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「言ったでしょう、ベリンスキーよ。ベ・リ・ン・ス・キ・ー。B―E―L―I―N―S―K―I―」 「あんたの発音が完璧なのは認める。スペルも間違ってないよ。でも、あいにくだけど、教えるわけにはいかないんだよ、規則でね」 「だったら、規則を破ってよ。警官なんでしょ?」 「警官だからこそ破れないんだ。ごめんね、お嬢ちゃん」 「いいわよ。もう頼まないから」 受け付けにいた白人のふとっちょ警官がわびたので、リリーもそれ以上はねばれなかった。 ここにいくらいても無駄だわ。やっぱり、病院を一つ一つ当たってみるほかなさそうね。 市警察本部を出たリリーは、駐車場にまわってみた。ベリンスキーの撃たれた場所は現場検証の真最中で、数人の警官がたむろしていた。ビデオカメラを抱えたテレビクルーたちもいる。 リリーはあわてて背を向けながら、あそこにいる誰かならベリンスキーの居所を教えてくれるかもしれないと思ったが、訊こうとした矢先、警官の一人に肘をつかまれて、追い出されてしまった。リリーは憤慨したが、悪気があるわけではないのはわかっていた。 リリーが立ち尽くしているあいだにも、サイレンを鳴らした警察車輌が、出たり入ったりを繰り返している。 ひょっとしたら、あの三人組を逮捕するために、何台かは製鉄場に向かったのかもしれない。 リリーはつい昨日、ジェット戦闘機に追い回されたことを思い出して、ぞっとなった。あれから警察や軍隊が自分を追っている気配はどこにも感じられない。だが、それがうわべのことに過ぎないのを、リリーは知っていた。 ベリンスキーが《隠れ家》へ来るたび、警察という組織の本領や行動パターンについて話してくれたものだが、警察や軍隊といった秘密主義をとるのが信条の集団にあっては、沈黙している時こそが恐ろしい、次なる行動に備えての準備の時期なのだった。 リリーはこうしているあいだにも、自分をめぐる探索の手が、どこからか伸びていることを確信していた。 だからこそ、無駄に費やす時間は、一秒たりともないのだ。 リリーは最寄りの警察病院の所在を尋ねるべく、本部の入り口に戻ると、なるべく優しそうに見える婦人警官を探して近づいた。 リリーの質問に女性オフィサーはとまどったような微笑を浮かべたが、それでも警察病院のありかだけは教えてくれた。 警察病院でリリーが同じ質問をすると、受け付けにいた看護婦が、さっきと同じことを、クリーブランド訛りの標準事務的英語で答えた。 「あなた、お身内の方?」 「いいえ」 「その人のお知り合い?」 「はい、そんなようなものです」 看護婦は書類をめくり、 「あいにくと、そんな人は、ここの病院にはいませんよ」 「今、手術をしているはずなの。ERを調べてくれない? それよか、UCLAっていうの、こういう場合?」 「あなたが言っているのがICU (集中治療室) のことなら、あいにくだけど、お答えしかねますね」 「連れて来られているかだけでもいいの」 「あいにくだけど、規則なので、お答えするわけにはいきませんよ」 「だったら、この近くの病院を教えてよ。陸軍病院? そこに運ばれているのかもしれないわ」 リリーは礼を言って別れた。 で、陸軍病院も同じだった。リリーは途方に暮れた。 そうだわ、あの人がいるわ! ロジャーの上司で、ヘレフォード種の雄牛のような大男さんは? あの人ならロジャーがどこにいるかを、正確に知っているはずだわ。なんたって、上司なんだから。それにロジャーの話じゃ、とても頼りがいがあって、面倒見もいいとか。もしも自分の身に何か起こったら (一体、何が? おお神様!)、いの一番にこの人を頼ってほしいとも言っていた。その人ならわたしが訊いたら、ロジャーの居所を教えてくれるかもしれないわ。 いいえ、だめよ。忘れたの? 彼がベリンスキー警部にわたしの逮捕を命じたんだって、ロジャーが話してたじゃないの。市長か誰か『おえらいさん』が関わっていて、それについて投票で決めたんだって (違ったかしら?)