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リリーはバハールに続いて、石の階段をゆっくりと降りて行った。洞窟の内部に掘られた石段は、狭い上に、傾斜も急で、岩が発するかすかな明りがなかったならば、リリーは足を踏み外して、奈落の底に真っ逆様に、墜落していたかもしれなかった。滑らかな表面をした灰色の岩は、発光性の苔類に覆われているのか、人が近づくとその部分だけが、燐のように光を放ち、遠のくと、また何の変哲もない鉱物に戻るのだった。 リリーは階段を降りて行くあいだ中、一度ならずバハールを蹴りつけて、老人が落ちて行くのを見たいという衝動と戦った。 そんなことをすれば、面倒になるわよと、自分自身に言い聞かせる。 リリーはバハールと一緒なのもぞっとしたが、それ以上に、暗い月の地下世界に、一人とり残されるのはまっぴらだった。 二人の道行きは、始まった時同様に、だしぬけに終わった。階段のとっつきに信じられないほど巨大な空間があり、そこにそれが――石があった。 リリーは最初、石と聞いた時、オレンジくらいの大きさの、小ぶりの水晶を想像していた。だが二人を待ち受けていたのは、部屋全体――これまでリリーが月の宮殿で見たもっとも大きい、ほとんどニューメキシコ州のカールズバッド洞穴群国立公園の鍾乳洞の石室くらいもある――を占領する巨大な石の塊だった。 石は、高さ約百三十フィート、もっとも太い部分の直径で、差し渡しが二十五フィートほどもある、いびつな紡錘形をしており、不等辺三角形のカット面で囲まれた、偏三角多面体 (スカレノヘドロン) を形成していた。一見、透明のガラス状物質でできた、六角柱のシリンダー状の容器の中央で、石は台座らしきものも支持脚もなしに、あたかもそれ自身が浮力を生じたように、ゆっくりと反時計回りに回転しながら、独楽のように浮かんでいた (あとでわかったことだが、石はそれ自身が生み出す奇妙な重力で、月と拮抗しているのだった)。 片側がなめらかに磨きあげられ、もう片方が、たった今、不器用な石工によって、のみをふるわれたように、石はやや荒っぽい、ぞんざいなシルエットを描いていた。一辺が少なく見積もっても四、五フィートはあろうという、切り子面のそれぞれは、磨かれた部分は強烈に光り、そうでない部分は、くすんだ輝きを放っていた。水晶の発光は強大なものだったが、不思議とまぶしさを感じさせなかった。 「どうです、姫さま、見事なものでしょう、アトランティスの心臓なる、水晶の輝きは? あれが、われらの先祖を照らし、かつて姫と拙者とを照らしていた石の、生きた最後の一つなのですぞ」 「生きた――? あれ、生きてるの?」 「左様ですな。あなた様やみどもと同様に、生きておりまする。ありがたいことに、月に砦を築いたアトランティス人の祖先たちが、予備の水晶を蓄えてくれていたのですぞ。拙者がそれを見つけて掘り起こし、石室をここに築いて、安置したのですぞ。今からおよそ三千年、いや、四千年ほど前になりまするかな、地球の数え方で言いますと」 「そんなに昔のことなの?」 リリーは異常なことの連続で、判断力が麻痺してしまったように、水晶を見つめていた。 水晶がリリーにささやくように、内部でまたたいた。 「バハール、あの石、そんなに昔からあったの?」 「左様ですとも、姫さま」 リリーに名前を呼ばれたことに気をよくしながら、バハールが言った。 「みどもはあれをここに安置してよりのち、折りを見て、気長に加工してまいりました。石の精錬・研磨の術と、その加工の儀式は、アトランティス世界でも指折りの、特権階級にのみ知られた、いわば秘儀中の秘儀。さいわい拙者は、それを心得ておりましたので、さしたる支障もございませんでしたが、細工はまだ途中でして、あの石も、いまだ半人前というところですかな。だが、隅々まで磨き上げ、仕上げしたあかつきには――」 バハールは言いやめたが、おしまいまで話したのと、同様の効果を、リリーに与えた。 「そうだったの。わたし、全然知らなかったわ。わたし、ちっとも知らなかったわ」 石の内部に、はっきりとわかる稲妻のような光が走った。 「バハール、今のあれは、何なの?」 「石があなた様を歓迎しているのです。石があなた様を歓迎し、あなた様にお目見えできたことを、喜んでいるのです」 「石が? あの石がわたしを?」 「左様ですとも。あれにはあなた様が、どなた様で、どこから来られた方かが、わかるのです。そして長の年月、ここでむなしく回り続けながら、待ちわびた日々が無駄ではなかったことを知って、喜んでいるのです。ごらんなされ!」 バハールが叫んだ途端、石が激しい振動をともなって揺れ、一気に膨張した。 洞窟内部が、揺れに揺れる。 石は内部に蓄まったエネルギーを放出するように、全体から輝きを放った。 水晶から分裂した、巨大な光の発露。 結晶から伸びた純白の光線が、シリンダー容器を通して、リリーの全身を射しつらぬいた。リリーを保護する光のベールを突き破り、リリーを透過して輝いた。 リリーは声にならない悲鳴を上げる。 リリーの目から水晶の光線が放たれ、耳や口、全身の毛穴という毛穴、微細な皮膚の裂け目という裂け目からあふれ出すと、エネルギーの奔流となってリリーを侵し、脳髄や神経をかき乱して、全身の筋肉、骨や内臓、皮膚組織や血管の末端にいたるまでを、満たし尽くした。リリーは、全身が冷たい炎で焼かれるのを感じた。水晶の光に包まれ、打たれ、凌辱された。 犯されて、どこだかわからない、時空間にさらわれた。 拉致は時間にして、数マイクロ秒の出来事だった。 その瞬間、リリーの記憶の大部分を包みこんでいた、遮蔽膜が破られ、蓄積され、隠されていた過去の記憶の断片が、ほとばしり出た。 リリーは思い出していた。 あの時のことを。
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