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作品名:マイティーリリー 作者:zamazama

第7回   7
              6


 リリーは夢を見ていた。金色に彩られた夢。
 空気も空も、何もかも金色で、リリー自身は黄金色に輝く、一匹のなめくじだった。なめくじリリーは仲間とはぐれ、黄金色に堆積した汚物の上を、帰り道を見つけようと、這い回り、目玉を四方八方に向けていた。その汚物は巨大な噴火口から垂れ流された、神々の排泄物で、リリーなめくじはもう長いこと仲間を求め、のたくり回っていた。リリーはどこに向かっているかを知らなかったが、どこかに行きつける望みだけは捨てていなかった。それはリリーにとって、繰り返し見続けてきた、おなじみの夢のモチーフ。今後も続くであろう、夢のリフレインだった。

 だが、その日、夢のリフレインは終わりを告げた。
 リリーがさまよっていると、突如あたりの景色が乱れ、狂暴な突風がなめくじリリーに吹きつけた。
 川が――噴火口から流れる泥流とは別の岩清水の流れが、渦巻き泡立ちつつ、土砂を押し流し、あたり一帯を水浸しにすると、リリーはいつの間にか一匹のカエルに変わり、丸木舟の上にうずくまっていた。
 リリーは、どこへともわからず流されて行った。
 いつの間にやら、木の舟は金色のバスケットのような入れ物に変わり、そこに生えた鉄格子の一本に、リリーはカエルの手でしがみついていた。周囲の情景は目にもまぶしい、アーモンドとナッツの砂が敷き詰められた、極上の金の砂漠に変わり、アーモンドとナッツは太陽のしるしで、火の一族を――火事を意味していることをリリーはその時知った。
 鉄格子を握りしめた指が、十本以上もあることに、リリーは気がついていた。サンゴのように、指は関節から枝分かれしている。見つめていると、指は面白いように増えた。
 (これは本当じゃないんだわ。夢を見ているところなんだわ)
 途端に景色が暗くなり、あたりは闇に閉ざされた。
 異様な風態の年老いた男の背中が、ぼんやりと目に映じた。
 リリーは激しい胸騒ぎを感じて、声をかけようとした。
 そこで目が覚めた。


              7


 F・16戦闘機の使い古した複座式の機体が、午後も遅いニュージャージーの陽光を受け、チャコールグレイの三角翼をきらめかせて飛んでいる。
 操縦桿を握りしめた州兵航空隊の民兵“テノール”が、基地との交信を終えて機首を水平に戻した直後、ヘルメットのスピーカーから、後部座席に陣取った兵装システム士官の叫び声が聞こえた。「うひゃおう! なんてこった!」
「どうした? 夕べ泊まった売春宿に、パンツを忘れてきたのを、今頃になって気がついたのか?」
 “テノール”は、自分の冗談にけたたましく笑った。
「おい、テノール。外を見てみろ」
 “テノール”は言われたままに、コックピットの外を見た。「わおっ、こいつはすげえぞ! 雲の峰からおっぱいが二つ、こっちを睨むように飛び出してるぜ! うひょおっ」
「無駄口を叩くのはよせ。反対側だ。あれを見てみろって」
 “テノール”はフライトシートの中で、首を動かした。
 その途端に、基地を飛び立つ前に詰め込んだパストラミ・チーズ・サンドウィッチが胃の中から飛び出して、酸素マスクに吐きそうになった。
 戦闘機の左の翼に、女の子が腰掛けていた。金髪で、白いケープをはおり、同じ色のシュミーズ・グラシエールを着て、白いブーツをはいた長い足を、ぶらぶらさせている。
 “テノール”は計器類をチェックした。
 高度計は地上から五・五マイル上空を示し、スピードメーターは機がマッハ〇・九で飛行していることを告げていた。
「あれが見えるか、ジェイコブスン?」後方のバスケスが震え声で、「俺のクソいまいましい両の目が、どうかしちまってるのかな」