。だとすると、その人が警察内部における、わたしの敵ナンバーワンじゃないの。 そうだ! いいこと思いついた! リリーは今一度、市警察本部までとって返すと、頼みがいのありそうな受け付けの警官を目で探した。 さっきの婦人警官はいなかったが、受け付けにいた新顔のブロンドの婦人警官に近づくと、自分はベリンスキー警部の知り合いだが、警部が来たらこれを渡してほしいと言って、その場でしたためたある物を手渡した。 婦人警官と少しばかりやりとりがあったあと、相手はにっこりと笑って、引き受けてくれた。リリーは落ち着けるところを探そうと、市警察本部を離れ、市内をあてどもなく歩き始めた。 人ごみに混じっていると、少しは気もまぎれる。 夕暮れ時で、夜の気配が忍び寄っていた。早くしないと、子供が一人でうろついているだけで、目立つ時刻になってしまう。 リリーはこの世界で意識を回復してからこっち、たえず頭を悩ませている難問に、今夜も直面しなくてはならなかった。 食糧の調達と、安心して休める、ねぐらの確保。 ともかくも、寝込みを襲われずにすむ、安全な居場所がほしい。それさえ手に入れたら、あとは何もいらないわ。 リリーはまだ知らなかったが、この二つこそ、人類の大半に生まれてから死ぬまでつきまとう大命題だった。そして人類の大多数は、これに対する半永久的な解答を、生涯にわたって見い出せずに終わるのだ。 リリーがその教会に寄ってみる気になったのも、一つには寄る辺ない身の上を、呪わしく思ったせいかもしれない。 目抜き通りを入った、市の中心部にほど近い、リリーにはおなじみのゴシック様式の教会堂は、開け放した入り口から煌々と明りが漏れていた。リリーは集蛾灯の光に、蛾が吸い寄せられるように、教会堂の中に歩み寄って行った。 さして広くもない堂内は、無数の灯明とステンドグラスから洩れてくる光とが相まって、不思議に奥行きを感じさせた。礼拝堂の椅子の列には、人影が一つしか見えない。ベージュのダスターコートを着た若い男で、何事かを熱心に祈っている。 リリーは足音をさせないよう、最前列の椅子に遠回りで近づくと、十字架にはりつけになったナザレ人の受難像をしげしげと眺めた。 ふと気がつくと、正面横手の聖具室の扉が開いていて、一人の神父が見つめていた。 リリーと目があうと、小柄で痩せっぽちの神父は、微笑みながらリリーに近づいて来た。 「お祈りですかな、セニョリータ?」 手にした燭台を祈祷台の上に置いて、老いた神父がリリーに話しかける。 リリーは首をふった。 「それでは悩みごとでも?」 リリーはうなずいた。 「それならば、断然正しい場所を選ばれたわけですぞ。ここは《神の家》(カサ・デ・ディオス)。そして私たちは皆、父なる神の娘であり、息子なのですからな」 神父はひどいスペイン語訛りだったが、流暢な英語で話しかけられるより、ずっとこの場所にはふさわしいものに思われた。神父は赤ら顔で、皮膚にはしわが寄り、アンダルシア地方の民芸品のような、味のある見た目をしていた。胸にはロザリオを下げ、首からは紫の頚垂帯 (ストール) を掛け、すそ長の僧衣を身にまとっている。 「心ゆくまで、天の父にお話しなさいな。わたしもおよばずながら、力になりますよ。主の導きと恵みが、あなたの上にありますように」 神父は十字を切ると、リリーを見てまた微笑んだ。 リリーは心がなごむのを覚えた。「奇蹟が必要なの、神父様。セシル・B・デミルのいんちきスペクタクル映画より、ずっとずっとたくさんの奇蹟がね」 目に涙があふれてきた。 「何か困ったことがあるんだね、セニョリータ。よかったら話してごらん。及ばずながら力になるよ」 神父は打ち解けた口調になって、リリーの顔を覗きこんだ。 「ロジャーが――ベリンスキー警部が――どこにいるのか――見つからなくて――」 「あんたの父さんかね?」 「ううん。ロジャーはわたしにとって――もっともっと、大切な人よ。撃たれて怪我をしているの――死んじゃうかもしれないの――どこの病院に運ばれたかわからなくて――それで――」 「ほほう」 「神父さん――あなたなら――こんな時どうする?」 