53 (承前)
光は、レスター・ヘイシーがエスター・ハリスにとり憑いたように、リリー・センチメンタル=デジャ・ヴュにとり憑き、催眠状態のヘイシーが、異なる人格意識体に豹変したように、リリーを得体の知れない人格に、かれら自身の役に立つ道具に変えようとしていた。 いやだ! わたしは道具になんかなりたくない! わたしはこのままのわたしでいたい! リリーのままで! このままのわたしでいたい! 「・・・見よ・・・リリトス・・・光の子・・・罪なき子よ・・・見よ・・・見よ・・・・」 カバールのものらしい声がした。リリーは目をつむり、いやいやをした。 その途端、顔面に異様な圧力を感じた。 不可知の存在がリリーの顎に手をかけ、リリーの意思に反して顔が起こされ、まぶたがうむを言わさず開かされるのを感じた。 「・・・見よ・・・リリトス・・・光の子・・・罪なき子よ・・・見よ・・・見よ・・・・」 リリーは見た。 見ざるをえなかった。 リリーの目の前に幻の地球が浮かび、月世界と地球とを隔てる幕の扉が、一瞬だけ開いた。大いなるとばりが幕を開けた刹那、扉の内側にツーオイ石の、見上げるばかりに巨大な結晶の、きらめく邪悪な光を見たと思った。 扉はすぐに閉じた。 そして、何もない虚空に月たちが浮かんだ。 月は仲良く二つ並んで、ぽっかり浮かんだ二つの衛星は、おののくように片方だけが燐光を発して、流れ星のように天からすべり落ちた。 地球を目がけて、まっしぐらに墜落していった。 月が親星に呑まれて、めり込むように消え、幻の地球の表面にひび割れが生じた。 もうもうたる水蒸気の煙と、天を衝く火の柱があちこちに立ち昇った。 地球が、それ自身の表面を覆った海水に飲み込まれて、あっという間に姿を消し、星々が――数え切れないほどの天の星々が、瞬く間もなく一瞬にして、リリーの眼前から空中に四散して見えなくなった。 最後にあたりは真の闇に包まれ、ただ一つ浮かんだ生き残りの月が、ぽかんと口を開けているリリーの顔前まで漂ってくると、それに重なるように、いびつな人影が目の前に立った。その月は一個の眼球に変わり、人影の眼窩にすっぽりとおさまると、人影は暗闇に吸い込まれて姿を消した。 リリーは心臓が高鳴るのを覚えた。 リリーは、目の前におぼろな人影を、また見たと思った。 最初は蜃気楼かかげろうのように、人影はあてどもなく揺れていたが、しだいに形を整えると、黒いフード付きのマントをまとった、見上げるばかりに長身の僧侶の姿になった。 リリーは半透明の、その僧の片方の目が、ただのからっぽの空洞なのに気がついた。 リリーは風に吹かれた木の葉のように震えた。 ・・・怖くない・・・怖くない・・・怖くない・・・怖くない・・・あんたなんか・・・ちっとも・・・怖いわけない・・・ただの・・・亡霊じゃないの・・・ただの・・・亡霊?・・・ちょっと・・・怖い・・・かも・・・ううん・・・本当は・・・すごく・・・怖いよ・・・・ カバールが手を差し伸ばしてきた。リリーは椅子の中で身動きしようとしたが、またもや拘束具はびくともしなかった。 助けて! 誰か助けて! 亡霊は現われた時と同様、虚空を吹き抜ける風のような、語尾も定まらぬ虚ろな声で言った。 「・・・ウムール・・・アクーバ・・・ルラ・・・モルケ・・・モロッケス・・・罪なき子・・・リリトス・・・今こそ・・・御身の体・・・もらい・・・受ける・・・・」 目の前にシャワーのような光が広がった。 それは全てツーオイ石から降り注ぐ、《我あり》の臨在の光だ。 リリーは思わず目をつむる。 閉じたまぶたを透かして、光はリリーの視覚をつらぬき、眉間から脳天の中心に入り込んできた。リリーの頭骸が、この世のものならぬ光に満たされる。 