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作品名:マイティーリリー 作者:zamazama

第17回   17
               17 (承前)


 そこには、空中に浮かんだ虹色に発光する巨大な水晶と、崖の上でたたずんでいる、一人の白いお仕着せの、足首まで隠れる、ゆるやかな衣を着た小さな少女が、荒々しいタッチで描かれていた。空には鉛色の雲が渦巻き、絵の隅でまばらに生えた草をなぶる風が、リリーの顔に吹きつけてきた。
 頭の隅で声がする。『見よ (ロー)!』、『見よ (ロー)!』と。『見よ (ロー)!』、『見よ (ロー)!』と。
 いつの間に戻ったのか、エスターはキャンバスをリリーに預けると、籐椅子に腰を下ろした。遠いところから、エスターのかすれた抑揚のない声が響いてきた。
「その絵をもらった時のことは、わたし、昨日のことのように覚えているんですよ。その時、ヘイシーさんは体のぐあいを損ない、二、三日、家で寝ていらしたのですよ。
 例のお医者さまのところを出たあと、ヘイシーさんはほどなくして奥さまを亡くされ (奥さまは心労のため体が弱っていたところを、悪性の流感にやられて、帰らぬ人になったのですけれど、ヘイシーさんはその死を予知することができませんでした )、ヘイシーさんの身の回りを引き受けることになった、わたしの母が、ヘイシーさんの様子を見に、何度も家に通ったものでしたよ。
 わたしの母が言うのには、ヘイシーさんはその時、高熱を出してうなされていたらしいのですよ。わたしがそこらに生えている花を摘んで、お見舞いに行くと、ヘイシーさんは起き上がれるまでに回復されていて、わたしを部屋に招き入れ、描きかけのこの絵を見せてくれたもんだったわ。
 『この絵はおまえさんにあげよう。そうするようにと、夢の中でお告げがあったからね』
 わたしがびっくりして、
 『夢のお告げって、神様?』
 と訊くと、ヘイシーさんは笑いながらうなずいたわ。
 『そうかもしれないね。わたしには誰の声かはわからないのだよ。わたしは言ってみれば、そこにある鉱石ラジオみたいなものだから』
 ヘイシーさんはテーブルの上に乗っていた、小ぶりの機械を指し示しました。
 『これは暇つぶしに作ったんだ。これでも子供の頃は技術者に憧れたものさ。鉱石ラジオの仕組みを知っているかね、エスター?』
 わたしが知らないと言うと、ヘイシーさんは教えてくれました。
 『この空中には、目に見えない“電波”という物が飛んでいてね、それが郵便袋のように、色々の声や音楽を運んでいるのだよ。もちろん、そのままでは聞くことができない。ちょうど開封しない封筒の中味が読めないようにね。その電波をラジオの波長を合わせることで、音に変えて聞くことができるんだ。難しいかもしれないけれど、それがラジオの仕組みさ。ほら、ここをいじくって、チューニングを変えてやると――』
 ヘイシーさんが機械のつまみを回すと、空電の立てる音にまじって、早口の東部訛りの男の人の声が聞こえてきました。
 『ほら。こうすると、また音が変わる』
 ヘイシーさんがつまみを回すと、今度はベニー・グッドマンのオーケストラの、ディキシーランド・ジャズのナンバーが聞こえてきました。
 『空中に飛びかっているのは、何も電波だけではないんだよ』
 わたしが音楽に聞き入っていると、ヘイシーさんはまた話し始めました。
 『この世には、普通では見たり聞いたりできない、さまざまな種類の電波のような物が飛びかっている。わたしにはわかるのだが、それは過去にこの世に生きた人間たちの、形にならなかった思い、夢や希望、底知れぬ欲望や、果てしない憎悪の念といったもので、宛先不明の郵便物のように、いつの日か誰かが気づいてくれるのを待って、あてどもなく飛びかっているのだよ。
 どうかした拍子に、たまたまラジオのチューニングが、特定の波調に合うように、形にならないそれらを拾ってしまう人間たちがいる。そんな時、人は自分が拾った声や印象を誤って解釈し、それに“幻聴”とか“幻覚”とか“亡霊”という呼び名を与えてしまうのだ。そしてそれらの偽りを材料にして、世にも哀れむべき滑稽な知識体系が生まれる。
 しかし声を発しているのは、何も人間ばかりとは限らない。中には人間ならざる者たちの声も、混じっているのだ』
 ヘイシーさんは顔をうつむけ、ふだんは見せたこともない陰鬱な表情をしました。
 『人間の中でも、生まれつき鉱石ラジオに近い人間たちがいる。ちょうどできたばかりの真空管のように、頭の中がからっぽな人間、チューニングがまともな人間社会にではなく、誤った方向にセットされてしまっている人間、要するに世間で《馬鹿》とか《気違い》とか呼ばれてしまう種類の人間たちだ。
 かれらは不幸にも、オーソドックスな世間の波長に脳味噌を合わせられないばっかりに、ふつうの人間たちが、それがあるのも気づかず、知ろうともしないし、知る必要も認めない世界の電波に気づいてしまう。気がつかぬまでも、無意識のうちに、絶えず拾ってしまう。
 混乱した印象や、理解不能のメッセージ、論理の埒外の論理。
 自分でも理解し難い声に波長が合ってしまった、それらの連中の不幸なことよ!