「わたしなら、まず神に祈るね」 忠実なる神のしもべは、一瞬の躊躇もなく答えた。 「どこにいても、その人が無事でいるように、そして、神の御手に守られるように。祈りが正当なものならば、神は答えて下さるだろう。それが駄目だった場合は、慎んで市の電話案内サービスに助力を求める」 「ありがとう。親切な方なのね」 「いいえ、どういたしまして」神父はまたにっこりした。「その人が助かるように、特別のお祈りを捧げようかね?」 「ええ、お願いするわ。プロがやった方が、効き目が違うでしょうから」 「神は万人の祈りを、分け隔てなく、公平に聞いて下さるお方だよ」 神父はロザリオをつまぐりながら言った。 「『あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要な物はご存じなのである』どの人の心のうちも、神はお見通しになられる。そして、その人の心のありように応じて、適切なるお導きをお与え下さる。どんな人にも分け隔てなく、公平にね」 「そうかしら?」 「そうですとも、セリョリータ」 むっつりと黙りこんだリリーのかたわらで、神父は、 「この小さき神のしもべの良き友に、主の慈悲と恵みと守護のあらんことを」 と唱えた。 「さてさて、わたしはここにいようかね? それとも向こうに消えましょうか?」 「ここで一人でお祈りすることにするわ、アーメン」 「アーメン。あんたのお祈りが天へと届くように、わたしが祈祷文を書いてしんぜよう」 神父はリリーを残して離れて行った。 リリーは本気で祈るつもりになっていた。 今、ほかにできることは一つもないのだ。 リリーは芝居がかった仕草でひざまづくと、十字架を見上げて、独り言をつぶやき出した。 むにゃ、むにゃ。アーメン、アーメン。むにゃ、むにゃ。 「あんたのお父さんの名前は、なんというのだったかね? ロジャー何?」 ふいに神父が声をかけたので、リリーはびっくりして顔を上げた。 聖具室の扉から神父の頭がこまねずみのようにのぞいて、リリーにウインクしていた。 「ベリンスキーです。RO―D―G―E―R―ええっと――B―E―L―I―N―S―K―I―だったかな?」 「ロシア人風だね。それとも、ポーランド人 (ポーリッシュ) かな」 「ええ、確かに警官 (ポーリッシュ・オフィサー) です」 リリーは泣きながら笑い出し、それから至極真剣な表情で叫んだ。「彼は超真面目で優秀な、ルナチク市一、ううん、世界一素敵な警官です、絶対に」 「なるほど、なるほど」神父はリリーの冗談にも気づかず、うなずきながら聖具室の奥に消えた。 あの人、GODの綴りも綴れないんじゃないの? 背後で動きがあった。 リリーがふり返ると、仕立てのいいダスターコートを着た、こちらも見ず知らずの若い大人の白人の顔があった。 「ごめんよ、盗み聞きするつもりじゃなかったんだけど、あそこで考えごとをしていたら、ロジャーという名前が聞こえたもんで」 男は背後の椅子を指さした。 「ロジャーって、あのルナチク市警察のロジャー・ベリンスキー警部のことだったんだね?」 リリーが途方に暮れたように見つめていると、男がかがみ込んで笑いかけた。 「やあ、きみ。また会えたね。ずいぶん探したよ」 リリーの胸に警戒信号がともる。 思わず身を引いた。 「ぼくのこと、覚えてないのかい? 三、四日前、すぐそこの公園で出会った。ほら、きみに花の種を買わされたろう? ホットドッグ・スタンドの主人が寂しがっていたっけ、きみがあれっきり姿を見せないからって。何て言ったっけ、かれの名前。ぼくもあれから何度か足を運んだんだ、きみに会えないかと思ってさ」 なれなれしくリリーに手をさし伸ばしたので、リリーは後ずさった。 礼拝堂にすばやく視線を走らせる。 堂内には男のほかは、ステンドグラスに描かれた聖人たちしかいない。 彼らでは役に立ちそうもない。大声を上げようか。 「逃げないで。ようやく探しあてたんだ。きみにもう一度会いたくてさ。ずいぶん歩き回ったよ」 「わたし、あなたなんか知らないけど――人違いじゃないの?」 