アトランティスの全地を照らし、かの世界で崇められ、恐れられ、かの世界の繁栄と没落とに手を貸し、二つの月の一つを走らせて、地上に大津波を引き起こし、大陸を海に沈めたのち、予言と記録にその存在をとどめられた以外は、永久に歴史の彼方へと消え去ったツーオイ石が――あの神秘の水晶石の放つ邪悪な光線が、リリーの頭骸いっぱいに差し込める。 リリーは声もなく叫ぶ。 おお、なんてこと。 なんてこと。 なんてこと。 なんてこと。 これって、なんておぞましいの。 これって、なんて素敵なことかしら。 これって、なんて素晴しいの。 ああっ。気が変になりそうよ。 それでいて、清らかだわ、これって。 おお。 神様。 神様。 神様。 神様。 リリーはわれを忘れて、泣き出していた。 泣きながら、笑った。 おしまいだ。 万事窮すだ。 今度こそ本当に、おしまいなのだ。 カバールの手が、またリリーに差し伸ばされる。 リリーは自分の心と体を、敵に明け渡そうとした。 姫さま、断じて負けてはなりませぬ。 断じて心をゆだねてはなりませぬぞ、姫さま。 ――誰? バハールなの? わたくしだけではありませぬぞ、姫さま。 リリトス。 わたしたちのかわいい子。 わたしたちの希望。 わたしたちの願い。 わたしたちの命。 わたしたちの全て。 「パパ?――ママ?――」 光を呼びおこしなさい、リリトス。 凛とした女性の声がした。 おまえ自身の中に、光を呼び起こし、悪しき者、邪悪を行おうとする、全ての輩を、ひれ伏し、黙らせ、打ち倒すのです。リリトス。 光の敵を滅ぼすのだ、リリトスよ。 男性の力強い声もこだまする。 光の敵を、光自身によって、滅ぼすのだ。 さあ、今だ! 今! 今! 今! 今! ――光よ! 聖なる、神秘なる、力なる、善なる光よ! 今、ここにあらわれよ! 悪しき者を倒し、とこしえに滅ぼせ! 今ここに、光あれ! 光あれ! 光あれ! 光あれ! すると、光があった。 リリーは一瞬、閉じたまぶたの奥で、まばゆく輝く白い閃光がふくれあがり、音もなく爆発するのを見たと思った。 カバールのものらしい絶叫が上がり、椅子が床ごと持ち上がる。 リリーの喉からも悲鳴がほとばしる。 次の瞬間、リリーは椅子に縛りつけられたまま、上方へと吹き飛ばされ、天井にぶちあたって、思いきり後方へ放り投げられた。 声を上げる間もなく、壁にぶつかり、ホールの中央まではね返り、床に転がり落ちる。 激しい突風が――風ではなく、何かのエネルギーの奔流だったのかもしれない――リリーをなぶり、かき乱し、拘束具をはじき飛ばして、狂暴な固まりとなって、吹き抜けていった。熱を帯びた空気の塊が、一瞬遅れてリリーの全身を貫き、炎を吹くように轟音をとどろかせて、途方もない勢いで渦を巻き上げた。リリーは、何が何やらわからず、パニックに襲われて泣きわめいた。轟音は震動をともなって続き、だしぬけに途切れた。 ふいに、冷たいものを額に感じて、飛び上がるように目を開けると、前方にバハールの顔があった。 ひやりとしたのは、床の感触だった。 リリーは叫び声を上げようとして、急に思いとどまった。 バハールの目の光が、そうすることを、瞬時にして思いとどまらせたのだった。 バハールは死にかけていた。 死にかけていると同時に、その表情に生ある者の人格の最後の兆候が、まごうかたなく顕われていた。 「バハール? あなたなの? 死んでしまったの? バハール? バハール? 大丈夫なの? バハール? バハール?」 バハールは目をつむり、またすぐにゆっくりと開いた。 その顔に痙攣らしい微笑が浮かぶのを、リリーは見た。 「・・・はい・・・姫さま・・・・」 バハールは聞こえるか聞こえないかの声でつぶやくと、苦痛に顔をゆがめた。 「バハール? 大丈夫なの?」 リリーの中から、敵意は消えていた。警戒心も忘れて話しかける。 リリーの目にバハールは、生まれて初めて《生きている》まともな人間に見えた。 