33 (承前)
リリーがおびえた表情でいると、部屋の観音開きの扉が開いて、リリーの世話係兼乳母と奴隷女、それにリリーの顔見知りで、若い王室付きの警備兵が一人、駆けこんできた。 「お姫さま! お姫さま! 一大事にございます! すぐにここから、お逃げあそばしますように! 今すぐにでございます!」 「なぜ?」 「なぜでもですわ!」 リリーは床を見下ろすと (というのも、その時はまだ空中に浮かんだままだったので)、鼻にかかるセンツァル語で、乳母に訊いた。「中庭での散歩の時間までは、まだ間がありますけど」 「さあ、王女さま! わたしたちの希望のお星さま! わたしがいっぺんだって、あなた様に、悪いように、言ったりしたりしたことがおありですか?」 「いいえ、ないと思うわ」 リリーが胸のあたりで抱えていた《跳ね球》が、遊んでくれよと言うように、虹色の光を放った。「ところで、この《跳ね球》、前よりもはずまなくなったんですけど、新しいのをほしがってはいけなくて?」 「《跳ね球》ですって? そんな物は捨てておしまいなさいな! いいえ、持って行きたければ、行っても結構! それより早く、支度をなさい! おまえもそんなところで見ていないで、早く荷物をまとめて! 愚図愚図しないで! さあ、アーヤったら!」 乳母はかたわらにいた奴隷女を罵った。 奴隷女は乳母の後ろで目を丸くして、天井に浮かんでいる《奇跡児》を見つめていたが、あわてて床に散らばった衣類のあいだを駆け回った。 「さあ急いで! ぼやぼやしていると、連中がここへも押し寄せてきますよ! ポンピリウス、外の様子はどうですか?」 開け放した扉から通路をうかがっていた、くだんの兵士がふり返り、ひどいケルマニア地方の訛りで答える。「今のところは、平気のようですだ。だけんども表のさうおんは、どんどんひどくなってくるだす」 「よろしい。ところでその言葉づかい、御所勤めのあいだには、とうとう直らなかったんですのね」 くだんの兵士は真っ赤になった。 兵士は屈強な体格と、それとは裏腹の、単純な精神の人間を排出することで知られた、ある貧しい山岳地方の出だった。その地方の男たちは、質実で頑健なところを買われ、王宮付き衛士になる者がことのほか多い。兵士は完璧な宮廷言葉で言い訳をした。 「申し訳ございません。気が動転したもので、ついおくになまりが出てしまったのです。おゆるし下さい」 「いいのですよ。状況が状況ですもの、言葉づかいなど! ところで、外があなたの訛りほどひどいことにならないうちに、ここを出ましょう。あいつらにつかまったら、それこそことです」 「何? 何がことなの? ひどくなるって、何が? あ、痛い!」 「がまんなさいませ、お姫さま。ほんの少しの辛抱ですわ」 乳母は、舞い降りて来たリリーの手をつかむと、 「アーヤ。おまえが先に立って、部屋を出なさい」 奴隷女の顔が悲しげにゆかんだ。 「馬鹿ね。あなたを楯にしようというわけではありませんのよ。奴隷部屋を通って、裏手に出るだけです。あなたが案内をなさい」 悲壮な覚悟で両腕いっぱいにリリーの服をかかえた、奴隷女を先頭に立てると、十歳になったばかりの世継ぎを急き立てて、筆頭乳母は部屋をあとにした。武装した兵士が後ろにつき従う。 何が何やらわからないうちに、リリーは引きずられるようにして、遊戯部屋を出、そのまま通路を中央階段のところまで来た。 宮殿に何が起きたにせよ、容易ならぬ事態が起こったことは、幼いリリーにもわかった。 リリーが見上げる前で、大勢の人間たちが、泣き叫びながら行き来していた。どの顔も必死で、目がすわっている。そのうちの幾人かはリリーも知っていたが、大半はリリーの初めて見る顔だった。 武器を持った兵隊が何人も連れ立って行きかい、いつもは深い襞のあるすそを引きずって、しゃなりしゃなりと歩くおしゃれな女官たちが、血相を変えて走り回っていた。 すぐ前を、金だらいをかかえ、頭に金色のバケツをかぶった、洗濯女が通り過ぎた。女はリリーの前まであとじさりすると、リリーを上からのぞきこんで、たまげたように声を張り上げた。 