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中西部のさえぎるもののない太陽が、通りの奥まった場所にある、レスター・ヘイシー記念館の白い瀟酒な建物を、燃える柴のかたまりに変えている。 アンジー・チャイナこと本名アンジェラ・マクベインにとって、その日はどこといってとるに足りない、退屈極まる平凡な一日だった。 朝一番でオフィスに入り、午前中はヘイシーの予言 (リーディング) のコピーとマイクロフィルムの分類に余念がなく、午後は一人でダイレクトメールの発送の手続きを監督し、国内や世界各地から届いた問い合わせの手紙に返事をする、案内状と小冊子の入った封筒を仕立てて、所書きと宛名シールの住所に食い違いはないかをチェックした。おかげで一日が終わる頃には、疲労困憊の極に達していた。アンジーは代り映えのしない一日を征服し、みんなより遅くオフィスと建物をあとにした。 アンジーがげっそりしながら、裏の職員専用ドアに鍵をかけた時、背後で咳払いの音が聞こえた。ふり返ると、暗がりに隠れるように、白いみすぼらしいワンピースを着た、どことなく品のある、可愛らしい顔立ちの女の子が立っていた。目や頬に輝きのあるその子の顔に見覚えがある気がして、アンジーははっとした。 「ハロー」アンジーが微笑むと、女の子はぎこちない笑みを浮かべて、ドアのそばに歩み出て来た。 「ハロー。ここはもうおしまいですか?」 「見ればわかるでしょ。ドアに鍵をかけたところよ」 アンジーは女の子に体ごと向き直ると、証拠を見せるように、鍵束をじゃらじゃら鳴らした。女の子はため息をついた。 「そうですか。もっと早く来たかったんだけど、バチスカーフに餌をやらなきゃだったし、他にもいろんな用事があって。あの、今から中に入って、用事を聞いては・・・もらえません・・・よね?」 アンジーはガムをくちゃくちゃ噛みながら、にっこりした。「そうしてあげたいんだけど、無理なの。ここ規則がやかましくて。明日にしてくれない?」 女の子ががっくりと肩を落とし、落ち込んだ素振りを見せたので、アンジーは気の毒になった。 「お嬢ちゃん、あなたみたいな女の子が、こんなところに何のご用? ここ、おもちゃやゲームを売っているような、楽しいところじゃないんだけどな」 「知ってます。ここ、“カンザスの眠たい予言者”レスター・ヘイシーさんの記録を保管している場所でしょう? 前にも一度来たから」 「ああっ!」 アンジーの叫びに、女の子・・・リリーがびっくりして見上げると、アンジーは見開いた目をさらに丸くして、女の子を見つめた。 「どうかしたんですか?」 「ううん、何でもないの。ただ・・・」 アンジーは通りに聞こえるくらいの悲鳴を上げそうになるのを、かろうじてこらえると、目を周囲に泳がせた。 「ここ閉まるの、早かったんですね。表のドアは閉じているし、ホールは明りが消えていて、中には誰もいないみたいだし。わたし、びっくりしちゃった」 女の子は、足で地面のタイルをほじくり返そうと試みたが、「あの・・・本当に・・・本当に・・・駄目・・・ですか?」 「あたし、もう帰るところなのよ。よかったら、そこの通りまで、一緒に行く?」 「ええ・・・でも・・・本当に・・・どうしても――駄目・・・ですか?」 アンジーは胸の動悸を鎮めようと、懸命に笑顔を作った。「ごめんなさいね。そんなに急がないといけないこと? 明日では駄目なの?」 「無理なんです。できたら早い方がいいんです。今日中にルナチク市に帰りたいから」 「ええっ? あなた、そんな遠くから来ているの?」 アンジーの目が通りの向かいにある倉庫に向けられた。あの連中はどこかその辺から、こっちを見張っているのだろうか。 「いえ、そういうわけじゃないんです。ただ、どうしても、ここで一泊はできないし」 「あなた、お家の人に黙って来ているのね。どこかこの近所に、住んでいるんではないのね?」 「いいえ、近所に親戚がいるんです。叔母がいて、わたしはそこにホームステイをしているんです。違った、下宿です」 アンジーは疑わしそうに女の子を見つめながら、あの時、黒づくめの男たちに渡された名刺は、まだポケットに入れたままだろうかといぶかった。 あの日、受け付けに現われた、政府職員を名乗る男たちは、アンジーたち一人一人を尋問したあと、最後にさっきの女の子がまた現われたら、隠し立てせずに知らせてほしいと言って、電話番号が印刷されたカードを、全員に渡して帰った。