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作品名:マイティーリリー 作者:zamazama

第19回   19
                   19


 アンジー・チャイナは窓の外に目をやり、その日で何十度目かのため息をついた。外には中西部の陽光に照らされたアスファルトの街路が伸び、数分も目を向けていると、視界全体が緑色の斑点に覆われてぼやけてくる。今はお昼を過ぎ、目抜き通りから引っ込んだ通りには、人っ子一人見当たらない。朝と夕方の通勤時刻でも、ここはそれほど通行量の多くない場所だった。人通りのある中心部からはずれた、ぱっとしない、人目につかない場所にあるのだ。
 人生の中心である華やかなメインストリートから落ちこぼれた自分にはぴったりの場所だと、アンジーは耳元のひときわ目立つ装身具を揺らしながら思った。
 高校二年の夏、地元の演劇ワークショップの定期公演で、ありふれた神秘劇の出し物に出演したのが、アンジーの人生でのけちのつき始めだった。
 アンジーの役はごく初歩的なトリックで大衆をたぶらかす、前世紀のインチキ霊媒師の役だったのだが、これが結構好評を博し、地元のローカル新聞の劇評に、アンジーだけが写真入りで取り上げられたのだ。
 劇そのものは、さして新鮮味も完成度も高くなかったが、劇の後援者で地元の有力企業のコーン加工工場の好意で、観客は無料で入れた上に、主催者が町一番のレストランでカリフォルニア産のワイン付きディナーを振る舞ったこともあって、劇評担当の記者が好意的な批評を寄せたのは、無理からぬことだった。
 その記事はアンジーが注意深く切り抜いてラミネート加工し、いつでも取り出せるように、今も大事にキャリーバッグの中にしまっていた。
「ヘンリー・シンガー演劇ワークショップの公演『七ドル九十二セントの奇蹟』(作・演出チャールズ・デ・シン) は比較的楽しめる。特に女霊媒師役のアンジー・マクベイン――これがアンジーの本名だった――の演技が光っている」
 批評は二行きりのさりげない文章だったが――やる気のない高校教師でも、生徒を褒めるには、もう少し字数を割いただろう――田舎町の退屈な日常に押し潰されそうになっていたアンジーには、カボチャが馬車に変わるほどの、運命の変転を告げるアンジェラスの鐘の音に聞こえた。
 アンジーは小遣いの大半を費やすと、新聞を何十部と買いあさり、それこそ何百、何千回となく繰り返して読み、どこかに見落としがないか、通読何百回目かで段落全体が流れ落ち、アンジー・チャイナ (本名アンジェラ・マクベイン) を絶賛する真の文章が現われるのではないかと夢想にふけった。
 もちろんそんな愉快なことは起こらず、ただ新聞紙がぼろぼろになっただけだった。アンジーはインクがかすれた記事をしまい、買いだめしたスペアの方を取り出さねばならなかった。
 素人演劇の演出家は、生徒に手は出さないと学校側と誓約書を交わしたにもかかわらず、稽古場の隅にしつらえた簡易ベッドにアンジーを誘うと、裸の十代の少女に思わせぶりに語ったものだった。
「きみには霊媒師の素質が、本当にあるのかもね。他の女の子にはない輝きが、きみにはあるよ」
 何の気なしの嬉しがらせを、アンジーは真に受けた。それから二十分の間、アンジーは処女だった。
 アンジーが、啓示を受けたと信じたその道は、いばらやあざみがうんと咲いていたが、べつだん運命が告げた道ではないことが、おつむのとろい小娘にもしだいにわかってきた。
 ワークショップが解散し、明るく冷酷なロスアンゼルスの陽光の下で、アンジーが高校を中退したことを悔やみ始める頃には、彼女は、自分をごまかすのをやめるべきではないかと、自分に言い聞かせるくらいには、冷静さを取り戻していた。しかし、ハリウッドが自分に告げられた道ではないと心底悟るまで、もう二年ほどかかった。
