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作品名:マイティーリリー 作者:zamazama

第16回   16
               17


 リリーはバス停に着いた。
 やたらと大声ではしゃいでいる、子供連れの若いプエルトリコ人の夫婦と、市の中心部に用があるらしい、くたびれた初老の白人ビジネスマン、目の醒めるような派手なローズピンクのスーツを着た、黒人のビジネスウーマン、それに赤ん坊みたいに背の低い、黒人の老女が一人いた。
 その老女は寄る年波に背骨が曲がり、茶色のプリント地のスモック・ブラウスを着て、白い紙製のショッピング・バッグを握りしめていた。
 縮れた、白髪まじりの髪の毛は、ひっつめにして輪ゴムで束ねていたが、長いこと手入れされていないのだろう、肌はすすけて、しわだらけのひびだらけだった。
 老女はそこにいないかのように、バス待ちの乗客たちに無視されていた。
 邪険に扱われていたのではない、ただ無視されていたのだった。
 バスが来た。真後ろに立っていた黒人のビジネスウーマンが、ステップに踏み出しかけた老女を押し退けた。
「ごめんなさい」女はさっさと中に乗り込んだ。
 リリーは、よろめいてドアにしがみついた老女を、駆け寄って助けた。「大丈夫ですか、おばあさん?」
「ええ、ええ。平気よ。どうも、ありがとうよ」
 老女は口の中で言って、リリーの手のひらを叩いてから、あらためてステップに足を乗せた。リリーは地面に落ちた数冊の本を拾うと、女王を護衛する兵士のように、老女について上がった。プエルトリコ人の家族と、白人のビジネスマンが続く。バスが発車した。
 中はすいていたので、リリーは後部席に陣取っていた黒人のビジネスウーマンをすぐに見つけた。女は分厚いペーパーバックを、キャリーバッグから取り出すと、チューインガムを噛みながら読み始めた。老女が前方にすわるのを見届けてから、リリーは女の前まで移動した。しばらく睨みつけていると、視線を感じたのか、女はたじろいだように見上げた。
「何かご用?」
 リリーは口元を結び、女の顔を黙って見つめた。
 女はとまどったような、困惑したような微笑を浮かべた。
「お嬢ちゃん、あたしに何か用なの?」
 リリーがなおも睨んでいると、バスが揺れ、揺り戻した拍子にバランスをとり損ない、リリーは女の膝に腰掛けてしまった。女は膝から下が義足だった。
 リリーは長いこと掛け過ぎていた。
「悪いけど下りてもらえる? 気に入ってもらえたのなら、あいにくだけど」
「すみません。すぐに下ります」
 リリーはあわてて女から離れた。
 女はリリーの顔を不思議そうに見つめた。
「以前にどこかで会ったような気がするけど、あたしたち知り合いだった?」
「いいえ。会うのは初めてです」
 リリーはばつの悪さを味わいながら、義足の女から離れて、バスの前方に戻った。席があいていたので、ショッピング・バッグを抱えた、くだんの老女の真後ろに腰掛ける。老女は窓の外を向き、時折まぶしそうに目をしばたたかせるほかは、外の風景に釘づけになっている。
 何事もなく、バスは走り続けた。リリーが降りる予定だったセントラル・ステーションの停留所も過ぎると、さすがに中も混みあってくる。
 老女に動きがあった。紐を引っぱりブザーを鳴らすと、おぼつかない足取りで降車口へ向かう。リリーは自分でもどうかしていると思いながら、老女のあとについてバスを降りた。まばらな降車客が町に吸い込まれて消え、老女のほかはリリーだけになった。
 小さな尾行者に気づく様子もなく、老女は歩き始めた。
 市の中心部からはずれた、貧しい階層が住む地域らしく、壊れた消火栓やスプレー缶の落書きのある板塀、浮浪者や、昼日中からたむろする十代の若者たちが暖をとるための、黒焦げのドラム缶が点在していた。リリーの《隠れ家》ほどではないものの、年とった女が一人きりで、五分といられる場所ではない。