生きていると同時に、死にかけている老人の姿に。 「・・・はい・・・大・・・丈夫・・・です・・・姫さま・・・ご親切に・・・あり・・・がとう・・・ござり・・・ま・・・する・・・・」 沈黙。 「バハール?」 「・・・はい・・・まだ・・・生きて・・・おり・・・ま・・・する・・・・」 「具合が悪いのね? 待ってて。今、助けてあげるわ」 椅子ごと倒れた不自然な姿勢で、リリーはバハールを励ました。閉じたバハールの両目から、大粒の涙があふれた。バハールは静かに泣き続けた。 やがて目を開けたバハールは、リリーがついぞ見たことのない、慈愛に満ちた、形容し難い光を、その目に宿していた。 「・・・おあり・・・が・・・とう・・・ござ・・・い・・・ま・・・す・・・おや・・・さ・・・し・・・い・・・王女・・・さ・・・ま・・・わた・・・くし・・・めの・・・魂・・・は・・・これ・・・で・・・救われ・・・もう・・・した・・・・」 「何を言うの? バハール? 何か言って・・・バハール・・・?・・・バハール・・・?・・・・」 「・・・わたく・・・し・・・め・・・は・・・長の年月・・・安ら・・・ぎも・・・なく・・・魂の・・・煉獄 (れんごく) を・・・さまようて・・・おり・・・ま・・・した・・・生き・・・て・・・おる・・・か・・・どうか・・・も・・・わから・・・ぬ・・・あな・・・た・・・様・・・に・・・一目・・・お会・・・い・・・し・・・たく・・・無き・・・故・・・郷・・・アトラ・・・ン・・・ティ・・・ス・・・を・・・再・・・建・・・する・・・こ・・・と・・・だけ・・・を・・・はかな・・・い・・・望みと・・・生・・・き・・・が・・・い・・・に・・・し・・・て・・・わた・・・くし・・・め・・・は・・・生き・・・続け・・・待ち・・・続け・・・て・・・まいり・・・ま・・・した・・・・」 「――バハール! しゃべっては駄目! しゃべらないで! しゃべらないで!」 「・・・した・・・が・・・わたくし・・・の・・・望み・・・は・・・かな・・・い・・・そう・・・も・・・あり・・・ま・・・せ・・・ぬ・・・いや・・・そ・・・れ・・・で・・・いい・・・ので・・・す・・・悪・・・い・・・の・・・は・・・わ・・・が・・・師・・・わが・・・師・・・匠・・・カ・・・バー・・・ル・・・様・・・と・・・師の・・・邪・・・悪な・・・た・・・く・・・らみ・・・を・・・見抜け・・・なか・・・った・・・わた・・・くし・・・めの・・・責・・・任・・・なの・・・で・・・す・・・わた・・・く・・・し・・・は・・・わ・・・た・・・く・・・し・・・めは・・・悪・・・しき・・・こと・・・曲が・・・っ・・・た・・・こと・・・と・・・知り・・・つ・・・つ・・・師・・・の・・・企 (たくら) み・・・に・・・荷担 (かたん)・・・いた・・・し・・・て・・・まい・・・り・・・ま・・・し・・・た・・・荷・・・担・・・する・・・ばか・・・り・・か・・・わた・・・く・・・し・・・は・・・師・・・の・・・計・・・画・・・に・・・力・・・力・・・を・・・貸し・・・そ・・・の・・・野・・・望を・・・煽 (あお) り・・・さえ・・・し・・・ま・・・し・・・た・・・あ・・・あ・・・そ・・・の・・・天・・・罰・・・が・・・下され・・・た・・・の・・・で・・・す・・・天・・・罰・・・が・・・下・・・さ・・・れ・・・た・・・の・・・で・・・す・・・か・・・神・・・は・・・い・・・偉・・・大・・で・・・す・・・た・・・た・・・とえ・・・そ・・・そ・・・の名が・・・知られ・・・ようと・・・知ら・・・れ・・・ていな・・・かろ・・・うと・・・全ての・・・はか・・・り・・・ご・・・と・・を・・・見・・・見通し・・・に・・・な・・・ら・・・れ・・・