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月の宮殿はコルスト・クレーターの真下を掘り抜いた、直径五分の一マイル、深さ半マイルの“シリンダー”に、中央の空洞を部屋が螺旋 (らせん) 状に取り巻く形で作られていた。空洞の底には、ツーオイ石が鎮座した大洞窟の石室があり、大理石の広間やその他さまざまの部屋は、空洞を背骨に見立てると、人間の内臓にあたる部分にそれぞれ配置されていた。 ツーオイ石そのものは、中国人が丹田 (たんでん) と呼ぶ下腹部にあり、シリンダーの天辺に設けられた天体観測所は、地面に突き出した部分を、結晶化した黒いガラス質の巨大なピラミッド構造物が覆っていた。てっぺんの観測所から、一番真下のツーオイ石を格納した石室のさらに下、バハールが《工場》と呼んだ地下施設に至るまでを、例のエレベーターが貫いていた。エレベーターのほかには、シリンダーの周囲の壁を掘った石の螺旋階段が、宮殿の各部屋々々をつないでいる。シリンダー全体は硬化テクタイトでコーティングされ、天然の花崗岩に覆わせる周到さだった。この場所に大深度地下施設を建設した人間は、何者であれ、たいした建築技術の持ち主たちだった。 バハールが言う《王冠と即位の儀式》は、シリンダーを縦に割った真中辺、人間の体でいうと心臓にあたる部分の真下に作られた、《祭壇の間》で行われることになっていた。 部屋そのものは縦横五十フィートほど、さして広くはなかったが、四方の壁には彫刻が施され、天井も床も彩色された、美しい地中海模様風のタイルで覆われていた。部屋の中央には花崗岩を掘り出して作った祭壇が据えられ、奥の壁には巨大な一つ目が――あの“不可視の龍”ティベタット王の意匠が――見事に浮き彫りされ、見る者を威圧していた。部屋の天井はゆるやかに湾曲した卵型で、周囲からかかる膨大な圧力に耐えていた。儀礼用、または装飾用に配置されたほかは、柱にあたる構造物は見当たらず、それは他の部屋々々も同様だった。材料工学や構造計算に関しても、アトランティス人たちは豊富な知識と経験の持ち主たちだったようだ。 バハールに手を引かれて、螺旋状の階段を降りきると、リリーは、儀式用にしつらえられたその小部屋にいざなわれた。室内に入ると、束の間、空間が広がったようだった。リリーはその部屋に見覚えがあった。そこはリリーが《莢》に入って脱出する直前まで、わが家同然に暮らしていた宮殿の、奥まった場所にある、儀式用の《祭壇の間》を模して造られたものだった。 「祭壇の前へ」と、バハールが命じた。リリーは自分が進み出て、冷たいタイルの床にひざまづくのを感じた。 目の前に石の祭壇があった。祭壇にもペルーのナスカ平原にある、巨大なハチドリや蜘蛛やさまざまの生き物の絵姿を思わせる、奇怪な浮き彫り彫刻が施されていた。それらの生き物たちのシルエットの真ん中で、手足をはやした一つ目が、ちょうど今、リリーがその前でひざまづいているのと、そっくりの祭壇の前で、占い棒のような杖をふり上げ、あやしげな儀式を執り行っているさまが描かれていた。 雲間からは、巨大な神の如き眼球がのぞき、稲妻を示すジグザグの線が、一つ目から祭司の杖の上部にまで伸びている。 巨大な目の隣には、石が一個空中に浮かんでいた。不器用な描写ながら、それがツーオイ石の巨大な結晶であることは、一目瞭然だった。 祭壇の彫刻は側面にまで続いていたが、リリーの位置からは見極めきれなかった。見れば見るほど奇怪な紋様だ。リリーはかすかに残った意識をふりしぼり、浮き彫り彫刻の意味を読み取ろうとしたが、そのうちどうでもよくなってきた。 リリーは力なく目を伏せた。 遠くで衣ずれの音がする。足がひどく痺れた。 バハールが近づいて来る。まばゆく輝く、三色の王冠を手にして。 ぴかぴか光るその王冠にも、リリーは見覚えがあった。 アトランティスの三つの階級を示す、黄金としろがねとあかがねに色分けされたデザイン。てっぺんを彩る小粒の宝石は、言わずと知れたツーオイ石の結晶ではないか。 バハールが王冠を祭壇の上に置いた。 じかにではなく、艶を帯びた布の上。 布は火の色をしており、ビロードに似た光沢を放っている。祭壇の両側にはいつの間に置かれたのか、ぴかぴか光る銀の燭台が、並んで火をともしていた。 バハールが呪文を唱え始めた。 