 かれらはあたかも、聞きたくない番組を流し続けるラジオのように、世間の連中からは邪険にされ、煙たがられ、あくどい場合には、“科学的検証”の名の下に、おつむの出来を商売の種にした連中の、名声や金儲けの道具に利用され、挙句に打ち捨てられる。たまたまかれらの波長が、他の人間ラジオとは違う波長に合ってしまったばっかりに、他の人間ラジオたちからは“壊れたラジオ”扱いされ、《出来損ないの半人間》として笑われているのだ』
 わたしはだしぬけに、ヘイシーさんは“壊れた人間ラジオ”のことを言いながら、ご自分のことをしゃべっているのだと気がつきました。
 ヘイシーさんは真顔になって、わたしを見つめました。
 『いいかい、おまえさん。エスター。わたしが今日ここでおまえさんに、人間ラジオのことを話したことを、忘れるんじゃないよ。いつの日か、おまえさんが立派な大人になって、世間様のお役に立てる時には、わたしがここでおまえさんに話したことを、かならず、かならず、思い出すんだよ。
 おまえさんは、人間がどんな人間も、所詮はラジオに過ぎないことを、忘れてしまうんじゃないよ。いくら頭がよく、立派なことを口にする人間ではあっても、どんなに世俗的に尊敬される、行いの正しい人間ではあっても、その人間の奥深い心に浮かんだ、思いつきや考えは、本当はその人間とは別のところにある、暗い次元から飛んできただけかもしれないのを、忘れてしまうんじゃないよ。
 ちょうどラジオが、“電波”を声に変えながらも、“電波”そのものを生み出すわけではないように、人間の脳味噌も、別段われわれが考えているほど、性能のいい思考機械というわけではないんだからね』
 わたしは必ずしもヘイシーさんの考えを、理解も賛成もできなかったのですけれど、その時はうなずきました。それほどヘイシーさんの表情は、真剣そのものだったのです。
 『この絵は昔、この世界のどこかにあったといわれる、ある大陸で起きた出来事が描かれているのだよ』
 ヘイシーさんは描きかけのキャンバスに目を戻すと、真剣なまなざしで言いました。
 『わたしにはどういう出来事なのかは、よくわからないが、そこは特定の名前を持たない世界で、後世の歴史家は、その大陸の、“世界”を意味する普通名詞を、守護神の名と勘違いして、《アトランティス》と呼んでいる』
 『アトランティス?』
 わたしはニュージャージー州のアトランティック・シティーと関係があるのではないかと思いましたが、黙っていました。
 『アトランティス。わたしはあの世界のことをよく夢に見る。嘘か幻か、はたまたわたしの頭がでっちあげた空想か、それはわからない。ただ、何かしらがわたしにその幻を見せ、わたしにそのありさまを記録するようにと、絶え間なく、しつこく働きかけてくるのだ。わたしはただ、その働きかけの導くままに、行動するだけなのだ』
 ヘイシーさんはそう言って、またうつむきました。わたしには今でも、その時のヘイシーさんの額のしわや、そこに垂れている白髪の一本々々が、目に浮かぶようですよ。
 『ともかく、この絵はおまえさんがもらっておくれ。わたしにはそうするようにという、内側からのつよい強制がある。それがなぜなのか、この絵がおまえさんにどういう関わりがあるのかは、わからない。だが――』
 ヘイシーさんは、絵の方に向かって手を振ると、
 『別段、後世に残る絵というわけでもあるまいが、夢で見たこの光景を思い出すと、今でも胸がときめくんだよ』
 ヘイシーさんは絵に描かれた細かい部分をいちいち差し示しては、わたしに説明してくれましたが、むつかしくて全部忘れたわ。その解説の一部始終も、その本のどこかに書いてあるはずですよ」
 エスターは目をつむって、自分の心が過去の情景に――その絵を描いていたレスター・ヘイシーの部屋にさまようのを、しばし許しているみたいだった。
「ヘイシーさんはそれから間もなくして、この世を去りました。かれの亡くなった時は、全米のあちこちから弔問客が訪れて、それはそれは大変な騒ぎになるはずでした。でも、ヘイシーさんが亡くなったのは、第二次世界大戦開始の、あくる年のことだったから、世間はさして注目もしませんでした。もっともっと緊急を要する課題に、世間は忙殺されていたのですね。わたしたちが一家を上げて、カンザスからニューオリンズに移ったのは、それから間もなくしてでした」
