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そんなことは、実際にあった。 音が聞こえた瞬間、隔離された部屋の壁と天井の継ぎ目が黒煙を上げて崩れ、ホール全体が振動に包まれ、兵士たちが悲鳴を上げた。 恐ろしい勢いで、サイレンが鳴り響く。 「どうした? 何かあったのかね?」スクリーンの大統領が、凍りついたように動きを止めた。「ゴードン将軍? ゴードン――」映像は断ち切られ、スクリーンはブラックアウトした。 リリーも悲鳴を上げた。「あれは何、ロジャー!?」 「大丈夫だ、たいしたことは――」 ベリンスキーはリリーをかばおうとして、カプセルに近寄り、またもや兵士に銃で突き飛ばされた。 「ロジャー!」 ベリンスキーはよろけながら、リリーに微笑みかけた。 リリーの目は、その時ひときわ揺れた天井に向けられた。 紙切れで作ったドールハウスのように、基地全体が揺れている。 B・Jも、真っ青になって震えている。 ゴードンも愕然としていたが、一瞬のうちにわれに返ると、 「全員、配置につけ! うろたえるな!」 震動が激しくなる。ゴードンはぎょっとして、兵士たちを見ると、 「まさかミサイルが発射したんじゃないだろうな! 誰か行って確めて来い! 今すぐにだ!」 「おい! ここにはミサイルがしまってあるのか?」 「何?」 「ここにはミサイルが格納されているのか?」 「そんなことはおまえの知ったことではないぞ、ブチンスキー!」 「見て! ロジャー! 壁が――」リリーが叫んだ。「――壁が崩れていくわ!」 前方の壁の一部が音を立てて崩れ、隣の核ミサイル施設の赤い警告灯の明りが、ホール一杯に差し込んできた。 目を射るその光は、黒々としたもので、すぐに覆われた。得体の知れない真っ黒な波のようなものが、壁の割れ目にそってあふれると、隣の施設との穴を覆い隠してしまったのだ。 リリーは呆然とした。一瞬、夢を見ているような気がした。 黒いものは勢いよくたかると、悪夢のように数を増して、割れ目からホールへとなだれ込んで来る。まるで生きている波のように、四方へ広がって、切れ目のない濁流のように、床いっぱいに膨れ出した。 リリーも兵士たちも、その場にいた全員が息を飲んだ。 それは数えきれないほどの、大量の毛のかたまりだった。 リリーは悲鳴を上げた。
それはアトランティス原産の、獰猛このうえない、アカマダラハイイロスナネズミの大群だった。(バハールはそのネズミが、囚人の処刑に使われたと言わなかったろうか?) 今、ハイイロスナネズミの数知れぬ集団は、不快な鳴き声を上げ、突如いっせいに向きを変えて、兵士たちに襲いかかってきた。 パニックに陥った兵士たちが、ライフル銃や機関銃を乱射し始めた。ネズミの鳴き声と、兵士たちの阿鼻叫喚、炸裂する銃声がとどろいた。硝煙の匂いが立ち込めると、サイレンが狂ったように鳴り響く。被弾したネズミが血飛沫を上げて飛び散り、裂けた肉片が壁や天井に叩きつけられ、血の跡を引きずって、床を埋め尽くす仲間の海へと消えた。音と悲鳴があちこちでこだまし、血糊のような警告灯のランプの灯りの中で、無数の閃光が炸裂した。 リリーは気違いのように悲鳴を上げながら、目前の光景を、スクリーンに映った映画を見るように眺めていた。 ベリンスキーとゴードンが走っていた。もう一人のジャケットを着た若い男が、カプセルの前にうずくまって、頭をかかえている。 よしよし。いい子、いい子。こわくない、こわくない。 男はリリーを見上げて、にっこりと微笑んだ。 その途端、胴体の真ん中で引きちぎれたネズミの死骸が、ぴくぴく痙攣しながらリリーの目の前のカプセルに貼りついた。 リリーは吐き気を催し、正気に返った。 若い男は姿を消していた。それとも最初から誰もいなかったのか。 ホールを埋めつくしたネズミの群れは、手あたり次第に銃の餌食にされ、細切れの肉片に変えられていったが、壁の割れ目から尽きることなく現われる大群には、兵士たちもなすすべがなかった。