 故郷カンザス州はバードの町に、尾羽打ち枯らせたアンジーが戻るまで、さらに半年。
 けちがついたのは、芝居に関してだけではなかった。
「モーリーン、ここ、お願いね」受け付けデスクの右隣にすわっていた、バーバラ・サマーズが声をかけた。
 アンジーは毎度のことながら苦笑した。「バーバラ、いつも言っているように、わたしはモーリーンではなくて――」
「ごめんなさい、誰だったかしら? レイチェル?」
「レイチェルはあなたの義理の娘。わたしの名はアンジー・チャイナです。いいかげんに覚えてくれないと、本気で怒りますよ」
 アンジーは書類記入用のボールペンをふりかざして、バーバラ・サマーズに抗議したが、もちろん冗談のつもりだった。
 バーバラは目をことさら丸くして、アンジーにホールドアップをしてみせた。「モーリーン。じゃなかった、レイチェル。いえ、アンジーね。ここを見ていてちょうだい。ようやく宛名タイプが終わったから、遅くなってしまったけど、お昼を食べてくるわね。一人でできるでしょ?」
 またいつもの『できるでしょ?』が始まった、とアンジーはお腹の底で笑った。
 このタイプの善良な人間にありがちなことだが、自分より年下の人間は、すべからく無能扱いする。
 このバーバラ・サマーズこそ事務所スタッフの最年長、今年七十二になる《職場の主》で、目の覚めるような派手なローズピンクのブラウスを着て、この町の同じくらいの年齢の女がするように、胸にシフォンでこしらえた薔薇の花の胸飾りをつけていた。ここへ来る前は、地元の小学校で四十年間英語の教師をしていたが、教え子を数えれば、町の人口よりも多いだろうというのが、もっぱらの噂だった。
 バーバラ・サマーズは、レスター・ヘイシーが最晩年を過ごした数年に、同じバードの町でやんごとない夢見るような、垢抜けない子供時代を過ごしていた。さすがに生前のヘイシーと面識はなかったものの、ヘイシーと同時代に生を受けていたという理由から、ここでは四福音書の十二使徒と同じくらいの、重みと尊敬の念で遇せられていた。何しろレスター・ヘイシーと同じ時代の空気を呼吸し、学校の行き帰りやドラッグストアへソーダ・ファウンテンを飲みに行った道中などに、ひょっとしたら偶然にせよ、それとは知らずに、生ける予言者本人とすれ違っていたかもしれない人間なのだ。
「今日はずいぶん遠方の国から、ヘイシーさんのご著書の問い合わせがあるわね。中国 (チャイナ) からのはないようですけどね」
 バーバラはくすくす笑った。
「チベットやインドのニューデリーからも届いているのよ。どちらも二通ずつよ。面白いわねえ。来ない時には、何週間経っても来ないのに、来る時には申し合わせたように、そろって来るの。ラサからだなんて、夕べ遅くまでブラヴァツキー夫人を読んでいたから、これも共時性 (シンクロニシティー) というものかしらね」
 アンジーは唇をゆがめて、にやりとした。
 チベットにラサにユングか。
 オカルトに凝る婆さんどもには、かなわないわね。
「あなた、ブラヴァツキー夫人はもう読んだの?」
 バーバラがアンジーの心中を見透かしたように訊いたので、アンジーは鳩を飲み込んだようにびっくりした。
「いいえ、まだです」
「それはいけないわね。一冊でもいいから読まないと。わたしが手頃な入門書を探して、持って来てあげますよ」
 結構です、とも言えずに、アンジーは苦笑するしかなかった。
「あなたは本なんか読むのは、無駄なことだと考えているんでしょうけど、この世には無駄なものごとや無駄な人たちというのは、これっぽっちもないものなのよ、ナンシー」
 はいはい、わかっておりますよ、バーバラ先生。
 ところで、ナンシーって?