「ああ。見えるとも。募金活動をしているガールスカウトか、ダラス・カウボーイのチアリーダーの一員みたいだな、クソッ」
 ヘルメットに神経質な笑い声が響いてきた。「ダラス・カウボーイのチアリーダーの一員か。そいつはいい」
「それにしても寒くはないのかな、あんな短いスカートとブーツでさ」
「基地に報告しよう。UF――とにかく、未確認の物体には違いない」
「だが、何と言って? “翼の上に天使がいる”とでも言うのか?」
 体内時計で一万秒ほど経過したあと、フライトメイトの弱々しい声が、
「おい相棒。おまえ、飛び立つ前にどこぞの安酒場で、一杯引っかけて来なかったろうな?」
「いいや、やらない。やるわけないだろう」
 航空任務につく者は、フライトの十二時間前から、アルコールを口にできない。その規則はバスケスも承知のはずだった。
「ああ、そうか。飲んだのかもしれない。言われてみると、飲んだ気がしてきた」
「やっぱりな。俺も夕べの今時分のことだけど、バーボン・ウイスキーをストレートで二杯ほど引っかけた」
「まだ酔いがさめきってないわけか。道理で」
 心なしか安心したバスケスの声に耳を傾けながら、“テノール”は自分自身に言い聞かせた。
 翼の上に目を戻すと、意に反して、そこには女の子がさいぜんの姿勢で座っていた。テノール”と目があうと、女の子は翼の上でこころもち肩をすくめて、にっこりと微笑んだ。
 “テノール”を見て、反応しているような自然さだ。
 “テノール”は本気で吐きそうになった。
「あの子、どこかで見た顔をしてないか?」
 バスケスの震え声が、“テノール”を現実に引き戻した。
「俺はあんな子に、知り合いなんかいないぞ」
「いや、どこかで見たとも。おかしいな。どこで見たんだろう」
「テレビじゃないのか? さもなければ夢の中とか」
「テレビ! そうだ、テレビかもしれない!」
 その瞬間、女の子がもんどり打って、後ろへ倒れた。
 女の子は翼の上からかき消えた。
「ありがたい。幽霊のやつ、とうとう消えてなくなった。おまえ、今見た物を報告するつもりがあるか?」
「今見た物って?」“テノール”はなにげなく訊いたが、すぐにバスケスのくすくす笑う声が響いてきた。
「そうさ、今見た物さ。結局のところ、俺達は何も見なかったよな?」
 ふいに妻の実家、イリノイ州はタルーラの、見渡す限りのトウモロコシ畑に立っている、別居中の妻と幼い二人の息子の、日に焼けた笑顔が浮かんできた。
 “テノール”は静かな声で言った。
「ああ、俺は何も見なかった。帰ったらデブリーフィングをすまして、ビールでも飲もうぜ。俺がおごるよ」
 次の瞬間、“テノール”は酸素マスクに嘔吐した。

 ニュージャージーの、深い落葉樹の森の中。
 その奥にひっそりと建つ、焼けて朽ち果てた、巨大な屋敷の残骸跡。
 一匹のハイイロリスが、かつて柱だった木炭の上を走り抜けて行く。
 ハイイロリスは走るのをやめ、耳をそば立てた。
 目の前の空間を、てっぺんが金色に輝く真白い物体が降下して、音もなく地面に降り立った。ハイイロリスは頬袋にためたヒッコリーの実を噛むことも忘れて、その光景に魅入っていた。
 くだんの物体がまっすぐに歩を進めてくると、ハイイロリスはきびすを返して、森の奥に逃げ込んだ。
「まあ、リスだわ!」
 リリーは材木の一本の上に震えて立つ、小動物の姿に気がついていた。
 相手が木立へ走り込むと、思わず舌打ちしたが、失望はしなかった。
 森へ来て本当に良かった、とリリーは思った。
「ダイオキシンの濃度は、それほど高くはないでしょう」
 われながら間の抜けた一言だわと、リリーは自己批判した。
 森は否定もせず、批評がましいことも口にしなかった。
 だって、森だもの。
 森といて、リリーは楽しいと思った。