 案の定、どこからか湧いて来た町のダニどもが、猫がじゃこうの匂いに引かれるように集まって来た。白人、黒人、アジア人を取り混ぜた、国際色豊かな街のよた者たちが、老女とリリーを取り囲む。
 かすれた悲鳴があがり、すぐに途切れた。
 リリーは目にも止まらぬ速度で走り抜けると、よた者と老女のまわりを駆け回った。
「風だ! つむじ風が――!」
 男たちは最後まで叫べなかった。
 小柄なメキシコ系の男の口に、ちぎれたぼろ布が押し込まれた。男は目を回して倒れた。布は、男のズボンからちぎられたものだった。
 男たちの顔面を、風は拳で殴り続けた。合計四人の白人と黒人が血を吹いて倒れ、折れた歯のかけらを吐き出した。アジア人が奇声をあげて、カラテの型を繰り出した。男のシャツを風がつかみ、かたわらの建物目がけてぶん投げた。男は砲弾よろしく飛んで行くと、建物の横に立つプラスチック製の電光掲示板をぶち抜いた。電気が通っていなかったのは幸いだった。さもなければ感電して、黒焦げになっていただろう。老女はあおりを食って転がったまま、掲示板をながめていた。
 突き出した手足をばたばたさせて、アジア人が悲鳴を上げている。残りのダニどもは老女を置き去りにして、早くも走り始めていた。
「待ちなさい!」
 風が四人を追ってくると、次々に塀に叩きつけ、地面に伸びたところを、もぎたてのパパイヤのように放り投げた。
 風が通りを吹きすぎて行った。
「おばあさん、大丈夫ですか?」
 老女がふり返ると、白人の女の子が、心配そうにのぞきこんでいた。
「平気ですか、おばあさん?」
 女の子が気がかりそうに尋ねた。
 この街に越してから、ついぞかけられたことのない、親身になって心配している声。
「ええ・・・ええ・・・大丈夫・・・大丈夫ですよ・・・・」
 やっとのことで理性を取り戻し、放り出されたショッピング・バッグを見つけると、老女は手を伸ばして拾おうとした。
 リリーがバッグを拾って差し出すと、老女はひったくるように、もぎ取った。
 老女の伸びた爪が手の甲を引っ掻いたが、リリーは気にならなかった。
「危ないところだったわ」
 リリーはこぼれた鉛筆やノートと一緒に、健康保険証 (ブルークロス=ブルーシールド) を見つけて、拾い上げた。
「なくしたら大変。早くここから出ましょうよ」
 老女は口の中でぶつくさ言って保険証を受け取ると、やっとの思いで立ち上がろうとした。また、よろめいた。
「おばあさん、大丈夫なんですか?」
 老女は髪の毛を直すと、リリーに手を貸してもらい、ようやくのことで立ち上がった。
「おばあさん、家はどこ? 連れて行ってあげるわ」
 老女の顔に恐れの色が走った。
 リリーは安心させるように微笑んだ。「心配しないで。強盗に早変わりしたりしないから」
 老女はあきらかに迷っていた。
 突然、瞳に決意の色がよぎると、
「そうしてもらえる? 家はすぐそこなのよ」
 よた者たちに襲われるよりは、リリーが強盗である可能性に賭けるつもりらしかった。
 リリーは老女の手をとると、あたりに警戒しながら歩き始めた。手の甲が浮き出るほど、老女は固く固く、ショッピング・バッグの紐を握りしめている。辺りにはベリンスキーのお仲間の、ブルーナイトたちはいなかった。警官が必要な場所にいたためしがないのは、デパートの売り子たちといい勝負だ。今度会ったら、ベリンスキー警部に言っておかなくちゃね。
 老女の家は、四つ辻から歩いて五分ほどのところにある、同じような造りの、細長い棟が並んだ、安アパートの一室だった。リリーはよた者がつけていないか用心しながら、老女の案内で、変色したブラウン・ストーンの建物の入り口をくぐった。
 明りの射さない手すりつきの階段を、老女の歩みに合わせて進みながら、こんな年寄りに、昇り降りはさぞつらいだろうと同情した。