宇宙の一つ目の神に呼びかけているらしい。 おかしいの。くすくす。おかしいの。 バハールが謎めいた調子で歌い出した。 リリーはふいにときめいた。 それはゆったりとしたリズムの、哀調を帯びた古いメロディーで、世界に隠された知識の所在を告げる、秘密を所有することの栄光と悲しみを訴える御詠歌だった。 歌は神聖音楽の音色が持つ固有の振動で室内を震わせ、空気そのものが秘めていた古代世界の神秘の奥義の扉を、ゆっくりと開かせた。 それは口伝えに伝えられ、気の遠くなるような長の年月、歌と共に生きながらえてきた民族だけが持つ調べだった。 リリーは身内に感じたことのない戦慄が走り、かつてない興奮の頂きに、心が昇りつめていくのを感じた。 バハールが王冠を手に向き直った。 「ウムール・アクーバ・ルラ・モルケ・モロッケス! 神よ、わが願いを聞きたまえ! 汝 (な) が卑しきしもべの、祈りの言の葉を、確かに、確かに、聞き届けたまえ! わが祈りの言の葉を聞き届け、今こそ、この部屋に降臨したまえ! この星、この土地、この宮居の、この時に、今こそ、つつがなく降臨したまえ! そして、この王冠に、祝福を垂れたまえ! この王冠に祝福と、とことわの守護とをたまわりたまえ! そして、われらがアトランティスの受け継ぎ手に、祝福と守護とをたまわりたまえ! われらがアトランティスの受け継ぎ手に、御恵みと祝福とをたまわりたまえ! ウムール・アクーバ・ルラ・モルケ・モロッケス! 神よ、ここに来れよ! 神よ、われらとともにあれ! 汝 (な) がしもべにして、崇高なる白き花嫁、リリトス・アルスラギストス・リアメル・カレアラを、汝 (な) が手に受け取り、汝がかいなにて、抱 (いだ) きたまえ! ウムール・アクーバ・ルラ・モルケ・モロッケス! 神は偉大なり! 神は偉大なり! ウムール・アクーバ・ルラ・モルカ・モロッケス! 神は永遠なり! 神は永遠なり! 神はとこしえにして、全知なり! 無限無窮の存在なり! 神よ、わが王 (きみ) とともにあれ! 神よ、わが民とともにあれ! 神よ、われらが大いなる受け継ぎ手と、その約定 (やくじょう) の地とに、とこしえの導きと権能とを、下されたまえ!」 その時、奇怪なことが起こった。 壁の隅、一つ目の紋様の、目尻のあたりの陰になった部分に、ぼんやりとした青い影のような物が二つ、寄り添うように揺れながら現われた。 バハールは祭壇の向こう、王冠を手に請願の祈祷を始めていたから、気がつかなかった。 影は海草のホンダワラのように揺らめいていたが、どこからか差し込む光彩の照り返しではなかった。《祭壇の間》にあるのは、コールタールで燃やした松明の火と、燭台の明りだけだったから。影は這うように頼りなく右や左へ移動しながら、しだいに形をとり始め、輪郭をあらわにした。 最初に気がついたのは、リリーだった。リリーはぽかんと見とれ、意識も自由にならなかったから、悲鳴を上げることもしなかった。ただ憑かれたように見つめていた。 リリーの視線に、バハールがふり返る。 揺れる二つの影が、その目に映じた。 バハールは、声にならない叫び声を上げ、王冠を取り落とした。冠は音を立てて、部屋の隅に転がっていく。 おぼろな影は揺れながらバハールに近づくと、痙攣して立ち尽くしているバハールを、じっと見つめていた。影が人の姿を取り始める。 どうやらバハールには、その影が何者なのかわかったらしい。バハールは一声あえいであとじさりすると、一目散にその場から逃げ出した。リリーにかけた術が薄らいだ。二つのぼんやりした影は僧侶を見送ると、リリーの前に漂ってきた。リリーはさすがにおびえて固くなった。麻痺がますます弱くなる。影はリリーの眼前すれすれで止まり、瞳の奥をのぞき込んだ。催眠状態にあっても、ある程度の警戒心は働くらしい。リリーは自分の声が話すのを聞いた。「あんたたち、誰よ?」 青い影は、今では性別がわかるくらいはっきりしていたが、リリーの声が届いたのだろう、水面に映った像が揺れるように、リリーの目の前でゆらゆらと漂い始めた。 顔にあたる部分に、目と口とおぼしい亀裂が生じ、映像のピントが合うように、ほかの部分も造作がはっきりしていく。 二つの影はゆったりとしたガウンを羽織っているらしく、腰には幅広の帯止めをつけ、髪の毛を結い上げている。 