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リリーはハリケーンに向かって、上昇を続けていった。 カンザス州はバードの町のアンジー・チャイナの家を走り出して、二時間にもならないのに、すでに旅客機を一機救い、遭難しかけた船を二隻も見つけていた。 四七四便の旅客たちは、無事脱出できたろうか。 上空をちぎれた雲のかたまりが飛ぶ。恐ろしい速さで。逃げ遅れた鳥の群れが狂ったようにはばたきながら、後方に吹き飛ばされていった。リリーは一瞬、引き返して助けようかと考えたが、ためらっているうちに、鳥は見えなくなった。 どちらにせよ、今はそれどころではない。飛ぶ鳥と野に咲く花は、神様にまかせることにしよう。 風が勢いを増し、恐ろしい厚さの灰色の雲が、雲海となってリリーの真上に広がる。 本物の海には、白い波頭が荒れ狂っている。 風にさからって飛ぶのは何でもなかったが、恐怖を感じて目を閉じてしまう。 このまま飛び続けたら、海の上に落ちてしまいそうだ。 リリーはおよそ三十度の仰角をたもって、上昇を開始した。やがて角度を上げ、高度三万五千フィートまで、一気に加速する。四万フィートを越えたあたりで、雲の切れ目に出た。リリーは暴風圏の真上に出ていた。 目の前には凪いだ雲の波が広がっていた。頭上には月が、星が瞬く夜があった。眼下の雲は、海を隠して灰白色に照り映え、雲の切れ間からは濁った暗い海が、泡立つ波を見せていた。それは信じられないほど幻想的な眺めで、リリーは一瞬、我を忘れて見とれていた。 リリーはもう少しだけ上昇して、雲の海と距離をとりつつ、月を横目にハリケーンめがけて、まっしぐらに飛び続けた。雲から生え出たシフォンを思わせる触手が、手まねきするようにゆらゆらと立ちのぼった。行く手に巨大な積乱雲のかたまりが、姿を現わした。 リリーはいつだったか、ルナチク市のお気に入りのアイスクリームショップで、信じられないほど大きなソフトクリームの実演販売を目にしたことがあった。盛り上がったクリームが大人の頭ほどもあったものだが、今ハリケーンを目のあたりにしたリリーは、その時のそびえ立つソフトクリームを思い出していた。 時計回りで回転する灰色の雲の巨大な漏斗 (ろうと) が、天を衝 (つ) くように星月夜にそそり立ち、渦から流れる靄 (もや) をあたりに曳いている。巨大なカリフラワーか、見慣れない巨大花が咲いたようだ。ここが地球の上だとは、にわかに信じられない。 リリーは渦巻きの中心に向かって飛び続けた。ハリケーンの本体を構成する、高さ四万フィートを越す『壁雲』(アイウォール) と呼ばれる積乱雲のかたまりを、一気に飛び越える。直径二百マイルの暴風圏の中心は、今やリリーの眼下に迫ろうとしていた。 リリーが壁雲のふちを飛び越えた瞬間、吹き上げる秒速四十から五十フィートの上昇気流が、リリーをはじき飛ばした。予想していたとはいえ、リリーは気がつくと雲の渦の周囲を、真っ逆さまに落ちていくところだった。 あわてて態勢を立て直して、再度上昇する。 雲の中で方向感覚を見失い、パニックに襲われる寸前、“目”の上空に飛び出した。 きょろきょろと見回すリリーのほぼ真上に、ハリケーン本体の雲の漏斗の縁が、あざ笑うようにそびえ立っていた。リリーは怒りに我を忘れた。 上昇気流と一緒に、“目”の外に吹き飛ばされた雲粒が、ヴェールのような上層雲の巨大な天蓋・・・絹雲を形作っている。 リリーはもう一度、漏斗の縁を成す壁雲に近づくと、“目”の中心に飛び込もうと高度を上げた。だが、海面から高さ四万フィートのてっぺんまで、十数分で吹き上げる上昇気流は、低温のものすごい壁となって、リリーを容赦なくはじいた。 リリーは姿勢を立て直して、“目”の縁に接近して、しばらく見下ろしていたが、作戦を変えて高度を落とした。雲の渦を突き破り、真下に抜けると、壁雲に沿って“目”のまわりを飛んでみる。 