「あんれまあ! おっ姫さまじゃあ、ございませんか!」 「まったく、ここの人間どもときたら、どいつもこいつも、なんという言葉づかいをするのです! あんれまあ、わたしとしたことが! それはそうと、奥の様子はどうですか? おまえたちの詰所は、無事なんでしょうね?」 「いいえ、あそこはとっくにもう暴徒どもで、埋めつくされておりますですよ。わたしは、これこの通り、命より大事な支給の洗濯道具を持って、逃げてきたところです」 「見上げた根性です。おまえこそ、まことの城勤めの鑑。その根性と、たぐいまれなる忠誠心とを、わたしたちと行動をともにすることで、さらにあかし立てする気はありませんか?」 「はあ、おっしゃってることがよくわかりませんのですが、そいつが一緒に来いという意味ならば、よろこんでお供いたしますですよ」 「では来なさい」 一行は奴隷女と洗濯女を先に立てて、右往左往する人波をかきわけて、リリーの知らない方へ、すごい勢いで駆けて行った。リリーが手にした《跳ね球》は、いつの間にかなくなっている。 リリーはなかば宙に浮かぶ格好で、目の前に現われては消える人の群れに気圧されながら、乳母に手を引かれて、飛ぶように通路を曲がりくねった。 遠くからはドーン、ドーンという、地響きのような音が聞こえてくる。 「あれは――あの音は、何?」 「あれは大砲の砲撃ですよ、王女さま」 兵士が答え、乳母から睨みつけられた。 リリーはこれまでにもあの音を聞いたことがあった。朝と夕方や、毎週一度開かれる定例の儀式の時には、あの音が王宮の外から聞こえてきたものだった。 だが、こんなに大きく響いたことはなかったし、これほど頻繁に繰り返されたこともなかった。もちろん、これほど大勢の人間の悲鳴を、これほど間近で聞いたことも。 リリーがさらに質問しかけた時、突然すぐ横の曲がり角から、人々のわめき声と金属がぶつかりあう音とが聞こえてきた。 洗濯女が何か叫びながら、リリーの目の前からかき消えた。わけのわからない怒号と砲声。金属の打ち合う音が続く。リリーは恐怖を感じた。 すぐそばで、「ぎゃっ」という悲鳴と、「ううっ」という人間の断末魔のうめき声が聞こえた。リリーは凍りつき、続いて好奇心に駆られて、声のした方をのぞき込んだ。 人々のかたまりができ、リリーの目からその場の光景を隠した。 気がつくと、洗濯女に手を握られ、リリーは人々の輪の外で立ち尽くしていた。リリーが見上げると、洗濯女は両の目からぽろぽろと涙をこぼしていた。 「あの人は死んでしまったわ。あの女は」 リリーは青ざめた。 乳母がいなくなっている。 目の前の人垣が崩れ、一瞬だが、石の床に横たわっている奴隷女の姿が見えた。黒髪を伸ばし、赤い水たまりに倒れたまま、だらしなく白目をむいている。 女の背中から棒のようなものがはえ、リリーの知らない幾人かが、それを引き抜こうとしていた。女のまわりには大勢の兵士たちが、折り重なって倒れていた。あたりには鮮血の染み込んだ上等の衣類が散乱していた。それはついほんの数刻前、遊戯室の床から奴隷女が拾い集めた、リリーの衣服だった。 「さあ、まいりますよ。王女さま」 いつの間に現われたのか、くだんの乳母が、洗濯女にかわってリリーの手をとると、そそくさとその場から歩き始めた。 さっきの兵士とは違う兵隊が、槍を手に、リリーのかたわらをついて行く。その槍が、今見た奴隷女からはえていたのと同じであることに、リリーは気がついた。 乳母に手を引かれながら、後ろの人垣をリリーはふり向いた。 「あなたは見ないでよろしい」 乳母が言ったので、リリーはすぐに前を向いた。 この人がこういう声を出している時には、言うことを聞かなくちゃいけないのだわと、リリーは経験から知っていた。 「あなたには感謝しますよ、アーヤ。永久に、あなたには感謝しますよ」 リリーが不思議そうに見上げると、乳母はあわてて口をつぐんだ。背後からは洗濯女が足早について来る。 やがて一行は、リリーが生まれてから一度も足を踏み入れたことのない、奥まった区画の、ぴかぴか光る金属製の扉の前に近づいた。 