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作品名:マイティーリリー 作者:zamazama

第27回   27
                   26 (承前)


 ベリンスキーは意識を取り戻しかけていた。夢うつつの中、全世界が揺れている。揺れているのはベリンスキーだった。叫びたかったが声が出せない。口がなくなっていた。ベリンスキーはパニックに襲われた。口、口がない。俺の口はどうなったのか。手や足は。頭や眼球は。
 声を出そうと、全神経を集中して唇を開く。分厚い肉のかたまりがあって、固くていやな物にぶつかった。
 口。あるにはあったが、酸素マスクに覆われている。
 光・・どこからか射しこめる、光があった。ベリンスキーの意識が急速に回復する。激しい痛みが全神系を襲った。空気の流れが変わり、オゾンが増加する。ベリンスキーは目を開けた。がたがた揺れる台の上に、腹ばいに寝かされている。目の前に何者かの手があった。シーツを敷いた台の上。現実感は微塵もない。体も心も妙に重くて、その上けだるかった。水の底から透かし見ているような、奇妙なつかみどころのなさだけがあった。夢を見ているのか、自分自身が夢なのか、はっきりしなかった。こんなことを考えていること自体、自分が自分でないような気がした。口の中がねばつき、いやに乾いてくる。その時、リリーが目に入った。
 リリー!
 何者かが近づいて来る。台の動きがストップした。ベリンスキーは誰なのか知ろうとして、頭をめぐらそうとしたが、何かに全身をくくりつけられているらしく、体は言うことをきかない。
「あまり動かさん方がいいぞ。さもないと傷口が開くからな」
「誰だ」
 ベリンスキーは超人的な努力で声を出したが、口から漏れたのは、ひとかたまりの空気だけだった。
 何者かが、全身を縛りつけた拘束バンドをはずしていく。
「聞こえるか? おまえに協力してもらいたいことがあるのだ」
 今度は声が出た。
 かすれた弱々しい声が。
「きょうりょく?」
「ゴードン将軍、待ちたまえ。こんなことをして――もし彼が知ったら――」
「作戦遂行の責任者はわたしだ。わたしは全ての決定を下す、義務と責任がある。この男は利用する価値があるのだ。あいつの正体を知っている可能性があって・・・」
「これは極秘作戦なんだぞ。部外者をこんな場所へ連れ込むなんて――」
「それなら心配にはおよびません。こいつは部外者ではありませんからな」
「だとしてもだ――」
「いずれにせよ、この男には一度会っておきたかった。ピーターソン基地へはなおのこと、連れては来られますまい? 補佐官、ご心配なく。全ての責任はわたしが負いましょう。権限はわたしにあるのだから。おい、ベリンスキー、聞こえるか。おまえはルナチク市警察の、ロジャー・ベリンスキーに間違いないのだろうな」
 ベリンスキーをベリンスキーと呼びながら、ベリンスキーに間違いないかなんて、おかしなことを訊くやつだ。
 ベリンスキーは薄ら笑いを浮かべたが、唇はうまく形を結べなかった。
「おい、何とか言え。おまえはベリンスキーではないのか?」
「確かにこの男が、ベリンスキーです。自分は手術中に部屋に押し入り、この男の縫合がすむのを待って、ここに運んで来ましたので」
「なんて無茶をするんだ。死んでしまったら、元も子もなくなるじゃないか」
「あの小娘の正体を探る手間が、はぶけるのですぞ。それにこの男は警官です。警官には守秘義務というやつがある。国家の安全保障に関することだと脅せば、この男は、ここで見聞きしたことは話しますまい」
「そう、うまくいくだろうか?」
「うまくいかなければ、いかせるまでですな、博士」
「きみはことを急ぎすぎるぞ。ものごとは慎重にやらねば。きみが実行力と桁違いの指導力を持った将軍であることは認める。しかしだ――」