「あんたたち、誰なの? あたしに何か用があるの? 言っときますけどね、あたし、あんたたちなんかに、これっぽっちも用なんかないからね」 片方の、やや小柄な影が、ゆっくりとリリーに手を伸ばしてきた。リリーは肩をふるわせ、身じろぎしたが、影はさらに片方の腕を伸ばしてきた。リリーはあとじさった。 影はわずかのあいだに腕を伸ばして――身長以上に伸びていたのは間違いない――リリーの右肩に手を置いた。 影の頭が、左右に揺らいでいる。口らしき部分が、開いたり閉じたりした。 「何か言いたいわけ、あんたは?」 気がつくと大柄な影も寄り添うように、リリーのかたわらに来て立っていた。 小さな方の影が、小声で何ごとかをささやいた。「りりとす。りりとす。りりとす」 「えっ、何なの? あなたたちは、誰なの?」 「りりとす・・・わたし・・・たちは・・・あなた・・・の・・・・」 最初の影がもう片方の手を伸ばすと、かわす間もなく、リリーの体をすっぽりとくるんだ。リリーは逃れようと、じたばたした。 影は幽霊のような顔をリリーに近づけ、その一部をリリーにめりこませた。 リリーは極度の恐怖心から、催眠が解けてしまった。 目の前で、激しい閃光の爆発があった。 ほんの一瞬のことではあったが、心と体が現在を離れ、どこか異なった時空に投げ込まれた。 目の前に炎に包まれた神殿が現われる。火は柱といわず壁といわず、あらゆる物をなめつくし、這いまわっている。 その中を、片方がむつきにくるまれた赤ん坊を抱いた、二人の高貴な人影が走る。 二人は茶色い奴隷装束を身につけていたが、血の気を失ったその顔は、リリーの記憶にある国王と王妃のそれだった。二人は武器を持った兵士が右往左往する中を、神殿の壁に開いた秘密の扉をくぐり抜けて、途方もなく広い部屋に出た。そこは神殿の心臓部らしく、五人が手をつないで囲めるほどの、巨大な柱がそびえたっていた。 突然、周囲の物陰、はたまた柱の向こうや部屋の隅々から、反 (そ) り身の刀を握った紫装束の、紫色の覆面の神殿警護兵たちが現われると、二人を取り囲んだ。 兵士の一人が何か叫んで王妃に近寄ろうとするのを、国王が突き飛ばした。 国王はたちまち兵士たちにとり押さえられ、残った兵士の一人が王妃の手から、赤ん坊を奪い取った。国王の顔が憤怒にゆがんだ。王妃は怯えた表情を見せ、それでも毅然として耐えていた。二人の運命は風前の灯火と思われた。 その時、柱の陰から一部始終を見つめていた、黒衣の僧侶が歩み出た。リリーにも見覚えのある老神官だ。 老神官は兵士の手から赤ん坊を奪い取ると、むつきをはいでためつすがめつ眺めていたが、何かに気づいたらしく、赤ん坊の足首をつかんで、やにわにそばの柱に叩きつけた。 赤ん坊は果物がつぶれるように、割れて中味が飛び散った。どうやら詰め物でこしらえた人形だったらしい。 腰からレイピアを抜きかけた国王を、別の兵士たちがよってたかって押さえつけ、あっと言う間に串刺しにした。悲鳴は聞こえてこない。 逃げ回る王妃の背後から、別の兵士が一太刀浴びせた。転げるように倒れた王妃の体を、そばの兵士たちが取り巻いて、刀を振り上げ、とれたての芋でも突き刺すように、いっせいに王妃のあちこちに、刀の切っ先を押し込んだ。二人の遁走者が息絶えるのを見届けるように、視野全体に閃光が走り、リリーの意識は月に戻った。 「あなたたちは、王様とお妃様なのね?」 リリーは震えながら幽霊を見上げた。 「――そして、わたしのパパとママなのね?」 幽霊は二人とも何かを言いたげに、口を開いたり閉じたりしながら、無表情にリリーを見つめ返していた。二人は全身から物悲しい、切羽詰まった、やるせない波動を放射していた。 リリーにとっては初めての、幽霊との接近遭遇だったが、その波動は馴染み深い懐かしさを、リリーに感じさせた。 リリーはこの感じを、以前にも経験したことがあるのに気がついた。 それもしょっちゅう、思い出せる限り、いつでもだ。 夢の中や日常のそこかしこで、誰かに見られている、知っている人につけ回されているというこの感覚を、リリーは何十回となく味わっていた。 原因はこの二人だった。 リリーは地球にいた時すぐ真近で、この二人の存在を、幾度も経験していたのだった。 ビルの隠れ家や空港で軍隊に捕まった時も、これと同じものを感じていた。そのくせ、はっきりとはわからなかった。 