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ベリンスキーは二時間近く車を走らせ、市の外縁を取り巻く四車線の幹線道路と、垂直に交わる幾本かの大通りを、実験用の迷路をたどるハツカネズミのように、行きつ戻りつしていた。車に装備された無線が十秒おきに鳴り、警察無線特有のコールサインで、各車に指令を出している。 ベリンスキーはアクセルを踏み、前方に広がるレーンを眺めた。尾行はなかったし、あってもまいた自信はあった。GPSも作動はしているが、車を乗り捨てれば問題にはなるまい。時刻は午前十一時を過ぎ、気の早いビジネスマンたちが、昼食をとりにちらほらと街に現われている。 ベリンスキーはとあるショッピング・モールの駐車場に乗り入れ、後部ドアを開いたキャンピングカーと、荷下ろしの最中だったピックアップトラックのあいだに車を停め、運転席を下りた。 てきぱきと買い物をすませて外に出ると、駐車場には向かわずに、真向かいにある市営バスの停留所へと向かう。 銀のベアメタルに、オレンジ色のラインの入ったバスに乗り込む時、ベリンスキーは警官専用のパスを出しかけ、あわてて引っ込めた。 どんな些細なことでも、目立って印象を残してはまずい。 バスが発車すると、広くもない車内に、景気のよい耳ざわりな音楽が流れ始めた。 テレビやラジオでよくかかる、アナハイム・トラベル・カンパニーのコマーシャル・ソングだ。 この世界に存在し続ける限り、税金とアナハイム・トラベルの広告からは、逃げられない運命らしい。 ベリンスキーはとある停留所でバスを下りて、道路を横断し、違う路線のバスに乗り換えると、もう一度出発点まで戻り、今度は反対車線のバスに乗り込んで、四十分ほどかけて市のはずれまで行き、どん詰まりから二番目の停留所でバスを下りた。 そこからあらためて違う路線のバスを見つけ、市の北はずれにある、鉄工所の残骸がそのままに放置された、スクラップ街のとばくちまで行き、バスを下りる。 場末の、文字通りのゴーストタウンで、浮浪者や犯罪者、お尋ね者ですら寄りつこうとしない、貧しい一区画だった。 まれに野犬がまよい込むほか、時折、空を渡るカモメやシギの仲間、ネズミやイタチの群れが立ち寄る以外は、誰一人、生き物の影一つ、そこには住んでいないのだった。その一隅に、天使が休んでいる以外は。 ベリンスキーは鉄工所の敷地へと続く舗装道路をたどり、形だけだが周囲を警戒すると、買い物袋を二つ抱えたまま、通いなれた鉄工所の棟の一つへと、慎重に歩き始めた。放置された鉄骨と建材のあいだをぬって建物に近づくと、打ち捨てられた千年王国の住人が、時ならぬ異変にパニックを起こし、あわてふためいて、逃げまどう気配がした。 一階のどん詰まりに来ると、ベリンスキーの五感に、人の歩く足音と何かを焼いている匂いとが伝わってきた。ベリンスキーは笑みをこぼすと、傷んだ手すりつきの階段をゆっくりと昇り、三階に出た。 リノリウムが剥がれた廊下の奥に、その昔、従業員の詰所に使われた小部屋があり、簡単な料理のできるキッチンがあるのを、ベリンスキーは知っていた。 廊下をふさいだバリケードがわりの机と椅子と工作機械のあいだをくぐり抜けて、ベリンスキーは奥へ入った。 「ハロー」 女の子はベリンスキーの足音に、キッチンからふり返りもせずに、声をかけた。 年の頃は十一か十二、見るからに華奢な体つきをしており、ピンクのエプロンを背中で結わえている。 細い腕と長い足が、ブラウスとギャザースカートから突き出し、巻き毛の金髪が、肩のまわりを、はでなコロナのように縁どっている。 女の子はコンロのフライパンに注意を向けたまま、ソプラノがかった声で言った。 「外を通るあなたの足音が聞こえてたわ。口笛もね。まるでアナハイム・トラベルのコマーシャル・ソングのメロディーみたいだったわ」 女の子はベリンスキーの考えを読み取ったかのように、コマーシャル・ソングの一節を口ずさんだ。 「少し遅いけど、お昼を食べるの。ちょうど二人分あるけど、よかったらどう、ロジャー?」 女の子がふり向いた。 