乳母がリリーの見えないところで何かしたらしい。金属の扉が音を立てて開くと、目の前に見たこともないほど急な石の階段が現われた。 石段は地下に続いているらしく、その先は暗がりになって、見えなくなっていた。 「あなたは、ここまでで結構。お供して下さって、心強かったですよ」 リリーが見上げると、洗濯女が泣いていた。 今日はみんながよく泣く日だわ、とリリーは思った。 「まいりますですよ」 乳母がリリーの手をとり、石段の方に歩きかけた。 階段の下の暗がりから、かすかだがはっきりとした、機械の立てる作動音が聞こえてくる。ごくかすかなもので、リリーのような《奇跡児》でなかったら、到底気づかなかっただろう。 リリーが恐怖を感じて立ちすくむと、目の前にやさしげな乳母の顔が現われた。 「ご心配はいらないのですよ。王様もお妃様も、下でお待ちです」 「父上様と母上様が? アーヤはどこ? みんなはどうしているの?」 「アーヤは・・あの娘は、特別のお勤めを果たすために、遠くのお城へ旅立ちました。あなたもこれから、遠くに行くのですよ」 そう言った乳母の顔が苦痛にゆがみ、大粒の涙が目に浮かんだ。 「王女さま。わたくしは今日まで、あなた様にお仕えすることができて、とてもとても、幸せでした。どうかこの先、何がありましても、怒りっぽいこの愚か者の乳母めがいたことを、お忘れなくね」 「うん。忘れないわ。わたし、あなたのことを忘れないわ。絶対に絶対に、忘れないわ」 リリーは、自分でも何を言っているのかわからずに、口にした。乳母は涙をぬぐうと、あらためてリリーの手をとり、階段へとうながすのだった。 リリーと乳母は階段を下り始めた。兵士が先に立つ。階段は果てしがないように見え、下から吹き上げる空気は、えもいわれぬ香りと、不思議な気配とに満ちていた。リリーは乳母に連れられ、段々の数を数えていたが、しばらくするとやめてしまった。階段は驚くほど長く続き、規則正しく壁に並んだ照明が、石段に灯をともしていた。 段々が急に終わり、とっつきに見たこともないほど大きな、金属製の扉が現われた。 「ここです」 「ここはどこなの?」 「王家の方たち専用の避難所です。あなたはわきへどいていて下さい」 兵士がわきへどくと、乳母が扉に向かって何かするのを、リリーは見た。扉が開く。おそろしく天井が低い、奥行きも馬鹿みたいに広い部屋が現われる。明るい蛍光照明の下、丸みを帯びた豆の莢 (さや) のような箱が、いくつもいくつも並んでいた。乳母がリリーをともなって中に入ると、兵士はかしこまって、入り口の外でひざまづいた。二人の背後で扉が閉じた。 乳母はリリーを連れて、奥の並びの箱の一つに近づいた。その箱の蓋は開いたままで、内側には見たこともない機械や、電極のくねくねした管が壁伝いに伸びている。 「この中に、入るのですよ」 「いやよ」 「お姫さま!」 乳母のとがめるような口ぶりに、リリーは押し黙った。 「いいですか、お姫さま。よくお聞き下さい。今、王宮とこの国に、恐ろしいことが起こっています。王宮の中に人民を扇動して、『謀反』(むほん) をそそのかした連中がいるのです」 「謀反?」 やさしげに、乳母の口もとが笑った。 「あなたは幼くて、よくわからないかもしれない。でも、あなたは賢くて強い子供ですから、よくお聞き下されば、おわかりになるでしょう。この国の人民の中に、おそれおおくも国王様に楯突いて、王家の支配を覆えそうと、企てた者がいるのです。王様とお妃様を亡き者にして、自分たちがこの国を乗っ取ろうと、たくらんでいるのです。誰のしわざか見当はついていますが、今日とうとう、王宮に火の手が上がりました。こんなことは、わたくしが知る限りでは、この国始まって以来の出来事です。この国も滅びる時かもしれない」 「お父様とお母様はどこ? アーヤは? アーヤはどこなの? アーヤ? アーヤ?」 「お姫さま」乳母はかすかに微笑んだ。「およろしいですか、王女様。小さい、小さい、リリトス様。わたしのきかんぼうの、お姫さま。