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リリーはベリンスキーと会った瞬間に、何と言おうか考えていなかった。反対にベリンスキーが何ごともなかったように声をかけた。 「やあ、おませちゃん。元気してるかね?」 「元気してるかねだって。変なの」 リリーはいっときだけど、不安が晴れた気がした。なぜだかベリンスキーを、「パパ」と呼びたい気持ちになった。さすがに実行はしなかったが。 かわりにベリンスキーにまとわりつき、類人猿のように長いその両腕をとった。 リリーがベリンスキーの手のひらに、自分の手をすべり込ませると、ベリンスキーは目を見張ったが、何も言わなかった。 「昨日、あれから電話したけど、きみの携帯にはつながらなかった。電源は切っていたのかね?」 リリーが眉をしかめると、短く刈った髪に白いものが混じった警部は、 「いや、誤解しないで聞いてくれ。きみがわたしのことをどう思っているかは知らないが、わたしは見た目通りの陰気臭い頑固爺さんだ。連れの女の子がトイレに行くと言い残してパレードの前から消え、四時間近く探し回ったあげく、心配のあまり警察に知らせようとして、すんでに自分が警官であることを思い出させられ、次の日になって電話一つで呼び出されても、何一つ変わったことはなかったねと機嫌よくふるまうような、そんな器用な芸当は、わたしにはできっこないからな」 「なんてまわりくどい修飾用法なの。あなたがジェーン・オースチンの同類かもしれないなんて、考えたこともなかったわ、ロジャー」 「誰が、何だって?」 「よしましょうよ、こんな話。せっかく会えたのに、楽しくないわ」 「おやおや、ませた口をきくおはねちゃんだ。やんごとないちびのはねっ返り娘ときたら、一日はぐれて急に大人びたな。どこで何をしていたのか、聞くのも恐ろしいよ」 「わたし、戦闘機に追いかけられて、ミサイルと空中戦を演じたのよ。あ、さかさまか。どうせ信じないでしょうけど」 「いいや、信じるとも。これでも昔は朝飯前に、およそありそうもない話を、半ダースは信じたものさ。リリー、テレビで見ていたよ。デパートのロビーにある、わが家にも一つほしいような大画面のでね。空中戦はともかく、女の子が穴に落ちた事故の現場中継は見た。きみらしき子を覚えていた青年もいたっけ。鼻持ちならないニュース・キャスターについて、辛辣な口をきいた子がいたって」 「ああ、あの人ね」 リリーはテレビの前にいた、パーカー姿の黒人の青年のことを思い出した。二人は市警察本部の駐車場に停めてあった、ベリンスキーのシボレー・コルベットRXに近づいて行く。 「今日こそ、きみをベリンダに引き会わせようと思うんだが、どうだろうね?」 「どうしようかな。心の準備が出来ていないけど、約束だから仕方ないわね」 ベリンスキーはウインクして、電子キーを取り出した。 ドアのロックをはずそうとして、首をひねる。「あれ。おかしいな。解除出来ない」 ベリンスキーは何度もボタンを押して、ドアを開けようとした。それからメカニカルキーを、ケースから引っぱり出して、鍵穴に差し込む。 「妙だな。やっぱり開かない」 「キーを換えたんじゃないの?」 「そんなはずはないよ。わたしの車に、わたしの車のキーだ」 「車がへそを曲げたのかも。もしくはストライキ決行中とか」 「そんな仲ではないつもりだがね。待っててくれ、交通課から万能キーを借りてくる」 「いいわねえ、警察って、便利な物がそろっててさ。わたし用にスペアの万能家族ってのもないか、訊いてきてよ」 「それはいい考えだ。ついでにベリンダに電話して、ごちそうの材料があるか確かめさせるよ」 「あら、おかまいなく。いきなりおしかけたうえに、食事の用意までさせちゃわるいわ」 「心配するな。今日はわたしがこしらえる番なんだから」 「あら、そうなの。じゃあ、フランス料理にしてよ。わたし、一度も食べたことないもの」 「あれ。いつだったか、きみの《隠れ家》で、フランス風チーズ・オムレツを作って、二人で食べたんじゃなかったかな? あの時きみは――」 どうしたのか、ベリンスキーは最後まで言えなかった。 