「オムレツを作るには」と、低いが威厳のある、将軍と呼ばれた声が言った。「卵を割らなければならない。そうでしたな、博士」
「――わかった。好きにしたまえ」
「ありがとうございます。あなたにご迷惑をかけるような、真似はいたしません。ご心配なく」
「そうは言っても、わたしはこの瞬間、ホワイトハウスのオペレーション・ルームで、大統領と中東情勢について、秘密の話し合いをしている最中だがね」
「なるほど、その辺にぬかりはないわけですな」
 将軍と呼ばれた男の、下卑た笑い声がした。
「この男は、尋問に耐えられるのか?」
 動きがあって、誰かの手があちこちいじくり回すのを感じた。ベリンスキーの全身をくまなく撫でまわし、皮膚を、一インチ刻みにつまんでいるらしかったが、ベリンスキーにはあいかわらず、何の痛覚もない。
「かなり衰弱していますわ。このままだと危険ですわ」女のくぐもった声が、「手術後二十四時間は絶対に安静にしていなくちゃいけないのに。何かあっても知りませんよ」
 突然、ベリンスキーの全身に何かがみなぎると、すみずみまで覚醒した。
「どうやら効いたらしいぞ」
 二番目の声が言い、女の声が、
「即効性はありますが、あまり長くはもちませんわ。訊問があるなら、急いだ方がいいでしょう」
「よし、やつを《ケージ》へ運べ」
 ベリンスキーの周囲で、世界が動き始めた。周囲を覆う防音隔壁のせいで、ひどく耳鳴りがする。目の前にリリーが現われ、光の明度が変化した。
「ロジャー!」
「・・・おはね・・・ちゃんか・・・」
 途端に吐き気に襲われる。
「大丈夫、ロジャー?」
 目の焦点を合わせると、視野が戻った。
「・・・ああ・・・大丈夫・・・だよ・・・ああ・・・大丈夫・・・だ・・・ああ・・・大丈夫・・・だ・・・・」
 同じ言葉を、うわごとのように繰り返す。
 リリーがベリンスキーの背後の空間を、ものすごい顔で睨みつける。
 また人の動く気配がして、ベリンスキーが首を回せない方向で、ドアの閉まる気配がした。
「ロジャー、背中の怪我は、もういいの?」
「・・・ああ・・・大丈夫だよ・・・ああ・・・大丈夫だよ・・・・」
「――よかった! 本当によかった! あなたが運ばれた病院を探そうとして、ルナチク市中を歩きまわったのよ。誰も教えてはくれなかったの、規則だからって」
「・・・リリー・・・ここは・・・どこ・・・なん・・・だね?・・・どうして・・・いたん・・・だ?・・・・」
「わたし、ただ遊びに来たのよ。わたしが警部に会いたいと言ったら、ここにいる連中が連れて来てくれたの。あなたは心配することはないのよ」
「本当・・・かい?」
「本当よ。わたし、楽しくやっているわ」
 リリーの視線が、またベリンスキーの背後に向けられた。
 その返事には、ベリンスキーを納得させない響きがあった。何がおかしいのかまではわからない。麻酔の残存効果と、先ほど打たれた活性麻薬の影響で、ともすれば神経が引き裂かれそうになり、目がさめているのかいないのか、それさえわからなくなってくる。
「どうかしたの、ロジャー?」
「いいや・・・何でも・・・ないよ・・・・」
 またリリーが、ベリンスキーの背後を睨みつけるように見た。
「ところで、ロジャー。ベリンダはどうしてるの? 心配はしていない?」
「・・・ベリンダ・・・ベリンダ・・・って・・・何だね?」
「いやだ、あなたの奥さんじゃないの! しっかりしてよ!」
「・・・そうだ!・・・ベリンダだ!・・・ベリンダはどうした?」

「ベリンダというのは、あの男の妻です」ベリンスキーを連行して来た兵士の指揮官が、ゴードンとカルゲロプロスに等分に目配せして、「われわれが向かった病院にいましたが、この女も捕獲しております。騒がれますと、まずいので」
「ここに連れて来ているのか?」
「いいえ。フォート・ディックスの検問所に移してあります。時期を見て、解放すればよかろうと思いまして」
「それは俺が判断する。だが、それはちょっと厄介だな」ゴードンは腕組みをしながら、顎の先をなでた。「やつには、ほかに家族はいるのか?」