「・・・りりとす・・・りりと・・・す・・・りりと・・・す・・・・」 小柄な人影がささやいた。 幽霊にふさわしい、身近にはいてほしくない種類の、かすれた、弱々しい喘ぎ声。「・・・わたしは・・・あなたの・・・母親・・・りり・・・と・・・す・・・・」 「ママ? 本当に、わたしのママなの?」 小柄な影は一度だけうなずいた。 「すると・・・じゃあ、あなたはわたしの――パパちゃんね?」 もう一人の人影も、重々しくうなずいた。 二人の幽霊は、まるで呼吸するように、一定の間隔で、膨れたりしぼんだりしていた。そのたびに、輪郭が濃くなったり薄くなったりを繰り返す。 「あの・・・あの・・・その・・・あの・・・」 リリーは何と言っていいかわからず、口をぱくぱくさせていたが、 「その後、お変わりない? ちょっと見ないあいだに、二人とも見違えちゃったけど――」 「・・・わたしたちは・・・バハールに・・・つかまって・・・バハールの手にかかって・・・命を・・・落とした・・・・」母親の幽霊が言った。 「バハールの手にかかって? それじゃあ、さっき洞窟で見たあなたたちは? わたし、二人が眠っているところを見たのよ。夢のない、何とかの眠りについているって、バハールが――」 「・・・違う・・・あれは・・・わたしたち・・・ではない・・・真の・・・わたし・・・たちの・・・姿と・・・魂は・・・もう・・・この世には・・・ない・・・・」大柄の影が悲しげに首を振った。 「まあ! そうだったの!? わたし、すっかり騙されちゃってたわ。それじゃあ、今までわたしのそばに来て、何か言おうとしてたのは――」 「・・・そうだ・・・わたしたち・・・だった・・・・」 「・・・あいにく・・・あなたには・・・気づいて・・・もらえなかった・・・ようです・・・わたしたちと・・・二つの世界の・・・あいだの・・・意思の・・・疎通は・・・難しくて・・・・」王妃もあいづちを打った。 「そうだったの。ごめんなさい。きっと、わたしがぼんやりだったせいね。幽霊と話ができるなんて、知らなかったものだから。それでお二人は――今――その――楽しくやっているの?――そんなわけないわよね。幽霊だもんね――リリー、馬鹿みたい。何を訊いてるのかしら?」 「・・・逃げよ・・・早く・・・逃げよ・・・逃げよ・・・・」国王の幽霊が呻くように言ったが、その顔形までが苦しそうにゆがんだ。 「・・・あやつは・・・あの男は・・・邪悪な・・・男・・・アトランティスを・・・わたしたちを・・・滅ぼしかけ・・・おまえまでを・・・つけ狙った・・・わたしは・・・おまえに・・・警告する・・・つもりで・・・・」 国王のあとを王妃の幽霊が続けた。「・・・わたしたちは・・・ここから・・・この姿で・・・あなたを・・・あなたのことを・・・見守って・・・いて・・・あげます・・・からね・・・・」 ふいに、二人の姿がひきつり、風に吹き飛ばされた砂絵のように、本来の姿を失った。 リリーはどうしていいかわからず、一つには、二人の見た目があまりにも人間とかけ離れていたせいもあって、怖くなった。 「パパ? ママ? どうしたの? どうかなっちゃったの? ハロー? ハロー?」 「・・・あなたは・・・生きて・・・お逃げ・・・リリトス・・・・」 王妃の幽霊が、 「・・・生きて・・・あなたは・・・お逃げ・・・生きて・・・・」 「死んだ人間が、何を言う!」 リリーがはじかれたようにふり返ると、いつの間に戻ったのか、バハールがそこにいた。 「でたらめを申すか! さ迷うて出たな、この亡霊めが!」バハールは手に王冠を握ったまま、リリーをふり向いた。 「騙されてはなりませぬぞ、王女さま! こやつらは国王と王妃を名乗ってはいますが、真っ赤な偽物。王と王妃になりすまして、われらをたぶらかさんものと出現した、不可知の世界からの魑魅魍魎 (ちみもうりょう)、われらが宿敵にござりまする! えいや、退散せい! この亡者どもめ! 二度と現われるでない! 退散せい! 退散せい! ンヤ・ニギ・ネモヘル!」 バハールが印を切り、呪文のような掛け声をかけると、二人の幽霊は悲鳴をあげ――リリーの耳にはそう聞こえた――二人が属している暗闇と沈黙の世界へとかき消えた。
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