弾丸を使いきると、兵士たちはネズミの群れに襲いかかられていった。それぞれの場所で悲鳴を上げ、ライフルを振り回し、害獣どもをぶちのめしたが、あちこちで難破船が沈むように、ネズミの海に飲み込まれていった。ネズミどもが鋭い牙の先で、兵士たちの肉を貪るところが見えた。さながら地獄の魔王の響宴だ。 リリーは椅子の拘束具をはずそうとしたが、今度ははずせそうもなかった。リリーが悪戦苦闘しているうちにも、ネズミの数はさらに増して、床はまだら模様の動く灰色の絨緞で覆われていった。生きている者は一人もない。 いや、一人だけいた。 警告灯が明るさを増し、室内全体を照らし出すと、靄に覆われて視界のきかなくなったホールを、かげろうのようにぼんやりとした人影が一人、揺れながら近づいて来る。リリーは目を見張った。 誰なの? ロジャーなの? さっきの若い人? ひょっとしたら、あのゲジゲジ将軍かしら? 誰でもいいわ、ネズミでなければ。 誰でもいいから、姿を見せて! 「姫さま」 カプセル越しに、リリーの耳に――脳に――心に、直接声が響いてくる。 「姫さま、お迎えにあがりました」 バハールだった。 リリーは悲鳴を上げた。 カプセルがリリーの目の前で音を立てて砕けた。リリーは椅子に縛りつけられたまま、バハールと室内の靄とにさらされた。リリーは目をつぶろうとしたが、頭の芯に命令が下った。 まっすぐに前を見よ! まっすぐに前を見よ! リリーは目を閉じようとしたが、意志に逆らうように、両の目が開いた。 前方すぐのところに、マントに包まれたバハールの体が、右へ左へ、揺れながら浮かび上がった。 「神様!」 黒いすそ長のマントをはおり、老神官は見覚えのある、金と銀と銅の三色の王冠をぶらさげている。 風が狂ったように吹き始めた。 「・・・王女さま・・・どうあっても・・・王冠は・・・かぶって・・・いただきまする・・・どうあっても・・・今宵・・・みどもは・・・・あなた様を・・・アトランティスの・・・わたしどもの・・・支配者に・・・いたしま・・・する・・・・」 「助けて! 誰か助けて!」 「・・・ここに・・・栄えある・・・王国と・・・王土の・・・復活を・・・神になりかわり・・・宣言・・・いたすのです・・・・」 「いやよ! いやよ! 誰か! 誰か! 誰かっ!」 「姫さま・・・・」バハールが手を差し伸ばした。「リリトス様・・・・」 王冠が目の前に近づいてくる。 リリトス。光を呼びなさい。リリトス。 誰? 光を。おまえ自身の光を。おまえ自身の中に、生まれた時から満ち満ちている光を。アトランティスの聖なる光を。まどわしに負けて、邪悪な光に支配されてはなりませんよ。リリトス。リリトス。 パパ? ママ? リリトス。わたしたちは来た。わたしたちはここにいる。 頭の奥で威厳に満ちた、静かな声がささやいた。 邪悪な光に負けては駄目だ。リリトス。よこしまなもの、邪悪なものが、世界に満ちるのを防ぐこと。それが、おまえの役目だ。おのれがすべきことを忘れ、くだらぬものに惑わされて、大切な使命を忘れてはならぬ。リリトス。リリトス・・・。 「お父さん! お母さん! わたしは、どうすればよかったのですか? わたしは一体、どうすればよかったのですか?」 「王冠を・・・王女・・・王女・・・・」 「わたしは一人ぼっちで、この世界に取り残されて、どうすればよかったというのですか? わたしには何もない! 何もできない! わたしには一人ぼっちで泣いている以外に、一体、何ができたというのですか!」 小さきものよ。 歓喜と明朗によりて作られしものよ。 誰? 誰なの、その声は? 小さきものよ。 歓喜と明朗によりて作られしものよ。 歓喜と明朗によりて作られしものよ。 行きて愛せ。 行きて愛せ。 愛せ。 愛せ。 地上の。 地上の。 地上の。 何者の援 (たす) けをも借りることなく。 借りることなく。 となく。 く。 「ケッセルバッハ教授? それともレスター・ヘイシーさんなの?」 リリーは目を開けた。 