「あなたがブラヴァツキー夫人を読んでいたのなら、ご褒美にバレンタインの店で素敵な昼食をごちそうしてあげようと思ったけど、今日のところはおあずけね」
「うわあ、残念。行きたかったのに!」
 アンジーは両手を広げて絶望のゼスチャーをしながら、デスクの下の自分の向こう脛を、思いきり蹴とばしてやりたくなった。
「よかったら桃があるから、それをおあがりなさい。熟れたてのもぎたてで、おいしいわよ」
 バーバラはデスクのひきだしを開けて、正真正銘のネクタリン種の桃を取り出した。
 うわっ。たまげた。本当に何でも出てくるんだ。魔法使いのお婆さんみたい。
「それじゃ、お願いね、モーリーン」
 町の第一級の生ける史跡は、乱暴にも桃を投げてよこすと、自分の言い間違えには気づかずに、事務所を立ち去った。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
 アンジーは受け付けに誰もいなくなったのをさいわい、デスクのひきだしから読みかけのペーパーバックを取り出し、ひもといた。
 アンジーは読書に夢中になっていたので、外の騒ぎに初めは気づかなかった。事務所の半開きの窓から見える街路を、人々が走っている。みな空を見上げながら、何かを叫んでいた。
 アンジーが何事かと窓の方を向いた直後、事務所のドアが音を立てて開き、バレンタインの店に昼食をとりに行ったはずの、バーバラその人が飛び込んで来た。
「あなた、大変よ。UFOが現われたの」
 アンジーは笑い出してしまった。
「いえ、本当なのよ。みんな――大勢が見たのよ。小さくて、ふわふわ飛んでいたわ。向こうのビルの上に現われて――カメラ。あなた、カメラは持っていない? ほら、何とか言いましたね、携帯電話?」
「いいえ、あいにくだけど、持っていません」
 持ってるけど、貸すもんか。昼食に連れて行ってくれなかった罰よ。
 バーバラは、暴れ牛も飛び退くほどの勢いで、事務所のデスクを片端から開け、誰も使っていなかったひきだしから、前世紀の遺物とも言うべきポラロイドカメラを、一台見つけ出した。
「ああ、あったわ。このあいだのサプライズ・パーティーで使ったの。フィルムは残っていたわよね」
 このあいだって、何十年前のことかしら? それにポラロイドカメラの使い方がわかっているのかしら?
 バーバラがアンジーに挑みかかるような目つきをした。「あなたも見にいらっしゃいな。空飛ぶ円盤を目撃するチャンスなんて、そうそうないんだから」
「わたしはここで、番をしていないと」
「そうお? じゃあ、行くわね」
 わねが聞こえた頃には、バーバラの姿は事務所になかった。アンジーは大声で笑い出しながら、桃のかけらを飲み込み、手の甲で鼻を押さえた拍子に、汁がつんと目にしみた。
「ブラヴァツキー夫人に、空飛ぶ円盤ですって。やれやれ、かなわないわね。そのうち、例の《黒服の男たち》とやらが来て、口止めを強要するのよ。″ああ、すまない。政府の者だが――゛」
「あの、すみません」
 本当に隅から声が聞こえたので、アンジーはおどろいて、むせ返った。
 ふり向くと、閉じた事務所のドアの前に、年の頃十歳くらいの、みすぼらしい身なりの白人の少女が立っていた。どことなく薄汚れて見える白いブラウスに、同じく白いジャンパースカートをはき、事務所に時折り視線を走らせるほかは、床に根が生えたように、身じろぎ一つしない。
「何か、ご用?」
 女の子はストップモーションが解けたように動き出した。「はい、あの。ええと・・・ここ、“カンザスの眠たい予言者”の家?」
 アンジーは吹き出しそうになるのをこらえると、
「記念館よ。あなたがレスター・ヘイシーのことを言っているのなら、かれのニックネームは“眠れる予言者”よ」