「いいえ、いません。やつと女房だけです」
 ゴードンはおどろいたように兵士を見たが、何も言わなかった。
「マスコミに感づかれないうちに、ことを穏便に処理するに限る。あいつらが嗅ぎ回ると、何かと厄介だからな」
 補佐官がうめくように言うと、ゴードンは苦笑いしながら、それが本音ですなと言ってやりたかったが、口には出さなかった。
「あの子供、さっきからこっちを見ているぞ。余程われわれが邪魔なんだな。われわれがここにいたんでは、話すことも話さんのではないかね?」
「それもそうですな、補佐官。外に見張りを残して、あいつらだけにしましょう。おい、退去するぞ」
「あの男と〈鳥〉の容態が気になるので、わたしはここで観察していてもよろしいでしょうか、将軍?」
「聞こえなかったのか。全員退去するんだ」
 ゴードンは兵士たちを見すえたままで、
「余計な口答えはするな」
 女医は肩をすくめて、何も言わなかった。
「かまわないのかね? かれらの会話が聞けなくなるぞ」
 自分が言い出したにもかかわらず、カルゲロプロス補佐官が訊いた。
「かまわんのです」ゴードンは兵士たちを怒鳴りつけた。「おい、愚図々々するな。早く出るんだ」

「二人だけにして、問題はないのかね?」
 カルゲロプロスは、医師やモニター士官、他の兵士たちとその部屋に入るなり、将軍をふり返った。一同は観察部屋を出たあとで、通路一つ隔てた区画のはずれにある、暗がりのその小部屋に移動したのだった。そこも観察部屋と、ほぼ瓜二つの機能を持っていた。
「いくら、ドアの外に見張りを残しているといっても、何しろ相手は、地球の生物ではないかもしれないんだからね」
 ゴードンは補佐官を皮肉な目つきで眺めたが、何も言わなかった。
 モニター士官が手早くスイッチを入れていくと、温かくなった装置のスクリーンに、天井に埋め込んだ隠しカメラで撮影した、《ケージ》の映像が中継された。
「将軍、医療用データのモニターキットがありませんわ」
「すみません。この部屋には医療用のバックアップ・サポートはないんです」
 モニター士官は医師に詫びた。
「連中の体調は、画面を見て判断してくれ」ゴードンがあっさりと言った。
「会話は聞けるのかね?」
 カルゲロプロスの質問に、モニター士官がスイッチの一つをひねると、部屋に《ケージ》の会話が流れてきた。「――あなたに会おうと思って掛け合ったんだけど、教えてくれなかったの。ルナチク市中を探しまわったのよ。あなたはどこにいたの?」
 それに対して、咳込みがちの小さな声が答えていた。
「ボリュームを上げろ。よく聞こえんぞ」
 ゴードンの命令に、モニター士官が素早くダイヤルの目盛りを上げると、スピーカーの雑音がばかでかくなった。
「わたしは大丈夫よ。あなたを襲った犯人も、やっつけちゃったわ」
「犯人て何のことだ?」
 ベリンスキーを運び込んだ部隊指揮官が、ゴードンに耳打ちした。
 ゴードンはうなずいて、
「それで、そいつらがあの娘の正体について知っている可能性は、ないんだな?」
「ありえないと思います。また知っていても、話せないでしょう。なぜなら――」指揮官は耳打ちしたが、まわりにいた連中には聞こえなかった。
「そうか。それで、そいつらの居所は押さえているのだな? わかった。ご苦労」
 スピーカーからは、恐らくリリーのだろう、しきりと鼻をすする音が聞こえてくる。
 ベリンスキーが震え声でまた何か言った。
「これじゃ何を言っているのか聞き取れんな。盗聴装置の取り付け位置が、悪いんじゃないのかね」
「あとで記録を分析する時に」と、その場にいて押し黙っていた黒人の技術将校が、補佐官に言った。「コンピュータでノイズを取り去ります。また相手の唇の動きを、ビデオ画像をもとに、読唇術の専門家に分析させますので、ご心配いりません」
 カルゲロプロスは赤くなって、モニター画面に目を戻した。
 こいつらは確かにプロだ!