神官バハールが、黒いマントを帆のように広げて、硬直したように苦悶の表情を浮かべながら、虚ろな瞳をいっぱいに見開いて、空を見上げていた。リリーもつられて見上げる。 そこに眼があった。基地の地下ホールの天井が消え、暗紫色の雲が空間の彼方まで広がっていたが、いずことも知れぬ高みに、眼は浮かんでいた。眼は青く、虹彩には稲妻に似た電光が走り、さも恐ろしげで、巨大だった。眼は、月の宮殿の祭壇の間のレリーフにそっくりで、いかがわしく、いかめしく、力と威厳に満ち、リリーとバハールを見下ろしていた。あまりにも巨大な瞳孔で、リリーと下界とを見下ろしていた。 眼がまばたきする。リリーは悲鳴をあげた。バハールの声が聞こえた。 「暗黒の神よ、宇宙の造り主よ! 《不可視の龍》ティベタットの王よ! 今こそ降臨したまえ! 今こそ降臨したまえ! ウムール・アクーバ・ルラ・モルケ・モロッケス! ウムール・アクーバ・ルラ・モルケ・モロッケス! 神は偉大なり! 神は偉大なり! 神は偉大なり! 神は偉大なり!」 「違うわ! あなたは神さまなんかじゃないわ! あなたは神さまなんかじゃないわ! あなたなんか――あなたなんか――何者でもありっこないわ! 何者でもない! 何者でもない! 何者でもない! 何者でもない!」 然 (しか) リ。我ハ何者ニモアラズ。 暗黒の宇宙神の声がとどろいた。 然シテ、我ハスベテノ、モノノ造リ主ニシテ、暗黒ノ宇宙ヲタバネル、最高神ナリ。 「いいえ! いいえ! 違うわ! 違うわ! 違うわ! 違うわ!」 我ハ汝ノ支配者ニシテ、汝ハワガ心ニカナイシ、シモベノ花嫁ニシテ、ワガ、ミココロヲオコナウベキ、奴隷ナリ。聖ナル生贄ノ奴隷ナリ。汝、ワガ前ニヌカヅキ、ワガ御霊 (みたま) ニシタガエ。ワガ命 (めい) ト導キトヲ受ケ入レ、ワガ望ムトコロニシタガイテ、汝ニ定メラレシ、ミワザト、オコナイトヲ、ワガココロノ望ムママニ、アナタ、コナタニオモムキテ、オコナウベシ。ソレ、ワガココロノ望ミニシテ、コノ世ノ始メヨリ、汝ニ定メラレシ、使命ニシテ、宿命ナリ。 「違うわ! 違うわ! 違うわ! 違うわ! そんなこと嘘っぱちよ! ぜんぶ、ぜんぶ、嘘っぱちよ!」 「・・・王女さま・・・往生際が・・・悪すぎまするぞ・・・この期に・・・およんで・・・われらを・・・見捨てたもうな・・・われらが・・・尊き御神が・・・ああ・・・おおせに・・・なるのです・・・あなた様に・・・進むべき・・・道が・・・ほかに・・・ありま・・・しょうや・・・?」 然リ。他ニアラズ。 リリーの眼が、苦しげに見下ろすバハールの目とぶつかった。 リリーはこんな目を、以前にも見たことがあった。 どこで見たのだろう? 虚 (うつろ) ろに見開かれた瞳の中心が、異様な輝きを帯びている。 エスターの部屋で、虚ろに輝く老女の瞳を見た――あの時エスターは別人の声でしゃべっていた――レスター・ヘイシーの霊に憑衣された状態で―― すると今、ここにいるバハールは――? 我ハスベテノモノノ造リ主ニシテ、暗黒ノ宇宙ヲタバネル最高神ナリ。 「違うわ! 違うわ! 違うわ! 違うわ! 嘘つき! 嘘つき! 嘘つき! 嘘つき! あんたは神さまなんかじゃないわ! あんたはバハールなんかでもない! あんたは嘘をついているだけよ! あんたは、いかさまの幻を見せているだけよ! 誰なの! あんたは誰なの! バハールにとり憑いてしゃべっている、あんたは誰? バハールとわたしに、あんな目玉を見せて騙している、あなたは誰なの? バハールにとり憑いてしゃべっているけど、あなたは本当はここにはいないんだわ! あんたは――あんたは――そうだ!――あんたは――ただの死人だ!――あんたは神さまをかたっているけど――本当は――死んだ人間――ただの――嘘つきの│ │人間の――亡霊なんだわ!」 風がやんだ。 あたりは静寂と闇につつまれる。 王冠を持ったバハールの手がだらんとたれ下がり、目は虚ろなまま、何もない空間を睨 (にら) んでいた。 リリーが恐る恐る見上げると、まばたきしていた巨大な《眼》がかすんで、今しも消えるところだった。 