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そこは暗黒の月の裏側だった。 《モスクワの海》のほぼ真東、《海》とメンデーレフ・クレーターを結ぶ線を底辺とする、二等辺三角形の頂点に位置した、いびつな形のコルスト・クレーターの真下、月の地下数マイルを覆う冷たい花崗岩地層を掘り抜いた、沈黙の縦坑の底に、石をくり抜いて作られた、天然の巨大なドーム状の室があった。 半球形のドームは広間の丸天井をなし、人のしわざとは思えぬほどの壮麗さで、見るものを威圧していた。その室はそれ自身が内部に生み出す圧力で、一インチあたり数千万から数億ポンドの、外からの重量と拮抗していた。 それは歴史に捨てられた太古の民族が、今の世の目覚めるはるか大昔、悠久の時の以前に建設した、今では忘れられた人類の遺産、人類創世の秘密を解き明かす鍵となる、《大いなるいにしえ人》の生み出せし、曙文明の楔の一つだった。 “そを読み解く知恵のある者は、来たりて、そを読み解くがよい” 建物はそう語りかけていたが、その声に耳傾ける者とてなく、その姿に目を見張る鑽仰者も持たなかった。だが、建物は朽ちることなく待ち続けた。 今、その忍耐の報われる時が、来ようとしていた。 * * * リリーはドーム状の室にある、一つの部屋の、粗末な木の椅子に腰掛けて、バハールの講義を拝聴していた。 部屋はこぎれいで、居心地のいい作りだった。椅子が簡素なのにもわけがあった。 ここを建設した者は、『何かを学ぶ者は、すでにして卑しい』というモットーの持ち主たちで、たとえ身分が高かろうと、教える者より、今は卑しい立場であることをわきまえさせるため、学び舎の腰掛けは、おしなべて祖末な作りにしてあったのだ。 逃げ出そうという目論見は、リリーからは薄れていた。運命を受け入れたわけではなか ったが、月から逃げ出すのが容易でないことに、いやでも気づかされたのだ。ここへ連れて来られた以上、出て行く方法もあるに違いない。今はそれを見つけるのが先決だった。 「・・・というわけで、初期の宇宙植民を計画した、わがアトランティスの国民 (くにたみ) が、ここに足掛りとなるべき、月世界の砦を建設したわけなのです。ここまではおわかりですかな?」 バハールはいい教師ぶりを発揮して、壁に描かれた世界地図を差し示しながら、話を進めていた。そこは設計者によって《地図の間》と、漠然と名づけられた部屋で、広さはさしてないものの、壁にはめ込まれた浮き彫り地図は、バハールの話では、最盛期のアトランティスの版土を示しているとのことだった。それは五大陸として知られた現在の陸地とは、何の共通点も持たなかった。 その点をリリーが指摘すると、バハールは悲しげに頭をふった。 「そのことについては、いずれお話いたしまする。今はこの砦――モルクメ・メール (月の宮居) の説明を、終わらせますほどにな。アトランティス人たちは、いずれはこの月の上にも都市を作り、あそこと――地球と同じように、子孫を繁栄させるつもりでいたのです。ここまではおわかりですかな?」 「ええ、わかったわ。アトランティス人にも、アポロ計画やスペースシャトル計画があったというわけね。大昔のアトランティス人たち――長いからアーティーって略すけど――は、今のアメリカ人たちがそうしているように、宇宙に進発しようとしていたんでしょ?」 「進出ですな、それを言うなら。あなた様は現代地球語の話し方も、勉強された方がいいご様子。《民を治めるには、その民の言葉をもってせよ》。いずれはその方面のご用意も、必要となるかと」 「えっ、何か言った?」 「何も申しませぬ。それはそうと、アムリカ人どもが宇宙に進出しようとする何万年も前、現在の人類が産声をあげる、はるか、はるか以前に、われわれアーティーたち――いえ、アトランティス人たちは、宇宙に目を向けていたのですぞ、はるか、はるか大昔にな」 「だとすると、特許を取っていれば大金持ちになれたわね、アーティーたちは。世界中にコカ・コーラを売りつけるみたいなもんだもん」 「はてさて、何のことやら。ともかく、こうしてここに、アトランティス人たちの記した月への第一歩が、砦として残っている以上、この姉妹星――《衛星》とか、やつばらめは称しておるそうですが――ここがわれわれアトランティス人たちの領土であることは、疑いを入れない事実なのです。なんぴとも逃れられぬ運命によって、地上から、われらが版土の永久に消え去ったのち――おお、かの日は永久に呪われてあれ!――長の年月、ここは無人のままに捨ておかれた。だが、ひょんなことから、みどもはこの場所がまだ生きておることを知り、いつの日か、アトランティスの再建なる日が来ることを、ひたすらに信じて、わが老いたる体に鞭を打ち、ここを守り続けてきたのですぞ。あなた様をお迎えする日の来ることを、ただひたすらに信じて疑わずに」 「はいはい、ご苦労さん。それでよくわかったわ。全部わかったというわけではないけれどね。でも変よね。だとすると、あなたは何万歳という年寄りになるわけじゃない? あなたは、ここと同じくらいに古いはずよ。まあ、確かにあなたは若くは見えないけれど。でも、いくらアトランティスの人間でも、何万歳と生きるのは難しいと思うけどな。だって、実際、あなた以外のアーティーたちは、あなたを残して死んでしまっているんでしょう?」 わたしも残った一人らしいけど、と言おうとして、リリーは口をつぐんだ。 この男の同類だと、自分から進んで認める必要はない。 「さすがに、これは、聡明なご質問をなされる」 バハールはしなびた顔に、嬉しそうな笑みを浮かべると、 「その問いに対する答えを知るには、実際に《見る》ことですな。あなたがいた世界にも、こんなことわざがあったでしょう。《見ることは、信じることに如かず》と」 「さあ、どうかしら。シェイクスピアがそんなことを言っていたような気もするけど。で、見るって何を?」 「ツーオイ石をです」 「ツーオイ石?」 「左様。わが世界をかくも強大に輝かせた、かの神秘の水晶石をです」 「つまり、マジック・ストーンとかって、いうわけね?」 「マジックですか。なるほど、そう言えば言えるかもしれませんな、『魔法の石』と。ツーオイ石は、わが世界をかの世界の支配者たらしめた、力の源泉、いや『力』そのものと呼んでいい。あの石があらばこそ、わが世界は、かの地上のなんびとにも負けない富と権勢とを誇り、名にし負う大帝国として、かの惑星に、かくも華々しく君臨できたのですぞ。そして、あの石の持つ力を、善にのみ利用していれば、今も《地球》と呼ばれるあの星の上では、わが王国と、かの民とが、変わらずかの地を受け継ぎの地として、大いに繁栄していたのに相違ありませぬ」 いっときバハールの目が光を失い、暗い色をたたえて陰った。 「姫さま、お喜び下され。今もこの月の地下宮殿に、かろうじて原形をとどめた水晶石の最後の一つが――今もたった一つだけ、輝いているのですぞ」
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