 老女の部屋は二階のとっつきにあり、おどろくほど小さく、清潔にしつらえられていた。ベッドは古くなって煤けていたが、シーツとバラ模様の毛織の毛布がきれいにたたまれ、壁にはところどころ穴が開いていて、ヒナギクの花の形に切り取られた壁紙が、アップリケのように覆っていた。天井にはシャンデリアを吊ったとおぼしい鎖が巻き上げられ、照明器具そのものはとうに失せたらしく、安っぽいデザインの電燈にとってかわっている。気のせいか、すごく不思議な香りがした。
「ちょっくら待ってなさいね」
 老女はリリーを残して、キッチンに消えた。
 リリーが眺め回していると、老女がグラスを手に戻ってきた。
 スモックブラウスとスカートを脱ぎ、下着姿になっている。
 リリーはぎょっとした。
「あら、ごめんなさい、こんな格好で。いつも一人きりでいるものだから、他人さまの目を気にするのを忘れちまってね。あんたがここまで連れて来てくれて、本当に助かったわ。足が痺れていたのよ。本当にありがとうよ。ルートビアだよ」
 リリーは恐る恐るグラスを受け取った。
 しかめ面をして、口をつける。
「変わった味わいね」
 リリーはさらに飲んだ。舌鼓を打つと、「なんか変。でも素敵」
「南部の特製よ。シナモンやらシロップやら、煎じたハーブやらが入っているの。あっちに長いこと住んでいたもんでね」
「ふうん、そうか」
 リリーは南部についても飲み物についても知識がなかったが、老婆が全身から善意をにじみ出させているのだけはわかった。この部屋に漂っていたのは、薬草の匂いだったのか。
「このブレンドは、あたしが母さんから教わったの。母さんはお祖母さんから、お祖母さんはそのまたお祖母さんから、そのまたお祖母さんは――たぶんコモドオオトカゲからでも、教わったんでしょ」
 リリーは声を上げて笑った。「わたし、こんなにきつい味のするルートビアは初めてよ。とってもおいしいわ。ちょっと風変わりだけど、とっても香り高い味わいがするわ」
「この味がわかるなんて、あなたも隅におけませんよ。大人だわね」
 リリーはお愛想をするように、おかわりのグラスを差し出した。
 リリーがグラス二杯のルートビアを詰め込んで、老女をふり返った。
「おばあさ――いえ、マーム。あの壁に掛かっている絵は誰なの? ずいぶん古めかしい衣装を着ているわね。まさか息子さんじゃないわよね」
 リリーはどこといって何の変哲もない、若い男の肖像画を指さした。
 若者は古風な服を身に着け、茶色い髪をきれいに撫でつけた、澄んだ青い目の、年齢二十五、六歳くらいの白人の青年で、手には聖書とおぼしき本を抱え、口元に笑みを浮かべて、まっすぐに前方を見つめている。
「あれかい。あれはジョゼフ・スミス二世さ。あたしの息子のわけはないじゃないか。肌の色が違うもの。スミスはモルモン教の教祖だよ」
「モルモン教って、あのテレビの『FBI』に出てくる捜査官たちみたいに、胸に名札をつけた背広の二人組が、あちこちを伝道して回っている?」
「おや、おかしな覚え方をしているんだねえ。スミスは森の片隅で、神と御子のイエス・キリストに出会って、金属版の書物を、天使のモロナイから託された預言者なのさ。あたしはあの教会の信者でねえ。あんまり熱心じゃないけどさ」
「その横にある、あの白人の男の人の絵は? 眼鏡をかけて頭の禿げた、中古車のセールスマンみたいな人だけど。ひょっとして、あなたの旦那さん?」
「いいえ。あれはレスター・ヘイシーですよ」老女はさもおかしそうに笑った。「昔の人。とうに亡くなったけどね」
「やっぱりモルモン教の人?」
「いいえ。“カンザスの眠れる予言者”ですよ」
 リリーは眉をしかめた。「何の、何ですって?」
「“カンザスの眠れる予言者”だよ」老女は落ちていた雑巾を拾って、床についた見えないしみを、ていねいに拭き始めた。「昔、近所に住んでいたんだよ。よく当たる占い師っていう評判でね。一時は外国からも、彼の予言を聞きに、人が来たものだよ」