やっぱりそうだったんだわ。 あれは空中に現われた、ただの幻にすぎなかったんだわ。 ケッセルバッハ教授の屋敷に現われたのと同じ、ただの作り物の映像だったんだわ。 リリーはバハールに目を転じた。 老神官は空中に浮かんだまま、虚空を睨んでいた。 突然その顔がゆがみ、バハールは硬直したまま、おこりにかかったように、がくがくと震え始めた。 「何なの! 今度は何が始まったの!」 バハールが笑い始めたので、リリーはまたもやびっくりした。 初めは忍び笑いだったものが、やがて天を衝く呵々大笑に変わり、バハールは宙を睨んだまま、げらげらと笑っていた。 「何よ! 何がおかしいのよ! いつまでも笑っていないで、降りてきなさいよ!」 バハールはそれでも、宙吊りになって笑い続けた。 突然バハールが――もしくはバハールそっくりのそいつが――リリーを見下ろして笑いやんだ。 次の瞬間バハールの口から、蛇がのたくるような、しゅうしゅういう音が聞こえてきた。 「・・・わたしは・・・長いこと・・・さまよってきた・・・さまよってきた・・・さまよってきた・・・さまよってきた・・・靄に覆われた・・・幽冥界の・・・一筋の光も・・・ささない・・・闇の中を・・・闇は果てしもなく・・・深く・・・広く・・・どこまで行っても・・・きりがない・・・きりがない・・・きりがない・・・きりがない・・・わたしは誰で・・・どこから来たのか・・・わたしはここで・・・何をしているのか・・・わからない・・・わからない・・・わからない・・・わからない・・・わたしはさまよう・・・さまよい・・・続ける・・・とことわに・・・とことわに・・・閉ざされた・・・闇の中を・・・闇の中を・・・闇の中を・・・闇のまにまに・・・まにまに・・・ただよい・・・続ける・・・続ける・・・続ける・・・続ける・・・だが・・・とこしえに・・・とこしえに・・・続くと・・・思われた・・・闇のどこかから・・・どこかから・・・どこかから・・・果てしもわからぬ・・・闇の・・・奥から・・・奥から・・・奥から・・・一筋の光明が・・・光明が・・・光明が・・・さしてきた・・・さしてきた・・・さしてきた・・・それは薄い・・・薄い・・・一筋の・・・光・・・おまえだ・・・光はおまえだ・・・リリトス・・・白き・・・子供よ・・・おまえがわたしを・・・わたしを・・・闇の底から・・・底から・・・導く・・・救い出す・・・白き乙女・・・リリトス・・・・」 「誰よ? あなたは誰なの!?」 「・・・わたしは・・・わたしの名は『屍』・・・かつて『影』と・・・呼ばれしもの ・・今は名もなき・・・亡者にして・・・その呼吸する・・・大気は・・・『死』・・・・」 「違うわ! あなたの名前よ! 生きていた時には、名前があったはずよ! あなたは誰なの???」 バハールはいっとき沈黙した。 やがて話し出した時、耳ざわりな声は聞き取りにくい、ざらついた、しわがれ声に変化していた。 「・・・わたしも・・・かつては・・・生者で・・・あった・・・この世に・・・人として・・・生を・・・受けし・・・神殿詰め・・・永久・・・僧侶・・・カバール・・・アルディ・・・ガバールとして・・・世に・・・知られ・・・尊敬を・・・受けて・・・いた・・・・」 「カバールですって?」 どこかで聞いたわ、その名前! どこで聞いたのかしら? 「・・・だが・・・わが・・・永遠の・・・闇と虚無の・・・日々も・・・今日で・・・今日で・・・終わりを・・・告げる・・・今日を・・・今日を・・・限りで・・・そして・・・わが王国と・・・わが世界とに・・・新しき・・・支配の日々が・・・始まる・・・始まる・・・始まる・・・汝と・・・ともに・・・・」 「どうして? どうして、わたしと?」 「・・・リリトス・・・わが・・・かいなを・・・とり・・・わが王冠を・・・こうべに・・・受けよ・・・そわこそ・・・汝が・・・わが・・・しもべ・・・しもべ・・・にして・・・わが・・・おおいなる・・・支配者たる・・・あかしの・・・みしるし・・・なり・・・・」 「いやよ! いやよ! いやよ! いやよ!」 