 ゴードンは胸ポケットから葉巻を取り出して火をつけると、ゆっくりと煙を吸い、時間をかけてまた吐き出した。
 ベリンスキーが途切れがちの声でうめいていた。
「ううん、そんなこと――全然――ない――そんなこと――一度だって――」突然〈鳥〉の声が途切れた。「畜生っ、そうか! あいつら、汚い連中だわ! くそっ! くそっ! くそっ! くそっ!」
「あいつは、どうしたんだ? 気でも違ったのか?」
 ゴードンの質問に、リリー自身が答えた。「あいつら、どこかよそに行って、見張っているのよ! 今も部屋の中を隠しカメラと盗聴マイクで、監視しているんだわ! どこかにおもちゃみたいなマイクロホンが仕掛けてあって、あたしたちの声も録音してるのよ!」
「ビンゴ! なかなかどうしていい勘をしてるぞ、ちびのクソガキにしてはやるな」
 しばらくスピーカーからは何の物音も聞こえてこない。
「彼女、どうするだろうね? 盗聴装置を見つけるだろうか?」
「それは無理でしょうな。外からは見えない、防音隔壁の奥に埋め込んであるのですからな。おっと、これは軍の機密事項でした。他言は無用に願いますよ」
「わたしは何も聞かなかったさ。だが、機密事項の一つや二つ、彼女はとうに見破っているかもしれないよ」
「X線か何かを、目から放射してですか?」
 葉巻をつかんだ二本の指で、目から光線を出す仕草をしながら、
「補佐官、あなたは見かけによらず、なかなか豊かな空想力をお持ちのようだ。感心しましたぞ」
「いいや、わたしはどんな場合でも、敵をなめてかかってはまずいと言っているんだよ。あの子の能力は、きみもよく承知のはずだ。並みの人間的な尺度であの子を推し量るのは、いかにも不用心だし、不適切だよ」
「閣下はいやにあいつの肩をお持ちなんですなあ。だが、評価が過ぎるのも、考えものではないでしょうか。あいつがどういう能力を持っているかにもよるが――。やつをどう扱えばいいかは、目下のところ、われわれも頭を痛めている最中でして」
「あの〈鳥〉を法律的見地から、とくに合衆国憲法との兼ね合いからどう見るかは、現在ペリー司法長官が、スタッフと協議の真最中だよ。明日あたり結論が出るんじゃないかな。ひょっとしたら、〈鳥〉を不法入国者とみなして、その線で処置するようにとの決定が下されるかもしれんよ」
「やつを不法入国者とみなすですって? 補佐官、誰がそんな決定を下すのですか。まさか大統領閣下を、それほど愚か者と、見くびっているわけではありますまい?」
「口を慎みたまえ。古くからの顔見知りとは言え、口が過ぎるぞ」
「申し訳ありません。だが、これも国家を思うあまりの放言です」
 ゴードンは葉巻の灰を盛大に落とすと、
「お言葉を返すようですが、閣下。大統領を補佐する、国家の安全保障の要とも言うべき、ブレーンのお一人であられるあなたが、よもやそんなたわごとをお信じになるとは。やつが一体、わが国の領空内で何をやらかしたかは、あなたも報告書をお読みになられたはずだ。やつはわが国の防空監視体制をものともせず、合衆国の領土内を、空と言わず、陸と言わず、自由自在に濶歩し、あまつさえわが国の主力戦闘機の繰り出すミサイルを、やすやすとかわしたのですぞ。やつが不法入国者だと言われるなら、日本軍の真珠湾攻撃など、観光ツアーだ。
 ともかく、ここからお手並みを拝見しようじゃありませんか。手持ちの札をテーブルに出させるんですな。すべてはそれからです」
「だが、すべてがわかった時には、《時すでに遅し》ということだってありうるんだよ」
 ふと見ると、部下や兵士たちが、興味津々カルゲロプロスを眺めていた。
 ちぇっ。まずったぞ。部下の前で、お偉いさんと議論をやらかすとはな。