 “眠たい”のはわたしの方だと、ちらりと考え、アンジーは興味を装うふりをして、カウンター越しに身を乗り出した。
「ああ、そうか。さっきもエスターにそう言われてたんだっけ」
 女の子はつぶやきながら、スカートのポケットに手を突っ込んだ。
 まさか、強盗じゃないわよね。
 女の子はしわくちゃの一ドル札をポケットから引っぱり出すと、
「来る途中、メモしておいたんです。ええっと・・・ここに、こういう番号の書類か手紙がありませんか。レスター・ヘイシーに、いえ――つまり、その、昔ヘイシーさんのそばで働いていた女の人の代理でして。その人にここに行くように言われて」
 まあ、さっきの状況じゃ、まるっきり嘘じゃないけどね、と女の子はつぶやいたが、アンジーは聞こえなかったふりをした。
「ああ、そうなの。たぶんヘイシーのリーディング記録を参照したいってことね。いいけど、お金がかかるのよ。あなた、お金を持ってるの?」
 リリーの顔が用心深い顔つきに変わった。
「ここ、お金を取るの?」
「当然よ。コピーの費用やマイクロフィルムの管理代、それにあたしたちのお給料の支払いだってあるし、ただではやっていけないもの」
「“無料の昼飯はない”って寸法か。困ったなあ」
「困ることはないわ。あなたにお使いを頼んだ人に電話するか、ここまで来てもらって、その人に料金を請求すればいいだけだもの」
「その人はちょっとばかり、遠くの方にいるんでして」
 女の子はプリマ・バレリーナのように身をよじりながら、あさっての方を向いたが、
「あの、また来ます」
 紙幣をあざやかな手つきで折りたたんで、ドアに直行しかけた。
「あの、ちょっと待って。ちょっと待ってよ」
 暇つぶしの相手に逃げられたくはない。
「まず、その書類について調べてみましょうよ。もしかしたら、そんなにお金、かからないかもしれないし。書類の日付か、参照項目でもわかるといいんだけどな」
「それが、その、ヘイシーさんが言ったのは、よくわからない数字みたいだったの。いえ、エスターがって、意味だけど」
 リリーは受け付けカウンターにすべるように戻りながら、折りたたんだ一ドル札を広げて、アンジーに見せた。
「ふん。どれどれ。偽札じゃなさそうね」
「もち。アンクル・サムの親方の仕事よ」
「これね? 番号というのは?」
 リリーはうなずいた。
 アンジーはグリーンの紙幣の下隅に書かれた、読みにくい数字の列に目を凝らしていたが、
「変ねえ。こういう番号の書類はないわよ」
「そんな。確かにあるはずなんです。ヘイシーさんが――いえ、エスターがそう言ってましたから」
「本当にそう言ったの? ここにあるって?」
 リリーはうなずいた。
「ふうん。じゃあ、あるはずよねえ」
 アンジーは難しい顔をしてキーボードにかがみ込んだが、リターンキーを乱暴に叩いたあと、
「やっぱりなんにも出てこない。その人――エスターさん?――は、間違いなくここに行けと言ったの?」
「はい。“眠たい予言者”レスター・ヘイシーのところだって。『カンザスへ行け』とも言っていました。『そこにメッセージがあるから』って」
「なら間違いないわ。カンザスにあるレスター・ヘイシーの記録庫といえば、ここだけよ。だけど、ないものはないし。ああ、いいところに戻って来た。ねえ、モーリーン。じゃなかった、バーバラ、ちょっと手伝ってくれない?」
 アンジーは、折りよくドアを開けて入って来た、銀髪の同僚に声をかけた。
 ミズ《職場の主》は、ポラロイドカメラを手に下げたまま、納得のいかない顔つきでつぶやいていたが、その様子から察するに、黒服の男たちにつきまとわれるほどの収穫は得られなかったらしい。バーバラはおぼつかない足取りで歩を進めたが、目の前の同僚と幼い訪問客とに気がついて、我に返った。