女の子は透き通るようなアイスブルーの瞳の持ち主で、笑うと頬に、クレーターのようなえくぼが浮かんだ。 「ああ、そうだね。少しもらおうかな。実は腹ぺこなんだよ」 ベリンスキーは腕時計を見た。思いのほかここへ来るのに、手間をかけてしまったようだ。 「メニューは何だい?」 「チョップド・ステーキよ」 「ハンバーグ・ステーキってわけだね?」 肉が焼けると、女の子は食器戸棚から二枚の皿を取り出して、テーブルに並べた。ベリンスキーは冷蔵庫から、バンズパンの袋を取り出した。 戸棚もテーブルも、ベリンスキーがひまを見つけて、捨ててあった物を拾っては、日曜大工で修理した物だった。 二人はお祈りをしてから、食事をした。パンにはさんだハンバーグ・ステーキは、まあまあうまかった。 二人とも満腹すると、リリーが言った。「今日は何の用事で来たの? わたしのところに、ただ食事をするために寄ったんではないんでしょう?」 「それだけの理由で来たんじゃいけないのかね? 実は悪いニュースがあるんだ」 「んまあ! わたしたち、とうとう離婚することになるのね!」 ベリンスキーは吹き出した。 「それほど深刻ではないがね。市のお偉方が、きみのことを本格的に探り始めるらしいよ。本部長がこいつをわたしに見せたのさ。市長が使いに持たせて、持って来たものだと言ってね。きみに関するコレクションさ」 ベリンスキーは買い物袋に詰めてきた例の書類ホルダーを取り出し、折りたたんだ新聞紙の上に乗せた。 「見てもいい?」 ベリンスキーの返事を待たずに手を伸ばし、リリーは書類ホルダーを開いた。二十分程かけて、中味を検討する。 「ふうん、よく調べてあるわ。私のファン第一号にしてあげてもいいかな」 「馬鹿を言っちゃ困る。写真こそないものの、これだけで、当局が乗り出すには十分なんだよ」 「どうして、わたしがお尋ね者にならなきゃいけないの? このあいだのバンの三人組を捕まえたのは、この私よ。あれって、役には立たなかったの?」 「立ったよ。ありがとう。しかし、二時間もしないうちに弁護士がやって来て、ミランダを盾に、三人を持って行ってしまった」 「だあれ? 三人組の継母?」 「われわれには、もっとおっかない女さ。天使の介添えは、必ずしも法執行の役には立たないんだよ」 ベリンスキーはテディベア強盗団の三人組が逮捕されてから、裁判所の罪状認否にかかることなく、大手を振って釈放されて行く顛末を、リリーに語って聞かせた。 「だって、おかしいじゃないの。あの連中が悪いことをしている最中に、捕まえたのにさ」 「証人がいない。逮捕の正当性を示す証拠もない。裁判で逮捕の正当性を認めさせるために、知り合いの、空を飛べる女の子の話を持ち出すわけにはいかないし」 リリーが不安そうな顔をしたので、ベリンスキーはあわてて打ち消した。 「もちろん、わたしはそんなことを、これっぽっちも法廷に持ち出す気はないよ」 リリーはほっとした。 「悔しいわね。悪いことをした人たちが弁護士に助けられて、自由の身になれて、正しいことをしたわたしの方が、法律に否定されなきゃいけないなんて。これがあなた方の言う、『アメリカ法の精神』というやつね」 「そりゃ、わたしだって悔しいさ。だが、どうにもならないんだよ。世の中は《空飛ぶ正義の味方》や《幽霊戦士》といった輩を、絶対に認めようとはしないんだ。自分たちはそんなことをしないという理由でね」 「つまらないの」 「だが、安全第一だよ。これからはもう、きみの正義の味方としての課外活動はおしまいにすること。きみはこの国のどこにでもいる、ありふれた、無名の女の子に戻るんだ。いいね?」 「いいわ。いやだけど。ロジャー、『未必の故意』って知ってる?」 「いいや、知らん。ああ、知ってるとも」 「『それを見逃せば、誰かの不利益になるとわかっている事態の起こるのを、わかっていて、あえて見逃すこと』よ。わたしなら助けられたはずの人たちを見捨てれば、そうなるの。違う?」 「確かにその通りだ。きみの言うのは『不真正不作為犯』のことだろうけどね。だが法律には、『正当防衛』や『緊急避難』といった条項もある。