「将軍」
 言い合いには興味を示さず、もっぱら職業的意識から画面を食い入るように見つめていた医師が、口をはさんだ。
「どうした? やつがゲロでも吐いたのか?」
「〈鳥〉が、脱出しようとしていますわ」
「何だと?」
 ゴードンが医師とモニター士官を押しのけて、スクリーンの真ん前に陣取った。
 監視カメラがあいかわらず《ケージ》の映像を送り続けていたが、その中央では〈鳥〉がいましも飛び立とうとしていた。
 リリーが腕に力を込め、手首と肘を拘束していた金属の輪っかを、瞬時に引きちぎった。リリーは一瞬も間を置かず、胴体の上にかがむと、ゴードンの見ている前で、全ての拘束具を取り外した。
「こん畜生! あん畜生め、ぶっ殺してくれる!」
 ゴードンはベルトのホルスターからコルト・ガバメントを抜くと、部屋を横切った。
「猿ども、ついて来い!」
 兵士たちはM16ライフルや自動小銃、小型機関銃を携行して、将軍に続いて廊下に飛び出た。
《ケージ》と観察部屋を結ぶ直線通路とは反対側から、時ならぬ銃声と叫び声がこだました。
「あれは、何だ?」ゴードンが目をむいた。
 兵士たちも、通路へ飛び出した補佐官も、目を大きく見開いて、その場に立ち止まった。武器を持ち合わせていない医師は、気丈にも廊下に出たものの、彼女に気がついた州兵の一人が、部屋に押し戻した。ヘルメットをかぶり、緊張した面持ちの黒人の軍曹が、腰溜めに自動小銃を撃ちまくりながら、後ろ向きに角に現われ、肩越しに一同に気がつくと、背を向けたまま後退してきた。
 射程距離に入ると、ゴードンが銃を向けた。「おい貴様、何をやらかしてる! 言わないと撃ち殺すぞ!」
「閣下、敵襲であります!」
「何だと? もういっぺん言ってみろ!」
「閣下! 敵襲であります!」
「寝ぼけてるのか? 夢でも見ているのか?」
「いいえ、どちらでもありません! 燃料貯蔵庫の入り口から、何者かが現われて、目下、見張りと交戦中であります!」
「何だと? 何者なんだ?」
「わかりません!」
 その時、通路の向こう端からまた別の叫び声が上がり、軍曹がそちらに銃を向けた。
 一同がふり返ると、曲がり角から、誰も予想しなかった異様な人物が現われた。
「貴様、ここで何を――」
 黒衣のマントを引きずった、青白い顔の、見るからにやせこけた背の高い老人に、ゴードンが叫んだ。
 軍曹が発砲する。
「やめろ! 相手は、無害な年寄りじゃないか!」
 カルゲロプロスがわめいたが、軍曹が打ち込んだ弾丸は、確かに命中していた。
 自動小銃が止まり、マントのすそが広がると、老人はにやりとした。
「それでおしまいか? 無駄なことはするものではないぞ。おまえたちに勝ち目はない。わしは、この世の者ではないのだからな」
「きみは何者なんだ? 要求があるなら聞こうじゃないか。言ってみたまえ」
 バハールは、カルゲロプロスに目をやった。その目に一瞬だが、人間的な光が宿ると、
「わしは姫ぎみを連れて帰るだけだ。邪魔立てするな」
「姫ぎみって、あの――〈鳥〉のことかね?」
 老人は一瞬、考えた。「そうだ。わが姫は、ここにいるはずだ」
「きみたちは一体、どこから来たんだね? 頼む、教えてくれないだろうか。アメリカ合衆国は、地上でもっとも自由を尊ぶ、寛大な国家だ。ことと次第によっては、きみたちを受け入れる用意が――」
「補佐官、口を慎みなさい。あなたには、そんなことを提案する権限はないはずだ」
「ともかく落ち着いて話し合おうじゃないか。われわれは合衆国政府を代表して、きみたちの身柄を――」
「兵士たち! こいつを撃ち殺せ! ぼやぼやするな!」ゴードンが命令した。殺す相手は補佐官ではなかった。「撃て! 撃ちまくれ! どうした! 聞こえないのか? さっさとこいつを撃て! 撃たないか!」