「いやだなあ。本当に忘れちまったのかい? 印象が薄いんだなあ、ぼくは」男は肩をすくめた。「B・Jだよ。こう言ったら思い出してもらえるかな。きみに公園のベンチで、花の種と引き替えに、十ドル札をぼられた男さ。ほら、これがあの時の――」 男はポケットから花の種の袋を取り出した。 「ぼくたち二人で、蟻たちの戦争ごっこを観察したろう?」 「ああ、あの時の!」 「ようやく思い出してくれたか。これを捨てずにとっておいたかいがあったよ」 男は袋をポケットに戻すと、 「こんなところで会えるなんて、神さまのお導きかなあ。〈天使〉は神の使いだものね」 リリーが顔色を変えるのを、男は見逃さなかった。「ここはしばらくすると冷えてくるよ。ホームレスの連中も集まってくるし、夜は危険な場所さ。よかったら、よそへ行かないか。きみさえかまわなかったら、社に寄って――」 「失せろ、脳なしのゲスうんこ野郎」 「うん、何だって? よく聞こえなかったけど」 「ううん、何でもないの。あんた、何をやってる人だっけ?」 「新聞記者だよ」 リリーの心に、ハイ・アラートが鳴り響いた。B・Jは目をすがめて、ステンドグラスをまぶしそうに見上げた。 「あれ、とってもよくできてるよね。あそこにいるのは百パーセント純正の、メイド・イン・天国の天使たちだろうね。その下で眠っているのは誰だろう。あの男の頭から、梯子が生え出て天へと伸びているけど、あれって有名なヤコブの梯子の場面かしら? きみはどう思う?」 B・Jは窓の一面を覆っているガラス細工を示し、自分から答を出すようにうなずいた。 「あれって、旧約聖書でヤコブがハランへと向かう途中、荒野でうたた寝をして、天使たちが梯子を伝って、天国と地上を行き来するのを夢で見る場面を描いたものだろうね。よくよく考えると、不思議な話だよね。天使って羽根が生えてるはずだろう、何で梯子を使わなくちゃならないのかな? 天使が人間とレスリングをする話もあるし、聖書っておかしな物語が多いよね」 「それって、ただのたとえ話じゃないのさ。あんたみたいな唐変木が相手じゃ、天使じゃなくても、レスリングの一つくらいしたくもなるわよ」 「ごあいさつだな。聖書の中には、ただのたとえ話とは思えない記述もいっぱいあるんだぜ。『地にはネピリムという巨人がいた』とか、『神の子は人の子の娘らの美しいのを見て、それらと交わり、地上には神と人間の子供たちが大勢生まれた』とかさ。それに旧約聖書のエゼキエル書には、空飛ぶ円盤としか思えない物の記述まで載ってるんだぜ。知ってたかい?」 「世界中の神話や伝説の本は、いもしない怪物や生き物たちの記録でいっぱいよ。ちっとは図書館に行って勉強しなさいよ。それにこの国じゃ、二つ頭の鷲がシンボルマークになってるそうだけど、まさか、あれも実在すると思っているんじゃないでしょうね。あんたには想像力ってものが、これっぽっちもないのね。まさか、あんたも『スターウォーズ』みたいな子供向け映画が、この宇宙で実際にあったことを描いていると信じ込んでいる、頭のイカれた連中の仲間じゃないんでしょうね」 「信じてちゃいけないのかい?」 「ふん、知らないわ。ありていに言えば、勝手にさらせ、だわ」 「それって『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラのせりふじゃないか。きみはかなりの映画通らしいね」 「違うわよ。ヴィヴィアン・リーじゃなくて、クラーク・ゲーブルが言うのよ」 リリーはむきになって言い返し、B・Jの視線とぶつかると、ぷいと横を向いた。 「ごめんよ。怒らせるつもりじゃなかったんだ。ここへ来たのも、きみに会えるように、手がかりを見つけようと、歩き回っていたついでなんだよ」 「どうして、わたしを探すの?」 「ぼくがなぜ、あのステンドグラスの話をしたかわかるかい、おちびちゃん?」 「わたし、おちびちゃんじゃないわ」 「ごめんよ、リリーだったね。リリーって呼ばせてもらってもいいかな?」 