「・・・リリトス・・・アルスラギストス・・・リアメル・・・カレアラ・・・汝が・・・こうべに・・・白き・・・光を・・・真白き・・・天の・・・光よ・・・やどり・・・たまえ・・・・」 バハールが――あるいはバハールの姿を借りた声が――そう言った時だった、天井から純白の光が差し込め、あたりを真昼のように照らし出した。リリーは目をすがめたが、その光がまぶしくないことに気がついた。リリーは何の光か、たちどころに見当がついた。物理的な光ではない、未知の次元から放射される、精神的な干渉波だ。 「・・・石よ・・・石よ・・・聖なる・・・アトランティスの・・・生ける・・・力の・・・石よ・・・目覚めよ・・・目覚めよ・・・目覚めよ・・・目覚めよ・・・・」 「待ってよ! 待ってよ、バハール! 待ってよ!」 「・・・リリトス・・・わが・・・導きと・・・王冠を・・・受けよ・・・さもなくば・・・・」 「さもなくば――どうするの?」 「・・・この・・・世界を・・・終わらせ・・・ることは・・・わが・・・本意では・・・ない・・・したが・・・わが・・・申し出を・・・受けぬ・・・その時は・・・・」 突然、部屋中が警告灯で照らされ、サイレンがふたたび鳴り始めた。 「核みさいるノ発射ぼたんガ押サレマシタ。核みさいるノ発射ぼたんガ押サレマシタ。核みさいるノ発射ぼたんガ押サレマシタ。コレヨリ最終秒読ミニ入リマス。ナオ、核みさいるノ発射ぼたんハ解除サレマセン。核みさいるノ発射ぼたんハ解除サレマセン」機械的に合成されたコンピューターの声が言った。「コレヨリ核みさいるガ発射サレマス。コレヨリ核みさいるガ発射サレマス。警告シマス。警告シマス。コレハ演習デハアリマセン。繰リ返シマス。コレハ演習デハアリマセン。総員ハ直チニ、安全ナ場所ニ避難シテクダサイ。繰リ返シマス。総員ハ直チニ、安全ナ場所ニ避難シテクダサイ。繰リ返シマス。総員ハ直チニ、安全ナ場所ニ避難シテクダサイ。核みさいるノ発射マデ、アト六十秒」 基地全域に、激しい地鳴りと震動が起こり、リリーの座っている椅子が、小刻みに揺れ始めた。リリーは吐き気とめまいとを感じて、いても立ってもいられなくなった。 「総員ハ直チニ、安全ナ場所ニ避難シテクダサイ。総員ハ直チニ、安全ナ場所ニ避難シテクダサイ。警告シマス。警告シマス。核みさいるノ発射マデ、アト五十秒」 「待ってよ! 待ってよ! 核ミサイルをどうするつもりなの?」 「総員ハ緊急退避! 総員ハ緊急退避! 核みさいるノ発射マデ、アト四十秒」 「・・・この武器が・・・発射・・・されますと・・・全世界に・・・散らばった・・・これらの・・・同類が・・・報復のため・・・この世界に・・・雨霰と・・・降りそそぎ・・・・」 「総員ハ最寄リノ遮蔽物ニ隠レヨ! 総員ハ最寄リノ遮蔽物ニ隠レヨ! 核ミサイルノ発射マデ、アト三十秒」 「・・・この・・・世界は・・・ふたたび・・・滅び去るのです・・・かつて・・・われらが・・・アトランティスが・・・滅び去った・・・ように・・・・」 「総員ハ最寄リノ遮蔽物ニ隠レヨ! 総員ハ最寄リノ遮蔽物ニ隠レヨ! 発射マデ、アト二十秒」 「ちょっと待って! ちょっと待ってよ! そんなことをしたら、この世界はなくなっちゃうのよ! それでもいいの?」 「アト十秒・・・九・・・八・・・七・・・・」 「――世界を支配するどころじゃなくなっちゃうのよ! それでもいいの?」 「・・・六・・・五・・・四・・・・」 「・・・やむを・・・えません・・・・」 「・・・三・・・二・・・一・・・」 「――待って! わかったわ! 降参する! 降参よ!」 地鳴りと震動がおさまり、あたりは静かになった。警告灯の明かりも消え、ホールは真の暗闇に包まれる。 「どうしたの? 何が起きたの? ミサイルが発射してしまったの? バハール? ロジャー? 兵隊さんたち? みんな、どこへ消えてしまったの?」 えも言われぬ香りが漂ってきた。リリーは思わず鼻を鳴らすと、周囲を見まわした。 