 ツタカズラや野性化したアイリスにまじって、伸び放題に伸びてしまったベゴニアや、デイリリーといった、値の張る、手入れも行き届いたであろう鑑賞用の植物や、英国式の造園にかかせないカントリー風の生け垣のなれの果てが、かろうじて昔日の面影をとどめている。庭園の一角には、かつての温室の骨組さえ、錆びついた姿をさらしていた。風か嵐が吹き飛ばしたのだろう、パネルがなくなった鉢乗せの棚が一方に吹き寄せられ、珍種のランの鉢が、粉々に砕けて散らばっている。
「リリー・・・ケッセルバッハ・・・またここへ帰って来たわ・・・・」リリーはつぶやいた。
 そこはかつて、ケッセルバッハ教授の屋敷があった地所で、教授自身は屋敷を焼き尽くした炎に呑まれて、すでにこの世の人ではなかった。
 発見されたケッセルバッハの遺体は、極度に炭化して、これがあの現代物理学の泰斗 (たいと) で、著名なアマチュア考古学者の亡骸であろうかと疑われるほど、無残なものだった。
 ケッセルバッハをこの世から消した炎が、リリーの記憶にある限り、初めて見たこの世の光景だった。火は一つの生命を食い滅ぼし、今ひとつの生命を錬金術師の炉のように、この惑星へと送り出したのだった。
 あの夜は雨が降っていた。火の熱が雷雲を呼んだのだろう、その晩、ニュージャージー州の空は、天が裂け、ノアの洪水の再来かと思われるほどの大雨が降った。
 一夜が明けて、太陽が州全体を照らすと、さながら地上は地獄絵図のような惨状を呈していた。レスキュー隊と州兵が出動し、知事が遅ればせながらの非常事態を宣言すると、後手に回った対応にマスコミが噛みついた。
 ケッセルバッハ邸の焼失が明らかとなったのは、あくる日の午後だった。水浸しになった廃虚の残骸から、一つの遺体が掘り出された。
 町の公民館に安置された遺体は、駆けつけた教授の親友で、オナイパ・レイヤール線の発見時の際の同僚だった、現コーネル大学物理学教授のハーバート・フリーデン博士によって、身元確認がなされた。亡骸は火と水のためにひどい有様で、かろうじて腕にはめていた時計によって、ケッセルバッハ教授とわかったにすぎなかった。
 遺体は検視のため、地元の市立病院に運ばれた。
 教授は実は生きており、政府の極秘研究に携わっているため、死亡したように見せかけているだけだという噂が地元に広がったが、警察は言下に否定した。
 その後ケッセルバッハの遺体は、かれの遺言執行代理人である、地元の法律事務所の弁護士の手で埋葬され、遺言により、フリーデン博士のほか同僚数名と、かつての教え子たちが葬儀に参列した。
 遺体が六フィートの穴に埋められると、誰かが、「虹が出ている」と叫んだ。皆が見上げると、虹はなぜか赤い色をしていた。
 リリーが初めてその姿を目撃されたのは、ケッセルバッハ教授の遺体を収めた棺が、厳粛な祈祷のあとで縦穴に安置されている頃、墓地から二マイルほど北に離れた、とある田舎町の未舗装の路上でだった。
 誰かが――たまたま近くを通りかかった、トラックの運転手だったが――リリーの耳元で怒鳴り声を上げた。
「おおい、そこの小娘! 邪魔だ! 轢き殺されたいのか、このどあほう!」
 リリーははっとした。
 と同時に、砂利や細かい砂粒をはね上げて、巨人のドーナツみたいなタイヤの列が、リリーのかたわらを通り過ぎて行った。
 ぶろろろろろろろどけどけどけどけどけどけここからがらがらがってんがってんがってんがってんがってんぶばばばばばばばあ〜
 すぐまた別のトラックが、リリーを追い抜きざま、タイヤの集団にあかんべえをさせて、通り過ぎて行った。
 リリーはまぶしそうに空を見上げた。
 赤い虹が遠くに見え、見えたと思った拍子にかき消えた。
 リリーはとにかく空腹だった。今は何かを口に入れなくちゃいけないわ。