「バーバラ、手伝ってほしいの。この番号の書類を探してくれない? この子がどうしても必要だからって」
「ヘイシーの亡霊に言われて来たんです」
 リリーも無邪気な顔つきで、バーバラに言った。
「あら、亡霊に? それは素敵だわね。ちょっと待ってなさいね」
 バーバラは一瞬、変な顔をしたが、ポラロイドカメラをデスクのひきだしに戻すと、
「これですね? 変ねえ。うちで扱っているヘイシーさんの、リーディング記録の控えとは、違うようですよ」
「わたしもそう言ったんです。でも、この子がどうしても、ここのだって」
 リリーはバーバラがふり返ると、重々しくうなずいた。
 バーバラがだしぬけにはっとした。
「待っていて。もしかしたら、あれのことかも」
 バーバラは途方に暮れている二人を残し、紙幣を握りしめたまま部屋の奥へと消えた。
 五分後、バーバラが恐ろしく旧式の手提げ金庫を手に戻って来た。
「バーバラ、それは?」
 アンジーが、普段とは違う日常が起こり始めているのを、わくわくするような心持ちで見守った。
「これは奥の金庫室にしまってあった、ヘイシーさんの手提げ金庫ですよ。ヘイシーさんの遺言状にあった、秘密証書遺言の遺言信託に関する特別条項に関係があるの。この手提げ金庫は遺言により、かれの記録を保管する者の手にゆだね、管理するようにと言いわたされてきました。いつかこれの中身を受け取りに来る者が現われるだろう、その者はこの金庫のダイヤル番号を知っているはずだから、その者にこの金庫の中身をわたすようにという申し送りがあったのです。その時には、わたしたち管理者が立会人となり、その手でこの金庫の蓋を開けるようにともね」
「それ、わたしも聞いたことがありますよ」
 いつの間に戻って来ていたのか、眼鏡をかけたやせぎすの、か細い女が言った。落ちくぼんだ頬を紅潮させ、うしろで束ねた茶褐色の髪が、往来の風と興奮とでほつれている。女は拒食症をわずらったティーンエイジャーの時に自殺を図り、家族同伴で藁にもすがる思いで相談に訪れた時から、爾来この町に根を生やしたように住み着いていた。
「本当にその金庫はあったんですね。それがヘイシーさんの遺言執行人から預かって以来、代々ここで管理されてきた、手提げ金庫なんですね?」
「そうです、モーリーン」
 バーバラは年長者の威厳を込めてうなずいた。
 モーリーンは無理からぬこととはいえ、とり憑かれたような光を目に宿していた。
 一同は厳粛な気持ちになり、バーバラの手にした手提げ金庫を見つめた。金庫の表面は艶消しのダークグリーンで、銀色の把手の部分は錆びに覆われ、製造会社の名前入りのシールは、とっくに剥がれて読めなくなっていた。鍵の部分もデジタルではなく、数字の入ったつまみ式のダイヤルで、何という型なのかアンジーは知らなかったが、百年以上はする、年代物の耐火用手提げ金庫に思われた。
 バーバラは金庫をデスクに置いた。紙幣の数字を参照しながら、ダイヤルのつまみ部分をいじくり回す。
 だしぬけに金庫の蓋が開いた。
 中には意外なことに一枚の紙切れと、古くなって変色した、一通のかさばったマニラ封筒が置かれていただけだった。
 バーバラが紙切れを広げて読み、眉をひそめてリリーを見た。
「ここにクイズを書いたメモがあるの。金庫の中身を受け取りに来る者が現われたら、彼もしくは彼女を試せとあるわ。あなた、この質問に答えてくれる?」
 バーバラは紙片の文句を口にした。
「『わたしはある夜、暗い夜空で虹を見た。その虹は果たして何色だったか?』」
「簡単よ。赤い虹。『あなたが黒い空の下で、赤い虹と出会うように』って、さっき言われたもの」
 バーバラはかすかに息を飲んだ。呼吸を整え紙切れを読む。「その者、真実の受け取り手なれば、あやまたず、かく答えるであろう。『そは赤き虹なり。なぜなれば、われ黒き空の下にて、赤き虹とまみえるようにと、先ほど告げられしゆえ』と」
