42 (承前)
シャワーを浴び終わると、外のかごには大人用のバスローブが用意されていた。どこからともなく近づいて来たアンジーが、うむをいわさずリリーを抱きかかえ、バスタオルで拭いて、ローブを着せた。持っていたヘアドライヤーで、リリーの髪の毛をブローする。 髪の毛が乾くと、アンジーは寝室の鏡台の前に、リリーを連れて来た。リリーの意思におかまいなく、ゆっくりと時間をかけて、顔に化粧水を塗り、乳液とクリームを合わせて、ファウンデーションで下地を完成させ、マスカラと口紅とアイシャドーを塗りたくり、頬紅をのばして、パウダーで薄くはたいた。それから、無理やりリリーを床にすわらせると、足の爪の一枚一枚にペディキュアを塗り始めた。 小一時間ほどもかけて、リリーの仕立て直しが完了すると、最後にフランス製の香水 (パヒューム) をふりかけて、アンジーは離れた場所から、注意深くリリーを観察した。それからアンジーは一抱えもあるバニティーケースと、秘蔵のアクセサリーの入った、ジュエリーボックスを奥の棚から取って来ると、またあれこれとリリーを飾り始めた。 「できたわ。どう、可愛い子ちゃん? あなたもまんざらじゃないでしょう?」 アンジーはいたずらっぽく笑いかけたが、リリーは返事を返せなかった。 鏡の中のリリーは、確かに別人だった。大人っぽく、はにかんだようにチャーミングで、その上まったくの器量よしだった。異国の花か、果物屋の熟していない店先のフルーツのように、危険な魅力と磁力を発散している。 「映画!」アンジーが叫んで、リビングに駆け込んだ。 「あなたもこっちへ来ない? つまんない映画が始まっているわよ!」 「はい! いま行きます!」 リリーは三面鏡からこっちを見つめている、エキゾチックな少女に手を振りながら、この場を動きたくない衝動を感じていた。 鏡の中のリリーは、魅惑にあふれた、美しいまなざしをしていた。 ・・・あなた様は無きアトランティス王国のお世継ぎにして、王国の領土と全植民地とを統べる統治支配者、《無明光輝名君》(むみょうこうきめいくん) のご尊称を奉られるべき、唯一にして無二の、御 (おん) 継承者になられるのでございます・・・ ・・・世界を滅びから救うために、あらたなる支配を。それはかつて滅びを経験したわれらアトランティス人の、高貴なる使命にして、重大なる宿命とも言えるのですぞ・・・ バハールの声が聞こえてきて、リリーは肩をすくめた。 あれはもう、全部終わったことよ。バハールは死んじゃったし、王冠も宮殿も、石の洞窟やいやな名前の機械も、月の一部と一緒に、吹っとんじゃったわ。わたし、今日から平凡な女の子に戻ろうっと。空も飛ばないし、学校にも通うし、警部さんの養女にもなろうかな。なんだったら、歯列矯正器をつけて、針金の先にほうれん草をぶらさげてもいいわ。可哀そうな人類を救う、不正規の課外活動は、これで終わりにしよう。ロジャーも言ってたけど、まずはわが身が大切だわ。わたしだけが危険な目にあってまで、他人を助ける必要なんか、これっぽっちもないはずだもの。第一、わたしが危なくなったら、他人を助けることだってできやしないし、自分を最優先に考えるのは、自分ばかりか、他人のためでもあるんだわ。 突然、鏡の中央におぼろな影が差し込み、見るからに悲しげな、国王と王妃の半透明の幻が現われた。幻は一つに溶け合い、黒衣の僧侶の手招きする姿に変わる。 リリーは息を呑み、次の瞬間、寝室を駆け出していた。 目の前の女が肩越しにふり返った。「遅かったじゃない?」 女には顔がなかった。リリーは悲鳴を上げた。 アンジーは使い古しの洗顔パックをはずし、リリーに笑いかけた。 「冗談よ。びっくりした?」 リリーは答えるかわりに、アンジーをこづいた。少し力が入りすぎたらしく、アンジーは白目をむいて、その場にうずくまった。 