 ゴードンの怒号に、兵士たちは手にした自動小銃やライフルを、バハールに向け、ぶっ放した。
「それで、しまいかな。では、わしの番だぞ」
 バハールが両手を上げ、兵士たちの頭上にさっと伸ばした。
 次の瞬間、見えない圧力が壁となって、ゴードンの真後ろにいた兵士たちを、はじき飛ばした。兵士たちはひとかたまりになって、壁や天井に叩きつけられ、奇妙な角度で首がねじ曲がった。
 突然、通路の向こう端から、悲鳴と阿鼻叫喚が起こり、獣の咆哮のようなものが聞こえてきた。
「何だ、あの声は?」
 ゴードンとカルゲロプロスが顔を見合わせる。
 老人は声の方をふり返り、将軍と補佐官にゆっくりと向き直った。
「あれはおまえたち自身を食い滅ぼす『死』だ。見よ、あれを。おまえたちは、おのれ自身の心の闇が生み出した幻影に翻弄され、たがいに自滅するのだ」
 その声に呼応するように、通路のあちこちから、怒声とわめき声、激しい銃撃の音と、人間の断末魔の叫び声、それにまじって、この世のものならぬ凄まじい咆哮が聞こえてきた。
 突然、二人の背後の部屋から女が駆け出し、両耳を押さえて通路を走り去った。あの女性医師だった。ゴードンとカルゲロプロスが呼び止める間もなく、女は角を曲がり――たちまち凄まじい絶叫が聞こえた。
 ひとかかえもある動物がえさを食い散らかす、舌をびちゃびちゃさせる音。やがて生温かい不快な匂いが漂ってきて、曲がり角から二人のいる通路に向かって、どす黒い、こってりとした液体が流れてくると、女が消えた角から、化け物のようにでかい、ラブラドル・レトリバー犬が頭を突き出した。棒立ちになった補佐官のズボンの股間に、湯気の立つ真っ黒な染みが広がった。補佐官はスローモーション映画を見ているように、硬直したまま、気絶した。
 ゴードンは折り重なって倒れている兵士の一人に駆け寄り、わけのわからない叫び声を発しながら、兵士のベルトから銃を引き抜き、犬とバハール目がけて発砲した。
 老人は冷ややかな表情で弾丸を受け止めていたが、にんまりと笑みを浮かべて、ゴードンに近づいて来た。
 老人のマントのすき間から、絶対に思い出したくない、死んだ連れ合いの顔がのぞいていた。
 居間で、寝室で、最後には夢の中にまでゴードンを追って来て、気のふれた活動家か狂信者のテロリストのように、錯乱した口ぶりで、息子たちの死を嘆き続ける、あの老いた女の顔が。
 見ればその顔は、マントのあちこちに貼りつき、ゴードンにとって忘れたくても忘れられない、あのぞっとする悲嘆の色を浮かべて、非難するようにゴードンの名を呼んだ。
 ゴードンの喉から、気違いじみた悲鳴が上がったのは、その時だった。

 リリーは“椅子”の上で目を覚ました直後、手と足を拘束具の中で動かして、これならわけなく脱出できそうだと踏んでいた。それであとは捕まったふりをして、チャンスを待っていた。
 いましめから抜け出して、ストレッチャーに駆け寄ったリリーは、ベリンスキーの体から拘束バンドを引きちぎると、勢いあまって床に倒れた養父候補一号を抱き起こした。
「大丈夫、ロジャー?」
 ベリンスキーはやつれた笑みを浮かべたが、そのまま気絶した。
 リリーは蒼白になると、ベリンスキーの脇の下に肩を入れ、フェルトでこしらえた人形を担ぐように、ベリンスキーを抱き上げた。
「あなたの扶養家族を忘れないでよね!」
 リリーはベリンスキーを引きずりながら、狭い《ケージ》を横切り、観察部屋との境のドアを蹴破った。ドアは勢いよく飛んだ。表の通路へと向かう。