 エスターは過去をいとおしむように、視線を彼方にさまよわせていたが、ふいにリリーを見て、女の子に初めて気づいたように、はっとした。
「その人は、きっと、人に好かれる性質の持ち主だったのね」
「えっ?」
「ヘイシーさんは大勢の人に好かれていたんでしょう? わたし、そういう人に憧れちゃうな。自分でもそうなれたらいいと思うもの」
 わかるわと言うように、エスターは何度もうなずいた。
「ええ、ええ。ヘイシーさんは大勢の人を好いていましたよ。その意味では、真のクリスチャンでしたわね。偉そうにお説教はするくせに、行いはともなわない、口先だけの連中とは違ってね。あの人が《前世》などという、異教徒が口にするような、馬鹿げた迷信を信じていたにしても、あの人は本当に、心の底からのクリスチャンでしたよ。
 そうそう。ヘイシーさんはこんなことも言っていましたっけ。
 『この世界にはそれとは知らずに、アトランティスに生きていた頃の人間たちが、大勢生まれ変わってきているようだね。そしてこれからも、それは増えていくのだろう。その中には、過去世で負った罪業をこの世で振り払うために、罪滅ぼしのために生まれ変わってくる人間たちも、大勢いるようだ。それらの元アトランティス人たちの生まれ変わりの中には、この世界では名の知られた人間や、やがて知られることになる人間も、多く混じっている。その中のいくぶんかは道を外れて、やはり前世と同様、恥にまみれた一生を送ることになるのだろう。その中には遠くない将来、合衆国の政治家や大統領になる者もいるのだろう。かれらは、それとは知らない運命の歯車に引き寄せられて、自分でもわからない御手に操られ、チェスの駒のように寄り集まるのだよ』
 そうおっしゃって、《リーディング》で知った――彼自身はそんなつもりも、また内容の正否については知るよしもない予言について、ひとくさり聞かせてくれました。その中で、今となってはアドルフ・ヒトラーとして知られる人間の行いと一生についても、詳しく聞かせてくれましたが、わたしは怖くなって、途中でヘイシーさんの話をさえぎったわ。わたしは昔も今も、迷信めいた話は大嫌い。そういう話には一秒だって、耳を傾けていたくはなかったの。だってわたしは正真正銘、真のクリスチャンなんですからね」
 リリーはまたもやうなずいた。
「それでね、ヘイシーさんをさえぎって、わたしはこう訊いたのよ。
 『そんなのって、おかしいと思うわ、ヘイシーさん。罪の償いをするために生まれ変わってくるとしたら、生まれてすぐ死んじゃう赤ん坊は、どうやって償うの? それに、その人達がどう生きるかわからないうちに、どうしてこれからすることを、予言できるの?』
 ヘイシーさんは、びっくりして、わたしを見たわ。
 それから、にこにこと笑って、わたしの頭を撫でると、
 『おまえさんは賢い子供だね、エスター。それに答えることは、わたしにもできないのだよ。このわたしにも、どうやって自分が意識を失っているあいだだけ、未来の出来事や知らない人達について話せるのか、さっぱりわからないからだよ。でも、おまえさんの質問は重大だな。わたしはその質問に答を見い出すために、この一生を送ることになりそうなのだからね』
 ヘイシーさんはそう言って、横を向いておしまいになったの。わたしは面会の時間が終わったのだと思って、花を置いてヘイシーさんの家をあとにしたわ。
 わたしが生きているヘイシーさんと会って、長く話したのは、その時が最初で最後。ヘイシーさんはそれからしばらくして、お亡くなりになったのですよ」
 エスターは黙りこくった。
 リリーはそれが話の終わりなのだと考え、もう少しで、それじゃあわたしも帰ることにしますと言いかけた。
 エスターがふいに訊いた。
「あんたはどうしてここに来たんだね? 何が望みなの、リリー?」
 今、リリーって言ったの?