男たちの話では、子供はさる大富豪の孫娘で、離婚した母親に引き取られていたのを、別れた亭主がギャングを使って誘拐し、連れ去ってしまったのだという。 自分たちは大富豪の依頼で、極秘裡に少女の行方を追っているのです、と二人の男たちはアンジーたちに説明し、小声でつけ加えた。その人物はアメリカ政府と微妙な関係の立場にあるため、誘拐の事実を公表できないでいるのです。あなたたちも絶対に口外はしてくれるな。万が一漏らした場合には、事後従犯で誘拐幇助の罪に問われますよ、と。 年長のバーバラは、「まあ、まあ、まあ」と声をあげ、同僚たち (若いモーリーンなど) はすっかり興奮してしまい、男たちが帰ったあとも、その日一日おしゃべりが止まらなかった。男たちの話は、かれらが見せたIDと矛盾はしなかったが、アンジーは得体の知れない恐怖を感じた。 その日、仕事を終えたアンジーが帰り支度をしていると、モーリーンが足音を忍ばせて近づいて来ると、 「ねえ、さっきの話、あなた、本当だと思う?」 「さあ。本当なんじゃないかしら。なんで、モーリーン?」 「いえ。あんまりドラマチックなことが続くので、どうかなと思っただけ。なんだかスパイカメラで視聴者をかつぐ、テレビのペテン番組みたいじゃない? あなたが一番近くであいつらを見たんだから、おかしなことに気づかなかった?」 「さあ、特に気づかなかったけど。なんだったら、バークに訊いてみたら? なんと言ってもかれがあの連中を、ここへ連れて来たんだもの」 「そうね。だったら、いいわ。何も気づかなかったのなら、たぶん本当でしょうよ」 モーリーンは両手をひらひらさせながら、泳ぐように離れて行った。 保安官助手のバークがモーリーンに気があり、しつこく言い寄っていたのを、モーリーンの方では迷惑がって、やめないと告訴すると脅していたのを、アンジーは知っていた。 次の日、受け付けで応対に出ていたアンジーの近くで電話が鳴り、知らない男の声であの子供のことを尋ねられた時はぎょっとした。てっきり政府職員の話に出ていた、誘拐犯人の父親ではないかと思ったのだ。 アンジーがしどろもどろに、 「そんな年齢の女の子は来ていないし、自分は何も知らない」 と言うと、電話の向こうで男が含み笑いをした。自分がへまをしたのがわかったが、どんなへまなのかは見当もつかなかった。 男の声ががらりと調子を変え、自分はルナチク市警察の、何とかいう警部だと名乗ると・・・デリンジャーだったかしら?・・飛び出しかけたアンジーの心臓が、さらに口からはみ出そうになった。今度こそ、身分を偽って何かを探ろうとしている、誘拐実行犯のギャングに違いないと思ったのだ。 アンジーが受話器を握りしめておろおろしていると、すぐ近くで受領証の束に目を通していたバーバラが見かねて、横から受話器をひったくるように受け取り、会話を引き継いだが、しばらく相手と話したあと電話を切り、物問いたげに見つめていたアンジーにウインクして、 「しつこい警官だわねえ」 「何だったんですか? 誰だったんですか?」 「さあ、誰だったのかしらねえ。どちらにせよ、ここを訪れたお客様のプライバシーに関する質問には、答えられないわ」 「あの、このことを、昨日ここへ来た連中に、知らせた方がよくはないでしょうか?」 「ああ、あの黒い人たちのことね。その件はわたしが処理しますよ。それより、あの連中の方こそ、何者だったのでしょうねえ。本当に、自分たちが名乗った通りの連中だったかどうか。あなた、ここの電話は盗聴されているようですよ。しばらくは使わない方が賢明だわね」 あっと息を飲んだアンジーをあとに、バーバラはいつもの気のおけないベテラン女史に戻ると、事務所の奥へ姿を消した。誰に盗聴されているかは、訊くまでもなかった。 それから数週間、アンジーはおっかなびっくり過ごしながら、バーバラに警告された電話機には、一度も近づきもしなかった。そんなだから、女の子のことを忘れかけた時、当の本人がだしぬけに現われたので、アンジーは背中をどやされた気がした。 「あなた、これから行くあてはあるの?」リリーがひるむのを、アンジーは見逃さなかった。「やっぱりね。もしよかったら、あたしのアパートに寄って行かない? ここから近いんだけど。お嬢ちゃんなら歓迎するわ。話も聞いてあげるけどな」 リリーがまじまじと女を値踏みした。女は一見の価値があった。耳たぶに、大きな安物のインディアン・ジュエリーのイヤリングを四つ、ぶら下げ、紫のスカーフに髪の毛を包み、どこかのチャクラで香でも焚いているのか、不思議な香りを漂わせている。 