ハリケーンの本体は、厚さ数百フィートから数千フィートのパイ生地を積み重ねたような、巨大なレイヤーケーキを思わせる形状を成していた。パイ生地のそれぞれが渦を巻き、時計回りで、中空のシリンダーを中心にゆっくりと回転し、中央部分の雲の渦は、核となってシリンダー状の“目”から、周囲へと流れ出していた。 リリーは“目”に沿って高度を下げると、パイ生地とパイ生地のあいだの、ケーキでいうと、上から二段目と三段目の真ん中あたりに、シリンダーに直結する筋となった切れ目を見つけた。 気流の関係からか、比較的薄くなったその隙間をぬうように接近し、シリンダーの割れ目から、“目”の内側に接近する。 どこまでも続くかと思われたパイ生地の絨緞に、ぽっかりと穴が開いていた。その下に、ハリケーンの“目”が待っていた。 リリーは最初、“目”の中心は、どんなにか恐ろしい光景が広がっているものと思っていた。天辺と真下は、凪いだ無風の状態が口を開け、そそり立つ雲の壁が周囲を恐ろしい勢いで回転している、巨大な気流の大渦巻きだとばかり思っていた。 だが、実際に“目”に入ってみると、そこは中空のシリンダーというよりは、灰色の雲のあいだにぽっかりと開いた、中空の巨大なスイミングプールのようだった。直径数マイルの渦の中心は、呆気にとられるほど静かだった。だが次の瞬間、リリーは突風に激しく体を揺さぶられた。 上昇気流は、海面の湿った空気を言語に絶するスピードで吹き上げ、上空から吹き込む乾いた空気が、真空に近くなった“目”の内部の気温を、氷点下の周辺から、摂氏二十度は上げていた。言い替えると、“目”の内部は暑かった。 “目”の中心には、小さな気流の渦がいくつも回転していた。“目”の中に小型のハリケーンが、いくつも収納されている案配だ。 数えて見ると、ミニ渦は全部で八つ。直径はそれぞれ六千から七千フィートで、“目”の壁面に沿って、逆らうように、反時計回りで回転している。 それはメソ渦と呼ばれる、海から吹き込んだ気流が作る別の渦巻き、いわば“目”の卵たちだった。メソ渦は暗い海面を背景に、小さな銀河が生まれたように、高速で回転を続けている。 まるでハリケーンの赤ちゃんだわと考えながら、リリーはてっぺんを見上げた。雪のゲレンデから立ちのぼる靄のように、上層雲を形作る雲粒が細かく揺らぐ壁雲の、ぽっかり開いた穴の中央に、星空が、煌々と輝く月の夜が広がっていた。 真下を見ると、白い波頭を蹴立てて荒れ騒ぐ海。そして、それぞれの思惑と速度で回転する、メソ渦の群れ。 リリーは月の宮殿で吹き飛ばされた時に見た、単極磁気の巨大な漏斗を、渦巻く螺旋のエネルギーの野放図な固まりを思い出した。 宇宙は渦巻きで出来ているのかもしれないと、あの時リリーは思ったものだった。 月の宮殿に連想がいったせいで、リリーの脳裡にバハールの声がよみがえった。 このハリケーンがバハールの作り上げたものかどうかはわからなかったが、自然に生まれたものでないことは確かだった。 北半球では低気圧の生み出す渦は、かならず反時計回りを作る。だが、このハリケーンは右巻きに、時計回りに渦を巻いていた。 メソ渦だけが地球の自転の影響に従って、逆方向に回転している。 何者が作ったにせよ、自然を制御するとてつもないパワーが働いていることは明白だった。 リリーは“目”の壁に沿って飛びながら、自分も渦とは逆方向に回転してみようと思った。空気の流れを逆向きに回せば、渦と渦とが相殺しあって、ハリケーンは消滅するかもしれない。 そこまではできないにせよ、渦のエネルギーを幾分か弱めることは可能だろう。 さいわい、メソ渦の幾つかを利用して、“目”の中央に集めさえすれば、苦もなくハリケーンと逆向きの流れはこしらえられそうだ。 あとは運を天にまかせて、やってみるほかはない。 何としてでも、このハリケーンを食い止めてみせるわ。 どこで見ているのかは知らないけど、老いぼれアーティー、見ていなさい!
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