 どうして、わたしの名前を知っているの?
 あれ、さっき、わたしが教えたんだっけ?
 だったら、どうして、こんなにびくびくしているんだろう?
 さっきの図書館といい、今日はこんなことばっかり。
 変な日。
「ごめんなさい。わたしばっかり、おしゃべりしちまったようだわね」
 エスターは大儀そうに椅子から立ち上がると、
「ブラインドを下げましょうかね。少しまぶしいようだからね」
 エスターは壊れたおもちゃが動くような、ぎこちない動作で部屋を横切った。
 エスターはブラインドを下ろし、リリーの手から物も言わずにグラスをもぎ取ると (リリーはルートビアのグラスを手にしたままだった)、奥のキッチンへと消えた。
 間もなくグラスのかちあう音が聞こえてきた。
 しばらくしてエスターがグラスを手に戻って来ると、今度の中味はオレンジジュースで、リリーの健康な食欲をそそった。
 エスターは椅子の背につかまるようにして、座り心地のいい元の場所に戻った。
「ヘイシーの死因は心不全だったんですよ」
 老女は中断などなかったように、いきなり話し始めた。
「きっと長年の無理がたたったのだろうね。死亡診断書を書いたお医者さまは――それはヘイシーさんの能力を目覚めさせた医者とは、別の人なんですけど――その人がヘイシーさんの遺体を診た直後、自分はこんなに年の割に老衰した肉体を見たことがない、と看護婦たちに語ったそうだから。何でこんなことを知っているかと言うと、わたしが受け付けで働いていた病院に、その時の看護婦の一人が移って来たからなのよ。わたしたち、ひょんなことから、レスター・ヘイシーという共通の知り合いがいるのに気づいたわけ。ヘイシーさんの最期の様子は、その人から詳しく聞いたのですよ」
「ヘイシーさんには、子供はいなかったんですか? 別の新しい奥さんは?」
 リリーの質問に、エスターは思いなしか暗い顔つきをして、首を振った。
 “カンザスの眠れる予言者”が職業では、家族を持つのは土台無理な話ね、というのがエスターの答えだった。
「何人か興味を持って近づいて来る女たちもいたみたいだけど、そういうのは全部だめ。全部よこしまな、雌犬連中だったみたいよ」
 リリーが目を見張ると、エスターは首を縮こめた。
「ごめんなさいね。あんたみたいな、お嬢ちゃんの前で」
「いいんです。今で言う、グルーピーみたいなものですよね」
「そうだね。女の性悪は、いっとうの性悪だよ。生きとし生ける物の中で、最低最悪の性悪よ。あんたはそうは思わないかい?」
「自分の中ではまだ結論が出てません」
「そりゃあ無理もないこった。あんたの一生なんか、まだ始まってもないようなもんだもん。あんたはこれから、好きなべべを着て、うまい物を食べて、好きなところへ行って、好きな音楽を聞いてさ、好きな物をたんと見て、それでもって月が満ちたら、いい人とつきあって、子供が生まれるのさ。あんたみたいな明るい顔をした、宝石のようなまん丸い目の、金髪の男や女の子供をたんと産んでね」
 エスターは南部訛りむき出しで話したが、リリーは心の中で苦笑した。
 わたしはそんな生き方は、したくてもできないと思うわ、エスターおばあさん。
 わたしはこの世界に生まれた日から、ちっとも成長しないし、年もとらないのよ。
 わたし、怪物みたいなの。
 空だって飛べるの。
「さあ、どうでしょう。わたし自身がまだ子供ですし」
「悪いのはあの病気だ。わたしから何もかも奪いやがった」
 エスターは口をつぐんだ。
 いっとき沈黙があった。
「あんた、クロイツフェルト・ヤコブ病って、知ってるかい?」
 リリーは知らなかった。
「わたしも知らなかったわよ、そんな病気があることを。わたしはその病気で、一人息子を失ったのよ」
 またもや沈黙。
「その病気はプリオンとかいう蛋白質が原因で、遺伝だか感染だかするのだそうですよ」
 エスターは世間話でもするように、
「あるお医者様が言うのには、昔は脳腫瘍の手術をした人が、移植に使った、何とかいう外国製の、薄っぺらいウエハースみたいな物についていた菌で、感染した例があったらしいけれど、あの子はそんな手術をしたことはなかったし、普通は年寄りがかかる病気で、十代で発症するのは、病気にかかった牛の肉を食べたりした例しかないって。きっと百万人に一人の、稀な症例だったのだろうね。