 リリーは頭がくらくらしてきた。
 聞いたことのない教祖に、予言者の知り合い。
 このおばあさんは何者だろう。
「知りたいかい?」
 リリーはうなずいた。
「ちょっくら待っとくれ。ここを拭いてしまうから」
 おばあさんは、さっきから何もついていないように見える床を、何度もぬぐった。
 ほかに誰もいない部屋の中で、素性の知れない老女と二人きりでいることが、急に恐ろしく感じられてきた。
「あの、わたし、やりましょうか?」
「いいえ。結構だよ」
 老女は、そのあとも無言のまま床をこすり続けた。ひょっとして外出する時以外は、一日中床磨きをしているのではないかと考え、リリーは迷信じみた恐怖を感じた。
「あの、わたしリリーといいます。あなたのお名前をうかがってもいいですか?」
「リリーかい。結構な名前をお持ちだねえ。あたしはエスター。エスター・ハリスっていうんですよ」
 よかった。カサンドラとか、クリュタイムメーストラっていうんじゃなくて。
「終わった、終わった。ちょっくら、ごめんなさいよ」
 エスターは床から立ち上がった。
 ナイトテーブルに乗っていた眼鏡をかけると、
「ええと、何の話をしていたんですっけ?」
「あの絵のことです。眠たい超能力者のこと」リリーは壁の肖像画をあごでしゃくった。
「ああ、眠たいではなくて、“眠れる”よ」
 リリーは声に出して繰り返した。
「どうして、そんな変てこりんな名前なんですか?」
「あの人は、眠った状態で予言をするので有名だったのよ。人は《リーディング》って呼んでましたけどね」
「何を読む (リーディング) んですか?」
「本を読むわけじゃないのよ。《千里眼》ていうのかしらね。人の運命や国の未来、なくなった品物の行方、その他さまざまの運勢を、眠りの中で読みとるの」
「どうして、そんなことができたんですか?」
「どうして、そんなことができたのかしらねえ。人は昔もそう言ったわ。わたしはあの人が予言をするところを見ていたし、一度なぞはわたしの病気を、予言の力で治してくれたものですよ」
「すごおい。お医者までするのね?」
「お見立てだけですけれどもね」
 エスターは話し始めた。
「レスター・ヘイシーは、もとはカンザス州はバードという町の、小さな役場に勤めていましてね。そこで書記をしていたのよ。もともと体が丈夫ではなかったから、医者にかかるだけでは物足りなくて、色々の民間療法を試していたのですよ。地元の開業医のもとを訪れた時が、ヘイシーの隠されたもう一つの側面が現われた時でした」
 エスターはしばらく黙っていた。
 リリーは、「それで?」と催促した。
 老女は覚悟を決めると、ベッドのわきにある藤椅子に腰を下ろした。
「あんた、催眠療法って知ってますか?」
「いいえ、知りません」
「百年以上も前かしらね、この国で催眠術や心霊術が、大流行したことがありましてね。アライグマ (ラクーン) という名の姉妹が評判になったのですよ。その姉妹の部屋に、そこの屋敷で殺された行商人の幽霊が、騒霊 (ポルターガイスト) になって現われて、姉妹たちとラップ音で会話をするというの。ラクーンじゃなかったかしら? そのおかげで、心霊術や催眠術という手品まがいのインチキを、医学に取り入れる医者があちこちで増えましてね。
 ヘイシーがかかったお医者さまも、簡単な催眠療法を取り入れた治療で、評判になった人でした。ヘイシーは自分が体質虚弱なのを気に病んで、催眠術で体を丈夫に変えるように、暗示をかけてもらおうとしたのですね。その時に起きたことは、この本に詳しく書いてありますよ」
 エスターはふいに椅子の中で体をねじると、横に置かれたドレッサーに手を伸ばした。
「わたしが取りましょうか?」
「ええ、お願い。その隅の、一番上のひきだしに入っているはずよ」
 リリーががたぴし鳴るドレッサーと格闘し、変色した育児日記やノート類にはさまれて見つけたのは、一冊の古ぼけた模造皮装丁の本だった。
