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リリーは泣きじゃくりながら飛び続けた。 わけもなく悔しく、涙があふれてきて止まらなかった。 きみが〈天使〉なんだろう、ハニー? きみが〈天使〉なんだろう、ハニー? さっきの男はそう言った。間違いなくリリーのことを〈天使〉と。 なぜとっさに嘘をつかなかったのか。 あの時なぜ、「違うわ」と言い返さなかったのか。 あの男だって確信があったわけではあるまい。ごまかす余地はあったかもしれないのに、今となっては遅いことは、わかっていた。 明日の新聞には特大の見出しつきで、リリーの正体を暴露する、あの男の署名入りの記事が載るのだろう。 その記事はまたたく間に全国に配信され、海外のマスコミにも取り上げられるだろう。 テレビのリポーターや記者たちが、山のようにルナチク市に押し寄せる。 そうなったら、隠れ家には二度と戻れまい。 隠れ家どころか、この国の、あるいはこの惑星のどこであってもだ。 そうなったら、どうしよう。 そうなったら、どうしよう。 そうなったら、ベリンスキー警部とは二度と会えまい。 ひょっとしたら、警部は仕事をなくした上、わたしのことを知りながら隠していた罪で、法律の罰を受けるかも。 おお。そうなったら、どうしよう。そうなったら、どうしよう。 自分はなんと罪深い女の子なのだろう。これまで関わった人間を、次々と不幸にしてきている。 ベリンスキーやケッセルバッハ、自分が預かり知らなかったとはいえ、ケッセルバッハの同僚で、遺跡発掘現場の事故で死んだという、あの若い考古学者も。 工場で半殺しの目にあわせたあの三馬鹿大将だって、自分がいなければ、あんなにむごたらしい目にあわなくてすんだはずだ。 エスターを襲った男たちだって、ただ彼女の荷物を狙っただけで、半死半生の目にあわされた。 それにあのバハールとかいう老人だ。 リリーを《王女》と呼び、自分の館へ来るように誘った。 リリーがなんとかいう国の支配者で、父と母が生きているのだという! リリーはわけがわからなくなってきた。 ヘイシーの手紙もだ。彼女がこの世界に現われる前に生きていた“眠れる予言者”の遺言。それによれば、リリーはあの太古の国で、神として崇められていたのだという。 神として! この宿なしの、七十五セントの花の種をごまかして、一ドル四十セントで売りつけている浮浪児が、神だったなんて! リリーは飛びながら、激しい胸騒ぎを感じてたじろいだ。強い予感のようなものが、リリーの全身をとらえた。 前方に見慣れない機影が現われる。 製造中止になって久しいDC・10型機で、ルナチク市に向かいながら、後部から煙を吹き出している。危険なほど翼を揺らし、見る見る高度が落ちて行く。 墜落は時間の問題と思われた。 リリーはDC・10に向きを変え、横にはりつくと、しばらく機体にあわせて飛び続けた。窓にはシートが下りて、機内の様子はうかがえない。乗客がパニックを起こさないよう、外の景色を遮断したのだろうか。 雲の切れ目から、眼下に広がるルナチク市が見渡せる。半分は暗闇に包まれ、残りの半分には明りが灯っている。 機は、市の西のはずれにさしかかっていた。閉鎖された空軍の飛行場がそこにはあるはずだ。リリーは機体の真下に廻り込むと、やるべきただ一つのことを実行に移した。DC・10の機体がふわりと持ち上がり、続いて安定した。 リリーは機を水平に保ちながら、機首の方向に進路をまかせた。時折がくっと落ち込む機体を支え、上目づかいに目をやると、DC・10は外殻を震わせながら、雄叫びを上げていた。振動はリリーをも震わせ、歯の根をぶつけさせた。癇癪持ちの月を支えている気がしてくる。 明りのまばらな市の境界のはずれに、黒々と広がる空間が見えてきた。周囲には夜間用の照明が灯され、滑走路が何本も伸びている。 リリーはほっとし、同時に緊張で汗が吹き出した。 