 リリーが外の騒ぎを聞きつけたのは、二番目のドアを開けた、その時だった。兵士たちの叫び声と、ゴードンとかいう将軍の怒鳴り声が、リリーの耳に届いた。
 リリーはベリンスキーを横たえ、ドアから顔をのぞかせた。
 そこからは見えない死角を、どたどたと走って来る足音が聞こえ、誰かがゴードンに向かって叫んでいた。
 もう一人、おだやかな別の声が何か言い、ゴードンの罵る声が聞こえた。
 好奇心が不安に勝つと、リリーは音をさせないよう、そのドアから歩み出て、曲がり角の向こうをのぞき込んだ。
 そこで信じられない光景を見た。
 リリーには区別のつかない、おっかない銃を抱えた一団の兵士たちが、壁に向かって頭を打ちつけ、うめき声を上げているそばで、ゴードンが立ったまま、軍靴のつま先にわめきちらしていた。背広の男は床に倒れた黒人の軍曹の真上で、ズボンのチャックを下ろして、小便を始めた。
 突然リリーのすぐ間近でドアが開くと、ずたずたに破れた医者の白衣を、細かく手で引きちぎりながら、それ以外は何も身につけていない中年の女が、ものすごい勢いで四つん這いになって来ると、ゴードンと男たちには目もくれずに、曲がり角の向こうに走って行った。
「ふう! 何なの、あれは? 一体、何が起こったわけ?」
 リリーはベリンスキーのいる部屋に戻った。背後でドアを閉め、うずくまってため息をつく。
「姫さま、かれらは夢を見ているのです」
 リリーは弾かれたように立ち上がった。
「あなたは!」 
「いやしきしもべの、バハールにございます。お元気そうでなによりですな」
 細長い体を折り曲げて、老神官がうやうやしくおじぎをする。
「このたびは、遅れまして、まことに申し訳ござりません。館の準備に手間取りましてな。姫ごぜにおかれましては、羽毛の先ほどの憂いもなく、わが館へお運びいただけますよう、再度お願い申しあげまする」
「いやよ!」
「姫さま!」
「いやだったら、いやよ!」
「姫さま!」
 リリーは躊躇しなかった。ベリンスキーを担ぎ上げ、反対側のドアから逃げ出そうとする。
 そこにドアはなかった。
 バハールは片手を差し出すと、リリーに向かって、指を曲げたり伸ばしたりした。
 その途端、リリーの全身から力が抜け、リリーは気を失って倒れた。
「あいすみませぬ。こんな手段は、とりたくはなかったのですが、拙者といえども、あえない幻で、いつまでもやつばらめを、釘づけにしておくことは、かないませんのでな」
 バハールは女の子の上にだらしなく伸びていたベリンスキーを、足で蹴ってわきへ転がした。それからうやうやしく、リリーを肩に担いだ。
 ふと、その目が、ベリンスキーに吸い寄せられた。
 バハールは気絶したベリンスキーの上にかがみ込むと、ベリンスキーの傷口に手を当て、しばらくその姿勢でいた。
 それから疲れた様子で立ち上がり、あらためてリリーを担ぎ直して、外の通路へ出た。

 ベリンスキーが意識を回復したのは、それから間もなくしてだった。
 声にならないうめきをもらし、大儀そうに立ち上がったベリンスキーは、ここ何年も感じられなかったほど、体に気力が充実しているのに気がついた。
 外で物音がしたので、ベリンスキーは廊下へ飛び出した。前方の角を曲がり、そこで信じられない光景を見る。
 兵士たちが頭を壁に打ちつけている横で、四つ星の徽章をつけた、軍服姿の初老の男が裸足になると、仕立てのいい背広服の、ズボンの前をぐちゃぐちゃに濡らした五十男を激しく罵り、二人で取っ組み合い、殴りあいを始めた!



                                (第二部・了)





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