リリーが警戒していると、女はリリーの耳元に口を寄せ、小声で、「あなたを尾行している連中が、向こうの塀の陰に隠れて見張っているかも。逃げ出すなら、今のうちよ」 リリーがはっとする間もなく、女は二個目のチューインガムを口の中に放り込み、駐車スペースに止めてあった小型のステーションワゴンに乗り込んだ。 「来るなら、早く乗って。急いで」 助手席のドアが素早く開いて、また閉じた。リリーの隣で女がイグニッション・キーを回し、アクセルを踏んだ。早すぎる夜間照明に浮かび上がった記念館の建物が、リアウィンドウ越しに遠く離れるのを眺めながら、リリーは、周囲の植え込みや左右の建物に目を走らせた。怪しい人影はなかった。リリーは前方に向き直ると、シートに深く腰掛けて、ため息をついた。 ふと探るような視線に気がついて、横目を使う。 アンジーがハンドルを握りながら、リリーを見つめていた。 二人はどちらも、口をきかなかった。 アンジーとリリーが同時に吹き出した。 「ハーイ、わたし、アンジーよ」 「ハロー、リリーです」リリーはアンジーの手を握り返した。 「よろしく、逃亡者」 「よろしく、インベーダー」 「どういう意味? なんで、わたしがインベーダーなの?」 「だったら、アンジーさん、なんでわたしも? ほら、『インベーダー』って、テレビのあれよ。『逃亡者』と同じプロダクションが製作した、同じような主人公の出てくる」 「ふうん。あたし、そんなの見たことなかった。どんな話なの?」 「ええっと、確かデビッド・ヴィンセントって建築家が、とある夜更けに、空飛ぶ円盤を目撃するんです。それから宇宙人が人間になりすまして、地球に侵入しているって、みんなに警告して回るんだけど、誰一人信じてくれないのよ。宇宙人は小指が曲がらないの。どっちの手だったかな」 アンジーは吹き出したが、興味なさそうに、 「面白そうね。どこで見たの?」 「もち、テレビでよ。テレビは見ないんですか?」 「あんまり見ないわ。テレビはそれほど好きじゃないし」アンジーは言い淀んだ。「わたし、テレビや映画や、お芝居なんて、大嫌いだわ」 リリーは女を見た。外からの照り返しに浮かんで、女の顔はびっくりするくらい、年よりも老けて見えた。 「さっきはどうして、あんなことを? わたしが誰かに尾行されてるかもしれないって」 「あら、違ってたの?」 「訊いているのは、わたしですよ」 「運転しているのは、わたしだけれどね」 「ごまかさないで。あれってまさか、わたしを連れ出すための『罠』だったんじゃ?」 「罠だったら、どうだって言うのよ。第一、乗り込んで来たのは、あなたの方じゃない」 「だったら、やることが軍隊並みですね。おえっ、いやなやつのことを思い出しちゃった。本当に、本当に、おえっだわ」 「ゲロ袋は買い置きがないから、もうしばらくがまんなさい。それか、自分の可愛いスカートの中にでも吐くことね」 「ふん。そんな口しかきいてくれないなら、さっさとここから下りた方がよさそうだわ。乗せてくれて、どうもありがとうございました」 リリーがドアを開けて降りようとしたので、アンジーはあわててブレーキを踏んだ。車体が揺れ、タイヤが軋みを上げる。後ろの車がクラクションを鳴らしながら、ステーションワゴンを追い抜いて行った。アンジーは素早く、ダッシュボードに目を走らせた。走行計は時速四十マイルを越えていたし、アンジーの目は、アスファルトの路面につけた女の子のブーツが、火花を放つのを見た。 気のせいだったのかしら? アンジーは手を伸ばして、リリーのかたわらのドアを閉め、しっかりとロックした。 「これでよし、と。法律によれば、落し物を拾った時には、落とし主を探して屆けるまでは、拾った人間の責任になるそうよ。それに中国では、一度誰かを助けたら、生きているあいだはずっと、責任を持たなきゃいけないんですって。あなた、知ってた?」 「ううん、知らなかった。どっちみち中国 (チャイナ) の話じゃ、わたしには関係なさそうだし」 「あら、でもないのよ。少なくともチャイナに関係のある人間が、一人はいるのよ。わたし、チャイナよ。アンジー・チャイナ。芸名よ」 「あなた、芸人さんだったの?」 「元芸人ね。中国はおろか、チベットやチンブクツーに住む、心霊治療師とも知り合いの、“カンザスの眠れる予言者”レスター・ヘイシーの、今や、おぼえめでたき女事務員てわけ」 アンジーの言い方がおかしかったので、リリーは吹き出した。 女の寂しそうな横顔に気づき、あわてて身じろぎする。 「あなた、実の父親に誘拐された大富豪の孫娘っていうのは、本当なの?」 