアが、音もなく開いた。 リリーが脱兎の如く駆け出し、ドアをくぐり抜け、ハンドルを回して外から鍵を掛けると、そのまま目にも止まらぬスピードで、井戸の外へと飛び出した。 リリーは躊躇することなく、弾丸のように舞い上がった。 目の下はるかにかすむ、ニュージャージーの森を見下ろしながら、何者かの存在が背後に迫ってくるのを、リリーは感じていた。 得体の知れない老人の声が、耳元で叫んだ。 「どこへ逃げたって、無駄ですぞ! どこまででも、追って行きますぞ! あなた様がいる場所は、しかとわかっているのですからな!」
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