 『超次元への旅│レスター・ヘイシーの驚異の世界│』というタイトルが、かすれかけた箔押しの金文字で、かろうじて読みとれる。リリーがめくってみると、扉の見返りに、一枚の白黒の肖像写真がはさまっていた。写真は古びて変色していたが、写っている背広にネクタイの主は、壁に掛けられた額の絵の、穏やかな風貌の男に間違いなかった。リリーが写真を裏返すと、「親愛なるエスターへ。変わらぬ友情をこめて。ヘイシーより」と、万年筆のきれいな字で書き込みが読めた。リリーは写真を元に戻した。
「それで?」
 エスターははっと目を覚まして、あたりを見回した。
「ええ。ええ。その本に書いてあるのは、こういうことなのよ。催眠状態に入ったヘイシーは、普段とはまったく別人の声で話し始めたの。
『今、汝が治療しているこの患者は、内臓に疾患があるわけではない。簡単な薬治療法とバランスのとれた食生活で、体質は永久に改善されるであろう』
 それから医者も驚くほどの正確な医学の知識を披歴して、自分に必要な薬の処方と、野菜を主体にした食事療法のやり方を口述筆記させました。
 催眠術から覚めたヘイシーは、何も記憶していなかったの。興味を持ったお医者がその処方通りにすると、ヘイシーの体質はみるみる向上したそうよ。ヘイシーの体調不良は、ヨウ素とある種のビタミンの慢性的不足が原因だったそうですよ。でもそのビタミンに関する知識は、その頃はまだ発見されていなかったのですよ。
 医者はヘイシーの不思議な能力に興味を抱いて、何度もヘイシーを催眠状態に置くと、口述を記録することに同意させた。その結果ヘイシーには、催眠状態で医療行為に適切なアドバイスを行う才能と、ある種の予知能力があることがわかったの。ヘイシーの過去の履歴を調査してみると、彼にはそのような医学知識を身につける環境は、まるでないこともわかりました。医者はヘイシーの能力を重く見て、自分の診断結果にかれがたどりつけるかどうかを、色々な患者の名前とカルテの症状を読み上げて (本当はそんなことは許されないことだけど、まあ昔の田舎町のことだから) 試してみました。
 すると驚いたことに、ヘイシーは医者の診断を裏書きしたばかりか、かれの気づかない診断上のミスまで指摘しました。しかも催眠を解くと、ヘイシーは何一つ覚えてはいないのでした。
 わたしはその頃、母が医者の下働きをしていた関係で、たまたまヘイシーとも面識があったのですけれど、わたしが病気にかかり (それは猩紅熱でした)、ヘイシーが眠ったままで的確な診断を下すと、わたしはその通りに処方された薬を飲んで、たちまち全快しました。わたしの家は、父が早くに亡くなり、とても貧しかったので、母はヘイシーの助力を喜んで、それはそれは感謝したものでした。
 その頃アメリカで、何の変哲もない主婦が、ひょんなことから生まれる前の過去世を思い出すというノンフィクションが大流行していました。あとで嘘だとわかったのですけれど、当時はすごい評判で、医者はその本のことを聞いて、ヘイシーの能力を試そうと、素人ながら、かれに逆行催眠術をかけ、過去の人生へと引き戻してみました。
 すると驚いたことに (そして医師の思った通りに)、ヘイシーは催眠状態で、彼自身の前世と思われる、まったく異なった別々の生涯を語り始めたのよ。その中でかれは、スラブ人の反革命家と、カタリ派のキリスト教の聖職者、さらに過去にさかのぼった、ある古代文明の神官だった過去の人生について、滔々と語ったそうなのよ。それは、そばで一言一句、口述筆記していた、秘書でもある医師の妻だった人の話によると、
 『まるで、細部までつじつまのあった狂人のたわごとか、まるっきりの妄想の産物』