一台のパトカーが走り込んで来ると、ベリンスキーとリリーのあいだに割って入ったのだ。リリーが聞いたのはタイヤの悲鳴と、エンジンの空吹かしのあげる騒音、クラッカーに似た数発の破裂音だった。パトカーは8の字にスピンすると、またたく間に進路を変え、もと来た方へ飛ぶように走り去った。 「何なの、あの車は? ずいぶん乱暴な運転をするじゃないの。まるで――ロジャー? どうしたの? どこにいるの? 隠れてないで出て来て、ロジャー?」 ベリンスキーが倒れていた。 入り口の手前、数フィートのところに。 アスファルトの車寄せに血が流れて、血溜まりとなって、早くも凝結していた。 「ロジャー!」 リリーはベリンスキーに駆け寄った。 「ロジャー! 誰かっ! 助けて! ロジャー! ロジャー!」 「・・・心配ない・・・たいしたことは・・・ない・・・かすり・・・傷だ・・・・」 ベリンスキーは玉の汗を額に浮かべて歯ぎしりした。フランネルのスーツは、二の腕から肩甲骨から背中にかけて、どす黒い染みに覆われ、いくつかの穴からは、クリーニングに出したわけではない湯気が立ちのぼっていた。 銃声と騒音を聞きつけた数人の警官が、建物や駐車場の近辺から駆けつけて来た。 「警部、聞こえますか? 警部? 警部?」 警官の一人がリリーを押し退け、ベリンスキーをかかえ上げようとした。 ベリンスキーは血反吐を吐いた。 「馬鹿、動かすな!」警官の一人が叫んだ。 「駄目よ、立てるわけないでしょ! 救急車! 呼んだらいけないわ、パトカーは! 警官に撃たれたのよ!」 集まった警官たちは、全員リリーを無視した。 「・・・ありがとう・・・大丈夫だ・・・それよりも・・・わたしを襲った・・・犯人の・・・目星だが――」 「わたしにまかせて! 必ずつかまえてみせるから!」リリーは警官たちを突き飛ばすと、走り去った。 「・・・いかん・・・あの子を・・・行かせちゃ・・・いかん・・・止めろ!・・・追いかけろ・・・・」 ベリンスキーは立ち上がろうとして、崩れるように倒れ込んだ。
リリーは飛びながら、ルナチク市を南北に縦断する通りを見下ろしていた。渋滞をまぬがれた道路の上を、車列に割り込み、あいだを縫うように走り続ける一台のパトカーを見つけるのは、この高さからでは雑作もない。パトカーは入り組んだ市街地の一つに走り込むと、かんばしくない風評の地区にある、行き止まりの路地にすべり込んだ。突き当たりに巨大なゴミ収集箱が設置され、白いバンが横付けされている。パトカーはそのバンの真後ろに止まった。パトカーから制服を着た警官たちが走り出す。一人がゴミ収集箱に潜り込むと、青い防水シートを取り出して、パトカーにかぶせた。もう一人が車体をシートの下に隠すと、止まっていたバンの後ろに回り込み、ドアを開けた。 バンはあらかじめ運転手が待機していたのか、二人が乗り込むと同時に、パトカーを突き飛ばして走り出した。リリーは気づかれないよう、バンを上空から追跡した。バンは幹線道路の一つに乗り入れ、ハンドルを切り損ねて対抗車線に入ると、違うレーンの車をかき乱して、追突事故をいくつも引き起こしている。手配されていないせいか、走行をとがめる警察車輌は皆無だった。バンはスピードを落として、ターンパイクの一つに乗り込むと、北へ向かうフリーウェイに入り、彼方まで伸びたコンクリートの綾織模様の一つを高速で走り始めた。リリーも高度を下げて、ぴたりとついて行く。 二台の白バイがサイレンを響かせて、フリーウェイを後方から近づいて来ると、バンを追跡し始めた。追跡は五分ほども続いたが、呆気なく白バイを引き離して、バンは走り去った。今度は一台のパトカーがサイレンを点滅させて、バンの後方へ迫って来た。バンも気がついたのか、突如スピードを上げると、周囲の車を蹴散らしながら、公道の上で抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げた。バンがジグザグに走行すると、パトカーもついたり離れたりを繰り返す。二台の車輌はピルエットを踊るバレエ・ダンサーのようだった。