DC・10が滑走路に向けて機首を下ろすのがわかった。リリーも覚悟を決める。顔も名前もわからないパイロットに同調し、呼吸を合わせようとする。 耳を聾するエンジン音が耳鳴りを起こし、感覚を麻痺させた。すぐ近くで警告の叫びが上がったが、それが何なのか確かめる余裕もなかった。 航空機事故の大半が、離陸・着陸の合計十一分のあいだに起こることを、リリーはテレビで見た記憶があった。乗客の生命はこれからの数分間の、自分の努力次第で決まるのだ。 リリーは機体を過度に押し上げないよう用心しながら、空港めがけて高度を落としていった。何度かバランスを崩して、胴体から手を離してしまう。そのたびにリリーは悲鳴を上げ、機は先端を大きく下に向けて、墜落しそうになった。リリーは墜落しかけた旅客機を助けるのは初めてだった。DC・10の運命は風前の灯だった。 DC・10は滑走路の一本に狙いを定め、ぐんぐん降下して行った。目の前にものすごい勢いで地面と飛行場がせり上がって来ると、リリーは駐機場と滑走路の位置を目で確認して、そのまま着陸態勢に入った。 両翼のスラットが展開し、機体がピッチとロールを繰り返す。 せり上がってくる滑走路。やがて地面とぶつかった。 リリーはDC・10が地球と接触する寸前、機の真横から飛び抜けて上昇した。機は翼を滑走路にこすりつけ横すべりすると、危険なほど斜めにかしいでフェンスをなぎ倒していった。投光器の光が機体に反射して、あざやかなイルミネーションを描いた。誘導灯がはじき飛ばされ破片となって散乱し、はぎとられたアスファルトが、埃となって舞い上がった。 時ならぬアクシデントに野鳥の群れがいっせいに飛び上がった。DC・10は独楽のように回転すると、翼の一部をもぎとられて、滑走路わきの土手に乗り上げ、ようやく止まった。地面とのあいだに摩擦が生じ、機は真下から白い煙を吹き上げている。爆発するのは時間の問題と思われた。 リリーはいったん上空に退避したあと、DC・10の真上に降下した。 危険なほど煙が勢いを増しているのに、飛行機からは誰も飛び出して来る気配はない。リリーは地上に降り立つと、乗客を助けようと機体に走り寄って行った。 DC・10が熱を帯びているのがわかった。空気全体が熱気をはらんでいた。 消防車はどうしたのだろう。その他の緊急車輛は? リリーは滑走路の向こうに建つターミナルをふり返った。 空港には何の動きもなかった。そういえば、管制塔の窓に明り一つ灯っていないことに、リリーは初めて気がついた。 リリーの頭の中でハイ・アラートが鳴り響き、胸騒ぎが強まった。 だしぬけに、耳慣れない騒音が空中を満たした。 ヘリコプターの群れ。 ホバーリングする、無数のヘリコプターのローターの回転音。 と同時に、建物とその周辺の草むらや空き地や土手の隅々から、人間の集団が飛び出すと、リリーのいる滑走路をめがけて押し寄せ、あっという間にリリーを取り囲んだ。いずれも武装した兵士たちで、ガスマスクをつけ、手にはライフルや自動小銃、よくわからない小型の武器を抱えている。草やコンクリートの色に塗った偽装シートをかぶり、空港のそこかしこに潜んでいたのだった。 二百人ほどの兵士たちは、呆気にとられるいとまもないリリーを取り囲み、ある者は腹ばいになり、ある者は片膝を立て、それぞれが携行した武器をリリーに向けた。 安全装置がはずされ、弾丸が装填される音が鳴り響く。 不時着したDC・10をふり返ると、機体後部の貨物室の扉が開いて、軍服を着た兵士の群れが、自動小銃を手に手に飛び出して来た。兵士たちはガスマスクと暗視ゴーグルをつけているので、人相まではわからなかったが、ぎらつく視線だけは感じとれた。リリーが呆然としていると、兵士たちはまっすぐに滑走路に散開し、リリーを取り巻く内側の円陣を作り、その場で腹ばいになって銃口を向けた。 リリーは目をぱちくりさせながら、DC・10と兵士たちを交互に見ていた。 