テレビで見る映画は思ったほど愉快でもなく、沈欝に過ぎていった。それでもカウチに腰掛けたリリーが没頭していると、玄関のブザーが鳴った。アンジーが入り口に立って行き、しばらく誰かと話し合う声が聞こえ、タンクトップに頭にスカーフを巻いただけのラフな格好で、ひらひらする紙切れを手に、もう片方の手を背中に回して、戻って来ると、 「はい、これ。一ドル札。バーバラが届けてくれたの。彼女って親切よね」 リリーが眉を上げると、手にした紙幣を、アンジーはリリーの前に突き出した。 リリーが記念館を訪れた際、メモがわりに書類の請求番号を書き取っておいた、あのドル紙幣だった。 リリーはしばらく横目で眺めたあと、無言で受け取って、バスローブの襟にねじ込んだ。金と時間はいくらあっても多すぎることはない。リリーの横顔は、アンジーにそう宣言していた。 アンジーはなおもにやにやしながら、後ろ手に回していたプラスチック製のボール鉢を、見せびらかした。 「バーバラのお手製のクッキー。もったいないから、一人で食べちゃおうかな」 リリーは叫び声を上げて、アンジーに飛びつき、ボール鉢をひったくって、カウチに戻った。アンジーも負けじとリリーに飛びかかり、小犬のようにもつれあう。 何事ならんと、隣の寝室から駆けこんで来た、二匹の本物の小犬も加わって、しばらく四つ巴の乱闘が繰り広げられた。 映画が終わると、アンジーが立ち上がった。 「さあ、もう良い子のお姫さまは、おとなしくベッドへ行く時間よ。歯を磨いて、お休みのお祈りをなさい。『まだ早いと思う』? そんなこと、ない、ない。大きくなったら、あたしみたいな身持ちの悪い娘になりたいの? こう見えても家出から喫煙まで、あなたの年には一通り経験したものよ」 リリーは目の前でそっくり返っている、若い娘をまぶしそうに見上げた。 「どうして、あなたがあたしたちの記念館に現われたか、そろそろ訊いてもいい頃?」 「それって、わたしがなぜ、ここへ来たのか知りたいってこと?」 アンジーがため息をついた。「駄目よね。あたしって、小さい子供を相手にする才能が、生まれつきないのよね。バーバラの真似はとても無理みたい」 アンジーはポケットからメンソール煙草を取り出して、火をつけようとして、あわててやめた。リリーが咎めないのをいいことに、もう一度取り上げて、卓上ライターで火をつける。 「ごめんね。ちょっとばかし吸わせてね。わたしって緊張すると、これがないと駄目になるの」 リリーがうなずくと、アンジーはカウチの端っこに腰掛けて吸い始めた。リリーは体を二つに折って咳込んだ。 「ひどい副流煙。ひどい環境破壊。肺炎にかかるのは確実と思われるけど、ここはあなたの家で、あなたの椅子の上。死んだって、どうすることもできないわ。せめて、きれいな体で死ねるのが慰めね。わたしには、どうぞおかまいなく」 「あなたって、邪悪な子供ね。ひどい子供だわ。だけど、気に入った」 アンジーは紫の煙を深々と吸い込むと、すぐに床に押しつけて火を消した。 「今、バーバラが・・・そのドル札を届けに来た人だけど・・・あなたに、それとなく確かめてみなさいと言ったの。あなたの素性や、どうしてここへ来たのか、もし訊き出せれば、あなたが政府関係者に追われて、逃げ回っているそのわけもね。あなたさえよければ、力になりたいからって」 リリーが目を丸くしたので、アンジーはつけ加えた。「もちろん、押しつけではないわ。あなたの自由意思を尊重する」 それでもリリーが目を見張っているので、アンジーは種明かしをした。「あなたがわたしたちの記念館に現われた日に、黒服の男たちがやって来たのよ。あなたを探しにね」 アンジーは先日起きた一部始終を話した。 「それで、さっきシャワーを浴びている隙に、バーバラに電話して、あなたのことを相談してみたの。