こ・・・今・・・宵・・・とう・・・と・・・う・・・裁・・・き・・・を・・・下さ・・・れ・・・まし・・・た・・・受け・・・て・・・と・・・当・・・然の・・・報い・・・を・・・こ・・・の・・・身に・・・受け・・・ま・・・し・・・た・・・おお・・・わが・・・い・・・愛・・・し・・・き・・・救・・・い・・・主・・・わ・・・が・・・慕い・・・し・・・永遠・・・の・・・あがない・・・主・・・たる・・・小さ・・・き・・・花・・・よ・・・わ・・・わ・・・が・・・死・・・に・・・ゆ・・・く・・・まな・・・こに・・・今・・・ひ・・・と・・・た・・・び・・・そ・・・の・・・か・・・か・・・ん・・・ば・・・せ・・・を・・・か・・・ん・・・ば・・・せ・・・を・・・焼き・・・焼き・・・つ・・・け・・・ま・・・しょ・・・う・・・ぞ・・・・」 「あなたは死なないわ! あなたを死なせないわ! バハール! バハール!」 「・・・おお・・・そ・・・そ・・・の・・・名・・・を・・・ど・・・う・・・か・・・呼ん・・で・・・下・・・さ・・・る・・・な・・・あ・・・な・・・た・・・様・・・と・・・あな・・・た様の・・・国 (くに)・・・民 (たみ)・・・と・・・を・・・裏・・・切っ・・・た・・・この・・・わ・・・わ・・・た・・・く・・・し・・・め・・・を・・・ま・・・だ・・・そ・・・の・・・そ・・・の・・・名・・・で・・・呼・・・ん・・・で・・・下・・・さ・・・る・・・と・・・は・・・ふ・・・不・・・肖・・・バ・・・バ・・・ハー・・・ル・・・ら・・・来世・・・で・・・ふた・・・た・・・び・・・う・・・生・・・ま・・・れ・・・変わ・・・っ・・・た・・・と・・・し・・・し・・・て・・・も・・・い・・・一生・・・涯・・・こ・・・こ・・・の・・・こ・・・と・・・この・・・ご・・・ご恩・・・は・・・ゆ・・・ゆ・・・め・・・忘れ・・・は・・・し・・・ま・・・せ・・・ん・・・ぞ・・・ゆ・・・め・・・ゆ・・・め・・・忘れ・・・た・・・り・・・は・・・いた・・・し・・・ま・・・せ・・・ん・・・ぞ・・・ひ・・・姫・・・さ・・・ま・・・リ・・・リリ・・・ト・・・ス・・・さ・・・ま・・・」 「そうよ! もちろんよ! あなたは良くなるのよ。良くなって、わたしにあの国のことを――アトランティスのことを、もっともっと、教えてくれるのよ!」 「・・・し・・・した・・・が・・・そ・・・そ・・・の・・・お・・・お役・・・目・・・は・・・果た・・・せ・・・そうも・・・あり・・・ま・・・せ・・・な・・・ん・・・だ・・・リリ・・・ト・・・ス・・・さ・・・ま・・・・」 バハールは苦しげに目を閉じた。 リリーの耳には、バハールと、リリー自身のすすり泣く声だけが、聞こえていた。 しばらくして――恐ろしく長い年月が経ったあとで――バハールがかすかな声で言った。 「・・・リ・・・リ・・・トス・・・さ・・・ま・・・・」 「何、バハール? 何か言った?」 「・・・わ・・・わ・・・た・・・く・・・し・・・の・・・手を・・・あな・・・た・・・様・・・の・・・ほ・・・頬・・・に・・・い・・・今・・・一・・・度・・・あな・・・た・・・様・・・の・・・か・・・か・・・ん・・・ば・・・せ・・・に・・・ふ・・・触・・・れ・・・させ・・・て・・・く・・・下・・・さい・・・ま・・・せ・・・・」 「いいわ! 待ってて!」 リリーは、手があるかどうか確かめるように、そっと右の指を開いてみた。 よかった。まだ、ついてるみたいよ。 リリーは体のわきにそって、恐る恐る手をずらした。体がひどく軋んだが、ぎこちなく動かすと、ゆっくりと、一インチ動かすのに、一世紀がかかるほど、ごくゆっくりと、時間をかけて手のひらを床にそって、バハールの方に差し伸ばした。 