リリーはパトカーに加勢しようと、さらに高度を落としかけ、あわてて急上昇した。自分が応援に駆けつけたとして、警察がそれを受け入れるか自信がなかった。リリーは上空から見守るだけにした。パトカーの追跡はあっけなく終わり、バンがパトカーに横づけした途端、体当りをくらわせた。パトカーは側壁に激突して、独楽のようにスピンした。タイヤから炎と煙を上げて横転すると、パトカーは流行遅れのモードのように、あっという間に飛び過ぎた。無線で仲間を呼んだのではと四方に目をこらしたが、それらしい車は影も形もない。 目の隅に気配がして、リリーは視線を向けた。ヘリが一機、遠くを飛行していた。 (空軍? 警察!? ) ヘリはしばらくリリーにつきそうように飛び続けたが、突如機首を翻すと、どこへともなく遠ざかって行った。リリーはほっとしたが、同時に割り切れない何かが残った。 リリーの追跡は四分ばかりも続き、気がつくと、眼下に馴染みのある風景が広がっていた。《隠れ家》の製鉄工場の廃虚が見えた。 この高さから見ると、工場ごと廃棄され見捨てられたそこは、市街地がすっぽり入るほどの巨大な鉄の墓場だった。 いつだったか、ベリンスキーがここを訪れた際、世界が滅びるとしたら、精神の腐敗と堕落によってではなく、物質が荒廃することによって、いわば物質そのものの裏切りによって、滅びるのではないかと語っていたことを、リリーは思い出した。 白いバンは敷地に走り込むと、製鉄工場の建物の一つに横づけした。リリーが《隠れ家》に頼んでいた棟から、ほんの目と鼻の先だった。 バンの中から三人の男が駆け出して、建物内に走り込んだ。車内で着替えたのか、うち二人は警官の制服を脱ぎ捨てている。中の、やたらと丸い体型の男が引き返してきて、きょろきょろと見回していたが、その目がリリーに気づいて何か叫ぶと、あわてて引っ込んだ。 リリーは音もなく、バンの真後ろに着地した。工場の中からは金属が立てる反響音が響いてきたが、じきに静かになった。風さえそよとも吹いてはこない。 待つことに飽きたリリーは、バンの中をのぞいた。バンはテイクアウトの中華の空き箱のように、空っぽだった。リリーは倒れたベリンスキーの姿を思い出し、いまいましそうに叫び声をあげて、バンの横腹を蹴りあげ、マシュマロのようにひしゃげさせた。車体の底を持ち上げると、工場の外壁にぶち当てた。何十年も静まり返ったままだった敷地に、破壊された建物の悲鳴がとどろき、破片が埃となって細かく舞い上がった。 リリーは気を鎮めると、四角く切り取られた出入り口に足を踏み入れかけた。目も眩むようなスパークと銃撃が、リリーの脳天と心臓を襲った。 天井まで吹き抜けの工場には、火が落とされて久しい溶鉱炉と、切り取った鉄板を圧延加工するための巨大な圧延装置の列、その装置に鉄板をくぐらせるためのローラーが並んだ、錆びついたベルトコンベアーの列がいくつもあった。工場内部をぐるりと囲む形で足場があり、その一つに男たちが陣取っていた。 武器を持ち、リリーを待ち構えていた。 リリーのまわりをサブマシンガンの弾丸が飛びはね、床や壁に弾痕を作った。 リリーは三人の予想より、いくぶん速く動いた。 悲鳴がほとばしり、銃身を切り詰めたショットガンが、男の一人の手から叩き落とされた。 男は〈バンビ〉だった。次の瞬間、男は足場から落ちて、背骨を折っていた。もはや痙攣して見る影もない。 白いケープをまとった風が旋回し、天井近くに陣取る。 リリーはのたうつ男を見下ろし、一瞬だが躊躇した。その悛巡が、残った二人に逃げ出す時間を与えた。男たちは間を置かず移動した。 明り取り用に、天井近くに窓が並んだ室内は、見通しも暗く、男の一人がサブマシンガンをかかえてぶっ放したが、弾は照明用のケーブルを切断し、用済みの電球をいくつもぶち割って、火花を散らした。 リリーは天井の暗がりに身をひそめ、息を殺した。男たちの立てる足音と喘ぎ声が、研ぎ澄まされたリリーの耳に、はっきりと聞こえた。足音は工場全体に反響し、余韻を残した。 リリーは浮かびながら待った。 