 だったそうですよ。しかも催眠術を解くと、ヘイシー自身は、そのことについては何一つ記憶していないのでした。それどころか、自分がありもしない過去世について話したと聞いて、ヘイシーはひどく衝撃を受けたそうでした。何しろ、彼はごく真面目な、信仰篤いクリスチャンの家庭に育ったのだし、輪廻転生を信じるどころか、そんな物は教会の教義に反する、悪魔の教えだと、かたくなに否定していたくらいですからね。
 それでも医師はヘイシーを説得して、何回も何回も逆行催眠をかれに施し、彼の『予言』の力を、あるゆる角度から試したものでした。
 そんなこんなで、どこからともなくヘイシーの能力のことが知れると、遠からず、彼は役所をくびになりました。もともと、役所を続けたいがために始めた催眠療法だったのに、いずれはやめなきゃならない運命だったのでしょうね。
 たつきの道を断たれたヘイシーは、仕方なく助手としてその医師の家に住み込み、医師の診断を彼独自の方法で《寝ながら》支援するほか、医者の勧めもあって、非公式に困っている人に助言を与える、一種のコンサルタント業を開業することになったのですよ。もちろん、おおっぴらにではなく、あくまでも非公式にですよ。そうでなくてもヘイシーさんは、自分の能力は教会に対する人々の信仰をぐらつかせるために、悪魔が仕掛けた《反キリスト》の罠なのではないかと、幾日も悩んだそうなのですよ。それについて熱心に祈り、また聖書を読み耽った結果、ヘイシーさんは、あそこにいるジョセフ・スミスのように、神と御子の顕現は受けなかったけれども、自分の“非公式の助言”で困っている人々を救えるならば、神はお許しになられるに違いないと、判断したのでした。実際、彼のおかげで人生のつまづきや障害から立ち直った人も、百や二百ではなかったのよ。わたしもその一人でした」
 リリーはうなずいた。
「どこからともなくヘイシーさんの噂が広まり、“眠れる予言者”としての名声が高まるにつれ、彼のもとへ、慕って訪ねて来る人と、非難する人々が押し寄せるようになりました。中にはヘイシーさんを露骨に嘲笑ったり、ひどい侮辱を加える人もありました。そのうちの幾人かは、わたしも知っていましたけれどね。
 くだんの開業医は、あまりのヘイシーさんの評判ぶりに、助手としての彼をくびにせざるをえませんでした。なぜなら、医師の資格も免状も持たないヘイシーさんが、たとえ《寝言》の類とはいえ、れっきとした医師の助手を勤めることは、明らかな違法行為だという噂がたったからなのですよ。
 もちろん、医師は正規のちゃんとした診断を下したあとで、ヘイシーさんの“助言”を求めたに過ぎないのだから、別段、不正があったわけでもないし、また、ある熱狂的な牧師さまが指弾したように、まじないでも魔術でもなかったのですけれど、ヘイシーさんを快く思わない人達は、そんなことでは納得しなかったわけですね。
 でも、どんなにひどい目にあわされた時でも、どんなに手ひどい侮辱を受けたあとでも、ヘイシーさんは常に微笑みを忘れず、泰然自若としていたものでした。本当に立派だったわよ、あの人は。
 『あの連中を怒ってはならないよ、エスター。かれらは自分たちが嘲っているものが何なのか、まるでわかっていないのだ。ろばにまたがった、かの救い主を嘲笑った、聖書に出てくる愚か者たちのように、かれらは自分たちがその価値を知らないものについて、自分たちにその資格があると信じて、ただちっぽけな自尊心を満足させるためにだけ、わたしを嘲笑しているのだ。かれらは尊大で強気に見えるが、その内面はひどくからっぽで、哀れむべきちっぽけな存在に過ぎないのだよ。かれらは精神的に愚かで無意味な、実にかわいそうな人達なのだよ』
 ある時、地元の名士が、ヘイシーさんのもとを訪れ、ヘイシーさんの行いについてさんざんに非難して帰って行ったあとで、ヘイシーさんは言ったものでした。
 またヘイシーさんは、
 『世に抜きん出た者たちが、この世の尊敬を受けることは、ごく稀か、まったくないに等しいものだ』
 とも、よく言っていました。