ごめんなさい、勝手なことをして。連中に通報したものか、迷ってしまってね。だって、あなたが本当に誘拐されて、保護を必要としていたら、大変でしょ? バーバラが言うのには、今夜一晩はあなたを泊めて、様子を見なさいって。それで、できたら事情を聞いて、明日の朝一番で、記念館まで連れて来ればいいって。その時に、どうするべきか判断しましょうって。もっとも、バーバラもよっぽど気になっていたのね、わざわざここまで訪ねて来るなんて。中に入って、あなたに会えばって言ったんだけど、今日は預かっていたお金を渡してくれればいいって。それだけで帰ってしまったのは、いかにもあの人らしいけど。 それで、どうなの? やっぱり、あの連中が話していた通り、あなた、誰かに誘拐されて、ここまで連れて来られたの? 話したくなければ、言わなくてもいいのよ。あなたの気のすむようにして。込み入った事情があるんだろうっていうのが、バーバラとわたしの一致した意見なの。だから・・・」 アンジーの声は、沸き起こったリリーの笑いに中断された。 ひとしきり笑いやむと、リリーは涙を目に浮かべて、アンジー・チャイナを見上げた。 「ごめんなさい、あなたを笑ったんじゃないのよ。わたしったらなんて罪深い、厄介な子供なのかしらと思っただけ」 「まあ、罪深いだなんて!」 「本当よ。自分でも笑っちゃうくらいよ。あなたも本当のことを知ったら、わたしのことを嫌いになっちゃうかも」リリーは涙をぬぐった。「あのねえ。わたし、アトランティスについての記録を探しに来たんです。レスター・ヘイシーさんが手紙の中で書いていたけど、あの人、夢でアトランティスについての幻を見せられたんですってね。それで全てを知りたくて、あそこを訪ねたの。あそこへ行けば、あちらの世界のことが何もかもわかるだろうって、あの人の手紙にあったからよ」 「まあ、アトランティス! まあ、ヘイシー! まあ! まあ! まあ! まあ!」 アンジーは目を丸くしてリリーを見つめていたが、急に不機嫌になると、物も言わずにキッチンに行き、コップに二杯の水を汲んで戻って来た。 リリーの見ている前で二杯ともあおると、カウチに座り、ため息をつく。 「あなた、わたしがどんな気持ちでいるか、わかる? わかったら、あててごらん」 「さあ、心の中まではわからないです。見た目は、しなびたホワイト・アスパラガスみたいですけど」 「アトランティスに、ヘイシー! わたしの日常は安っぽいオカルトに、骨の髄までたたられているんだわ! 全世界の神秘主義者は、今すぐにくたばれ! ごめんなさい、あなたのことではないのよ」 アンジーは、気まずそうにリリーを見やった。 「あなた、“母の日”に花屋の前を通りかかるたびに、カーネーションを見て、《輪廻転生》(リーインカーネーション) を連想してしまう人間の気持ちがわかる? まさか、あなたもアトランティス人の生まれ変わりだ、なんて言い出すんじゃないんでしょうね?」 「いいえ、マダム、わたしは生まれ変わりなんかじゃないんです。それどころか、正真正銘、アトランティスの生まれの・・・」 その時、玄関のブザーが鳴った。アンジーは立ち上がって出て行き、しばらくして戻って来ると、 「変ねえ。誰もいないわ。ブザーだけ鳴るなんて、あると思う? 風が鳴らすはずはないし。それで、なんですって? どこまで話した?」 「いいえ、もう、いいんです! わたし、アトランティスのことは、もう、興味も関心もなくなりました。わたし、今言ったカーネーションの気持ち、とてもよくわかります。姫とか何とか、そんなことはたくさん! もうたくさんよ! アトランティスもヘイシーさんも、消えてなくなれだわ! わたし、ここにはもう金輪際、二度と来ません。あいつらとも、永久に縁切りです!」 