 あの子はバスケットと詩の朗読が得意な、それはそれは優しい子でね。父親とは似ても似つかなかったわ。あの子の父親だった人は、そりゃあひどい飲んだくれでね、始終大声で怒鳴りちらしては、あの子とわたしに暴力を振るい、しまいには女をこしらえて出て行ってしまったけれど、わたしはあの子の成長が楽しみで、気にもしなかったわ。
 でも、ある日、あの子が学校から帰って来るなり、
 『ママ、頭が痛いよ。世界中が回ってるみたいだ』
 そう言うなり、ベッドに横になって、その日を境に、二度と起き上がれなくなってしまったのよ」
 それからどうなったか、エスターは言わなかったが、リリーには想像できる気がした。
 エスターが顔を上げた。
「病気が重くなると、あの子は入院先のベッドで寝たきりになってしまったの。わたしの呼びかけにも応答しないで、目をぎょろぎょろさせるばかり。わが子ながら気味が悪かったわ。その時、ヘイシーさんさえいてくれたらと、死ぬほど願ったわ。ええ、死ぬほど強くね。あの人ならお得意の《リーディング》とやらで、あの子の容態を良い方に導いてくれたに違いないんですものね。
 わたしが働いていた病院に入院することになったので、医療費を安くはしてくれたけれど、それはそれは大変な費用がかかったの。わたしは最後にはプライドを捨てて、公的機関の援助をあおぐようになった。でも、それでは足りなくて、ある日とうとう、病院のお金を――」
 エスターは声を詰まらせた。
 リリーは何か言いかけて、口をつぐんだ。
 エスターはすすり泣きを始めた。
「病院の院長と先生方は、それはそれは寛大だったわ。わたしの不正を見なかったことにしようと、申し出てくれたの。でも神がお許しになるはずはなかった。誰かがわたしを告発したのよ。ことが表沙汰になると、院長も監督責任上、捨ててはおけなかった。せめてもの温情で刑事告訴だけはまぬがれたけれど、わたしはあの子と一緒に病院を追い出されたわ。わたしは途方に暮れました。教会に行き、神様にお祈りをしたし、何とかほかの仕事を見つけようと、あちこち歩いたのですよ。でも、さしたる学歴も職歴もない、黒人の子持ち女を雇ってくれるところなど、あの時代にそうは見つかるはずもなかった。そんなこんなで、途方に暮れているうちに、アパートに戻っていたあの子の病気は悪化してしまい、とうとうある日――」
 エスターは不格好な手の甲で涙をぬぐい、鼻をすすり上げた。
 リリーは黙っていた。
「あの子の魂が天へと召された晩、わたしは矢もたてもたまらなくなって、近くの教会に駆け込むと、祭壇のキリスト様の像の前にひざまづいて、お祈りをしたわ。どうか、あの子の魂が天へと上れますように、あなた様の右でも左でもいいですから、あなた様のお側においてあげて下さいましって。あの子は、あなた様の使徒様のお名前がついた病気で、一生がめちゃめちゃになってしまったのですから、せめてものお慈悲に、あなた様のお側に置いて、面倒を見てやって下さいましって。ごめんね、こんなつまらない話を、聞かせちまって」
「ううん、いいんです。ずいぶんと、お辛い目にあってきたんですね。わたし、あなたを一目見た時から、そういう人に違いないと思っていたんです。きっと、『天使を必要としている人だろう』って」
 リリーは、そんな風に言ったことを自分で驚きながら、エスター・ハリスに近づくと、背中に手をまわして撫でさすった。洗いざらしの木綿の下で、老女のしわだらけの皮膚が、恐れとおびえでわなないた。
 リリーの目が、老女の足元によりかかるようにして置かれた、キャンバスに向けられる。
 ブラインドを通して差し込む光線が、板の裏張りに注がれていた。
 そこに文字が浮かんでいた。
 英語でもフランス語でも中国語でもない、リリーが知っている、いかなる言語とも似つかない、不思議な意匠の表意文字。
「マーム。何か描いてあるわ。絵の裏側」
「ええっ、何ですって?」
 エスターは悔恨にひたっていた、心地よい気分を中断されて、むっとしたようにリリーを見上げた。
「ほら、ここ。絵の裏側よ」リリーは片方の手で老女をさすりながら、もう片方の手でキャンバスを指さした。「これ、ヘイシーのサイン?」