 『世を変える力を持った偉人の出現は、常に外国の出来事か、遠い過去にのみ起きることだと、民衆は考えたがる。世界をどよめかすに足るほどの人物が、こんなカンザスの田舎町から生まれ出ようとは、かれらには思いも及ばないことだし、そんなことはかれらのいじけた月並みの想像力には、訴える力が何もないからなのだ。 “ナザレから何の良い物が出ようか”さ』。
 あの頃はわたしも小さくて、その意味も本当のところはわからなかったのですけれど、今にして思えば、あの温厚な人柄で知られたヘイシーさんも、ずいぶん陰では屈辱的な、辛い目にあっていたに違いないのですよ。穏やかで誠実な、真面目な人柄でしたからね、ヘイシーさんは本当の感情はめったに表わしませんでしたけれども、きっとそうだったに違いないのですよ。
 ともかく、ヘイシーさんは、その《リーディング》とやらのお仕事を続けました。貧しい人達や困っている人達からは、お金をとらなかったのも、しばしばでした。それで役目を奪われた教会の牧師さまや神父さまが、ヘイシーさんをやっかんで、ひどい悪口雑言をぶつけにみえたこともありました」
 老女エスターはその時の思い出に浸るためか、しばし天井に顔を向け、押し黙っていた。
「ヘイシーさんが忙しくなるにつれて、妻と家政婦の助けだけでは足りなくなると、ヘイシーさんは信頼できる幾人かの秘書を雇い入れました」
 と、エスターはまた話し始めた。
「ヘイシーさんが口述して、秘書たちが書き残した――その秘書の中には何を隠そう、速記術をマスターした、わたしの母もいたんですけれどね――その予言と言っていいかどうか、わたしにはわかりませんけれども、それらの予言はみんな、一つ残らず磁気テープに収められ、あるいは書き物として残されて、整理のためにナンバーを打たれたそうですよ。全部で二万件を超えるのだそうですよ」
 エスターは遠い目をしながら、リリーの方に顔だけを向けた。
「そのうちのいくつかは、それ、その本の中にも書いてあるわ。愉快な予言や月並な助言もあるにはあるのだけれど、大半は恐ろしい、身の毛もよだつことが書いてあるの。わたしも昔、ヘイシーさんにもらったその本を一度だけ読んで、あまりの恐ろしさに、読むのをやめてしまったのですよ。戦争の予言や原子爆弾の投下、月に人間が到達することや、エルヴィス・プレスリーの死についてもね。あなた、プレスリーって知ってます?」
 リリーは首を振った。
「それは残念だわね。予言のうち、失われずに残った物は、マイクロフィルムとやらに収められて、ヘイシーさんの没後、カンザス州はバードに建てられた記念館に収められているそうですよ。そこでは今も大勢の人たちが働いていて、コンピュータに保存したマイクロ・フィルムの整理と、予言の分析に余念がないんですって。これから将来、世界に何か起こるたんびに、ヘイシーさんの予言が、的中しないとも限らないからって」
「ふうん、そうか。それで、かれ、“眠たい予言者”なのね。おばあさんも隅におけないわね、そんな人と知り合いだったなんて。いいえ、疑ってるわけじゃないのよ」
「いいんですよ。あの人のことを話すと、たいていの人は同じように言うもの」
 エスターは笑って、また目を閉じた。
「“眠れる予言者”と聞いて、眉をひそめる人。露骨に顔をそむけて、何も聞かなかったふりをする人。反対に興味津々で身を乗り出す人と、さまざまだったわ。中にはヘイシーさんに、競馬の勝ち馬予想を聞いてきた人もいるんですよ。あの人が断わると、
 『俺はここに銃を持っているんだぜ』
 って、すごんだんですって」
「まあ、単細胞ね」
「もちろん、ヘイシーさんはうまくごまかして、その場を切り抜けたわ。ヘイシーさんは自分の“予言”の力を、お金もうけの道具には使わなかったの。《リーディング》とやらをする時にも、頼まれて仕方なく、いやいやする風だったわ。ただ生活のために、なにがしかのお金をもらうのだけは自分に許してね。そうでないと干上がってしまうでしょ?