「いやだけど、この際、しょうがないわね」 B・Jは小声で笑うと、「子供の頃、ぼくは天使を見たことがあったんだよ。驚いたかい?」 リリーはうなずきかけ、首をふった。 リリーは驚いていた。 「ぼくの家の庭には、大きなすずかけの木が一本生えていて、その枝がすごく太かったんだよ。まだ小さかったぼくは、ある日、庭を歩いている最中に、雷のような光る雲が、庭の真上を横切るのを見た。そこから、大勢の輝く生き物が現われると、生き物たちはまっすぐに、ぼくの目の前のすずかけの木に降りて来て、枝の一本一本に全員がとまった。かれらは絵本に出てくるのとそっくりの天使たちだった。ぼくは嬉しくはあったし、恐くはあったしで、おかしな精神状態になったらしい。一人の天使がぼくに手をふると、ぼくも手をふった。すると天使たちがどっと笑った。一人がぼくを手招きをして、こう言うんだ。 『きみにはわたしたちの姿が、本当に見えるんだね』 って。 天使たちはすずかけの木に、三日のあいだすわり続けた。言いかえると、ぼくには天使たちの姿が、三日のあいだ見え続けたわけだ。子供ながらに、見た物のことは黙っていようと心に決めた。 でも、さすがに四日目になると、ぼくの様子がおかしいことに、両親は気づいたんだろう。ある朝、ぼくが子供部屋からいなくなっているので、家中が大騒ぎになった。皆で屋敷中を探し回り、メイドが駆けつけた時には、ぼくは誰もいない大木に向かって、一心不乱にしゃべり続けていたそうだよ。 結局、天使のことは隠しておけなかった。秘密を打ち明けると、両親がまずぼくにしたのは、ぼくを小児専門の精神科医にみせることだった。ぼくはかなりの期間、おかしな味のする薬を飲まされた記憶があるよ。天使たちはその日を境にぷっつりと姿を消し、すずかけの木はすぐに切り倒されてしまった」 B・Jは口をつぐんだ。 リリーは黙っていた。 「ぼくが本格的に『変な子供』になったのは、それから間もなくしてだった。ぼくは誰とも心を開いて打ち解けられない、いつも一人ぼっちでいる、風変わりな子供になったんだよ。この世には、天使を見られる人間と見られない人間がいて、見られない人間の方がずっとずっと多いんだって、あとになって気がついた。ぼくの言っていること、わかるかい、おはねちゃん?」 リリーはうなずいた。 ちょっぴりだけど、感動していた。 「数日前、ぼくはある場所で、〈天使〉の出現を写真に撮ったんだ。ビスケットの残りかすで作ったような、ちっぽけな安新聞の仕事中にさ。子供の頃に見たのとは、まるっきり別の天使だった。それでも、天使は天使さ。おかげで国中が彼女のことで持ち切りになってしまった。きみも知ってるだろう、あっちの〈天使〉のことは? ルナチク市中を騒がせている、チャーミングな生き物のことさ。きみと会った直後に、ぼくも〈天使〉を目撃したんだ。ほら、ショッピングモールの横の遊園地の観覧車で、子供が宙吊りになったじゃないか。覚えてるだろう?」 リリーは覚えていた。 とてもよく、覚えていた。 「ホットドッグ・スタンドの主人が教えてくれたんだけど、きみがあの公園に現われなくなったのは、まさにあの時からなんだってね。どうして行かなくなったんだい? 花売りの仕事は廃業かい?」 男がまた探るように見たのを、リリーは見逃さなかった。 今度は目の錯覚でも、気の迷いでもなかった。 「へえ、だったら、どうだっていうのよ? あんたには、関係ないでしょ? わたしが毎日公園に行くとでも思ってるの? バッカみたい! それが何だって言うのよ?」 B・Jは黙っていた。 突然、B・Jが声を張り上げた。 「ああ、そうだ! チャーリーっていうんだっけ、あのホットドッグ・スタンドの主人。違ったかい?」 「違うわよ。わたし、時間がないの。行くわね」 「待ってくれ、リリー。行かないでくれ、〈天使〉。〈花〉(ザ・ブロッサム)。マイティーリリー」 リリーが立ち止まり、ゆっくりとふり返る。 「きみが〈天使〉なんだろう、ハニー? きみがルナチク市中を騒がせている、あの孤独な幽霊戦士の正体なんだろう?」 「だったらどうなのさ、すかたん」 「だったら、きみにお礼が言いたくて。