『カルネアデスの板』という話を知っているかね?」 聞いたことがないとリリーが言うと、ベリンスキーは説明した。二人の人間が溺れかけ、しがみつく板が一枚しかないとして、どちらか一方が助かるために、相手を殺してしまっても、その人の殺人罪を問えない、ということらしい。 「目には目を、みたいなこと?」 「違うよ。自己保存の原則が、適応されるということさ。きみが自分の生命や安全を、他人のそれに優先させたとしても、この場合、何ら法律的には咎められないんだよ」 「法律的にはね。その代わり、わたしの良心の問題が生じるわ。わたし、これから毎日毎晩、事故のニュースや犯罪の報道に接するたびに、こう考えるようになるのよ。『ああ、この人たちはなんて不幸なんだろう。法律にも幸運の女神にも見離されているんだわ。そうだ、わたしなら、助けてあげられたかもしれない。あの時、ロジャーが止めさえしなければ』ってね」 ベリンスキーは唸りを上げて黙った。リリーは素知らぬ顔でポットからお茶を注いだ。 ベリンスキーは咳払いした。 「とにかく忠告はしたよ。本当はこんなことを話すのは、重大な服務規定違反なんだよ。市当局も警察本部も、きみに関心を持っている。誰かがきみの正体をつかんだら、きみはたちまちフライにされかねないぞ」 女の子が不安そうな顔をしたので、ベリンスキーは薬が効き過ぎたかなと思った。 「ともかく、このクソいまいましいスクラップを見る限りじゃ、きみは国中の人間の注意を引き始めている。誰かに知られたら、きみは早晩、困った立場に立たされるだろうよ。忠告はした。どうするかは、きみの判断にまかせることにするよ」 ベリンスキーは、間をおいて腕時計を見た。 「長居をし過ぎた。本部に戻らなくては。夕方、またここへ寄るよ。きみは午後は、ずっとここにいるんだろう?」 「わからないわ」 リリーははっとしたように、ベリンスキーを見た。 「ええ、いるわ。心配しないで」 「よかった。今は自分のことを、第一に考えなさい。あんまり空を飛び歩かないように。外出ばかりしていると、本当に、われわれの厄介になるような、身持ちの悪い娘になってしまうよ」 「ご心配なく。とっくにそうなりかけているようですからね!」 「やれやれ。きみは困った可愛い子ちゃんだな」 「今度わたしのことを、『可愛い子ちゃん』なんてぬかしたら、あなたの鼻に、切ったグレープフルーツを押しつけるわ」 「おやおや? 今度はジェームズ・キャグニーのまねかい? オーライ。気をつけるとしましょう。新聞、ここに置いておくよ。《ルナチク・アドバタイザー》だ」 「そこにも、わたしのあつかましいパパラッチ写真が?」 「いいや。ここには愉快なマンガが載っているんだ。きみが大好きだと思ってさ」 「ありがとう。奥さんのベリンダによろしくね。もっとも、私のことは黙っていてほしいのだけど」 「わかってるよ。ところで、あいつもこのところ、おかんむりのようなのさ。私に、外に女がいるんじゃないかと、疑っているらしい」 「まさか!」 「どうしてだい? ある意味、当たっているじゃないか」 リリーは吹き出し、二人は顔を見合わせて笑った。 二人は別れる時、向き合っておたがいの片手を、たがい違いにあわせ、『5つの銅貨』という映画に出てくる、ダニー・ケイと小さな娘のまねをする。 「私たち、血の兄弟よね?」 「どこにいようと」 「死が二人をわかつまで?」 「そんなことにはなりっこないさ」 「アラ・カザム・カザム・カザム」 「アラ・カザム・カザム・カザム」 ベリンスキーが出て行く時、リリーは鉄工場の入り口まで、ベリンスキーを見送りに出た。 バス停に続く、舗装の剥げた道路を、ベリンスキーが歩き去る。 スーツの背中が見えなくなるまで、リリーは黙って見つめていた。それから口笛を吹き吹き、鉄工所の隠れ家まで戻った。口笛はアナハイム・トラベルのコマーシャル・ソングのメロディーだった。 コマーシャル・ソングの作曲者は、ギャラの割には、いい仕事をしていた。
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