足音が止まると、リリーは素早く移動した。 男たちが消えた足場の上を、腕を組んだまま一直線に。 入り組んだ足場と鉄骨越しに地面が見えた。その中間の暗がりに影が見える。しきりと上下を気にしながら、一本の梯子にしがみついている。 足場と足場を繋ぐ鉄骨の梯子は、かなり危なっかしく、リリーが足桁のあいだをくぐり抜けて前方にだしぬけに浮かぶと、男は調子っぱずれの悲鳴を上げた。 「あんた、お名前はなんていうんだっけ、おデブちゃん? あんたと会うのは、三度目のはずよ。一度目は強盗を働いて逃げるバンの中、もう一回はケッセルバッハ教授の邸の地下室だったわよね。覚えているでしょ?」 〈ケトルベリー〉は目を泳がせ、天井の暗がりを見上げた。持っていたショットガンをとり落とす。 「どうなの? 覚えてるんでしょ?」 〈ケトルベリー〉はあわててうなずいた。食わえた手をちぎりかねない勢いで。 「あのあと部屋は掃除したんでしょうね? ゴリラみたいな男が葉巻の灰を巻き散らしていたんだから。それとも、あのままで出て来たわけ?」 「そうとも、おまえの家同様、そのままさ」 リリーがふり返ると、キャットウォークに立った〈マーキュリー〉が、安全装置をはずしたウジをリリーに突きつけた。 冷たい銃口が額にぶち当たる。 「いよう、待ってたぜ、ちびの白グソ。お祈りを唱えな。十秒であの世に送ってやるぜ」 「ふざけないでよ、ブラック肉だんご。こんなもんであたしが殺せると、マジで思ってるわけ?」 〈マーキュリー〉がコンマ数秒たじろいだ。「面白い。やってもらおうじゃねえか。俺が〈バンビ〉みたく殺されるのが早えか、てめえの脳天が吹き飛ばされるのが先か」 「あら? あのお仲間、〈バンビ〉っていうの? 意外とキュートなお名前ね。あなたなんか、さだめし〈フォントルロイ〉とかっていうんじゃないの?」 「ほざけ、あほうが――」 リリーは目にも止まらぬ早さで、銃口をかいくぐった。 ウジが炸裂し、弾丸が天井の金属に跳ね返って音を立てる。 デブの〈ケトルベリー〉の背後で――太った男はきびすを返して逃げようとしていた――ウジが鉄板にぶつかり、骨の折れる音と、「ぐぎゃっ」という悲鳴がとどろいた。 狭い通路を駆け出した〈ケトルベリー〉の視界に、白いモスリンの塊が動いた。 次の瞬間、目の前のキャットウォークに、えびぞりになってのたうち回る肉塊が落ちてきた。肉塊は〈マーキュリー〉で、片方の腕が肘の付け根から、逆方向に折れ曲がっている。口から泡を吹いて、トラックに轢かれた子猫のように、くぐもった声で叫んでいる。 リリーが〈ケトルベリー〉の眼前に舞い下りて来た。 「今度はあんたの番だね、ロスコー・アーバックルちゃん?」 〈ケトルベリー〉は自分で始末をつけた。 悲鳴を上げて、リリーから逃れようと手すりを乗り越え、とっさに地面までダイビングしたのだ。手すりから下までは、ゆうに百フィート以上もあった。 リリーが呆気にとられていると、見事なスローモーションで落ちていくデブちんが見え、続いて打撃音と悲鳴がとどろいた。〈ケトルベリー〉は体重と落下の衝撃であごと膝を割り、ボスとは違う音色で、混声二重唱の雄叫びを上げている。 「どう、これでまいった?」 「畜生、誰がまいるか」 〈マーキュリー〉がキャットウォークに這いつくばったまま、背中からコルトを抜き、立て続けにひきがねを引いた。 火線から飛び退いたリリーの下で、弾丸が舌打ちをあげ、弾切れになった。 「クソッ。クソッ」 「自己紹介ありがとう、人間のクソ。ひょっとして《クソ》がしたくて、ママにせがんでるだけ?」 「ほざけ、白マン。てめえ、ここに降りて来い! 薄気味わりいそのばけもの面をはいで、ぎたぎたの屑肉にしてやるぜ」 「ぎたぎたになるのは、あんたの方だよ、ブラック・ソーセージ。あんたは死んだ肉も同然だ」 リリーはキャットウォークの目の前に着地した。 「よせ。何をしやがる」 リリーはブーツの音も高らかに、〈マーキュリー〉に近づいた。 「やめろ。来やがると、承知しねえぞ」 「承知しないと、どうするのよ、半分健常者」 「殺してやる! 殺してやる! てめえなんか、殺してやるぜ!」 