リリーは立ち上がり、拳をふり上げてみせると、 「神様に誓います! 神様、お聞き下さい! わたしは、この大いなる試練に、決して負けません! きっと生き抜いてみせます! そのためには嘘をつき、盗み、騙し、人をも殺すでしょう! 神様に誓います! 二度と飢えに泣きません!」 リリーが、『風と共に去りぬ』のヴィヴィアン・リーの真似をした直後、本当に室内に突風が起こり、サッシの窓枠を吹き飛ばして、アンジーの頭からスカーフをはぎ取り、髪の毛をなぶると、家具を震わせ、小物を舞い上がらせて、部屋を一巡し、カーテンをあおって、来たところから出て行った。リリーとアンジーは立ったまま、きょとんとした顔でお互いを見つめていた。 「あなたって、本当に気味の悪い子供ね」 最後にアンジー・チャイナがつぶやいた。 「わたしもそう思います。気味が悪いことは認めます。本当に始末が悪いですよね」 つけ放しのテレビの画面が切り替わり、臨時ニュースを伝える、真面目くさった顔つきの白人男性アナウンサーが映った。カメラに向かって、突如発生した巨大ハリケーンの顛末を、淡々と伝え始める。リリーはまたもや、アンジェラ・マクベインと顔を見合わせた。 アンジーは部屋の中を片づけ出し、リリーはニュースに耳を傾けた。ほっそりしたポテト似のアナウンサーは、早口でしゃべり続けた。 「突然のハリケーンだって。さっきの風といい、玄関のブザーといい、今夜は気味が悪いわね。この分じゃ、海岸線では津波が起きるかも。怖い、怖い」 アンジーはカウチに座り直すと、ボール鉢に残ったクッキーのかけらをむさぼり始めた。リリーも立ち去りにくくなり、アンジーの隣に腰掛けて、ニュースに見入った。テレビには勢いを増すハリケーンの勢力図や、本物の暴風の中継映像、衛星写真による高空からのコマ送りの進路予想図が、次々と映し出された。 「すごい大きさよね。このままじゃ、アメリカ中が飲み込まれちゃいそう。ここら辺りも、明日には危ないかもよ。あんた、今夜は泊まって行きなさいよ。その方が賢明よ」 リリーはうなずいて、クッキーに手を伸ばしかけた。 月の宮殿で話していたバハールの声が、リリーの脳裡に、はっきりとよみがえった。 ・・・われらがアトランティスは、かつては海と陸とを支配し、そのわざで雲を呼び、空を動かしては、雨を降らし、風や竜巻や嵐でさえも意のままに操って、地すべりや洪水、時には地割れですらも、自由自在に引き起こしたものですぞ・・・ 風や竜巻や嵐ですって? 天空地上を思うさま揺さぶるですって? バハールは死んでしまったはずよ。月の宮殿と一緒に吹き飛んだはずよ。 それとも、まさか・・・まさか・・・まさか・・・? アナウンサーが画面に登場して、プロンプター越しに原稿を読み上げた。 「ただ今入ってきたニュースによりますと、ブカレスト発ルナチク市行き定期便アストリア航空四七四便が、ハリケーンに巻き込まれ、目下消息不明。安否が気づかわれております。情報によれば、四七四便は、乗客乗員二百七名。大西洋上空を東海岸に向け飛行中、突如発生した暴風圏に突入、もしくは圏内に捕われた模様。同機との連絡は四十分ほど前から跡絶え、現在アメリカ連邦航空局と該当地域の航空路交通進入管制センターは、同機の無事を確かめるべく、できうる限りの対策をとっており・・・」 「わたし、ちょっと出て来ます。お世話さまでした!」 リリーが叫んでカウチから立ち上がり、部屋から駆け出して行った。アンジーがびっくりして止めようとした時には、リリーはバスローブを脱ぎ捨てて、ドアの外へ走り出したあとだった。 夜の中西部の暗闇を、風が吹き荒れている。 洪水の轟きか、滅びの予言を成就する先触れに遣わされた、使者の着る、経帷子の衣ずれのような、まがまがしい、悲しい、奇怪な音をさせて・・・。
|
|