 今度来たトラックは、そりゃあいい考えだぜおめえさんとっととめしを食いにいかなきゃなにしろにんげんはくわないとしんでしまうんだからなあと、トラック・タイヤの世界標準語でわめきちらした。
 リリーは後ろめたい気持ちを感じながら、それはそうだわよねと、自分自身に念押しした。

 リリーが最初に注意を払ったのは、この世界で価値ある物を手に入れるためには、代償とかお足とか見返りを支払わなければならない、ということだった。
「ただの昼飯はない」と、ある場所で知り合いになった、季節労働者だという触れ込みの、年とった禿げ頭の元農夫が言った。
「こいつは天地開闢以来の真実さ。無論ただの朝飯も、晩飯もだがね。だが、ここだけは別だがね」
 ここというのは、州の無料配給センターの給食場で、リリーは知り合って十分にもならないその男と並んで、ようやくのことで、チキンスープの配給を受け取り、細長いテーブルの一隅で、何日 (何十日?)ぶりかの食事にありついたのだった。
 男は家族を捨てて、あちこち旅しているのだと言った。
 そんな生活を、もう何年も続けているのだという。
「以前にもこんなことがあった気がする。人はそれをデジャ・ヴュと呼ぶがね」
 リリーが聞き慣れない単語に眉をしかめると、元農夫はにっこりと――というよりも、にんまりと微笑んで綴りを教えた。
「デジャ・ヴュとは、夢の国からの先払いさ。俺たちの心は、これから何が起こるかをすでに知っていて、そいつを夢の中で、そっと囁いてくれるんだ。そう考える方が、センチメンタルってものじゃないかね。そうじゃないかね、相棒?」
 男は隣にすわっていた、チェックの安物のシャツを着た、髭面の大男にウインクした。「うるせえぞ! 黙りやがれ、この浮浪者野郎!」
 元農夫の男はリリーに肩をすくめてみせた。
「人によっちゃ、俺みたいな宿なしのことを、『ふぬけ』とか『負け犬』とか、『浮浪者野郎』って呼んでくれるがな、なに、人間はどいつもこいつも放浪者なのよ。いかさま三文芝居に巻き込まれた、永遠の流浪の旅役者なのよ。シェイクスピアって男も、似たようなことを言っているそうだがな」
「うるせえぞ。いいかげんに聞き捨てならねえ、そのたわごとをやめねえと、薄汚ねえそのクソっ歯を、力づくでへし折るぜ!」
 男はすごんでいるのを見せつけるように、左手に拳を固めた。
 その晩、給食センターの一角でつまらない小ぜりあいが起き、仲裁に入った元農夫は、相手の小型ナイフで右脇腹を刺され、出血多量で死んだ。喧嘩の原因は些細なことで、検屍に当たった検視官は、犯人は左利きかもしれないな、とつぶやいた。
 リリーは、つい数時間前まで、自分に向かって歯の抜けた口でしゃべり続けた、この名も知れぬ流浪の哲学者の死体に、涙があふれてきて止まらなかった。刺したのはテーブルで口論になりかけた、あの大男ではないかとも思った。男も確か左利きのはずで、左手に拳を握っていたではないか。
 だが証拠はなかったし、リリーが探してみたところ、大男の姿はどこにもなかった。農夫の殺害犯人が誰か、関心を払っている者もいないようだった。
 死んだのは、すでに生ける屍も同然の男だったのだから、無理もない。
 リリーは血の海に横たわる元農夫の死骸に、目を釘付けにしながら、この世界では何に対しても支払うべき代償が、ちゃんとあるのだわと、否も応もなく悟った。
 こんなこともあった。
 ある街道沿いのダイナーで、リリーがこっそりと水道の蛇口を使おうとした時――
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 リリーは森の屋敷跡の庭で耳をすませたが、何の気配も感じとれなかった。
 リリーはあきあきし始め、深呼吸しようと口を開けた。
 その時、枝の折れる音がかすかに聞こえた。リリーはたじろいで、眉をつり上げたが、それっきり音は聞こえてこなかった。
 何だろう。動物かしら。
 リスじゃないわよね。