〈マーキュリー〉が唾を飛ばしてわめいたが、リリーはかまわず手すりを握りしめ、ケープの浮力でわが身を浮かすと、キャットウォークを力づくでねじ曲げた。 恐竜の咆哮のような軋みを上げて、手すりが折れ曲がり、キャットウォークは盛大に傾いた。 「や、やめろ。て、てめえ、一体、何を――おい、やめろ! やめろったら、やめろ! よせ! やめねえか! やめろったら、やめろ!」 「やめるかどうかは、おわかりでしょう、賢いんだから?」 よじれが進んで、鉄板がさらに傾く。 〈マーキュリー〉がずり落ちそうになり、折れていない方の腕で手すりにしがみついた。はずみに折れた肘が背中の下敷きになり、〈マーキュリー〉はこの世の終わりのような悲鳴を上げた。 「頼む! 後生だ! やめてくれ! やめてくれ! 頼む! やめてくれ! やめてくれ! やめてくれ! やめてくれ!」 「おやめ下され、姫ぎみさま」 リリーが見上げると、空中に影が浮かんでいた。 黒いマントで身を包んだ、不気味な老人の姿だった。 〈マーキュリー〉がため息をついた。「遅すぎるぜ、じいさん! 早いとこ――」 その途端、リリーは最後の力を込め、キャットウォークをねじ切った。 悲鳴を上げ、〈マーキュリー〉が落下した。 ぐしゃっと音が聞こえて、あたりは急に静かになった。 「殺しておしまいになったのですか、姫ぎみさま?」 「ううん、勝手に落ちて行っただけ。わたし、通路を破壊しただけよ。ベリンスキー警部の仇をとったの。どうせやつらは悪党だし――」 リリーは相手が誰なのかを急に悟った。「あんたは、このあいだの! なんだって、こんなところにいるのよ?」 「ご機嫌はいかがであらせられまするかな、姫ぎみさま?」 「いいわけないでしょ。こいつら、ベリンスキー警部を襲ったのよ。最低の気分よ」 「だから殺すのですか?」 「ううん。夢中でやっただけよ。いけないことをしたかしら。だけど正当防衛だし、やつらをやらなきゃ、こっちがやられていたもの。それより、あんたは何だってこんなところにいるのよ? まさかベリンスキー警部を襲ったのも、あんたの差し金じゃ――」 「何のことでしょうか。拙者は様子を見に来ただけでして。自己紹介が遅れて申し訳ありませぬ。わが名はバハール。かつて、とある王国で神に仕え、数々の儀式をとりしきりましたる、いやしきしもべの神官にござりまする」 「まさかその王国っていうのは、アトランティスっていうんじゃないでしょうね?」 「おお、よくぞ、その名を! 栄えあるアトランティス! われらが栄光の日々よ! したが、その名を口にするのは、とつくにに生まれた野蛮人どもだけでして。わたしども内地の人間は、ただ『国』とだけ呼んでおりましたがな。何しろ文明と呼べる世界は、あの地にあそこだけでございましたから。さてはご記憶でございましたか。あなた様はかつて、あの地で支配者の世継ぎとして、生ける神の子として、君臨しておられたのですぞ」 「ふん。あんたもレスター・ヘイシーと同じで、酔っ払いのたわごとみたいな予言を信じているわけじゃないんでしょうね」 「誰が、何を信じるのですと?」 バハールはわざとらしいほど驚いたように目を細めた。それから空中をゆっくりと下降すると、リリーの目の前に着地する。 「そばへ来ないで!」リリーは素早く身を翻して、逃げ出しかけた。 「お待ちくだされ! 拙者は予言も行う神官ですが、今はこの目で見、この耳で聞いたことだけを、話しているのですぞ。まあ、お聞き下され」 「わたし、姫ぎみじゃないわ」 リリーが逃げようとしながら、興奮した口調で叫んだ。「あいにくと、リリー・センチメンタル=デジャ・ヴュって、結構な名前があるんだから!」 「ほほう、面妖な。あなたはかの世界では、リリトスと呼ばれ、《宇宙の瞳》と歌にも謳われていたのですぞ。リリーとリリトス。奇遇ですかなあ」 リリーは逃げるのをやめ、不安そうにバハールを凝視した。 「ようやっと、話を聞く気になられましたか。過日は、あのケッセルバッハとか申す魔術師の館で、とんだ不調法をばいたしました。