 一同は沈黙した。
 バーバラは封筒を取り上げた。
 封筒の上書きに何か書いてあり、バーバラが皆を代表して読んだ。
「″この封筒は金庫を委ねられた管理者の手により開封ののち、何も言わずにその中身を、受け取り人の手に無条件で委ねること゛。これはおそらく、あなたのことかしらね、お嬢さん?」
「だと思います。だって、わたし、ヘイシーさんのゾンビに言われて来たんですもの」
「あなた、レスターの霊と話をしたの?」
「しっ、静かに、モーリーン。忘れたの? 『何も言わずに』わたすようにというのが、レスターの遺言なのですよ」
「ごめんなさい、マーム」
 やせた女がバーバラに言い、物問たげな視線をリリーに向けた。八つの目が見守る中、バーバラの震える手が黄ばんだマニラ封筒を開く。
 中から出てきたのは、もう一通の別の封書だった。よほど長い手紙が入っているのか、熟れたバナナのようにふくらんでいる。リリーは無言で封書を渡され、そのまま一同を見渡してから、出て行こうとした。
「待ちなさい、あなた! どこに住んでいるの? 名前は? ヘイシーとは、どういう関係なの?」
「およしなさい、モーリーン。はしたない。困っているじゃないの。あなたには関係ないことですよ。わたしにも、ここのみんなにもね」
「でも、バーバラ――だって、もしもあの子供が、予言の当人じゃなかったらどうするんですか? 本当に封筒を必要としている人が、明日現われて、手紙をくれと言われたら、その時は何と言うんですか? 昨日現われた名無しの子供に渡してしまったとでも?」
「わたしたちは、あの封筒を遺言によって、レスター・ヘイシーから一時預かっただけですよ。真の所有者はわたしどもではありません。あなたは今のわたしたちの問答を聞かなかったの? あの子はわたしの質問に、予言された通りの正しい答を言ったのよ。あの子は自分がその受け取り人であることを、問題なく証明した。わたしたちに必要なのは、ただそれだけ。わたしたちは何も言わずに、言われた通り、封筒を渡せばいいのです。それともあなたは、不信心者 (パリサイ人) みたいに、あの子に紅海の水を二つに割ってみせろとでも言うつもり?」
 バーバラの口調は噛んで含めるようだったが、最後通牒なのは明らかだった。
「はい。わかりましたわ、マーム。おっしゃる通りです。あなたも、お引き留めしてしまって、ごめんなさい」
 モーリーンと呼ばれた女はリリーに向かって微笑みかけたが、それが、でまかせの作り笑顔なのは、そこにいた一同にはわかった。
 女の子が出て行くと、何とも言えない空気が一同を包んだ。
「なんだか、買う客ばかりが宝くじに当たって億万長者になっていくのを、指をくわえて見ているしかない、宝くじ売り場の売り子になった気分よ」
 バーバラとモーリーン、言ったアンジーまでが吹き出し、笑い出した。
「うまいことを言うのね、あなたって。今のは今週の最優秀ヒット賞よ。さあ、もうお昼の時間はとうに過ぎているわ。みんな、仕事に戻って」
 バーバラの言葉に一同が席に着こうとすると、モーリーンがアンジーに近寄って、こっそりと耳打ちした。
「アンジェラ。あの子、何か変わったことは言ってなくて?」
「さあ。べつだん何も。ただレスターに会ったとか、話をしたようなことは口走っていましたけど。あの手紙も、昔レスターのそばで働いていた、何とかという女に頼まれただけだって」
「それよ」モーリーンが舌を出した。
「何なの?」
「わからない? その女はたぶん、昔、レスターの恋人か何かだった女なのよ。それでいつかお金に困るようなことがあった時のために、ヘイシーは信託財産を、その女に残したのね。まだ愛があるか確かめるための、二人だけにわかる暗号を合言葉にしてね。なんてロマンチックなの! もしかするとあの子供は、ヘイシーと知られざる恋人とのあいだに生まれた、忘れ形身かもしれなくてよ。そういえば、どことなく神秘的な表情をしていなかった?」