暗がりに、ぼーっと明りがまたたいているところがある。 青い鬼火のような、とらえどころのない光があった。電気の照明というよりも、天然のほの暗いランプの灯のようだ。 リリーはその明かりに注意を引きつけられた。 光が反応したように明度を増し、景色が拡大された。 光の中に浮かび上がったのは、どこかの地下にあるらしい、古めかしい実験室のような小部屋だった。灰色の石の壁がむきだしになり、見たこともない実験用の器具が、そこら中に散らばっている。巻物が、床といわずテーブルといわず、広げられていた。 光の中に人影がいた。 女かと見まがうほどの、すその長い、黒い喪服のような、だぶだぶの衣を着て、フードで顔を隠している。 テーブルに置かれたろうそくの明かりに照り映え、男が手にしている水晶石のかけらが、まばゆい輝きを放っている。 「ツーオイ石ね」リリーがつぶやいた。 男は、ためつすがめつ小石をながめていたが、観察することに飽きたのか、石をテーブルに戻すと、手近の文献の一つ――丸めて置かれた、いい按配に変色した巻物を広げた。 ろうそくが光を放ち、男を正面から照らし出した。 リリーの初めて見る、思い詰めた表情をした、暗い顔の僧侶だった。頬がこけ、目のまわりを隈が縁どっている。病的なまでに黒ずんだ皮膚だったが、狂人めいた光が、その目には宿っていた。 巻物を見つめながら、僧侶が口の中で何ごとかをつぶやいた。巻物の表面の文字を、節をつけて、一心に唱えているらしい。男が身動きするたびに、ろうそくの炎が壁に影を投げかけ、道化じみた、奇怪なシルエットを浮かび上がらせている。巻物の横には、古代の物にしてはやけに現代風な、技術時代の産物に見える、ひとかたまりの銀板が置かれていた。それは初めて見るくせに、妙な懐かしさをリリーに感じさせた。 僧はあいかわらず巻物を読んでいた。 男の目が文章の一点にきて止まった。 ふるえる指先が文字の列をなぞる。 男は化石したように巻物を見つめ、良心にやましいところのある者のように、素早い一瞥をあたりに走らせた。 その時リリーは、男の向かって左側の眼窩が、何もない真っ暗闇の中空なのに気がついた。 男は明りの外側で見ているリリーには気づかないのか、さまよわせた視線を巻物に戻すと、もう一度残った方の目で、巻物に目を凝らし始めた。 やおら男の目が見開かれ、信じられないものを見たように、一瞬固まった。 男はあてどもなく視線を宙に向けた。 それから男は、ピンセットに似た銀色の道具をテーブルから取り上げると、水晶石のかけらをつまみ上げ、ろうそくの炎にこわごわと近づけた。 石があぶられるや、ろうそくの炎の中で、何かが激しく発光した。 片目の男はあっと言って (あいにく声は聞こえてこなかったが)、水晶石のかけらをテーブルに落とした。石は炎を反射させて、ころころと転がった。 男はピンセットを近づけて、再度、石をはさもうとした。石は抗議するように、まぶしく断続的に光を放った。 「まるでいやがっているみたい。石がいやいやをしているわ」 「・・・左様・・・あの・・・石は・・・熱を・・・嫌って・・・いる・・・何しろ・・・あの石は・・・生きて・・・いる・・・のだ・・・から・・・・」 「あの石、生きてるの?」 「・・・そうだ・・・あの石は・・・生きて・・・いる・・・生きて・・・自分の・・・意志で・・・宇宙を・・・渡り・・・それ自身の・・・意志に・・・従って・・・行動・・・している・・・あれらが・・・どこから・・・やって・・・きたの・・・か・・・われは・・・知らぬ・・・だが・・・誰が・・・地球に・・・もたらした・・・石かは・・・知って・・・いる・・・・」 「あたしもよ。アーティーたちの祖先でしょ、宇宙から墜落してきたとかいう?」 「・・・そうだ・・・あの石は・・・不死身・・・の力と・・・不滅の・・・知識・・・それ自身の・・・不可知の・・・目的とを・・・身に・・・宿して・・・いる・・・・」 「ふかちのもくてきって?」 