あなた様にお目見えできた感激のあまり、ついついあわてふためきまして、拙者、後先をも考えず、あのような仕儀におよびました。さぞやお姫さまにおかれましては、動転なされたことでございましょう。あなた様を怯えさすつもりも、脅かすつもりもございませなんだ。その点、慎んでおわびいたしまする」 「本当?」 「本当でござります、姫」 「姫じゃないってば」 「では、なんとお呼びすればよろしいので?」 「リリーよ」 ためらった後につけ加える。 「リリー・センチメンタル=デジャ・ヴュよ」 バハールが眉をひそめたので、リリーは肩をすくめた。「ただのリリーでいいわ」 「それでは《ただのリリー》。みどもとともに、館へまいりましょう。お父上様とお母上様もお待ちかねです」 「わたしの、パパとママ?」 「左様。前にも言わなかったですかな?」 「前にも聞いた気がするけど――ううん、やっぱり知らないわ。わたし、全然知らないわ」 「左様でござりまするか、姫さ――《ただのリリー》。みどもがそれについてお聞かせする前に、逃げ出しておしまいになられたのですな。あなた様をお探しする苦労が、ようやく実うたと思うた矢先に――」 「ごめんなさい。あんまりあなたが急に現われたもんだから。それにあいつらは、この街のダニよ。なんだって、あんな連中とつるんでるのよ?」 「つる・・・なんですと?」 「なんで、あの連中と《組んでいる》のかって訊いてるの」 「いいえ、《組んでいる》のではございません。かかる輩を使えば、色々と役に立つかと思いましただけでして。公益奴隷のごとき手合いですからな」 「公益・・・何? とにかく、あなたの言ってることって、ちんぷんかんぷんなのよね。こことは違う世界に生まれたからでしょうけど」 「見目うるわしき《御国》でございます。そしてあなた様の、生まれし国でもあります」「でもって、それはアトランティスだって言いたいんでしょ?」 「とつくにびとの呼び方に従えば」 「はい、はい、従えばね。誰か、精神病院に電話してよ!」 「リリトス姫、わたしと一緒にまいりましょう、わが憩いの館へと」 「館? 何のことよ? 駄目よ、行けないわ。ロジャーが怪我をしているの。死ぬかもしれないのよ」 「ロジャー? ああ。あの、あなた様をたぶらかせている、『警官』と呼ばれる、この世界での衛士のことですかな。お気遣いなく。急所ははずすようにと、指示しておきましたでな」 バハールはしまったという顔をした。 「何ですって? それじゃあ、やっぱりあの三人は――」 リリーが逃げ出そうとして、バハールに腕をつかまれた。 「どこへまいられるというのですか?」 「離してよ!」 「なりませぬ」 「離してよ! 離してよ!」 「なりませぬ!」 バハールの声に、リリーははっとしてふり返った。 目をそむけようとして、一瞬早くバハールの瞳に、奇怪な光が宿る。 リリーの全身から力が抜け、不快なうずきが背骨の奥から這い上がってくる。 それは不快であると同時に、叫び出したくなるほどの快感を感じさせる、奇妙な衝動だった。 リリーの手首をバハールの手が、さらにきつく握りしめる。 もう片方の手を差しのべると、 「見なされ、姫。これを見なされ」 だめよ! 見ちゃ駄目よ、リリー! 「これを見なされ。姫! 見なされ!」 リリーは自分の目が、バハールを仰ぎ見るのを感じた。 目の前に水晶があった。 ひとかけらの水晶の小粒。 砕けた半透明の結晶は、しわだらけの老人の指先で、リリーにはわからない原理で、深い水底のような、みどり色の光を放っている。 リリーが初めて見る、超自然的な、みどり色。 見る者の心を眩惑させる、あやしいみどりの輝き―― 「見よ! これを! 見よ! 見よ!」 水晶に目が釘づけになり、視線をそらそうにも、そらせられない。 全身に力を込め、水晶に手を伸ばそうとしたが、硬直したように金縛りにあって、びくともしなかった。 神経が麻痺していた。 それでいて意志とは全く別の力にコントロールされ、リリーの体はバハールの意のままに動かされていた。 水晶のカットされた表面から、微細な光線が射し込め、リリーの視神経を通じて脳髄を射し貫いた。 リリーの頭の奥で声が聞こえた。 