 リスは枝を踏みしめるほど大きくはないし、あんなに音をさせるはずがないもの。
 ライオンとか、トラとか、クマとか? おお、どうしよう。
 リリーは、下生えが手を伸ばしている敷地の隅ににじり寄ると、音をさせないように息をひそめ、じっと森の様子をうかがった。
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 リリーがこっそりと水道の蛇口を使おうとした時、ダイナーの裏手のドアが開き、油の染みだらけの黄色いエプロンをつけた、農家のおかみさん風の女が顔を突き出した。
「あれえ? あんた、何してんのさ? 誰がその水を使っていいって言った?」
 気がつくと、リリーは店内にひっぱり込まれ、オレンジジュースと湯気の立つパンケーキ、そしてあつあつのビーフシチューをあてがわれていた。
「あんた、ろくすっぽ食べてないんだろう? 隠したって、駄目々々。あんたの顔に、ちゃーんと描いてあるよ。まるで森から吹き飛ばされた、フクロウの子って感じだねえ。この近所の子かい?」
「フクロウの子だって? そりゃあいい」
 カウンターテーブルにいた男――近くのガソリン・スタンドのオーナーとわかった――は大声で笑うと、
「まあ、ここで出す料理は、天下一品だ。食っても毒にはなるめえ。おらとこの犬は、食わねえがな」
 そう言って、またがははははと笑った。
 ビーフシチューは悪くはなかった。気がつくと、リリーはがつがつとかきこんでいた。
 カウンターに座っていたもう一人の赤ら顔の靴のセールスマンが、スタンドの主人とおかみさんに、等分に視線を向けながら、先日の洪水と、ケッセルバッハ邸の火事について話し始めた。リリーは聞き耳を立てた。
 男が、ケッセルバッハ邸の焼け跡で見つかった死体の検視解剖と、それが結局不十分に終わったらしいことを告げると、リリーは後ろのテーブルから身を乗り出した。
「その話、もっとくわしく聞かせて下さい!」
 大人たちはびっくりした顔でリリーを見た。
 セールスマンは乞われるままに、もう一度洪水とケッセルバッハ邸の火事について話した。聞いているうちに、リリーの目の前を、紅蓮の炎に包まれて崩れる屋敷の残像が、ゆっくりと浮かんで消えていった。
「その家の――ケッセルバッハさんの家には、子供はいなかったんですか?」
 いなかったみたいだよと、セールスマンは答えた。「いたら、葬式の時に立ち合っていたはずだから。ケッセルバッハは、外国から帰化した移民らしいよ」
「あたしもその話は、新聞で読んだ気がする。何をしていた人なの、そのカシューパって人は?」
「ケッセルバッハさ。考古学者だったらしいぞ」セールスマン氏はダイナーの女主人に答えた。「それにアマチュアの天文学者だったとか。いいや、物理学者だったかな」
「俺が聞いたのは、あべこべだ。考古学が趣味で、物理学が専門だった。ノーベル賞を取ったんだと」
 会話がいっとき跡絶えた。
「オナイパ・レイヤール線がどうとかって、新聞には出てたけどな」ガソリン・スタンドの主人が懲りずに続けた。「そいつはどういう代物なんだろう? X線みたいな物なのかな?」
「何なの、そのオナイプ何とかって?」
「きっと、星から来る重力線のことです!」
 リリーが声をかけ、三人の大人たちは、またまたびっくりしてリリーを見た。
「ええっ? 何ですって?」
 ダイナーの女主人が顔をしかめた。リリーはもう一度繰り返した。
「近頃の学校教育は進んでいるからなあ。うちのせがれなんか、三年生のガキのくせして、コンドームの使用方法と目的についちゃ、ちょいとした権威なんだぜ」
 ガソリン・スタンドが言い、セールスマン氏が吹き出して、話はうやむやになった。
「あら、見て。虹が出てるわ」
 女が片側の窓ガラスを拭こうとしながら、手を止めて叫んだ。二人の男たちも、カウンターの上で斜めに体をかしがせ、空を見上げた。