 あの人は、
 『こういう能力でお金を得るのは、公平じゃない気がする』
 と、よく言っていました。だから賭け事の類も、一切やらなかった。自分が、ずるをするのが許せなかったし、卑怯な真似がいやだったのね。
 わたしが、
 『どうして自分の才能を、自分のために使わないの? 神様は自分に役立てるように、人にそれぞれ才能をお与えになったのでしょう? 自分のために、その力を使えばいいのに』
 と訊くと、
 『人間は弱いものだから』
 と、あの人は答えたわ。
 『一度、そういう手段で利益を得てしまうと、次からは歯止めがきかなくなってしまうのだよ。そして、もっともっと利益を上げようとして、人は簡単に、悪魔の仕掛けた罠に陥ってしまうのだよ』とも。
 実際、ヘイシーさんのアドバイスで、経営する会社が軌道に乗り、おかげで大成功した実業家が、それ以後お金の虜になって、人間がすっかり変わってしまい、堕落した例をいくつも見ているの。
 『“金持ちが天国に入るより、駱駝が針の穴を通る方がやさしい”というのは、本当のことだね』
 と、ヘイシーさんは苦笑いしたものでした。そんな時、あの人は自分の能力につくづく嫌気がさしたみたいで、遠方からのお客も断わると、自分の書斎にあてがった、アトリエ兼用の小部屋に閉じこもると、何時間も何時間も、絵を描いていたものでした。あの人は絵も上手だったのよ。そこにもヘイシーさんの絵が、何枚か入っているはずですよ」
 エスターはリリーの手元にある本を、顎でしゃくった。
「あの人は、リーディングをする時とは別に、ときどき鮮明な夢を見ることがあると言っていましたっけ。まるで、この世界で本当に起こったことを目のあたりにするような、とてもリアルで生々しい、細部まではっきりとした、不思議な夢をね。
 あの人はそういう夢を、『啓示夢』と呼んでいたわ。潜在意識か魂が、あの人に何かを告げ知らせようとしている夢だ、という意味でね。
 そして、そういう夢を見たあとは、妙に落ち着かない、いらいらした気分になるのだとも言っていました。まるで認識できない不可知の存在が、あの人に何かを告げ知らせようとしているようにって。
 そこであの人は、夢のビジョンを忘れないように、暇を見つけては、見たままを絵に描くことにしているのだと言っていました。あの人はそういう夢を見る時は、目が覚めた時、とても体力を消耗しているので、普通の夢とは違う性質のものだと、すぐにわかると言っていました。
 『そういう夢を見る時は、わたしのからだの一部分が、体の外に出かけているらしいんだよ』
 と、あの人は冗談半分に、笑いながら言ったものでした。
 あの人は《アストラル体》とか《コーザル体》といった霊的実体について、ひとくさり聞かせてくれたものですけれど、わたしは薄気味が悪かったので、ろくろく聞きもしなかったわ。おかげであんまり覚えていないの。たぶん、それらのことも、その本のどこかに書いてあるはずですよ」
 リリーがぱらぱらとめくってみると、いい案配に変色した活字のページのあいまに、素人らしい筆遣いで描かれた、天国の御使いや、その他さまざまの宗教的主題の水彩画が、上質紙に印刷されてはさまれていた。
 リリーは中の一枚に目をとめた。
 綾なす雲の峰々の上に、ラッパを吹いた天使の群れが飛び交い、両手を広げた大天使とおぼしい白衣の男性が、峻厳な笑みを浮かべてこちらを見つめている絵があった。
「そういえば、あの人が亡くなる少し前に、わたしはあの人から絵をいただいたんですっけ」
 エスターはふいに思い出したように、椅子の中で身じろぎをした。
「あの人からもらった物は、一つ残らずなくしてしまったけれど、あの絵だけは捨てるにしのびなくて、どこかにしまってあるはずですよ。あんまり大きくはない絵でね。ちょっくら待ってなさいね。今、見せてあげますから」
 エスターはリリーが止めるのも聞かずに立ち上がると、ふらつく足を引きずって、部屋の奥の古ぼけた衣装箪笥の前に行った。しばらく中を探っていたが、
「ああ。これですよ。ここにあったわ」
 エスターは衣装のたまりの奥から、一枚の埃まみれのキャンバスを取り出すと、窓辺に近寄って陽にかざした。窓から差し込む日光の中で、しばらく表面をはたいていたが、
「ほら、これなのよ。長いこと出していなかったから、汚れちまって」
 エスターが裏返したキャンバスを目にしたとたん、リリーは何者かの指が首筋をつかみ、過去の亡霊が、額の中央に息を吹きかけてくるのを、総毛立つ思いで感じた。




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