命令するような、哀願するような、怒気を含んだ震え声。 リリーが初めて聞く、それでいて昔から知っているような、馴染み深い不思議な声が。 頭の奥で知覚の扉が開き、蝶番のきしむ音が聞こえる。 リリーの知らない、隠された宝庫の扉が開く。 その扉から光があふれ、リリーを満たした。リリーは全身が痙攣した。麻痺した肉体のうち、そこだけは意のままになる涙腺から、熱いものが込み上げてくる。 体の内部で、光が指となってリリーをかき回し、リリーの中心部をまさぐり始める。 リリーは悲鳴を上げた。 声が出なかった。 叫べなかった。 走りたかった。 動けなかった。 リリーは気が遠くなりかけていった。 その時、どこか遠くの方で、金属の立てる鈍い音が響いた。 続いて、誰かの罵る声。 リリーを縛っていた力がゆるむ。 リリーが我に返ると、目の前に黒衣の老人がいて、おびえた様子で下を見つめ、激しく身震いしていた。 その手に先ほどの水晶のかけらがないのを、リリーはいちはやく見てとった。 つられたように下を見ると、床の上のドラム缶に、一匹の丸々と太った黒猫がいて、空中に浮かんだリリーとバハールに、あきらかな敵意を向けていた。 それは工場に隠れ住む不法侵入者だった。狩りから (食後の散歩から?) 戻ってきた住みかの床に、見慣れない闖入者が転がっているのを見て、驚きとまどっていた。そして空中に浮かんでいる、鳥ではない生き物の姿に、不審と憎悪の念をたぎらせていた。 リリーはそんな場合ではなかったものの、生き物の姿に心を奪われた。 「あれは――何でしょうか、姫よ?」 「ええっ? あれって猫じゃないの。テーブルの上で湯気を立てている七面鳥の次に、地球で一等素晴しい生き物よ。あなた、猫を見たことがないの?」 「ありませぬ。あのような生き物は、拙者、初めて目にいたしまする。まるでいにしえ人の言う、地獄の使いのような――」 「何を言っているのよ。猫なんて、この世界にどこにもいる、ありふれた生き物よ。あんたやあたしよか、珍しくもないわ」 「いいえ。いにしえ人の国では、ついぞ見かけたことがありませぬ。拙者、身の毛もよだつ思いがいたす。あらためて出直すといたそう」 言うが早いか、バハールはかき消えた。 同時に、空中に張りつめていた緊張感も失せる。 リリーはキャットウォークの床に、ばったりと倒れた。 ベリンスキー警部はどうなったろう? いや、それよりも三人組の手当が先だ。 リリーはキャットウォークから飛び下りると、ふらふらとなって床に降りた。 目の前が嵐のサンフランシスコ湾の高波のように動揺し、立っていることもおぼつかない。 リリーはぎこちない足取りでドラム缶に近づいた。 「ありがとう。おかげで命拾いしたわ」 リリーが礼を言うと、生き物は優雅なしぐさで両方の前足を伸ばし、膝の表と裏を丹念になめ始めた。この距離からだと、相手の法外な丸まっこさが目を引く。リリーには毛ほどの警戒感も感じてはいないらしい。 リリーはそっと手を伸ばして、手袋を脱いで生き物の全身を撫でると、ビロードのような毛触りにしばし恍惚となった。 「あんた、ずいぶん太ってるのね。テレビで見た潜水艦みたいよ。バチスカーフっていったかな。あんたさえ良けりゃ、飼ってやってもいいわよ。あたし、あんたみたいなお隣さんがいるなんて知らなかったの。なんにしてもあんたのおかげで、危ないところを助かったんだから」 工場のどこかで呻き声があがった。 「あんた、当分ここにいるんでしょ? あたしたち仲良くやりましょうよ。ここ、動かないでよね。ちょっと行って、用事を片づけてくるからさ」 リリーは人さし指を突き立てると、足早に離れて行った。 走りながら全身に奇妙なほてりがあるのに気づく。 一方、ドラム缶の上では、素晴らしい手触りの黒い神秘的な生き物が、全身これ愉悦のかたまりといった風体でのどを鳴らすと、ドラム缶のわきの工作機械の真下に転がっている、みどり色の光る石のかけらに目をとめ、小首をかしげていた。
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