「・・・あれは・・・事故・・・では・・・なかった・・・かも・・・知れん・・・かれらの・・・天駆ける・・・船が・・・われらの・・・世界へ・・・落ちて・・・来たのは・・・あれは・・・あれらの・・・石たちが・・・はかった・・・ことかも・・・しれぬ・・・事故に・・・見せ・・・かけて・・・地球に・・・来た・・・のは・・・・」 「あの石が事故に見せかけて、アーティーたちの祖先を、地球に墜落させたというのね? なぜ?」 「・・・わか・・・ら・・・ぬ・・・・」 「そんな馬鹿な! あの石にそんな力があるとしたら、アーティーたちの祖先は、宇宙へ帰れなくなったりはしないはずよ。石の力で来たのなら、石の力を使って、帰ればいいだけだもん」 「・・・それが・・・だまされて・・・いたのだと・・・したら・・・石が・・・かれらを・・・だまして・・・いたと・・・したら・・・・」 「石が、かれらを、だます?」 「・・・そうだ・・・あの石が・・・かれらを・・・使って・・・かれらの・・・船で・・・この星へ・・・たどり・・・着こうと・・・していた・・・のだと・・・したら・・・・」 「まあ! どうして? なぜ石が、そんなことを?」 「・・・わからぬ・・・わたしも・・・それを・・・知りた・・・かった・・・なぜ・・・石たちが・・・われらを・・・動かし・・・われらを・・・変え・・・われら・・・を・・・栄えさせ・・・また・・・滅ぼし・・・去った・・・のか・・・われらに・・・なんの・・・恨みが・・・あったの・・・か・・・なかった・・・のか・・・われらには・・・皆目・・・見当も・・・つかぬ・・・・」 「あなたの考え過ぎじゃないの? あなたが誰なのか、知らないけどさ」 「・・・われらは・・・石の・・・奴隷にして・・・石に・・・つかえ・・・る・・・しも・・・べ・・・はし・・・ため・・・なり・・・・」 「わたしは違うわよ! あんたはともかく――」 「・・・われら・・・は・・・とこしえ・・・に・・・汝・・・ら・・・石を・・・あがめ・・・ほめ・・・たたう・・・べき・・・かな・・・・」 「いやよ! あんたが一人でたたえればいいでしょう!」 「・・・石・・・よ・・・われら・・・の・・・導き・・・主・・・なる・・・聖・・・なる・・・石よ・・・あらわ・・・れ・・・たまえ・・・あら・・・わ・・・れ・・・たまえ・・・あらわれ・・・た・・・まえ・・・あらわれ・・・た・・・まえ・・・・」 正体不明の (カバールの?) 声が言った時だった―― 先ほど差していた光が、どこからかふたたび差し込めてきた。 白い、まぶしさを感じさせない、静謐と余韻に満ちた光。 いかなる星からのものでもない、あの神秘と力とに満ちあふれた、白き輝きが。 そして、リリーも光に包まれる。 実体のない、清楚にして、邪悪な、白き波動に。 光は生きていた。 ささやき、息づき、思考し、暗闇を押しやり、それ自身の言語と意識とを使って、細胞――(どんな細胞だろう、それは?)――を活性化させ、新しい宿主 (ホスト) の出現に、浮かれざわめいていた。 宿主 (ホスト)? そうだ。 リリーはその時、初めて合点がいった。 生きているのは、光の方なのだ。 石に充満した、光の方なのだ。 その光は生き物だった。 それ自体では、活動も繁殖も増殖もしない、死亡も分裂も交接もしない、光。 聖なる、妙なる、清浄なる、無垢なる、神秘なる、邪悪なる、力なる、未知なる輝き。 光。 かつて《宇宙の誕生》(ビッグバン) の時に閃き、爆発と同時に全宇宙に飛び散り、それ自身の情報と存在を、そのもの自身の器として運び、いつ来るかはわからねども、宇宙 (ザ・ユニバース) の最後の瞬間に収斂し、その消滅を、それ自身に告知するであろう、存在のしるしたる《我あり》の光。 物性の光。 霊性の光。 神智にして、存在そのもののあかしたる、神の光だった。 そして今や、光がリリーを見い出し、震えるような歓喜の声を上げて、リリーを取り巻き、リリーを包み、リリーにとり憑こうと、勢いづいていた。
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