わたくしはあなた様がお生まれあそばされた時から、あなた様にお仕えし、赤ん坊の頃から今日までずっと、あなた様をわが命と思って、あなた様のお世話をしてまいりました。わたくしめはこれからも、今まで以上の忠誠と、変わらぬ献身とを、あなた様に誓います。ですから、わたくしの言葉を、あなた様の、お父上様、お母上様のお言葉と思って、どうかお聞き下さい。 今日、あなたはこの箱に入って、お逃げ下さい。そして安全な頃合を見はからって、大丈夫と思うその時まで、この中に隠れていて下さい。この中には、この世界でも最高の工匠たちが作りあげた、生命維持のための仕掛けと、《時間の永久静止場》とを働かせる、動力とが組み込まれています。つまり、あなた様はこの中に入ることで、一時的にせよ、年をとることからまぬかれるわけです。うらやましいこと! 国王様とお妃様は戦っておられます。わたくしどもも、今は戦う覚悟です。ですが、あなた様はお逃げ下さい。あなた様はこの国のまことのお世継ぎで、しかも聖なる《力》を天からさずかった――」 その時、部屋が激しく振動した。 蛍光照明の光がまたたく。 震動はあいだをおいて、何回も続いた。二人はお互いの体にしがみつくようにして、こわごわと天井を見上げた。気のせいか、砲声と人々の叫びが、聞こえてくるような気がした。 乳母がリリーの肩に手をおいて、のぞきこむように、リリーの目を見つめた。 「今は時間がありません。わたくしの言葉を聞き、その通りになさいませ。およろしいですね」 リリーは何か言いかけて、うつむいた。 幼いながら今はどうすべきかを、本能的に感じとったのだった。 乳母はうなずいて、服の胸もとに手を入れ、また出した。 ユリの花の紋章を刻んだ、あざやかなメダリオンが握られている。 「さあ、およろしいですか? これを身につけてお行きなさい。あなた様がこの国の正統な王位の継承者である、あかしのみしるしとして」 「あなたはどうするの?」 リリーは乳母の手から、ずしりと重いオリハルコン製の飾りを受け取り、確かめるように手のひらにのせていたが、 「あなたも、わたしと一緒に来ることはできないの?」 乳母の顔が悲しみにゆがんだ。 乳母は何か言いかけ、それからいきなりリリーを抱きしめると、力いっぱい頬ずりをした。 リリーが知る限り、乳母がそんなはしたないことをしたのは、あとにも先にもそれきりだった。リリーが面喰らっていると、乳母はリリーから離れ、心に恥じたもののようにあたりを見回した。 《莢》から出た二本のケーブルが、部屋の奥まった場所に据えつけられた、箱型の機械へと伸びている。見ると、どの《莢》からも同じケーブルが二本、機械へと接続していた。 「あれですね」 乳母はわけ知り顔にうなずくと、 「本当はこんな仕事、男にやってもらうところだけど。さあ、もう時間がありません。ここにお入りになって下さい」 リリーは四の五の言って、乳母を困らせることを好まなかった。言われた通りメダリオンを握り締めると、黙って《莢》に入り、横になった。乳母は力まかせに蓋を閉めた。乳母が何かやったらしく、蓋の錠が外から掛かった。 蓋の上部の中央に、純度の高い雲母の結晶を磨いて作った、素通しの覗き窓がついていた。リリーが心配そうに見上げると、乳母の顔が現われて、にっこりと微笑んだ。 乳母の口が開き、何か言っている。何回も何回も、同じ言葉を唱えている。 リリーも何か言わなければと思い、 「大丈夫よ。安心して」 それがリリーの、アトランティス世界の見納めだった。 やがて《莢》の中が息づき、機械が作動を開始すると、リリーは緊張と、おぞましい戦慄とに身震いした。 ガラス窓の表面が曇り、急速にだるさを感じてくる。リリーは何もかもが面倒になり、考えをまとめようとするのもやめてしまった。 視界がぼやけ、目を開いているのが、苦痛になってくる。 心地よい眠気に襲われると、リリーは横になったまま目を閉じた。 胸においた手から、メダリオンがすべって落ちた。 リリーは夢も見ずに眠った。
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