指先がバハールの手に触れると、その手は骸のように、氷のように冷たかった。リリーは一瞬躊躇し、すくんだ自分を恥じるように、バハールの指をとって、自分の方に引っぱってきた。 氷のような相手の指先が、自身の頬に触れる。リリーは怖じ気をふるって目を閉じた。 戦慄と悪寒と嫌悪とが、瞬時に身内を走る。 バハールの手が生気を取り戻し、頬の上をすべるように動くのを、リリーは感じた。 かさかさに干からびた指が、生き物のように、頬をなぞる。 リリーは嗚咽 (おえつ) しながら深呼吸し、鼻をすすり上げ、また咳込んだ。 バハールの手が動きを止め、ためらうように、リリーの鼻先に移動した。 ごくゆっくりと、リリーの鼻梁 (びりょう) を愛撫し、今度は上向きに方向を変える。 バハールの指は、休むことなく動き、リリーのおでこと、垂れ下がる巻き毛の一房に触れた。 バハールの指が髪を撫でた。 ついでバハールの指先が眉間に触れると、リリーの心にイメージの奔流があふれ、脳髄が音のない爆発で満たされた。リリーはうめき声を上げた。 はるか遠い昔 (に思われるほど以前) 身寄りのない老女のアパートの玄関先で、エスターに抱きすくめられて感じたのと同じ、精神の奔放な洪水がリリーに流れ込み、リリーの感覚中枢を揺さぶった。 記憶の濁流が渦を巻いて、リリーを呑み込む。 まるでハリケーンのように。 それは激しい《孤独》の感情だった。 リリーにはなじみ深い、しかし、リリーがこれまで感じたことも、あるのを予期しなかったほども深い、激しい、悲しみと孤立と憤りの感情。 当惑と絶望、罪の意識、そして自責と後悔の思念。 悔やむことも、抗議することも、呪詛 (じゅそ) すらも許されない、強い復讐の念と、挫折と憎悪と自己憐憫の情とが、いちどきに、どっと津波のようにリリーを襲い、リリーを圧倒し、押し流した。 リリーは知った。 バハールの内面に隠された、凍てついた、傷ついた感情を。 その憎しみを。 その悔恨を。 その苦悶と、救いとを求める、怨念にも似た、久遠の閃光への、切ない思慕と憧憬の念を。 リリーは泣いた。 泣いた。 泣いた。 バハールのために、自分自身のために、そして、かつて滅んだ島大陸の上にあった同胞たち、すべての生きとし生ける者の悲しみのために。 バハールの手がぱっと広がり、リリーの顔面を覆った。 押しつけられた手のひらが、万力のような力で、リリーの顔を砕きにかかる。 リリーはうめき声を漏らしたが、バハールの信じられないほどの力で押しつけてくる手に埋もれて、息をするのも苦しくなった。 「・・・やめて・・・バハール・・・苦し・・・い・・・バハー・・・ル・・・バ・・・ハー・・・ル・・・・」 リリーは目を開き、指のあいだから、死に物狂いで前方を見た。 押しつけられた手の向こう、邪悪にゆがんだカバールの、化身めいた、老いさらばえた、しわだらけの顔が――向かって左の目が失われ、眼窩がぽっかりと広がった、青ざめた醜悪 (しゅうあく) な怨霊 (おんりょう) の顔が見えた。強い呪詛のつぶやきを上げ、歯ぎしりしながらリリーを睨みつけている、亡者の顔が眼前に迫ってきた。リリーの頭の奥に、潮騒のような、太鼓のような、眠気を誘う単調なリズムが聞こえてきた。今となっては遠い記憶のかなたにある、月の宮殿の祭壇の間で聞かされた、信じられないほどの永劫の響きを持つ、あの神聖音楽の詠唱の音色が。御詠歌はリリーの精神に入り込み、リリーの心を、魂を揺さぶり、その脳髄を占領しようとする。 リリーは、手のひらのいましめをふりほどこうとして、頭を振った。 鼻がひん曲がり、顔が押し潰される。 だが、バハールの、もしくはカバールの化身が憑依したバハールの、押しつけてくる手の力があまりにも強いため、リリーはふりほどくことはおろか、息をすることも困難になった。