わたし、だまされたの? 空気を震わせるローター音が高まると、突如、旋風が巻き起こった。 複数のヘリの作り出す気流が、激しいつむじ風となって滑走路を荒れ狂い、地上から埃とアスファルトの破片を巻き上げて、リリーのケープをなぶり、スカートをまくり上げ、リリーをなぎ倒した。その場に展開していた兵士たちですら、ローターの作り出す下向きの風 (ダウンウォッシュ) に吹き飛ばされまいと顔をしかめている。 天を切り裂くサーチライトが四つ、リリーを足止めするように空中から、それぞれの角度で地上を――リリーを照らした。 光の中心から、拡声器で増幅された、神ならぬ人間のだみ声が響いてきた。「おい! 聞こえるか、小娘!」 「誰よ?」 リリーは気流が激しすぎて、口を開けることさえできなかった。 「おい、小娘! 聞こえたら手を上げて、おとなしく降伏せよ! 俺はアメリカ陸軍のゴードン将軍だ! おまえは今、重火器で武装した特別編成の二百人の州兵にまわりを囲まれている! 上空には武装した攻撃ヘリが一ダース待機し、おまえがおかしな素振りを見せ次第、一気に攻撃に移る準備ができている! おまえには合衆国の領土に対する不法侵犯、ならびに合衆国の安全に関して重大な脅威を与えた罪で、政府から拘束命令が出ている! われわれは、今からおまえを捕獲する! だから抵抗せず、降伏せよ! われわれに手向かうことは、アメリカ合衆国に手向かうことだ! 仮におまえがここを突破しても、人工衛星と対空対地レーダーが、おまえの行動を逐一監視し、巡航ミサイルと戦闘機が、どこまでも――そう、どこまでもおまえを追っていくだろう! われわれは過去二十四時間、おまえを監視してきた! そしておまえは今現在も、われわれアメリカ合衆国全軍の監視下にある! 地上におまえの逃げ場所、隠れ場所は、もはや存在しないのだ! おまえの素性と潜伏場所もすべて掌握ずみだ! だから逃げようとしても無駄だぞ、リリー・センチメンタル=デジャ・ヴュ!」 リリーはこの場で兵士たちを襲い、すきを見て逃げ出せるチャンスはあると感じていたが、男の最後の言葉が自信を打ち砕いた。 男の言うことは、たぶん本当だろう。 空軍はジェット機を二機、リリーに差し向けてきた。さっきのDC・10も、リリーをおびき出すための罠であることは明白だ。 彼らは本気でリリーを捕まえるつもりなのだ。だからここを逃げたとして、どこへ行けばいいのか、リリーには見当もつかなかった。 「どうやら、わかったらしいな! しばらく、そこを動くなよ。よし! 全軍、かかれ!」 スピーカーから声が怒鳴った。兵士たちに動きが生じ、その場でいっせいに立ち上がった。リリーはローターの旋風の中で目を開けた。銃をかまえた兵士の群れが、ゾンビのように行進して来る。 この瞬間、飛び上がりざまヘリを叩き壊すくらいはわけもなかった。 一機ふいをつければ、混乱の中で、あと二機は破壊できる。 だが、残りは回避行動に移り、あとは血の海だ。 殺戮が起き、そこら中が血に染まる。その血に自分の物が含まれていないことに、リリーはかなりの自信があった。 だが、兵士たちは? ――あの子はバスケットと詩の朗読が得意な、それはそれは優しい子でね―― ――わたしは子供の感触を忘れてしまったのですよ。お願いだから、抱きしめさせておくれ―― リリーの脳裡に、エスター・ハリスの声がよみがえってきた。 この場にいる兵士たちの背後に、エスターがいた。 リリーにはそれぞれのエスターたちが、輪郭と個性をともない、見える気さえした。 あまりにも無数のエスターたちが、そこにはいた。 リリーはおずおずと両手を上げた。 「意外と聞き分けがいいな! ようし、A班とB班は目標を拘束! 残りは散開して、敵に備えろ!」 「ここに敵なんかいないわ! いるのはわたしだけよ!」 ローターの唸りに混じって、またもや例の叫び声が聞こえた。 「あれは何? 気のせいかしら? 