当市を代表して、きみに感謝の言葉を――」 「ふざけるんじゃないわよ、去勢された生焼けのヘビ野郎のくせに」 「えっ?」 「馬鹿でおめでたい、門松野郎。人のことを嗅ぎまわるしか能のない、ちんまりした、手すり足すりの銀バエ野郎。ごくつぶしの、皮のむけてない、ミミズのせんずりのちんぽこ野郎。死ね。あんたなんか、死んでしまえ。このあたしが三十秒で片付けた、あのならず者の三馬鹿大将より、ずっとずっと値打ちがないわ。人間以下の畜生よね、あなたって」 「ええっ?」 「あそこの窓から飛び降りてくれない? それよか、あたしがひと思いにその首を、へし折ってやりましょうか? 生きてたって物の役にも立ちそうもない、能無しゲス男の縮れ陰毛野郎の細首男の首根っこをね」 リリーがB・Jに向かって歩き始める。 リリーの目に険悪な光が宿っていた。正気ではない、常軌を逸した殺人者の目だった。リリーはこの瞬間、男を殺すつもりでいた。リリーなら片手で殺せたろう。ひとひねりの必要もなかった。 がたんと音がして聖具室の扉が開いた。 「ハレルヤ! もう見つかったのかね? その人が、さっき言ってた男の人かな?」 リリーは泣き出した。 小さな手で顔を覆い、リリーはその場から逃げ出した。 「待ってくれ! 〈天使〉! リリー!」 小さな姿が礼拝堂のあいだを駆け抜け、扉が勢いよく開閉し、急に静かになった。 「どうかしたのですかな? あの子にこれをあげようと思って、探していたのですが。行 ってしまった。あの子、泣いていたようだったが」 「すみません、ぼくが余計なことを言ったようで。それ、よかったら、ぼくに下さいませんか。あの子に届けておきますけど」 「あの子はまた来るかもしれませんよ、お若いセニョール」 神父は疑わしげに、B・Jを眺めやった。 「あのう――ぼく――新聞記者です。あの子とは知り合い、というか友達でして」 「ほほう。新聞記者とあの子、お友達ね。でしたら、これをあの子に渡しておあげなさい。祈りに必要なロザリオと、これ、防弾聖書です。わたしがイラク戦争の時、従軍司祭として使っていました。これがあれば、撃たれなくてすむでしょう」 神父はリストアップした品をB・Jに押しつけた。鉄板を貼った防弾聖書は、B・Jの手の中で重たく感じられた。 「怪我をしたあの子の父親が、一刻も早く見つかるといいですがな。あんなに小さいのに、かわいそうな子供だ」 「ええ、本当にそうですよね」 「悲劇は絶えぬ、ということですかな。まったくこの世界は、どこもかしこも、邪悪なもので充ちあふれている。邪悪だらけだ。いや、これはわたしが口にすべき言葉ではありませんでした。オ・ディオス・ポル・ファボル・ペルドナル・ラ・ファルタ・デ・ミ・レングア (主よ、わが舌のあやまちをお許し下さい)」 「いや、まったく神父様のおっしゃる通りですよ。この世界は悪に充ちていますよ。悪人だらけだ」 「しかし、主は見ておられますぞ。われらの全ての行いを。その心のうちを。そして、全ては神のみ心のままに起こり、人々は、その折々の思いに応じて量られ、折々の行ないに応じて、裁かれるのです」 「本当にそうでしょうか?」 「そうですとも。イザヤ書にもあるでしょう? 『わたしの思いはあなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる。天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを高く超えている』まさに、それですな。あの小さなよき友に、神のご加護と豊かな祝福のあらんことを。そして、友たるあなたの上にもね、アーメン」 「それはもう絶対に大丈夫ですよ。あの子には神の祝福が絶対にありますよ」 握りしめたロザリオがB・Jの手の皮に深く食い込んだ。 「ぼくはどうだかわかりませんけど、あの子には神様の祝福を受ける資格が、もう十分にありますよ」
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