「いいえ、違いますよ。ヘイシーのサインじゃありませんね。変ねえ、わたしも今まで気づかなかったわ」
 エスターは下着のすそをまくって、涙を拭くと、あらためて文字の列を眺めた。
「この文字は何て書いてあるのか、わたしには読めませんね。英語でないのはわかるけど、スペイン語か、ポルトガル語、あるいはひょっとしたら、ルーマニアかチェコスロバキアの文字かもしれないわね」
「いいえ、違うわ」
 文字は全部で二十六文字。
 キャンバスに急いで絵の具をつけて描きなぐったような、太い部分とかすれた部分のある、赤い文字だった。
 リリーにはその文字が難なく読めた。
 読もうとしなくても頭に飛び込んできて、自然に意味が形成されていく。
 ゛あなたが黒い空の下で、赤い虹と出会うように″
 リリーは声に出して、二度読んだ。
 遠くで、雷の鳴る音が聞こえた。
「まあ、赤い虹と出会うようにですって? これ、どういう意味だと思います、エスターさん? エスターさん? マーム? どうかしたんですか? マーム? マーム?」
 リリーはびっくりしたように、エスターを揺すった。老女はおこりにかかったように、全身を震わせて、藤椅子の中で振動していた。リリーが押さえつけていないと、椅子から飛び出してしまいそうだ。
 今や、人畜無害な年寄りは消え、リリーの知らない、異邦の島の蛇神につかえる巫女のように、エスターは形容し難い角度に首をねじ曲げ、むき出した白目をあらぬ方に向けて、舞踏病か、話に聞いたハーケンクロイツ・ヨハネ病 (違ったかしら?) の発作が起きたのではと錯覚するほど、激しく動いていた。
「マーム? マーム? どうしたの、マーム? どこかぐあいでも悪いの? 救急車を呼びましょうか、マーム? マーム? 九一一。そうだ、九一一よ。ダイヤル九一一に電話しなきゃ」
「待て、子供。やめよ」
「へ?」
 リリーは立ち止まり、室内をふり返った。
 エスターの体が椅子の上で、口から泡を吹くのではないかと思うほど、そり返っていた。
 リリーは踵を返した。
「待て、子供」
「誰?」
「私だ。エスターの中にいる」
 男の声が、持ち運びができそうなほど小柄な、年寄りの黒人女の口から聞こえた。
「エスター、あなたなの?」
「正確に言うと、そうではない。この女ではあっても、この女の内部から発せられた声ではない。その質問に答えるのは、たやすいようで、実に難しい」
「あなたは誰? エスター・ハリスじゃないわよね? まさか――まさか――ボブ・ホープとか?」
「否! カーネル・サンダースでも、エスター・ハリスでもない。わたしは遠い世界から、またある意味では、ごく間近くから話している。おまえの目からはのぞけない、幕の彼方の世界。だが、ここからでは何もかもがうかがえる、霊の世界から、わたしは来た」
「それじゃあ、訊きますけどね。あなたは一体、どこのどなた様なのよ? 他人さまの声を使って話しているんだから、許可ぐらいは取っているんでしょうね?」
「はて、許可とは? 何のことだ?」
「あきれた! ひとさまの喉を使って、無作法にも、見ず知らずのレディーに話しかけているのよ! それマジで言ってるわけ?」
「すまない。おまえがレディーとは気づかなかったぞ」
「いいけどさ。あなたは何者なわけ? おばけさん? ひょっとして、本当におばけだとか? あわわわ」
 リリーは青くなって、あとずさった。
「違う。おまえの言わんとすることはわかるが、わたしはそういう存在では、もはやないのだ。わたしは第四次元の存在。抽象的な意味ではなく、文字通りの意味でのな」
「文字通りの意味での、第四次元の存在。それって、アインシュタインと関係があるわけですか? それとも、フランケンシュタイン関係?」
「そうだとも言えるし、そうでないとも言える。わたしの今いるこの次元、時間と空間の制約を超えた、認識がすなわち行為であり、また実在でもある状態について、そちらに理解しうる語彙に置き換えるのは、ひどく難しい。わたしの言っていることが、わかるかね?」
「全然、わかりません」
「そうだろう、そうだろう。ところで、そちらの世界には、チキン・ハム・サンドウィッチは、まだあるだろうか?」
「ええ、あるのではないかと思いますけどね。あるでしょうねえ、たぶん」