「あれ、虹かい? 煙突か何かの煙だろう?」セールスマン氏が、「どこかの工場で、いまいましい化学物質の入った廃棄物を燃やしているんだよ。きょうびはどんな物にでも、化学物質が混ざっているんだ」
「いや、あれは虹だ。間違いない」
「そんな馬鹿な」セールスマン氏も譲らなかった。「おまえさんたち、頭がいかれてるぞ」
「頭がいかれてるとは何だ? それ、本気で言ってるのか。ことと次第によっちゃ――」
「だって、見ろ。あの虹は赤いじゃないか。この世に赤い虹なんてあるもんか」
 リリーははじかれたようにテーブルを飛び出して、窓に駆け寄った。
「どこかの馬鹿が、またなんとかシンていう物質を、大量に燃やしているんだよ。あるいは、どこかで化学工場が爆発したのかもしれない。そこは兵器をこしらえる政府の秘密工場か何かで、致死性のガスが大量に漏れ出したんだ。今にここへ流れて来ないとも限らんぞ」
 女とガソリン・スタンドは、気味悪そうにセールスマンを眺めた。まるで今し方まで話をしていた相手が、地球の人間じゃなかったと気がついた、B級SF映画のエキストラみたいだ。
 セールスマン氏はコーヒーをたて続けにあおると、
「この星は、今に人間が住めない星になる。住めるのは放射能で巨大化した、化け物みたいな蟻だけになるんだ。大昔そんなくだらない映画を、ドライブ│イン・シアターで見た記憶があるよ。ちゃちな作り物の映画だと思ったが、あれはクソ真実だったんだな。ああいうくだらない映画こそ、クソいまいましい真実を描いているものなんだ・・・」
 女とガソリン・スタンドは、いよいよ遠巻きにセールスマンを眺めた。
 今に男の頭蓋骨が割れ、にかわと大量のゴムとラッカーで塗り固めた、ちゃちな怪物の頭が飛び出すぞ、と身構えて。だが、男が実際にやったのは、インスタント・コーヒーのおかわりを頼むことだった。
 リリーはそのやりとりを聞いてはいなかった。
 リリーはいつか見た赤い虹の記憶と、耳もとにトラックのタイヤの罵声までが、よみがえる気がした。
 自分はどうして、オナイパ・レイヤール線のことを知っていたのだろう。これまで耳にしたことすらないのに。
 不思議なことだった。
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 森はリリーの鼻先で静まり、聞こえるものは、森自身の息吹と、ため息のような束の間の静寂だけだった。
 ときおり思い出したように、マネツグミがしじまを破るほか、聞こえてくる音とてなかった。リリーは森に背を向け、一歩歩き出そうとした。
 その時、彼女の感覚が、森の隅の方から聞こえてくる、不思議な唸りをとらえた。
 やっぱり、何かいるのだ!
 リリーは用心深くなると、抜き足差し足で森ににじり寄った。
 頭上で鳥たちがいっせいに鳴きやんだ。 
 リリーが近づくと、森の一角にある古井戸から、音は聞こえてくるらしかった。
 それは大昔の汲み上げ式の井戸で、誰かがあやまって落ちないように、何枚かの板を、釘でぞんざいに打ちつけた蓋がかぶせられている。
 唸るような音は、その井戸の底から聞こえてくるらしかった。
 間違いない! この下に何かあるのだ!
 リリーは慎重に井戸の蓋を取りはずした。
 爆発もばね仕掛けの人形が飛び出してくることもなく、差し渡し四フィートはあろうかという、井戸の口が開いた。
 中からかび臭く、生温かい風が吹き上げて、長年月の埃 (ほこり) をリリーに吹きつけると、リリーは顔をしかめた。
 井戸の底に垂直に伸びた鉄の梯子が見える。リリーは用心深く、てすりに手をかけ、最初の横棒に体重を乗せた。
 それからゆっくりと、井戸の底に降りて行った。




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