リリーがぽかんと口を開けると、今度はアンジーが笑う番だった。 「やっぱりね。そうだと思ったわ」 車はリリーを乗せて、バートの町はずれの、こじんまりとした植民地風の石造りのアパートの玄関前に到着した。 「降りて。狭いけど、二人なら平気よね。バーバラに一緒に来て、住まないかと言われてるんだけど、年寄りと二人じゃ息がつまっちゃうし。あら、悪い人じゃないのよ、バーバラって。あなたも会ってると思うけど。あ、そこ気をつけて。自転車」 リリーは出たとたんに蹴つまずいて、舌打ちした。 アンジーはガムを噛みながら、しゃべり続けている。「二階に子供が大勢いるメキシコ人の一家がいるのよ。不法移民じゃないかと思うんだけど、通報したら気の毒だしね。そこんちの子供が、いつも置き放しにするのよ。ちょっと待ってなさいね。ドッグフードを出すから」 アンジーは鍵束を取り出して、ワゴンの後部ドアを開け、一抱えもある巨大な買い物袋を取り上げた。どうやら出勤前に買い込んだらしい。 アパートは二間続きの、快適で小さいながらも、居心地のいい作りだった。アンジーがドアを開けるや、リリーの足元に、小さい毛のかたまりが二つ、じゃれながら飛びついて来た。リリーは悲鳴を上げたが、次の瞬間には、覆いかぶさって撫でていた。アンジーがシンクに紙袋を置きながら、容赦ない一言を浴びせた。 「あなた、よかったら、シャワーを浴びなさい。ひどいにおいがするわよ」 リリーは真っ赤になった。シャワーを浴びるなんて、ここ何か月、いや何年もやっていない。 使い方のわからないシャワーを、おっかなびっくり浴びているあいだに、アンジーはプラスチック製の餌皿にドッグフードを開け、犬どもに食べさせていた。犬たちの食欲を満たす音に混じって、リリーの鼻唄が聞こえてきた。 「お湯かげんはどう? ロブスターみたいに茹であがっていない?」 「はい! とってもいいです! とってもいい気持ちです!」 「それ、なんていう歌?」 「これですか? キュウ・サカモトの、『上を向いて歩こう』(スキヤキ) です!」 「ヤカモトのスキヤキ? まあ、何とも風変わりな題名ね! そこにシャンプーと石鹸があるでしょ? ちゃんと体も洗うのよ! シャワーが終わったら、メイクもしてあげるわ! マニキュアやペディキュアの経験はあるんでしょ?」 「はい! いいえ! ありません! ええっと、わかりません!」 女はけたたましく笑った。「よろしい! それがすんだら、TVディナーで、映画鑑賞でもするとしましょう。今夜は宇宙人の出てくる、つまんない映画をやっているわ。つまんない映画、大好きでしょ?」 「ええ、いいですね! あ、でも、映画はお嫌いなんじゃなかったんですか?」 「時と場合によるわ。わたしみたいなおばあちゃんと一緒じゃ、あなた、退屈でしょ?」 「そんなことはありません! マダムはまだお若いじゃありませんか!」 さらに盛大な、女の笑い声が聞こえてきた。 リリーはお湯のせいで目をつぶったまま、手探りでシャンプーをつかんで、手のひらにひねり出した。 月と宮殿の破片を、巻毛からこそぎ落とそうっと。 「あなた、リリーって言ったわね? ご両親はちゃんといるの?」 「はい! います! ええっと、大丈夫です!」 うう。シャンプーしている時に話しかけないでよ。目に入っちゃうじゃないの。いたたた・・・。 「ご両親は何をしている人? 勤め人? それともフリーランス?」 リリーはとっさに嘘をついた。「あの、パパは警官です! ママは電動車椅子を使っているけど、パートタイムの出版編集者です!」 外の物音が止まった。 「へえ、ずいぶん変わった取り合わせね! きっと素敵なご両親なんでしょうね?」 「ええ! そりゃもう! 素敵なんてもんじゃなくて、とびきり最高に、素敵な二人なんです!」 無事でいてくれれば、それだけで十分よ、パパ・ベリンスキー。あなたにもしものことがあったら、ベリンダが悲しむだけよ。それに、このわたしもね。 「ちょっと待ってなさいね。用事を思い出したの。ちゃんと、あそこも洗わなきゃ駄目よ!」 あきらかに調子の変わったアンジーの声がして、浴室の外から足音が遠ざかった。シャワーにまじってテンキーを押す音と、切れ切れのアンジーのささやき声が聞こえてくる。 「あ、バーバラ? 夜分遅くごめんなさい。もう寝てたの? ちょっと相談したいことがあるの」 リリーは知らない人の話を立ち聞きしてはいけないと思い、聴覚と好奇心を遮断した。
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