「まったくもって、けしからん話だ! わたしがいたカンザスでは、そんな中途半端な返事をする子供は、鞭でお仕置きされたものだぞ!」
「あなた、ヘイシーね? ひょっとして、レスター・ヘイシーなのね?」
「そうだ。わたしはヘイシーだとも。かつてレスター・ヘイシーとして、生を受けていた者だ」
「生を受けていた者だって、じゃあ、今のあなたは――死んでいるのね? あなたは本当に、本当に――」
 リリーは唾を飲み込んで、
「“眠たい予言者”レスター・ヘイシーさん!」
 リリーは壁の肖像画に目を走らせた。
 落ち着くどころか、恐怖が増しただけだった。
「あなたは――死霊なのね? ゾンビなのね? 死後の世界から、声を出しているのね? ゾンビよ! 悪霊よ! ばけものよ! エイリアンよ!」
「ゾンビとな! 死後の世界とな!」
 声は、鼻を鳴らしたような音を立てると、
「それはおまえさんの見方しだいで、だいぶ変わると思うのだがな。こちらの世界から見れば、死んでいるのはむしろおまえさんの方だ。幕のこちら側に気づかないばかりか、こちらの世界の存在を、感覚の迷いとして排除してしまう、そちらの世界の性癖――それはほんのつい先頃まで、わたしのいた世界の性癖であったわけだが ――それはこちらから見るにつけ、浅はかで思慮の足りない、無分別そのものである! まさに噴飯物だ」
「何よ、ゾンビのくせに。何が無分別よ。何が浅はかよ。思慮の足りないのはどっちよ。こっちの世界にさまよい出て来たくせに。悪霊! おまわりさんを呼ばなきゃ。いいえ、悪魔祓い師 (エクソシスト) に来てもらわなきゃ!」
「待て、待て、子供。わたしの話を聞くのだ。わたしは、おまえさんにメッセージを残すために、この世界に現われたのだ。わたしには、おまえさんが呼ぶ声が、しかと聞こえたのだぞ」
「わたしはあなたなんか、呼んじゃいませんけどね!」
「いいや、確かに聞こえたぞ。わたしを呼ぶ言の葉が。『黒い空の下で、赤い虹に出会うように』と」
「ああ、それのこと。あなたがそれを書き残したんでしょ? ほら、そこの絵の裏側よ。まさかその文句が、ゾンビを起こすモーニング・コールになっていようとはね。それで、メッセージって何よ?」
「わたしを記念する館に行くのだ。かつてカンザスと呼ばれ、今もそう呼ばれている土地に、おまえさんに宛てて残した手紙がある。わたしを信奉する者たちの手にゆだねられ、今もそこで、守られているはずだ」
「ここで話してはくれないの? 手間がだいぶんはぶけるはずよ」
「そうもしていられないのだ。この状態のままでいるのは、この女にとっても、わたしにとっても、ひどく不自然で、危険なことなのだからして」
 声は恩着せがましく言うと、一連の暗号のような数字を唱えた。「おまえに必要な物は、この番号の下に残してある。カンザスへ行け、カンザスへ。そこで必要とする導きを受けるがよい。おまえが黒い空の下で、赤い虹と出会うように。さらばだ」
 エスターの体から緊張が解け、空気の抜けた風船のようにしおたれた。老女は椅子から転がり落ちた。リリーが駆け寄って抱き起こすと、老女は目を開いてリリーを見上げた。「ここはどこ? あなたは誰なの?」
「ここはあなたの家です。わたしはあなたを助けた、通りすがりのブルース・リリーです」
「ようこそ、ブルース・リリー」
 エスターが微笑んで、気を失った。リリーはぞっとして、死んだのではないかと、エスターの胸に耳を押しあてた。ありがたいことに、心臓の鼓動は弱々しいが、確実に打ち続けている。
 リリーはほっとすると、エスターの体をベッドまで運び――リリーにとっては何でもない仕事だった――家中をのぞいて、浴室の戸棚のひきだしから、ましなタオルを見つけると、水で濡らして老女の額を拭いた。
 長く介抱するまでもなく、エスターが目を覚ました。
「よかったわ。大丈夫ですか?」
 リリーは心配そうに、エスターの顔をのぞき込んだ。
「どうもありがとうよ。わたしは一体どうしたのかしら? ここはどこ? わたし、病院にいるの?」
「いいえ、マーム。ここはあなたの家のベッドです。あなたは通りで男たちに襲われて、わたしが助けて、ここまでお連れしたんです」