何だったんだろう、今の声は?」 リリーはひとりごちたが、今度のつぶやきも、リリーを取り押さえるために近づいて来た兵士たちの物音と、ローターの音とでかき消された。今度の兵士たちは、黄色い化学戦用の防護服を身につけ、背中にボンベを背負っていた。 リリーが不思議そうに身がまえると、兵士たちがボンベから伸びたホースをリリーに向け、いっせいにノズルからガスを噴射した。 周囲に白い靄が立ちこめ、リリーは咳込み、むせ返った。 手足が痺れ、急速に視界が遠のいていく。 ヘリの操縦席では、ゴードンがくつろいだ様子で葉巻に火をつけ、外部の監視カメラが送ってよこす、地上のリリーの暗視映像を、目を細めて眺めていた。モニタースクリーンの中では、兵士たちの一団が麻酔ガスを浴びせて、リリーを倒したところだった。兵士たちの輪がリリーを取り囲み、先頭にいた数人が、覆いかぶさるようにしてリリーを捕えた。赤外線スコープの中で、リリー物体は身動き一つしていない。兵士の一人が、手にした金属製の輪っかで、リリーの手首と足首を拘束した。その手枷と足枷は、プラチナとチタン合金でコーティングされ、地上ではフットライトの光を浴びて輝いていたが、暗視映像では夜のように黒かった。 リリー物体の手首・足首に拘束具がはめられると、近くの兵士がヘリを見上げ、無線で通話してきた。「地上班よりナポレオンへ。拘束完了」 「拘束完了、了解」ヘリの白人パイロットが肩越しに、ゴードンをふり返った。「将軍。拘束は完了しました」 「ようし、わかった」 「降りて、ご覧になられますか」 「見る? 一体、何をだ?」 「〈天使〉――いえ、物体をです」 「俺がそうしたい時には、そう命令する。おまえは余計な気を使わずに、ヘリの鼻先の心配でもしてろ」 「はっ、閣下。申し訳ありません」 「作戦指令部に連絡しろ。《ケージ》の用意をして待つようにと。捕獲段階は一応完了したとな」 「了解。作戦指令部に報告します」 「意外とあっけなかったな。ここ二、三日はかかると見ていたが」ゴードンは傍らの黒人の副官をふり返り、葉巻を口から離した。「それともまだ何か、奥の手を隠しているのかだ」 「われわれの威力に怖れをなしたんでしょう。〈天使〉とはいっても、所詮は子供ですから」 「見かけに騙されてはいかんぞ。人間かどうかはまだわからん」ゴードンは深々と煙を吸い込むと、 「だが、まあ、だろうな。われわれが敷いた監視網をくぐり抜けることは、どんな生物にだって不可能だ。早くけりがついたのは、おたがいに運が良かった。目印のペンキが消えると、厄介だからな」 ゴードンはむせ返り、コックピットの天井に向かって、いまいましげに煙を吐き出した。 「この安物葉巻め」ゴードンは毒づいて葉巻をかなぐり捨てようとしたが、からくも思いとどまると、「どうやら三軍を頼むまでのこともなかった。〈天使〉といっても、ざっとこんなもんだな」 周囲の人間と自分自身に向かって言い放ち、ゴードンはまたもやゆっくりと煙を吸い込むと、時間をかけて吐き出した。 コックピットに有毒性の煙が立ちこめたが、部下たちは眉一つ動かさず、文句を唱える者は誰もいない。 「よし、基地に帰るぞ。輸送機の手配は?」 「手配なら、とうにできております。C・130輸送機が、すでにこちらに向かって飛び立ったという、連絡が入っております」 「到着はいつの予定だ?」 「ざっと、二○○七時であります」 「ざっと、二○○七時か。ようし、わかった。兵士たちに命令しろ。退却用意」 「退却用意!」 ヘリのパイロットがマウスピースに向かって、号令を繰り出す。 ヘリから投げつけられたいくつもの輪の中に、兵士たちが退却していくさまが浮かび上がった。ゴードンは満足げににやりとした。 「ホワイトハウスにいいみやげができたな。大統領閣下も、さぞやお喜びになられるだろうて」
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