 アンジーは同僚の夢見る頬の赤みに吹き出した。
「ごめんなさい。あなたって、時々、百年前の女学生みたいなことを言うんですもの。でも、それだと計算があわないわ。あの子はどう見たって、十二歳以上には見えなかったわ。一方、ヘイシーが死んだのは、もう五十年以上も前なのよ!」
「数学はロマンスの敵ね。どっちにしろ、わたしの人生で数字がはたした役割は、大きくはないわ。毎日つける家計簿は別としてもね」モーリーンは心底がっかりした様子で、アンジーの席を離れて行った。
 モーリーン、あなたってかわいそうな人なのね。素晴しいことはみんな、あなたのそばを素通りしてしまうのね。
「ああっ! いけない!」
 バーバラ・サマーズの叫び声に、記念館受け付けが凍りついた。
「どうしたんですか?」
「これをあの子に返すのを、忘れていたわ」
 バーバラの手には、リリーのメモ代わりの一ドル紙幣が握りしめられていた。
「わたしが届けてきましょうか? 今なら追いかければ、まだ間に合うと思いますけど」
「手間賃にいただいておいたら、バーバラ?」モーリーンをさえぎって、アンジーが言った。「忘れたのを思い出したら、取りに戻って来るでしょう? 今から追いかけたって、どっちの方向に行けばいいかわからないし」
「あなたの判断はいつも適確ね、ジェニー」
 バーバラが珍しく、日に二度もアンジーをほめた。
 あいにくと部屋の中に、ジェニーという人間はいなかったけれど。
「それでは、どこか目立つところに貼っておいて、あの子が取りに戻るのを待ちましょう。十日経っても来なければ、このお金はわたしどもに寄付したとみなして、わたしどもがいただきましょう」
 その途端ドアが開いて、顔なじみの保安官助手のバーク・ハンセンが、得体の知れないスーツ姿の男たち二人をともなって入って来た。
 バークは背が高く、前屈みで、肩幅の狭いやぶにらみの若者だったが、後ろについている役人風の二人は、バークよりもたっぷり五インチはのっぽだった。
「ああ、ちょっと、すまない、皆さん」
 バークは言いにくい事柄を切り出す時にはいつもそうするように、ベルトとズボンのすき間に両手の親指を突っ込み、鼻の頭にしわを寄せてしかめ面を作ったが、持って生まれた童顔だけは隠せなかった。
「ちょっと、こちらにおられる連邦政府のお役人さんたちが、皆さんに聞きたいことがあると言うんだがな」
 受け付けの女たちは、てっきり早耳の政府職員が、事務所の一ドル不正着服を聞きつけて、逮捕に現われたのかと、どきりとした。
 アンジーは、近づいて来る男たちの着ている服が、闇夜の深海の黒真珠のように、真っ黒なのに気がついた。
 スーツ姿の二人がバークに目配せすると、若い保安官助手はかしこまった顔つきで事務所のドアまで後退し、背中をこちらに向け、通りを凝視し始めた。
「あらかじめ警告しておきますが、ここで見聞きすることや交される会話は、きわめて重要かつ機密を要する事柄ですので、他言は無用に願いたい」
 二人目の男がスーツの内ポケットから、黒くつややかに光る物を取り出した。
 (銃だ!) と、アンジーは早合点したが、そうではなかった。
「わたしたちは、こういう者です」
 二人目の男が、その物――パスに似た二つ折りの、黒い合成皮革張りの物を差し出した。
 近くにいたアンジーが、一番最初にその表面に記された文字を読んだ。
 アンジーの凍てついた灰色の目が、大きく見開かれた。





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