やがて目の前がかすんできた。 ・・・もう駄目・・・もう駄目・・・もう駄目・・・もう駄目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 突然、顔面の圧迫が消え去り、リリーは解放されて、ため息をついた。天井と床がぐるぐると回り、込み上げてくる吐き気と恐怖に、リリーは震えおののいた。 前方に目をすえると、マントを広げて横たわった男の死体が――かつてバハールだった物の名残りが――砕けて粉末状になり、塵となって堆積していくところだった。 バハールは死んでいた。 死んで、いなくなっていくところだった。 リリーは以前にも、こんな光景を見たことがあった。 どこで感じたデジャ・ヴュだったかしら? 「ああ、そうだわ。テレビで『オズの魔法使』で見たんだわ!」 リリーは思わず声に出し、飛び散った粉末を鼻から吸い込んでむせた。リリーはしばしのあいだ咳込んだ。 「そうだわ。あれはドロシーがかかしさんの炎を消そうとして、バケツの水をかけちゃうのよね。それで水を浴びた悪い魔女が、悲鳴を上げながら、煙になって消えていくんだったわ」 リリーが目を見張っているあいだにも、僧侶はマントもあまさず、埃となって吹き飛ぶと、それで一巻の終わりだった。 「やれやれ、終わったようだわね。ディズニー風の申し分のない終わりとは言えないけど、終わりは終わりよ。ベリンスキー警部や、みんなはどうなったのかしら?」 リリーが痛む関節や筋肉をいたわりながら起き上がると、人々のうめき声が聞こえ、巨大なホールのあちこちで、意識を取り戻した兵士たちが、立ち上がり、あたりを見まわしていた。 すぐ近くで、兵士たちに混じって若い記者と眼鏡の政治学者、それにベリンスキーの姿が見えた。 「ロジャー!」 泣いていたのも忘れて駆け寄ると、ブリキの木こりよろしく、ぎこちない動作で立ち上がりかけた警官に飛びつき、キスの雨を降らせる。 ベリンスキーはうめきながら、 「そんなに勢いよく噛みつくんじゃないよ。まだ当分、顔は必要なんだから。一体、何がどうなったんだね? ものすごい音が聞こえてきたと思ったが」 「ネズミよ、ネズミの大群に襲われたのよ、わたしたち。ほら、あそこの壁の穴から、スパゲッティみたいなネズミの大群が、この部屋いっぱいにあふれたのよ。こんなにおおっきな、ネズミの大群がよ」 リリーはフットボールほどの大きさを手で示した。 「それで兵隊たちは、みんな食べられてしまいましたとさ。めでたし、めでたし」 「何を言ってるんだね? ネズミが入ってきたって? わたしは見た覚えはないけどな。それに兵隊たちが食べられてしまったって? リリー、夢でも見たんじゃないのかね? 兵隊たちは見たところ、ぴんぴんしてるじゃないか。第一、そんな穴なんか、どこにも見当たらないし」 ベリンスキーの言った通りだった。 ホールを囲む金属製の壁には穴などなく、ばらばらに裂かれて血にまみれた兵隊の切れ端も、一片だって見つかりはしなかった。 リリーが途方に暮れていると、B・Jが上半身を起こしかけた。 「いいのよ。あれはみんな幻だったんだわ。もしかすると本当に起こったかもしれない、嘘のことだったんだわ。あの図書館で会った、ジェーン・オースチンとかいう女の人の、身の毛もよだつ作り話みたいなね」 「ジェーン・オースチンって? それって誰のことだい?」B・Jがおでこを押さえながら質問した。頭痛がするのか、ひどく顔をしかめている。 「一体全体、きみは何のことを言ってるんだね?」ベリンスキーも訊いた。 「いいのよ、ロジャー。もう全部過ぎたことよ。いやな話は、全部ジ・エンドだわ」 「待て。まだすんだわけじゃないぞ、貴様」
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