「まあ、そうだったの。ご親切に、どうもありがとうよ」
「どこか体の痛むところはありませんか? 救急車を呼びましょうか?」
「大丈夫のようだよ。ごめんなさいね。お手間をかけさせてしまって」
「そんなこと、全然ありません」
 エスターの顔を拭くと、リリーはタオルをしめらせにキッチンへ戻った。
 静かな時間が流れた。
「もういいわ。すっかり良くなったわよ」
 エスターがベッドから起き上がった。
 リリーが手を貸すと、足元がふらつくのか、リリーにしがみついてきた。
 エスターは壁の柱時計を見上げると、
「いけない、もうこんな時間なのね。お昼をこしらえなきゃ。あなたも食べていく?」
「いいえ。もう行かないと」
「そうお? お引きとめしちまって、ごめんなさいよ。ありがとうね」
 エスターが勧めたら、お相伴しようと思っていたので、リリーはあてがはずれたかなと思いつつ、玄関に向かった。
「ちょっくら、待っとくれ」
 リリーはドアマットの上でふり返った。「何ですか?」
「あのう、こんなことを頼んだら、頭のおかしな女だと思われるかもしれないけど――あなたのことを、しばらく抱きしめさせてくれないかい?」
「ええっ?」
 リリーが呆気にとられていると、エスターはぎこちない、気まずそうな笑みを浮かべて、リリーに近づいて来た。
「あたしには、子供がいたんですよ・・・今はいなくなってしまったけど・・・あの子を亡くして・・・もう何十年にもなるわ。わたしは子供の感触を忘れてしまったのですよ。お願いだから、抱きしめさせておくれ・・・あの子を思い出したいの・・・お願いだよ」
 リリーは立ちすくんだ。後ずさりしながら逃げようとし、リリーはドアにぶつかった。リリーの体を万力のように、小柄なエスターが抱きしめた。
「マーム」リリーはつぶやいた。「おお、マーム」
「柔らかい。なんていい匂いなの。それに、なんて温かい」エスターはリリーの髪の毛に頬ずりをした。「おお、神様。ビリー。神様・・・」
 リリーは憐れみを催すと、自分から老女に体を預けた。
 エスターの額に、自分のそれをこすりつける。
「あああ!」
 リリーは押し寄せるイメージに、瞬時に圧倒された。
 イメージはエスター・ハリスの記憶そのものだった。
 エスターの記憶と感情を司る神経パルスが、リリーの意識そのものに流れ込んで来たのだ。リリーは臭覚をもともなった、一個人の記憶そのものに凌辱された。他人の人格そのものに、リリーは圧倒されたのだった。その瞬間エスター・ハリスの七十年近い人生の膨大な情報量と、四次元的とも言うべき記憶の大海に、リリーは放り出されたのだった。
 危険を察知したリリーの神経が、意識下でリリーを救って、シナプスを遮断した。目の前に星が飛び交うのを見ながら、リリーは電流に打たれたように立ち尽くした。
「あんた、鼻血が出ちまってるね」エスターが小さくつぶやいた。
「え? あ、本当だ」
 リリーはあわててハンカチを出して、鼻を押さえた。
 止まれ。
 止まれ。
 止まれ。
 鼻血は出た時より素早く、引っ込んだ。
 恐る恐るハンカチを離すと、血の固まりができていた。
 よかった。緑の血じゃなかったみたい。
「おや、もう治ったのかい? 近頃の子供ときたら、わたしらの子供の時分にくらべて、何をするのも早いんだから」
 エスターが驚いたような、あきれたような調子でつぶやいた。
 リリーが笑いながら、
「さようなら、エスターさん」
「さようなら、ブルース・リリー。気をおつけ」
 リリーはドアを開け、階段を下りると、こぬか雨の降り出した、薄暗い路地にたゆたう、グレーの光の中に歩み出した。
 図書館からもらった本をエスターの部屋に忘れてきたのに気がついたのは、アパートを離れて、だいぶ経ってからだった。
 今さら取りに戻るには、遠くに来すぎている。
 たいして読みたかったわけじゃなし。いいわ。何しろ、ゾンビと話をしちゃったんだもの。生きている本物の死人とね。
 リリーは考えごとに耽っていたので、背後を尾行する人影に、まるで気づかなかった。
 通りには場違いな服装をして、人影は油断なくリリーに目を向けていた。



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